あなたへの月



「ん…う〜っ?」
瞼の裏の明るさに、捲簾はコロリと寝返りを打った。
春の柔らかな陽射しが、ロールカーテン越しに室内へ降り注いでいる。
既に陽は高く昇っているようだ。
捲簾は身体の怠さと眠気に逆らえず、枕を抱え込んで二度寝に入ろうとした。
どうせ仕事は休みだから、一日ぐらい怠惰に過ごしても問題ないだろう。
つらつらと眠さで回らない頭で考えながら、大きく欠伸をした。

あー…でも喉乾いたし、腹も減ってるなぁ。
そう言えばてんぽうの水…変えてやらねーと。

「あっ!」
唐突に捲簾の頭が覚醒した。
そうだ!昨夜は猫が天蓬になって…それで…。
その先を思い出して、捲簾は頬を紅潮させる。
天蓬と触れ合ったのがあまりにも久々だったせいか、散々凄いコトを自分から強請って尚かつしまくって。
意識が途切れる瞬間、天蓬に抱き締められたのまでは覚えていたが。
捲簾が何気なく横を向くと、傍らに天蓬は居なかった。
いつもは自分が目覚めるまで抱き締めていてくれるはずなのに。
側に温もりが無いと昨日までの寂しさを思い出し、身体が小さく震えてしまった。
どこか自分が欠けてしまっているような損失感。
捲簾は自嘲的に笑みを浮かべながら、掛かっている上掛けをそっと捲った。
そこに居たのは。

「…てんぽう?」

布団の中から現れたのは、猫のてんぽうだった。
腹を出して仰向けにだらしなく伸びたまま、幸せそうに熟睡している。
「夢…だったの…かよ?」
捲簾の声が掠れて消え入った。

あれは全部夢だったのか。
天蓬が居なくて寂しくて辛くて。
天蓬を望んでいる自分が作り出した虚構だったとでもいうのか。
だとしたら。

「…何で猫耳に尻尾付けたアイツが出てくるんだか」
捲簾は枕に顔を埋めて深々と溜息を零す。
天蓬との逢瀬が夢だとしても、捲簾にとってあの時間は何物にも代え難い程幸せだった。
あの気持ちだけで、また天蓬を待って生きていける。
「………にゃ」
どんな夢を見ているのか。
猫が仰向けのまま小さく寝言を呟いた。
つい捲簾の頬が笑みで綻ぶ。
「さてと。腹も減ったし起きっか」
切ない気分を振り払って、捲簾は勢い良く起き上がろうとした、が。

「△●☆◎■▽×○▲◇★ーーーっっ!?」

身体を駆け抜ける壮絶な激痛に、捲簾が悲鳴を飲み込んで布団に突っ伏した。
「い…ってぇ…んだよぉ…コレッ!?」
喉をひりつかせながら、捲簾はドクドクと鼓動を早める胸をギュッと押さえ込んだ。
痛みは身体の中心、腰辺りから這い上がってくる。
下肢を苛む痛みで、全身から脂汗さえ滲んできた。
しかもソレは。
捲簾の恥ずかしい場所から、疼くような熱をもって湧き上がる。
その感覚には嫌って言うほど覚えがあった。

昨夜のは…夢じゃなかった?

捲簾は驚愕で目を見開いた。
アレは自分の作り上げた虚構じゃはなく、現実だったと。
「おいっ!てんぽう!起きろっ!てんぽうっ!!」
切羽詰まった捲簾の声音に、猫はうっすらと目を開いた。
「うにゃぁ〜」
身体を揺すっている捲簾の手をハシッと掴んで、ゴロゴロ喉を鳴らして甘えてくる。
「てんぽぉ〜!寝惚けてんなよぉ〜っ!マジで起きろってっ!!」
「にゃ?」
猫は漸くパッチリ目を開けると、ぼんやりと捲簾の顔を見上げた。
「うにゃ?」
そして視線を落とすと自分の手を見つめ、次いで頭の耳を掻いてみる。
「にゃにゃっ!?」
此処まできて自分の状態に気づいたらしい。
今度は猫の方がオロオロと慌てだした。
その動揺振りに、昨夜の逢瀬が現実だったと確信する。

「お前…天蓬だよな?」
「…にゃ」
「昨夜のこと…覚えてるよな?」
「にゃっ!」
「そっか……………とりあえずメシ食うか」
「…にゃ」

捲簾と猫は互いに見つめ合い、ガックリと肩を落とした。






「それにしてもよぉ〜一体何だったんだろうな?」
「にゃ〜」
ソファに寄りかかってコーヒーを飲みながら、捲簾がぼやく。
突然人間に、多少語弊があるが。なったかと思いきや、また猫に戻ったり。
一体何が原因だったんだろうかと、捲簾はぼんやり考えていた。
あれは真夜中。
突然体調がおかしくなった猫が倒れた瞬間、奇妙な光を放って。
「何か思い当たることねーのかよ、てんぽう?」
「うにゃ?」
猫は振り返りもせずに、曖昧な返事だけ返した。
捲簾の眉間にクッキリと皺が寄る。
「テメェなっ!人の話はちゃんと聞けよっ!」
「にゃー」
カカッと後ろ足で頭を掻きながら、猫がのんびりと鳴いた。
どうやら上の空で話半分も聞いてないらしい。
剣呑な捲簾の様子に、猫は背中を向けていて全く気づいてなかった。
「ヒトが話してる時はきちんと顔を見るのが礼儀だろーがっ!新聞読みながら適当に返事すんなっ!!」
捲簾はキレて怒鳴り、猫の前に拡げてあった新聞を取り上げようとする。
「うにゃああぁぁっ!!」
そうはさせるかと、猫もすかさずダイビングして新聞の上に飛び乗った。
新聞を挟んでしばしの攻防戦。

「…新聞返せ」
「にゃっ!」
「家主より先に読んでんじゃねーよ」
「にゃっ!」
「ちゃんと俺の話聞くか?」
「にゃっ!」
「だったら後で読ませてやる」
「…にゃぁ」
「今はダメ。言うこと聞かねーと没収」
「………にゃ」

そう言うと猫が渋々諦めたので、素早く新聞を取り上げた。
捲簾はブツブツ小言を呟くと、ソファの上へ新聞を投げる。
猫は捲簾の横に座り直した。
「全く…お前のこと話してんじゃねーか。ちっとは神妙にしやがれ」
「うにゃ」
何となくバツが悪いのか、猫はそっぽを向いて顔を洗い始める。
そういう誤魔化し方も分かっているので、捲簾は溜息を零すだけで文句も言わない。
コーヒーを一口啜ると、本題に入った。
「昨夜さ、お前急に体調悪くなったじゃん」
「にゃっ!」
「今日は?今はもう平気なのか?」
「にゃっ!」
猫は元気良く返事をしながら、尻尾をパタパタと振ってみせる。
ホッと安堵していると、猫が床に座り込んでいる捲簾の尻を前足でペシペシ叩いた。
「うにゃ?」
「…そう言う心配は今しなくていい」
今朝の激痛を思い出して僅かに頬を染め、捲簾は猫の額を指で弾く。
そういうデリカシーの無い厚顔無恥なところは相変わらずだ。
尤も昨夜に限っては、捲簾も羽目を外しすぎた自覚はあるが。
「昨日は…朝から具合悪かったんだよな?」
「…にゃ」
具体的にどう悪かったのか、猫のてんぽうは説明できない。
「エサは食ってたし。怠そうだったから風邪かなって思ったんだけど。違うか?」
「にゃっ!」
肯定するように猫は返事をした。
しかし、それが原因とは言えない。
もっと根本的な…人間に変化する切っ掛けになったモノがあるはず。
捲簾が考え込んでいると、猫がチョイチョイと脚を引っ掻く。
「ん?どうした?」
「にゃぁ〜」
猫は間延びして鳴くと、前足で新聞を指し示した。
「新聞は後でって言ったろ?」
「うにゃ?にゃにゃんっ!」
新聞に何かあるのだろうか?
あまりにもしつこく鳴くので、捲簾は首を捻りながら新聞を手に取った。
「コレに何か書いてあんの?」
「にゃっ!」
猫は返事をすると、1面の記事をペシッと叩く。
「ん〜?」
捲簾は新聞を返すと、1面の記事に目を走らせた。
そこに載っていたのは、昨夜の皆既月食の記事。
大きく写真入りで皆既月食の瞬間を紹介していた。
輝く炎の光が、綺麗な輪になり輝いている。
「コレが…何?」
「にゃっ!」
猫は不思議そうに眺める捲簾の前でピョンピョン跳びはねた。
「皆既…月食?」

そう言えば。
捲簾は結局、皆既月食の瞬間を見逃してしまった。
突然倒れてしまった猫に動転して、それどころじゃなかったから。
しかもその後不思議なことが起こって。
そこまで思い出すと、漸く捲簾は気づいて目を見開いた。
「お前…昨夜の皆既月食が原因だって…思うのか?」
「にゃっ!」
猫は自信ありげに尻尾を大きく振り回す。

思い返せば。
確かに猫の様子が急変したのは、皆既月食の直前だった。
もしかしたら猫の身体が光り出したのは、月食になる瞬間じゃなかっただろうか。
それまで何も異変がなかった事を考えると、皆既月食が要因になっている可能性は有り得ることだ。
しかし、そうなると。

「もう…そのまま戻らないのか?」

無意識に捲簾の口から言葉が零れる。
「にゃ…」
小さく呟かれた悲痛な響きに、猫が捲簾を見上げた。
表情を無くして、ただぼんやりと猫を見つめる。

もう、天蓬には逢えない?

そう考えるだけで胸が詰まり、訳もなく喚き散らしたくなった。
捲簾の身体が小刻みに震え出す。
猫は様子がおかしい捲簾に気づいて、慌てて膝の上に飛び乗った。
「にゃっ!にゃにゃっ!!」
「てんぽう…?」
「にゃっ!にゃぁっ!!」
猫は必死に身体を跳ね上がらせ、捲簾の身体を前足で叩きまくる。

何かを訴えようとして。
懸命に何かを伝えようとして。

「あ…そっか…天蓬は…生きてるんだ…よ」
「にゃぁっ!」
捲簾は肝心なことを忘れかけていた。
天蓬は生きていて、あの寂しい病院のベッドで眠っている。
ここに居るのは間違いなく天蓬だけど。

ちゃんと、捲簾の天蓬は生きている。

「そうだよな。天蓬は生きてるんだし、俺が悲観することねーんだよな」
「にゃっ!」
捲簾の顔に笑顔が戻って、天蓬は何度も頷いた。

皆既月食が奇跡を起こしたのなら。
きっと、天蓬が目覚めることがあるに違いない。
それは今まで必死で願っていた祈りではなく、確信。

絶対、天蓬は自分の元へ帰ってくる。

「何かあんな奇跡が起こったんなら、2度や3度あったって不思議じゃねーよな?」
「にゃっ!」
猫を抱き上げながら捲簾は楽しげに口端で笑った。
明るく前向きな捲簾の様子に、猫もパタパタと尻尾を振って頬擦りしてくる。
「ま、それまではお前も身体も面倒見てやるよ」
「うにゃぁ〜」
猫が甘えた声で鳴いて唇を舐めてくると、捲簾は擽ったそうに首を竦めて笑った。



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