あなたへの月



昼前。
午前中の静かな廊下を、捲簾は真っ直ぐに歩いていく。
途中顔見知りの看護士に軽く会釈して、病棟の奥へと進む。
ナースステーションに顔を出して挨拶すると、中にいた看護士が捲簾に近付いてきた。
「今日は顔色がいいですよ。脈拍も安定してますし…きっといらっしゃるのを待ってたんじゃないかしらね」
「そう…ですか。今大丈夫ですか?」
「ええ。回診は終わりましたし、大丈夫ですよ」
看護士が笑顔で了承すると、捲簾は頭を下げる。
廊下を歩いていく捲簾の後ろ姿を眺め、看護士は小さく溜息を零した。
「大変ですよね…毎日お見舞いにいらっしゃって。天蓬さんの先輩でしたっけ」
「本当に。毎日寝ている天蓬さんに声を掛けて。こういうのは…辛いわよね」
「やっぱり無理なんでしょうか?天蓬さん。外傷は無いのに…本当に綺麗で、眠ってるだけにしか見えませんよね」
「事故で運ばれてきた時は脳挫傷と身体中複雑骨折で、それはもう息があるのも不思議な程の重症だったの」
当時を思い出して、看護士が僅かに顔を曇らせる。
なまじ天蓬が綺麗なだけに、血塗れで運ばれた時は痛々しかった。
「脳に損傷が残ってるんですか?」
「ええ。骨折とかはほぼ完治したんだけどね。もう多分意識は…」
看護士は言葉を詰まらせる。
とてもじゃないが、捲簾の前では言えない言葉だった。
年若い看護士も、視線を伏せる。
「どの患者さんでもそうですけど…奇跡、起こって欲しいですよね」
仕事で幾多の消え逝く命を目の前で見てきた。
いつも、何度でも思う。
奇跡が起こって欲しい、と。
「私たちは神様じゃないから。私たちに出来る事をめいいっぱいしましょう」
「はい…そうですね」
看護士達は捲簾の消えていった個室のドアを眺めながら頷いた。






真っ白くて明るい、清潔な部屋。
看護士の誰かだろうか。
可愛らしい花が花瓶に飾られていた。
ブラインドの角度を少し下げて、強い陽射しを和らげる。
静かな室内に電子的な器械の音が、規則正しく鳴っていた。
天蓬の命を繋いでいる無機質な器械。
捲簾はベッド脇の椅子に座ると、眠っている天蓬の顔を眺めた。
看護士が言っていた通り、頬に少し赤味が差して体調も良さそうに見える。
捲簾が掛布を捲って、そっと天蓬の手を両手で包み込んだ。
掌に伝わる命の温度。
捲簾より少し体温の低い慣れ親しんだ感触。
「天蓬…随分痩せちまったなぁ。筋肉全部落ちてんじゃねーか。意識回復してからリハビリが大変だぞ?」
骨の浮き出た細い腕を、捲簾は優しくさすった。
腕だけじゃない。
肩も胸も、腰も脚もどこも全て。
すっかり筋肉が落ちてしまって、天蓬の身体は可哀想な程痩せ細っていた。
身長は捲簾より少し低い程度のはずが、やけに小さく見える。
捲簾の知っている快活な天蓬の面影は、この身体のどこにも見当たらなかった。
天蓬の手を握ったまま額に押しつけて、捲簾が俯く。
「…何で離れちまったんだろうなぁ」
捲簾は自宅で留守番している”てんぽう”を思い浮かべて、切なげに溜息を零した。

きっかけは間違いなく、あの時の事故しか考えられない。
あの時どんな偶然の要因が働いて、魂と身体が別れてしまったのか。
自分の身体に居られない程、苦痛だったんだろう。

「すっげぇ痛かったんだよな…きっと。ごめんな?天蓬」

骨の浮いた華奢な手の甲に、捲簾はそっと口付けた。
事故で天蓬が苦しんでいる時側にいてやれなかったことが、いつまでも捲簾を苛んでいる。
自分自身が不甲斐なくて、許せなかった。
後悔が棘となって、捲簾の心に突き刺さっている。
それでも。
「猫でも何でも…お前が生きててくれてよかった」
”てんぽう”が天蓬だと分かった時、どれだけ嬉しかったか。
ちゃんと自分の元へ戻ってきてくれた、と。
身体が衰弱する程過酷な目に遭いながらも、唯ひたすら捲簾を求めて帰ってきてくれた。
もう一度、出逢えた。

それだけでもよかったはずなのに。

再開して奇妙な同居生活を送っていると、日増しに望みは大きく膨らむ。
天蓬が。
今目の前で眠っている天蓬が目覚めて欲しい。
捲簾の好きな綺麗な瞳で、一番最初に自分を見て欲しい。
もう大丈夫だから、って頬笑んで欲しい。
その腕で抱き締めて欲しい。

「…浅ましいのかな、俺って」

捲簾はやるせない気持ちを溜息で誤魔化した。
ベッド脇に頭を落として目を閉じる。
身体自体は完全ではないけど回復していた。
脈拍も体温も安定している。
身体の筋肉が落ちるのは不可抗力で仕方ないが、リハビリで訓練すれば大丈夫だろう。
問題は、脳の損傷。
奇跡的に意識が戻ったとしても、何かしらの障害は残るらしい。
医師の説明ではおそらく半身不随、ということだ。
捲簾はそれでも意識さえ戻ればよかったが、天蓬本人はショックに違いない。
このことは”てんぽう”にもまだ話していなかった。
言えるはずがない。
自分の身体の意識が回復することは疎か、動くことさえ出来なくなるなんて。
今のままの方が自由に動ける分、幸せなのかも知れない。
それでも、捲簾は願わずにいられなかった。

早く、目覚めて欲しいと。

「どうすれば戻るんだろ…」
月からの作用で人間に変化する天蓬。
あの小さな身体で一体何が起こっているのか、捲簾に分かるはずがない。
こうして天蓬に逢えば、何かしらヒントが閃くと思ったのだが。
「ダメだ…全っ然分かんね」
こんなこと誰に言っても信じて貰えない。
相談なんかもってのほか。
金蝉に話したとしても、絶対信用しないだろう。
下手すれば捲簾が病院送りにされてしまう。
何か手だてはないだろうか。
考えても考えるだけ、焦燥感が募るだけだった。
”てんぽう”自身はどうだろう。
本人なら些細な変調もすぐに感じるはず。
とりあえず独りで考えたって何も思い浮かばないなら、二人で探していくしかなさそうだ。

コンコン。

病室のドアがノックされた。
遠慮がちにドアが開くと、小さな顔がヒョコッと覗く。
「ケン兄ちゃん、居る?」
ドアから現れたのは悟空だった。
顔だけ出して、捲簾に明るく笑いかける。
「おう。随分早いな?金蝉は一緒か?」
「ううん。金蝉今日は手術があるからって、俺一人で来たっ!」
捲簾が手招くと、嬉しそうに小柄な身体が飛び込んできた。
悟空の身体を座っている脚の上へ抱き上げる。
「一人で電車乗って来たのか〜迷子にならなかったか?」
「もうっ!金蝉と同じことゆー!俺ちゃんと電車だってバスだって乗れるもんっ!」
悟空は頬をプクッと膨らませて、ブツブツと拗ねてしまった。
「ハッハッハッ!悪ぃ。そっか、悟空ももう小学校の高学年だもんな」
「そうだよっ!もう5年生なんだからなっ!でも…ちょっと病院の中で迷っちゃった」
「病院は仕方ねーよ。どの部屋も似てるからな」
捲簾が頷きながら悟空の頭を撫でる。
悟空は身を乗り出して、天蓬の顔を覗き込んだ。
「天ちゃん…本当に寝てるみたいだね。何で起きないのかな?」
「そう…だな。何で起きねーんだろうなぁ」
「俺、また天ちゃんに色んな本借りたり、いっぱい遊んで欲しいよ」
「大丈夫。絶対天蓬は起きるから」
「うん」
二人はぼんやりと眠る天蓬の顔を眺める。
「あ、そうだ!ケン兄ちゃん。俺天ちゃんに花持ってきた!ホラ、きれいだろ?俺が去年種巻いてさ。昨日咲いたんだよ」
悟空の手には鮮やかなピンクの花束が握られていた。
あまり見たことのない花だ。
「へぇ…綺麗だな。コレなんていう花?」
「さくら草だよ」
「あぁ、名前は知ってる。これがさくら草なんだ〜。あ、でもいいのか?折角悟空が育てて昨日咲いたばっかなんだろ?」
「いーのっ!俺はいっぱい見たし、まだ庭に咲いてるから。天ちゃんにもきれいだから見せたかったんだ〜」
「そっか。天蓬も喜ぶぞ、きっと」
「えへへ…」
照れくさそうに悟空が微笑みを浮かべた。
「天蓬。悟空がお前の為に花持ってくれたぞ?ちゃんと目が覚めたらお礼言えよ?」
捲簾が天蓬の手を握り締め、笑顔で言い聞かせる。
でも、握り返してくる力も返事も無い。
「あぁ。それじゃ花新しい花瓶に活けような。チョット待ってろよ」
捲簾は悟空の身体を下ろして、備え付けのキャビネットを開けて花瓶を探す。
「お?丁度良いのがあった。そんじゃ花活けてくっから」
花を受け取ろうとする捲簾へ、悟空が花束を差し出した。
受け取った花に捲簾が顔を寄せる。
「…いい匂いだな」
「でしょ?すっげぇ甘い匂いがし…て?」
突然悟空が言葉をとぎらせて、背後を振り返った。
まん丸く目を見開くと、何かを探してキョロキョロと部屋中を見渡す。
「おい?どうした?」
視線を彷徨わせていた悟空が、慌てたように捲簾を見上げた。
そしてすぐに振り返って天蓬を見遣る。
フラッと悟空が捲簾の腰に抱きついてきた。
様子がおかしい悟空に、捲簾が眉を顰める。
「悟空?」
「違う…でもどうして?」
悟空は小さく呟いて捲簾の身体に顔を擦り付けた。
一体どうしたというのか。
「悟空?なぁ〜に甘えてんだよ」
殊更明るい口調で悟空を呼んで、頭をポンッと叩いた。
悟空が顔を上げて、捲簾をじっと見つめてくる。
「悟空?ホントどうしたんだ?」
「違うんだ…ケン兄ちゃん」
悟空は呆然と呟いた。
視線が目の前の捲簾をすり抜けているようだ。
「違うって…何が?」
「ケン兄ちゃんからは天ちゃんの匂いがするけど、あっちの寝てる天ちゃんからはしないんだ」
「え…それは…どういう?」
悟空の言葉に捲簾は戸惑いの表情を浮かべる。

俺からは天蓬の匂いがするけど。
天蓬本人からはしない?

悟空は捲簾へ鼻を押しつけて、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「ほらっ!やっぱりケン兄ちゃんからはするもんっ!何で?何であっちの天ちゃんからはしないの?どうしてっ!?」
「どうしてって言われてもな…」
困惑して捲簾は言葉を詰まらせた。
捲簾は悟空の肩に手を置くと、身体を屈めて視線を合わせる。
「ちょっと俺分かってねーから、訊いてもいいか?」
「う?うん」
真剣な表情の捲簾に、悟空はコクンと頷いた。
「俺から天蓬の匂いがするのか?」
「うん。するよ。俺が知ってる天ちゃんの匂い。同じ匂いがケン兄ちゃんからする」
「そっか。でもあっちで寝てる天蓬からは悟空の知ってる匂いがしないのか?」
「そう…全然しない」
「薬とかの匂いで分からないんじゃねーの?」
「え?違うよ。だってケン兄ちゃんからは同じ薬の匂いもするけど、ちゃんと天ちゃんの匂いもするし」
「匂いが…」
「でも何で?あっちの天ちゃんからはしないのに、ケン兄ちゃんからはするの?」
問い詰めるのでもなく、悟空は無邪気に捲簾へ訊ねた。
捲簾は暫し難しい顔で考え込む。

悟空にしか分からないってコトか?
俺に付いてる匂いは…確かに天蓬のモノだけど。
本人の身体からしないってのはどういうコトだ?
魂に匂いでもあるって言うのか?
だとしたら、抜け殻の身体からしないっていう理屈にはなるけど。
そんなことあり得るか?
悟空には目に見えないモノを感じ取れるって?

「…ケン兄ちゃん?」
「あ。あぁ…悪い。う〜ん…俺にも分かんねーなぁ」
「そっかぁ。あ、そういえばね?てんぽうからも同じ匂いがしたよ?」
「てんぽうって…猫か?」
「うんっ!この前ケン兄ちゃんトコ行った時思ったの。でも金蝉に言ったらすっげぇ怒られたけど」
「まぁ…金蝉は現実至上主義だからなぁ」
「げ…じつ…しゅ??」
「あ〜頭の中身が硬いってこった」
「そうなの?金蝉の頭の中身は触ったこと無いから分かんないや」
「…あったらこえーよ」
捲簾が想像して嫌そうな顔をしていると、悟空は寝ている天蓬へ近づいて布団に顔を突っ込んだ。
モゾモゾと近づき、匂いの確認をしている。
「やっぱしないよー」
「そうなのかも、な…」
「えー?なぁに?」
「ん?何でもねーよ」
捲簾が苦笑いして応えると、悟空が布団から這い出てきた。
「でも何でなんだろ?」
「うーん…寝てるからかな?」
「そうなの?」
「そ。俺はホラ、ずっと天蓬と一緒に居ただろ?きっと匂いが移ってたんだな」
「ふぅん…そっか。ケン兄ちゃんいつも一緒だったもんね」
悟空がニッコリと捲簾に笑いかける。

「じゃぁさ。いつも天ちゃんと居るみたいだよね」

悟空の言葉に、捲簾は目を見開いた。
何か熱いカタマリが身体の奥深くから込み上げて来るようで、言葉が出ない。
「ケン兄ちゃん?どうかした?」
立ったまま僅かに震えている捲簾の手を、悟空は心配そうに握り締めた。
掌から伝わる悟空の暖かい温度に、捲簾が詰めていた息を吐く。
「大丈夫?ケン兄ちゃん…」
「ん。へーき。ちょっと寝不足で目眩がしただけだ」
「えー?ダメだよ〜ちゃんと寝なきゃっ!」
「そーだよな」
捲簾はぎこちない笑みを浮かべて、視線を伏せた。



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