あなたへの月 |
「あ…れ?」 ソファで少し昼寝のつもりが、本格的に熟睡してしまったらしい。 やはり昨夜の今日で身体が疲れていたのだろうか。 捲簾は思い瞼をこじ開けると、手の甲でゴシゴシ擦った。 時計を見ると既に6時を回っている。 「あー…寝過ぎだよ。くあっ…買い物行かねーと」 仰向けのままボンヤリと天井を見上げて独り言ちた。 昨夜は出来合いのモノしか買ってこなかったので、今日の夕食の食材を買いに行かなければならない。 計画的にキッチリ使い切るタイプの捲簾宅では、冷蔵庫に無駄な物は一切入っていなかった。 先週買い込んだ食材も既に使い切り、空っぽの状態。 入っているのは缶ビールとミネラルウォーターぐらいだ。 寝起きで怠い頭を左右に振って、捲簾は起き上がろうとした、が。 「…またかよ、お前」 捲簾の来ているシャツの腹部はこんもり山を作り、裾からはダラリと尻尾が落ちている。 素肌に触れる柔毛がくすぐったかった。 何でわざわざ人の服に潜り込んで寝入るのか。 確かに人肌で暖かいだろうが、部屋の空調は適温に調節してある。 返って息苦しくないんだろうかと、捲簾は首を捻った。 とりあえず規則正しく上下する山を、捲簾は半身起こしてポンポン叩く。 「うにゃ?」 服の中からくぐもった鳴き声が聞こえた。 「てんぽ〜、起きろ〜。起きあがれねーだろ?」 「にゃ〜」 気の抜けた返事をした猫が、もそもそと尻から這い出してくる。 「にゃっ!」 シャツの裾から顔を出すと、猫は元気に鳴き声を上げた。 パタパタとご機嫌で尻尾を振って、捲簾を見上げてくる。 捲簾は漸く起き上がると、ソファに座り直した。 「お前さぁ…何で俺の服の中で寝るんだ?息苦しいだろ?」 「………にゃ」 なぜか猫は。 突然視線を逸らして顔を洗い始める。 捲簾の視線が猫を見下ろして胡乱に眇められた。 「お前…俺が寝入った後に腹の中入ってナニした?」 「にゃ?うにゃぁ〜」 猫は照れたように身体を捩らせながら、しきりに顔を洗う。 コイツ…マジでナニしてたんだっ!? 捲簾は眉間に皺を寄せると、シャツの裾をそっと捲った。 視線を落として自分の身体を検分する。 昨夜天蓬に吸われたり噛まれたりした跡が転々と赤く残っていた。 ソレとは別にやけにヒリヒリして赤くなっている部分がある。 ヘソの下や脇腹、そしてどういう訳か乳首も擦れたように痛い。 「にゃっvvv」 目の前に惜しげもなく晒された捲簾の素肌を、猫は激しく尻尾を振ってウットリ眺める。 捲簾の頬が思いっきり引き攣った。 「…てんぽう」 「にゃっ!」 「ヒトが寝てる間に悪戯してんじゃねーよっ!!」 「にゃぁ〜?」 真っ赤な顔で捲簾が喚くのを、猫はそっぽを向いてしらばっくれる。 ますます捲簾の瞳が剣呑な色に変わった。 「テメ…とぼける気か?」 地を這う程低い声で問い質すと、猫が捲簾の身体にしがみつく。 「うにゃぁ…」 縋るようにか細い声で鳴くと、上目遣いに捲簾を見上げてきた。 心なしか瞳まで潤んでいる気がする。 悪態を吐こうとした捲簾の喉がグッと詰まった。 小っちゃくて儚げな存在に、捲簾の心がグラグラ揺さぶられる。 これが人間の天蓬なら、有無を言わさず張り飛ばしているところだが。 こんな小せぇの、殴れねーよなぁ…。 チックショー!天蓬の卑怯者めーっっ!! 言い知れぬ敗北感に、捲簾がガックリと肩を落として項垂れた。 猫は安堵したのか、調子に乗って身体を擦り寄せて甘える。 「あーっ!もうっ!」 捲簾が猫の身体を転がして腹を撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らした。 「ん?こんなことしてる場合じゃなかった。買い物行かねーと」 「にゃ?」 ソファから立ち上がると、ゆっくり身体を伸ばす。 猫もソファから飛び降り、捲簾の足許にじゃれついた。 「さてと。俺ちょっとスーパー行ってくっから。ちゃーんと留守番してろよ?」 「にゃーっ!にゃぁ〜っっ!!」 コロンと床にひっくり返って猫が脚にしがみつくと、何かを訴えるように鳴いて猫キックをしてくる。 「…フィギュア菓子だろ?覚えてるって」 「にゃっ!」 猫は嬉しそうに鳴いて転がったまま、パタパタと尻尾を振り回した。 「ん〜何食うかなぁ。そんなにメチャクチャ腹減ってねーし。ま、食材見て考えるか」 財布をジーンズのポケットに押し込みながら、今晩のメニューを思案する。 独り暮らし歴の長い捲簾は、家事が得意で完璧だ。 炊事・掃除・洗濯・整理整頓何にでも手際が良い。 かと言って塵一つも許せない程潔癖性の完璧主義ではないので、適度に手を抜くことも心得ていた。 『結婚するなら不自由しない程度に収入があって、カッコよければ更にいいかな』と、自分を省みず理想だけは打算的な適齢期のお嬢さん方に見習って欲しいところだ。 まさしくオトコにとっては家庭的で理想のお嫁さん。 但し、世のオトコ共にとってもルックスや職業面で羨望の存在だが。 しかし哀しいかな、世の中は最上級のオトコ程なかなか落ち着けない…というより落ち着かない。 身体の生理的現象は別として、生活面で何の苦労もない捲簾は結婚願望が無かった。 大企業に勤めている訳でもないので、結婚が出世に響くと言う悪習も関係ない。 勝手気ままに独身を謳歌している、と周囲はそう思っている。 しかし、実情は。 「にゃ?」 全てこの小悪魔(但し本体)のせいだ。 とにかく天蓬は手が掛かる。 生活能力はゼロどころかマイナス。 独りでは人として最低限生命維持の生活さえ満足に出来ない。 捲簾が見張っていないと栄養失調で倒れて発見、ということも決して冗談じゃなかった。 子供の頃の生活環境の影響があるのかもしれない。 両親は早くに亡くなり、育ての親は祖父一人。 不動産の自営業を営んでいたらしいので、普段鍵っ子でお手伝いさんに面倒を見て貰って過ごしていた天蓬に対し、満足に躾が行き届かなくても仕方がないだろう。 問題は、大人になってもそのままで居る天蓬だ。 とにかくやることなすこと不器用で危なっかしくて見ていられない。 元々面倒見がいい捲簾は、ついつい何から何まで手を出した。 仕事面で甘えとかは許さないが、こと生活面だと捲簾の方が絆されてしまう。 それに捲簾自身がそれを不満だとか後悔に思ってないから始末が悪い。 天蓬に甘えられると何となく嬉しくて。 仮に捲簾か天蓬がオンナだったとしたら。 十中八九間違いなく、ある日気が付いたら婚姻届に判を押していた。という事態になっているに違いない。 そうなったら面白いなと思うことはあっても、だからと言ってなりたいと羨んだことは一度もなかったけど。 「…何か最近俺って主婦じみてるよなぁ」 つくづく呟くと、猫が勢い良くガシッと脚にしがみつく。 捲簾が見下ろすと、キラキラと瞳を輝かせ尻尾の先をクルッと丸めた。 「にゃぁっvvv」 何かを期待して、甘えた声で鳴く。 殆ど毎日一緒にいた捲簾は、こんな時天蓬がどういう反応を返すか嫌って言う程分かっていた。 溜息を吐きながら呆れた視線で猫を見つめる。 「…何でお前がダンナなんだよ」 「うにゃっ!?」 何やらショックを受けたらしい猫は、フラフラ離れるとリビングの隅まで行き、ふて腐れて丸くなった。 「にゃー…にゃー…」 壁を向いたまま、捲簾を非難するように小声で鳴いている。 大体何を言って拗ねているのか分かってしまい、捲簾は肩を竦めて猫に近寄った。 「別にお前のこと遊びだとか弄んでたなんて言ってねーし、思ってるはずねーだろ?」 「…うにゃ」 肩越しに振り返って、猫が不満そうに鳴く。 「大体俺だってオトコなんだからな。な〜んで俺がヨメさんになんなきゃなんねーの」 「にゃ?にゃぁ〜んvvv」 「…誰がカワイイだ、このバカ天」 猫と会話が成立してしまう程天蓬に毒されてる自分に気付いて、捲簾は深々と項垂れた。 不機嫌全開でイライラと頭を掻いている捲簾を、猫がじっと見上げてくる。 「にゃ…にゃ…」 「ん?別に怒ってねーよ。呆れてるだけ〜」 「………にゃ」 素っ気ない捲簾の態度に、猫はますます丸くなって縮こまった。 捲簾は苦笑いすると、猫の背中をポンポン叩く。 「てーんぽっ!いつまで拗ねてる気だ?」 「………。」 「それとも…もう俺と居るのはイヤか?」 「うにゃっ!?」 寂しげに呟かれた言葉に驚いて、猫は慌てて振り返った。 しかし。 「ば〜か。簡単に騙されるんじゃねーっつーの!」 「にゃぁっ!!」 猫はしゃがんでいる捲簾の脚に飛びかかると、ゲシゲシと猫キックをお見舞いする。 捲簾は大笑いしながら暴れている猫の身体を抱き上げた。 「うにゃーっ!」 「アッハッハッ!悪ぃ!怒んなよぉ〜。別にからかったんじゃねーし」 「にゃぁ?」 両手で猫の身体をプラ〜ンとぶら下げて捲簾は顔を近づける。 「お前がイヤだって言っても…離してやる気ねーから」 「にゃ…」 「お前は。俺だけのモン」 まん丸く猫が目を見開いて驚くのに、捲簾は照れくさそうに微笑んだ。 「にゃぁvvv」 猫は嬉しそうに鳴くと、尻尾をグルグル振り回す。 「あ、でも。俺がお前のモンになるのは要努力、だな」 「うにゃっ!?」 つれない言葉に猫は鳴き声をひっくり返した。 おかしそうに捲簾が笑いを零す。 抱き上げていた猫を床に下ろすと、捲簾は上着を掴んで玄関へ向かう。 「にゃっ!」 焦った猫が必死になって後を付いてきた。 靴を履いて振り返ると、身体を屈めて猫の頭を乱暴に撫でる。 「ちゃ〜んと大人しく留守番してろよ?そしたらちょっとは考えてやる」 「うにゃ〜」 猫が恨めしそうに低い声で唸るのを聞いて、捲簾は笑いながら買い物へと出かけていった。 「…さすがに言い過ぎたか?」 ドアを閉めてから、捲簾が小さく首を傾げる。 階段を下りながら少し思案するが、すぐに思い直して首を振った。 「いやいや。あれぐらい言っとかねーと。すぅ〜ぐ調子に乗って甘えて来やがるからな、うんっ!たまにはビシッ!と言ってやんねーとダメだな!」 捲簾は自分の教育方針(?)に納得すると、上機嫌で階段を下りていく。 金蝉がこの場で聞いていたら『テメェはアイツの姉さん女房か?』と鼻で笑うに違いない。 誰よりも天蓬を一番甘やかしているのは捲簾自身だ。 その自覚が捲簾には皆無だった。 その証拠に。 玄関フロアーから出てくると、捲簾は立ち止まって上を振り仰いだ。 自分の部屋の窓をじっと眺めて、また何か考え込む。 「やっぱ1個じゃ可哀想かな?どうせ高いもんじゃねーし、5個ぐらい買ってけば満足して機嫌も直るだろ♪」 捲簾は猫と約束したおまけフィギュア付き菓子を余分に買ってやることにした。 |
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