あなたへの月 |
捲簾が脚を洗いバスルームからリビングへ戻ってくると、猫は満足げな顔をして床にゴロ寝していた。 ダラリと身体を伸ばして、暢気に顔を洗っている。 緊張感の無さに小さく溜息を零すと、転がっている猫の側に胡座を掻いた。 「おい、てんぽう」 「にゃ?」 猫が捲簾を振り仰ぐと、何時になく真剣な表情がある。 「ちょっと、そこ座れ」 「…にゃ」 何となく嫌な予感がしつつ、猫は返事をすると身体を起こして捲簾の前に座り直した。 捲簾を怒らせるような事を何かしたのだろうか? 今日は言われた通り、部屋の中も雑誌や新聞で散らかしてない。 物を落としたりもしてないし、猫には特にこれと言って思いつかなかった。 しかし捲簾の脚をちょっと拝借して粗相をした事は、これっぽっちも悪いと思っていない。 眉間に皺を寄せて唸りだした猫に、捲簾は目を丸くした。 「おい…何変な顔してるんだ?」 「うにゃ?にゃぁー…」 ガックリと項垂れる猫を眺めて、捲簾はピンッときて笑う。 「あ〜違う違う。別に怒る訳じゃねーよ。それとも何か?お前…俺が留守の間に何かやらかして隠してるとか?」 胡乱な視線で猫を見下ろすと、猫が慌てて首を振った。 「にゃにゃっ!」 「ふーん?」 「にゃぁっ!」 猫はオロオロしながら言い訳するように、捲簾の腿をペチペチ前足で叩く。 誤魔化す事もせず必死な様子に、捲簾はニッと口端を上げた。 「なぁ〜んてな。冗談だよ」 「にゃっ!?」 ガーンッとショックを受けた表情をして、猫の尻尾が跳ね上がった。 「うにゃーっ!!」 漸く捲簾にからかわれたと気づき、毛を逆立てて猫キックを炸裂する。 「アッハッハッ!悪ぃ!あんまりお前が必死だからつい。怒るなって〜」 全く悪びれず豪快に大笑いする捲簾に、猫は尻尾まで膨らまして激怒した。 捲簾は暫く猫の気が済むようにさせていたが、ふと当初の予定を思い出して猫の身体を抱き上げる。 「うにゃっ!」 「本題忘れるトコだった!てんぽうに聞きたいことがあって…って言っても今聞いても仕方ねーか」 「にゃ?」 寂しげに笑う捲簾に気付き、猫は暴れるのをやめた。 捲簾の手にぶら下げられたまま、小さく首を傾げる。 確かに明確に答える事は猫の状態では不可能だった。 しかし話を理解する事は出来る。 「にゃぁ〜」 猫が捲簾に向かって、先を即すように鳴いた。 きっと捲簾は自分に話を聞いて欲しいはず。 床にそっと下ろされた猫はちょこんと座って、尻尾をパタパタと振った。 「んー…とりあえず聞くだけでもいいんだけど」 「にゃっ!」 猫は明快に返事を返す。 少し逡巡して思っている事を纏め、捲簾が戸惑いながら話し始めた。 「お前の身体な。あ、勿論病院の方のだけど…このままだとマズイ、と思う」 「にゃ…」 言い辛そうにポツポツ話し始める捲簾を、猫は心配そうに見上げる。 「やっぱさ。魂と身体が離れてるのって言い訳ねーじゃん?今は器械で生命維持してるけど。それだってただ器械で必要最低限のコトしかしてないから。お前の身体がさ…筋肉も殆ど落ちゃって、会う度すっげぇ細くなっていくんだ。俺…なんつーか…」 「にゃぁー…」 猫が話を遮って、捲簾の手に前足を乗せた。 「ん…俺は平気…だから…っ」 捲簾は震える声を詰まらせ、無理に笑顔を浮かべる。 痛々しい捲簾の姿を、猫は真っ直ぐに見上げた。 捲簾の胡座を掻いてる脚に身体を乗せると、スッポリはまって丸くなる。 脚に猫の暖かい温もりが伝わってきた。 捲簾は苦笑すると、小さな背中を優しく撫でる。 猫なりに捲簾を気遣ったらしい。 捲簾が何かあって気持ちが不安定な時、天蓬はいつも何も言わずに側に居てくれた。 黙って問い掛ける事もなく、ただ捲簾が落ち着くまで。 「お前も辛いかも知れない。自分の身体に戻る事が出来たとしても、すぐに以前のまま動けるかって言えば…無理だから」 「にゃ」 あれだけの大事故で、今現在植物状態の自分。 猫もそのことは充分理解していた。 自分の身体に戻ってからこそが大変なんだろう、と。 「それなら今の方が好きなように動けるし、体調だっていいだろう?その方がお前にとっては幸せかも知れない…けど」 「にゃっ!」 捲簾が見下ろすと、猫はゆっくりと首を振った。 じっと見つめて、ハッキリした声で鳴く。 捲簾の気持ちは分かっているから。 猫が尻尾をゆっくり振ると、捲簾が泣き笑いになる。 「ごめっ…俺…天蓬にひでぇこと言ってんの分かってるっ!でも…」 天蓬に早く目覚めて欲しい。 膝頭に置いた捲簾の拳が小刻みに震えた。 ずっと天蓬と再会してから言いたくて言えなくて。 捲簾は独り思い悩んで辛かったのだろう。 猫は拳に顔を寄せると、小さな顔を擦り付けた。 「にゃっ!」 大丈夫。 僕には捲簾がいれば、どんな事でも乗り越えられるから。 猫が気持ちを伝えようと、ご機嫌な様子で尻尾をパタパタ振る。 甘えるように拳に顔を擦り付けてくる猫を眺め、捲簾も漸く顔を上げた。 「てんぽう…ゴメン」 「にゃっ!」 もう謝るなとでも言っているのか、猫が捲簾の腿を前足でポンポンと叩く。 漸く捲簾は笑顔を浮かべた。 「でもなぁ…どうしたらお前戻れるんだろ?」 「うにゃ?」 猫と飼い主は顔を見合わせ、う〜んと考え込んでしまう。 戻らなければならないとは思うが、具体的な方法など見当もつかなかった。 「よしっ!最初っから一つ一つ検証すっか」 「にゃっ!」 「まず一番最初。救急車の中で途中まで意識あったって言ってたよな?」 「にゃっ!」 「その時、まぁ当然身体中激痛あっただろうけど…他には?何か妙な感じとかあったか?」 「うにゃ〜」 猫は首を振って否定する。 あの時は身体中走る激痛だけで、失血のせいか意識も朦朧としていた。 ただそれだけだ。 特に何かを感じたという事も無かった。 「そっか…で、次に目が覚めた時はもう猫になってた、と?」 「にゃっ!」 これには即座に返事を返す。 ある日突然目覚めたら猫になっていた。 あの衝撃は今でも忘れられない。 どれだけ驚愕したか。 自分の身に起きた事が信じられず、丸1日身動ぐ事も出来なかったぐらいだ。 捲簾は腕を組んで考え込む。 「その時たまたま病院の敷地に入り込んでいた猫と、お前の魂がシンクロしちまったのか?でも猫本来の魂は?猫の方も死にかけてたとか??」 「………うにゃ?」 その辺は”てんぽう”にも分からない。 だけど気が付いた時、身体がおかしいとか痛みなどは無かった。 とてもじゃないが瀕死の状態にあったとは思えない。 思案する猫を眺めていた捲簾は、小さく肩を竦めた。 「そうだよな…お前その後俺のトコ帰ろうとして放浪したんだよな。すぐに動ける状態の猫が死にかけてた訳ねーか」 「にゃっ!」 「そうなると…あぁっ!さーっぱり分かんねーっ!!」 捲簾は大声で叫ぶと、ガシガシ頭を掻いた。 猫もイライラと後ろ足で頭を掻く。 飼い主と猫は顔を見合わせ、同時に深々と溜息を零した。 「何か偶然のきっかけがあって天蓬が猫になったのは間違いないんだろうけど。その辺にヒントがあると思ったんだけどなぁ〜」 「にゃぁ〜」 「でもさ。ぜってぇ元に戻れるはずなんだよっ!猫になれたんだし、ましてや月が出りゃ人間にも変化するぐらい…月?」 捲簾の脳裏に何かが閃いた。 そうだ、天蓬が事故にあったあの日。 確かあの日は満月だったはず。 その事と何か関係があるのだろうか。 天蓬が事故にあった日。 猫から人間に変化するのは月の出ている夜。 『月』が全てのキーワードになっている。 「月…が何か関係あるのかも知れねー」 「にゃ?」 「月だよ月!だって今までの事に全部『月』が何かしら作用してるだろっ!?」 「にゃっ!」 猫が相槌打って鳴いた。 「その辺から調べれば…何かお前が戻れるヒント分かるかも」 「にゃっ!」 捲簾が明るい表情で断言すると、猫も陽気に尻尾を振る。 すると。 ストンと猫が捲簾の脚から降りて、リビングをスタスタと横切った。 「てんぽう?どーした??」 猫は普段捲簾が使っているパソコン机の上に身軽に飛び乗る。 「にゃっ!」 ペシペシと。 前足が机に載せているノートパソコンを叩いた。 「何だよ?お前がパソコン使って調べんの?」 「にゃっ!」 自信満々に猫が答える。 確かにネットを使って情報を調べるのも1つの手ではあるけど。 何か猫には考えがあるのかも知れない。 「そっか。じゃぁてんぽうに任せようか。お前そう言うの手慣れてるしな」 「にゃっ!」 「でも…お前その手でキーボード打てんの?」 素朴な疑問。 猫は人間のように動かす事の出来る5本指がない。 プニプニの肉球でキーを打つのは無理があるはず。 ところが。 「うにゃぁ〜」 自信ありげに猫が鳴く。 ひょいっと前足を差し出すと、指先から爪が飛び出した。 「…爪で打つって?」 「にゃっ!にゃにゃっ!」 猫は捲簾を催促して、パソコンの蓋をペシペシ叩く。 半信半疑のまま、捲簾が言われた通りノートパソコンを開いた。 「これでいーのかよ?」 「にゃ〜」 捲簾に返事をすると、猫は飛び出した爪を器用に使って電源を押す。 カチッと音がして、パソコンが立ち上がり始めた。 「にゃっ!」 「へぇ…器用だな。マジで使えそうじゃん」 「うにゃ〜」 ご機嫌で尻尾を振る猫を、捲簾が感心して眺める。 これなら本当に任せて大丈夫そうだ。 「じゃぁ、ソレ使ってみるか?俺晩飯の支度するけど」 「にゃっ!」 任せろと言わんばかりに鳴くと、猫は前足でトンッと胸を叩く。 「あんま無理すんなよ?猫と人間の視力だって違うんだろ?疲れたら休めよな」 「にゃぁ〜」 猫は返事をしながら、立ち上がったパソコンのキーを打ち始めた。 右足だけを使って文字を打ち込んでいる。 捲簾は小さく微笑むと、窓の外へ視線を向けた。 今日も天気が良くて、このままなら夜は綺麗に月が上がるはず。 「てんぽう。今日の晩飯、焼き肉だぞ〜」 「にゃっ!」 「でも、お前が人間に戻ったらだけど?そのままだと栄養バランスばっちりのカリカリエサだな〜。あ、でも金蝉お薦めのエサだぞ?」 「…うにゃぁ」 捲簾がニヤニヤして意地悪く言うと、猫が恨めしそうに捲簾を睨んだ。 この身体だと猫用のエサでも充分美味しく感じるが、どうせなら捲簾と一緒に焼き肉が食べたいに決まってる。 猫が涙目でふて腐れると、捲簾は小さく噴き出した。 机に近寄って、猫の小さな頭に顔を寄せる。 「嘘だって。今日も天気いいから月出るだろ。一緒に食おうな?」 「うにゃっ!」 「てんぽうの好きなテールスープも作ってやるから」 「にゃぁっvvv」 打って変わって上機嫌に鳴くと、嬉しさの余り尻尾でベシベシと机を叩いて喜んだ。 捲簾はポンッと猫の頭を軽く叩いて、キッチンへ行きエプロンを身に着ける。 食材を出して鍋に水を入れ、火に掛け準備を始めた。 視線をリビングに向ければ、机の上にちょこんと座った猫が画面を眺めては何やらキーを叩いている。 「何でもいいから見つかるといいけど…」 猫に聞こえない程、捲簾が小さく独り言ちた。 ”てんぽう”が”天蓬”へ戻るための鍵。 それさえ見つかれば。 捲簾は溜息を吐いてシンクへ向き直ると、とりあえず夕食作りに専念した。 |
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