あなたへの月



迎える者もいない部屋の明かりを慌てて点けると、まず猫を抱えたままサニタリーへ行きバスタオルを取ってくる。
細い身体を優しく包み込んで、一旦そっと床へ降ろした。
寒いのか身体が震えていたので、季節外れではあったが床暖房も入れる。
猫は相変わらず苦しそうな呼吸を繰り返していた。
「どうしよ…やっぱお湯で暖めた方が早いよな」
捲簾はタオルごと猫を抱え上げると、大股で部屋を横切りバスルームへ向かう。
スイッチパネルで手早く湯の温度を調整して、床に寝かせた猫の身体に注意を払ってシャワーの湯をかけた。
「そういえばコイツすっげぇ汚れてるよな…」
よく分からないが、ついでに洗った方がいいに決まってる。
シャワーを出したまま首を巡らせ、備えてあったボディーソープを掌に押し出した。
泥だらけの毛にソープをまんべんなく塗ると、そっと撫でるように泡を立てる。
相当汚れているのか、やけに泡立ちが悪かった。
再度捲簾はソープを取ると、指先で毛になじませながら猫の身体を泡立てる。
見る見る白い泡が茶色く、黒く変色して、泥と埃の汚れを浮き上がらせた。
その泡を捲簾がシャワーで洗い落としては、再度ソープを足して黙々と洗っていく。
暫くすると、元々の毛色が漸く現れてきた。
必死になって洗っていた部位は、どうやらもともと焦げ茶の毛色らしい。
頭から顔、身体から下がって長い尻尾まで丁寧に洗っていく内に、猫本来の毛色が分かった。

「あれ?コイツって…もしかしてシャム猫??」

泥を流した猫の毛色は。
顔の部分と耳、4本の手足の先、それに尻尾が濃い焦げ茶色だ。
背中の毛は薄い茶色。
確か捲簾の記憶が正しければ、これはシャム猫に間違いない。
「もしかして迷子猫か?でも首輪してねーよなぁ」
最近は飼っている人もあまり目立って見かけないが、シャム猫は正真正銘純血種。
ふらふらと野良猫になって徘徊するような品種の猫じゃない。
とりあえず泥を綺麗に洗い流して、捲簾は濡れたままの猫を新しいバスタオルでくるみ直した。
このままだと余計に身体が冷えてしまう。
捲簾は洗面台に置いてあったドライヤーを持って、猫とリビングに戻ってきた。
「ドライヤー大丈夫かな?ちょっと乾かす間我慢しろよ?」
ドライヤーにスイッチを入れると、少し乱暴だが指先で毛を掻き分けながら吸い込んだ水分を飛ばしていく。
その間も猫はあまり動かない。
されるがままに身体を横たえ、浅く速い呼吸を繰り返していた。
根気よくドライヤーを当てていると毛が乾き始め、ほわほわと柔らかい毛質に変わってくる。
更に細い身体にまんべんなく熱風を当て、腹部や足の付け根、尻尾まで丁寧に乾かしていった。
「おっし!充分だろう」
捲簾はドライヤーのスイッチを切ると、熱で浮き上がった毛をそっと撫でつける。
「…やっぱシャムかな?それなら元々細いはずだけど、いくら何でもアバラは浮いてねーよなぁ」
そっと小さな頭に触れて撫でてやると、猫はピクリと僅かだが蠢いた。
瞑っていた目が捲簾の目の前でゆっくりと開かれる。

「う…わぁー」

捲簾は猫の瞳を眺めて感嘆の声を漏らした。
大きな瞳は綺麗なラベンダー色。
じっと捲簾を見上げると、小さくか細い鳴き声を上げた。
弱り切った身体を身動がせると、起き上がろうと手足を曲げて力を入れる。
「うわっ!ダメだって…お前弱ってんだから無茶すんなよっ!」
捲簾が慌てて猫の身体を押さえて、そのまま宥めるように身体を撫でた。
猫は気持ちよさそうにグルグルと喉を鳴らす。
とりあえず落ち着いたようだが、衰弱していることに変わりない。
捲簾は胸ポケットから携帯を取り出すと、アドレスから電話を掛けた。
「あ、金蝉?俺だけど…ちょっと緊急で頼みあるんだけどさ」
電話の相手である金蝉へ簡潔に用件を伝えると、了承の確認を取って携帯を切る。
掌に甘えて顔を擦り寄せる猫に捲簾は笑みを浮かべると、新しいバスタオルに猫を移して抱え上げた。
「お前のこと病院のセンセーに診て貰おうな?」
捲簾は大急ぎで電源と戸締まりを確認して部屋を出ると、戻ってきた道のりをまた引き返す。
行き先は仕事場近くにある、金蝉の動物病院。
慌ただしくマンションの駐車場へ降りると車に乗り込んだ。
抱えた猫を助手席に置いて、体勢が丸くなったのを確認する。
「病院着くまでそのまま大人しくしてろよ〜」
エンジンを掛けるとほぼ同時にアクセルを踏んだ。






「大したことねーよ。怪我もウィルス性の内臓疾患も見あたらねー。ただの栄養失調だな」
「そっか…よかった」
捲簾はほっと胸を撫で下ろして安堵する。
「とりあえず点滴打っておく。体調は急激に戻る訳じゃねーから、3〜4日は栄養剤の点滴入れた方がいいな。どうする?」
「え?どうするって…何が?」
ぽかんと呆ける捲簾に、金蝉が眉間に皺を寄せた。
「だからっ!定期的に点滴打つんじゃ、入院させた方がテメェは楽だろうって言ってんだよ!」
「あ、そういうことな」
納得して捲簾が大きく頷く。
金蝉はこれ見よがしに溜息を吐くと、用意した点滴の針を猫の背中に無造作に刺した。
「え?そんな乱暴にすんなよっ!」
「ばぁ〜か、人間とは違うんだよ。動物は血管に点滴は打たねー。皮膚と筋肉の間に点滴を入れて、自然に吸収させるモンなんだ」
「へぇ…そうなのか」
捲簾は金蝉の説明に感心して、ポタポタと落ちてくる滴を眺める。
「なぁ、ケン兄ちゃん。コイツすっげ〜きれーな色だね?」
診療台に背伸びで伸び上がり、悟空が興味津々に大人しく横たわる猫を見つめた。
悟空の声に猫も反応し、じっと大きな瞳で悟空を見返している。
「あ、そうだ。金蝉、コイツってシャム猫?」
ダイヤルで点滴の落ちる量を調節してから、金蝉は緩く首を振った。
「違うな。確かに毛並みはシャムのシールポイントに似てるが…瞳の色が全く違う。多分他の品種との混血じゃねーか?」
「瞳の色?」
「あぁ。シャムは澄んだブルーの瞳だ。コイツの色は紫掛かってるだろ」
「ふぅん…俺はこっちの色の方が好きだけどな」
捲簾が大人しく寝ている猫の頭を指先で撫でると、目を瞑って猫は気持ち良さ気に喉を鳴らす。
嬉しそうに猫を眺める捲簾を、金蝉は複雑な面持ちで見つめた。

気づいてないのか?
コイツの瞳の色は…天蓬ソックリだ。

無意識に猫に天蓬を重ね合わせている捲簾が哀しかった。
金蝉は苦々しい思いで視線を逸らす。
「金蝉…どうしたの?どっか痛い?」
金蝉の白衣を、悟空の小さな掌がぎゅっと握り締めた。
大きな金色の瞳を不安そうに揺らす。
「何でもねー。時間外診療で疲れただけだ」
「わぁ〜るかったな!」
唇をムッと尖らせて、捲簾がふて腐れた。
「おい、ソイツ飼うのか?」
唐突に話を振られて、捲簾が目を丸くする。
「あ…うん。どうせ猫飼おうって思ってたトコだし。それにコイツ俺の理想にピッタリで、すっげー美猫だしさ。丁度良いだろ?」
捲簾がニッと口端を上げると、金蝉は溜息を零しながら机の上のメモ用紙に何やら書き込み始めた。
「…何書いてんだ?」
捲簾が机に近付いて金蝉の手元を覗き込んだ。
何やら細々と色んな言葉が羅列されている。
「ん?ネコ用トイレケースにネコ砂?それにエサは成猫用…あぁっ!」
漸く肝心なことに気づいて捲簾が声を上げた。
金蝉はチラッと呆れた視線を向ける。
「お前…部屋ん中に放置するだけじゃ面倒は看れねーんだよ。飼うにはそれなりに必要な物揃えねーと。とりあえず最低限必要なモン書いてやるから、コイツの点滴打ってる間にソコのペットショップで買ってこい」
サラサラとメモ書きした紙を、金蝉は捲簾に手渡した。
受け取った紙を捲簾がまじまじと眺める。
「うわー、結構色々いるんだなぁ。俺猫は飼ったことねーから気づかなかったわ」
「大丈夫かよ…それだって最低限だからな。飼っていくうちに遊び道具やエサの趣向によっては変えて行かなきゃなんねーし」
「そっか…でも手の掛かるヤツを面倒看るのは慣れてるし」
「捲簾…お前」
捲簾は肩を竦めるとヒラヒラ紙を振って、何も言わずに診療室を出て行った。
言及することを拒絶する背中を、金蝉も黙って見送る。
「なぁ…金蝉」
悟空が金蝉の手をぎゅっと握ってきた。
「…どうした?」
「んと…ケン兄ちゃん元気になるといいなって。コイツいれば大丈夫だよね?」
金蝉の手を握りながら、悟空は診療台で横たわる猫を見遣る。
「忘れるのは無理でも、気晴らしぐらいにはなるだろーよ」
手近にあった椅子を引くと、疲れたように金蝉は腰を下ろした。
それにしても、と。
金蝉は捲簾の連れてきた猫をじっと観察する。
捲簾が自宅マンションの近くで拾ったのなら、多分近所の飼い猫が逃げ出した可能性が高い。
一見した限りではシャムの雑種だが、毛並みも器量も良い方だ。
しかし飼い猫なら、まず大抵は首輪と迷子札を付けている。
家猫なら何も付けてない可能性もあるが、それなら縄張り意識の強い猫が外に出ることはありえない。
金蝉の動物病院も、捲簾のマンションから車で5分程度の距離。
飼い主が探しているのなら、迷い猫なり少なからず情報は入ってきてもおかしくない。
ところが今のところそんな話は聞いていなかった。
本当に唯のノラ猫なのか?
捲簾が気に入って飼うというなら、できるだけ面倒事は起きない方が良い。
この地域には他にも数件動物病院が存在する。
「チッ…問い合わせてみるか」
点滴の残量を眺めて、金蝉は電話の受話器を取った。






ガタガタと落ち着かなげな音を立て、捲簾が買い物から戻ってくる。
「よぉ〜!点滴終わった?」
「やかましいっ!!」
額にクッキリと青筋を浮かべて、金蝉が怒鳴りつけた。
診療台では既に点滴を終えた猫が丸くなって眠っている。
捲簾はそっと起こさないように近付くと、思いっきり眉間に皺を寄せた。
「何…このブヨブヨなのは?」
猫の身体を指で突っつきながら、捲簾は金蝉を睨んだ。
それもそのはず。
あばらが透ける程ガリガリにやせ細っていた猫の身体は、何故だか皮が横に広がってタプタプしていた。
「さっき言ったじゃねーか。猫の点滴は皮膚と筋肉の間に入れるって。2時間もすれば吸収されて元に戻る」
「あ、そっか。いきなり違う動物になったのかと思った。でも何か面白れ〜♪」
点滴が入っているらしい横っ腹を捲簾は掌で押してみる。
すると眠っていた猫がぱっちりと目を覚ました。
「お?お疲れ〜眠かったら寝てていーぞ?」
捲簾は猫の喉元を擽って、楽しそうに笑う。
猫はニャッと小さく鳴くと、すぐにまた目を閉じた。
「ケン兄ちゃんっ!もしかしてコイツ、ケン兄ちゃんの言葉分かんのかなぁ」
「んー?そうかもな〜。だって俺ってばコイツの命の恩人だし?」
「すっげぇ〜!俺のポチも分かるようになるかなっ!?」
悟空は好奇心で瞳を輝かせながら、眠り始めた猫の顔を覗き込む。
「そういえばケン兄ちゃん!コイツの名前どうすんの?」
「そうだなぁ…って、さっき決めたんだけど」
「えっ?なになに??」
興味津々で捲簾を見上げる悟空の頭に、捲簾がポンッと掌を乗せた。
捲簾は身体を屈めて、悟空と視線を合わせる。
「てんぽう、にしようと思って。やっぱコイツ似てるしな」
「え?天ちゃんと同じ名前にすんの?」
目を丸くして聞き返す悟空に、捲簾はニッと口端を上げた。
「おい捲簾…いくら何でも」
「いいんだ。コイツはてんぽう、で」
不審気に眉を顰める金蝉に、捲簾が静かに笑い返す。
踵を返すと、捲簾は診療台で眠る猫をそっと抱き上げた。
「よっと…てんぽう〜帰ろうな?」
悟空が猫をくるんできたタオルを捲簾へ渡す。
「そんじゃ悪かったな。また明日仕事終わったら来るから」
診療室を出ようとする捲簾を、悟空が見送ろうと追いかけて行く。
外で何やら賑やかに話をした後、軽いクラクションが聞こえて車が走り去る音が聞こえた。
金蝉は深々と溜息を零す。

「テメェの”天蓬”はソイツじゃねーだろうが…」

机の端に身体を寄り掛からせ、金蝉は苛立たしげに髪を掻き上げた。



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