あなたへの月



朝、目が覚めると傍らに天蓬は居なかった。
「…またか」
捲簾が溜息を吐きながら上掛けを捲る。
しかし、布団の中は既にもぬけの殻。
「あ…れ?ドコ行ったんだアイツ」
まだボンヤリする頭のまま、捲簾は大欠伸した。
昨夜も結局。
懐いてきた天蓬を構ってる内に段々エスカレートして。
我に返る間もなく、あっさり天蓬の熱を受け入れていた。
さすがに2日連続のハードセックスで、腰が鉄の塊でも付けたように重い。
結構、というか相当身体が疲れているようだ。
日々の条件反射で平日と変わらない時間に覚めても、心地よい眠気が襲ってくる。
それでも気分的には爽快だった。
生欠伸を連発し落ちた前髪を掻き上げると、僅かに音が聞こえてくる。
何かを掻き回している音がリビングの方からしていた。

ザッ…ザッザッザッ…ザザッ。

少しすると音が止んで静かになる。
「にゃ…にゃぁ〜にゃっ!にゃ〜♪」
程なくして何だか調子外れな鳴き声が聞こえてきた。
鼻歌でも歌ってるつもりなんだろうか。
「……………ぷっ!」
あまりにも脳天気な鳴き声に捲簾は小さく噴き出した。
鳴き声に混じってまた何かを掻き回す音がする。
「アイツ…歌下手っくそだからなぁ」
捲簾は肩を震わせながら笑うと、サイドテーブルから煙草を取り出して1本銜えた。
そのまま勢い良く起き上がり、寝室のドアをそっと開けて顔を覗かせる。
「にゃにゃっ!にゃ〜にゃっ♪」
捲簾が起き出したことにも気づかず、猫は背を向けて相変わらず上機嫌に何かを掻き回していた。

ま、分かんねーでもないけど。

どうやら猫は捲簾が眠ってる隙に猫トイレで用を足したのだろう。
朝からスッキリして鼻歌(らしい)妙な鳴き声を上げつつ、後始末に砂を掻いている。
こっそり猫の様子を観察していた捲簾の口元に、人の悪い笑みが浮かんだ。
「てぇ〜んぽっ!」
「にゃっ!?」
捲簾が大声で呼ぶと、驚いた猫はその場で飛び上がる。
ボワッと尻尾を膨らましている猫が、恐る恐る肩越しに振り返った。
「よぉ。お・は・よ〜!天気もいいし、朝から気分爽快だなぁ?」
「にゃ…」
膨らんだ尻尾の先を震わせながら、猫が小さな声で返事をする。
捲簾はニヤニヤ笑って、猫の側へ近づいた。
「なぁ〜んかイイコトあった?」
「うにゃ?」
横にしゃがみ込んだ捲簾を、猫が不審気に見上げてくる。
「やけに楽しそうな鳴き声聞こえてきたんだけどなー」
ジワジワと捲簾に突っ込まれ、猫は視線を逸らすとムキになって顔を洗い始めた。
どうやら捲簾に見つかるとは思っていなかったようで、相当焦っているらしい。
驚きで膨らんだ尻尾は戻る気配が無かった。
そっぽを向いている猫を眺めつつ、捲簾が猫トイレ用スコップに手を伸ばす。

ザザッ…ザッ…

「うにゃああぁぁっ!?」
背後から聞こえてきた音に、猫が過剰に反応した。
トイレ砂を掻き回す捲簾の手へ必死な形相でしがみ付く。
砂の中からはコロンとした大きなカタマリが1つ。
「なぁ〜んだ、小便か。鼻歌出る程スッキリしたみてぇだし、てっきり…」
「うにゃっ!!」
踏み潰されたような声を上げて、猫が床に転がり前足で捲簾の脚に掴まった。
そのまま転がった体勢で、ゲシゲシと猫キックをお見舞いする。
「イテッ…痛ぇよ!バカ爪立てんなって!」
「うにゃーっっ!!」
ゲラゲラ笑いながら猫の身体を掬い上げれば、今度は前足を振り回して猫パンチの応酬。
羞恥心からなのか、猫は涙目になっていた。
「何泣いてんだよぉ〜」
「………。」
猫が無言で捲簾を睨んでくる。
「別に自然の摂理なんだから当たり前じゃん」
「にゃ…」
「それにお前今は猫なんだし?」
「にゃ?」
「いや…だから!俺にそういう趣味ねーってのっ!!」
捲簾は頬を赤らめると、額をコツンと猫にぶつけた。
ブツブツ文句を言いながら、軽い身体をそっと床へ下ろしてやる。
「ま、とりあえずついでだから片付けとくか」
キャビネットから小さな袋を取り出すと、その中に猫砂のカタマリを捨てた。
後始末すると全身で大きく伸びをした。
身体を戻すと、振り返えって猫に視線を落とす。
「腹減った?今エサ入れてやるから」
「にゃっ!」
パタパタ尻尾を振って、猫が脚へ身体を擦り寄せた。
捲簾はキッチンからエサの袋とミネラルウォーターを取ってから、すぐにリビングへ戻ってくる。
小さな陶器製のエサ入れにカラカラと乾燥エサを入れてやる。
猫がエサを食べ始めるのを眺めながら、別の器に水を注ぐ。
「今日さ、ちょっとてんぽう留守番しててくれよ」
「にゃ?」
捲簾の声に猫が顔を上げた。
休みなのにどういうことかと、目を丸くして首を傾げる。
猫の背中を撫でて、捲簾は小さく微笑んだ。
「昨夜言ったろ?買い出ししなきゃなんねーの。お前のエサも切れそうだしさ。何かお前も毛の生え替わり時期だからってソレ用のエサにした方がいいって金蝉も言ってたしな」
「にゃー」
納得したらしく、猫が小さく返事をしてまた食事を再開する。
「そうだなぁ…結構買う物あるし。2時間ぐらい掛かると思うけど」
「にゃっ!」
任せろと言わんばかりに、猫は尻尾をピンッと立てて胸を張った。
やけに自信満々なところが怪しいような。
捲簾は双眸を眇めると、猫へ胡乱な視線を向ける。

「俺が居ないからって、部屋散らかすんじゃねーぞ?」
「にゃっ!」
「本や新聞は読んだら片付けろよ?」
「にゃっ!」
「…って、お前が明快に返事する時が、一番信用できねーんだよなぁ?」
「…うにゃ」
猫が視線を泳がせてしきりに毛繕いし始める。
馬鹿みたいに分かり易い誤魔化しに、捲簾は深々と溜息を漏らした。






「さてと。財布とキーは持ったよな?お〜い、てんぽうっ!」
「にゃ?」
捲簾は出かける準備が終わると、リビングで雑誌を読んでいる猫へ声を掛ける。
「俺買い物に行ってくっから」
「にゃ〜」
猫が寝そべっていたソファから身体を起こして、床へと飛び降りた。
玄関に向かう捲簾の後をトコトコ付いていく。
靴を穿いていると、猫は捲簾を見上げてきた。
「うにゃっ!」
いってらっしゃい、とでも言ってるのだろうか。
猫はパタパタと尻尾を上機嫌に振って、捲簾をじっと見つめる。
捲簾は微笑みながら猫の頭を優しく撫でた。
「ちゃんと留守番してろよ?」
「にゃっ!」
「そんじゃ出かけて――――」
立ち上がろうとした時、突然猫がハシッと捲簾の脚を前足で掴む。
「うにゃぁ〜vvv」
やけに甘ったるい猫撫で声を上げて、ゴロゴロと頭を擦り付けてきた。
猫の不審な行動に、捲簾はわざと顔を顰める。
「何だよ?フィギュアの菓子は昨日買ってきただろ?」
「にゃっ!にゃぁ〜」
土産を強請ってるのかと思えば、どうやら違うようだ。
はて?と捲簾は首を傾げる。
他に突然これ見よがしに甘えて懐く理由が思い浮かばなかった。
「にゃっ!にゃっにゃっvvv」
猫に引き留められまた座り直した捲簾に猫は前足を掛けると、捲簾に向かって身体を伸び上がらせる。

目を閉じて、顔を突き出してくるこの姿勢。

「ばっ…何チュウなんかしたがるんだよっ!!」
漸く猫の意図が分かり、捲簾はカッと頬を紅潮させた。
要するに。
猫は捲簾に『いってきます』のキスを強請っていたのだ。
捲簾は真っ赤な顔で、ペチッと猫の頭を叩く。
「にゃー…」
邪険にされて、猫が不満げな声で唸った。
上目遣いに捲簾を見つめながら、ベシベシと尻尾で床を叩いて抗議する。
確かに。
人間の時の天蓬とはしていたけど。
それだって天蓬が強請って強請って強請り倒した挙げ句、それでもこっ恥ずかしくて拒否する捲簾に泣き落としまでして縋り付き、あまりの必死さに何となく絆されて仕方なくするようになっただけだった。
それが習慣にはなっていた、が。
「お前ねぇ…」
あくまでマイペース、猫の姿だろうとお構いなく我が道を行く”てんぽう”に、捲簾は頭痛がしてきた。
「別に…んなことしなくったっていーだろぉ」
「うにゃぁっ!」
猫は不機嫌に鳴くと、更に尻尾を振り回す。

別にしてやればいいじゃねーか。

この場に金蝉や悟空が居れば、間違いなくそう言うだろう。
たかが飼い猫とのスキンシップで、何を動揺して真っ赤になることがあるのか、と。
そういう捲簾の反応の方が何も知らない端から見れば奇異に映ることに、生憎と本人は気付いていなかった。
暫く玄関先で『する』『しない』と、飼い主と猫の不毛な攻防戦が続いた。

「はー…。あ〜っ!もうっ!!」

やはり先に折れたのは捲簾。
人間だろうと猫だろうとやっぱり”天蓬”には甘かった。
やけくそ気味にぼやくと、ひょいっと猫の身体を持ち上げる。
睨み合っていた顔が勢いよく近付いた。

チュ。

「…コレでいーんだろ?」
「うにゃvvv」

捲簾からキスをされた猫は、甘えた声で鳴くと上機嫌で尻尾を捩らせる。
そういう現金にコロッと機嫌が直るのもやっぱり”天蓬”だった。
捲簾は玄関に猫を下ろすとドアを開く。
「そんじゃ、行ってくるから〜」
「にゃっ!」
猫に見送られながら、捲簾がドアを閉めた。
鍵を閉めてからノブを回して施錠されているのを確認する。
すると。
唐突に捲簾はその場でしゃがみ込んでしまった。

「…全く。あんのバカ天」

出かける前から一気に疲れて脱力する。
ガシガシと乱暴に髪を掻き上げて、思いっきり溜息を零した。
何だか猫になってからの”てんぽう”は、甘ったれ度が上がってる気がする。
決して捲簾の思いこみではなく、絶対。確実に。
しかも見た目だけは小さく愛らしい姿なモンだから、余計質が悪い。
ついつい必要以上に構ってしまっている自覚が、捲簾にもあった。

それとも。
”てんぽう”も不安なんだろうか。

「……………アイツに限ってそれだけはあり得ねーな」
”天蓬”のコトを誰よりも一番理解している捲簾は、すぐに考えを打ち消すと勢いを付けて立ち上がった。
小さく苦笑いを浮かべると、エレベーターホールへと向かう。
ボタンを押すと程なくして下りてきたエレベーターに乗り込むと、駐車場のある地下を押した。
駐車場に着くと、車に乗り込んでエンジンを掛ける。
煙草を銜えて火を点け、大きく煙を吸い込んだ。
ハンドルに肘を付いて、ぼんやりと何かを考え込む。
「…行くか」
捲簾はサイドブレーキを外すと、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
東の方向にある大型ショッピングセンターに行くには、マンションを出て大通りを左折する。
交差点の信号で止まった車は。
ウィンカーを出すと、反対方向へ右折した。



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