あなたへの月



「…よし。とりあえずこんなもんか」
夕食の準備を済ませると、捲簾は煙草を銜えて一息入れる。
後は圧力鍋でそのままテールスープを煮込むだけだ。
捲簾がダイニングの椅子に腰掛けリビングへ視線を向ける。
「おーい、てんぽう。お前も少し目ぇ休めろよ」
「………。」
パソコン前で画面を見つめる猫へ声を掛けるが、返事は返ってこなかった。
「しょーがねーなぁ」
テーブルに肘を付いて、捲簾が苦笑を浮かべる。
天蓬は物事に一度集中すると、周りの音が聞こえなくなるクセがあった。
きっと地震が来ても気づかず、後日人に聞いてから驚くタイプだ。
「適当なところで休ませねーと」
捲簾が肩を竦めてぼやくと、机の上で猫が大きく背中を丸めて伸びをする。
立ち上がったまま猫はぼんやりと身動ぎしなくなった。
「にゃ…」
「おい?てんぽう…どうした?」
様子がおかしい猫に捲簾が声を掛ける。
のそのそと猫は身体の向きを変えると、窓の外へ視線を向けた。
「うにゃ〜」
気怠げな声で鳴くと、椅子の上に飛び降りる。
喉でも渇いたのだろうか。
更に椅子から床へ降りようとして飛んだが、着地に失敗して頭をぶつけてしまう。
「にゃっ!?」
「うわっ!おいっ!大丈夫かよ〜!?」
捲簾が椅子から立ち上がる前に猫は身体を起こし、フラフラと歩き出した。
フローリングを蛇行しながら、ヨロヨロと寝室に向かっている。
「てんぽう?」
身体をふらつかせながら、捲簾の声にも応えず猫は寝室へ入っていった。
「…急にどうしたんだ?画面見続けで疲れたのか??」
さすがに心配になり捲簾が様子を見ようと寝室へ近づくと、開いたドアの隙間から突然目映い閃光が漏れてくる。
「て…てんぽうっ!?」
捲簾が我に返り、慌てて窓の外に視線を向けた。
外は既に陽が落ちて薄暗く、太陽に変わって月が淡い光を放っている。
「…てんぽう?」
捲簾はドアから顔を覗かせ、静まりかえった寝室の中を確認した。
ベッドの上には。
昨夜と同じ姿の天蓬が昏倒している。
腰の辺りからは茶色い長い尻尾。
頭には三角の猫耳がちょこんと乗っていた。
どうやら月が昇った作用で、また人間に変化したらしい。
ベッドに近づいて天蓬の顔を覗き込むと、変化の衝撃で気を失っていた。
とりあえずクロゼットから着替えを出して、捲簾が天蓬の身体を揺する。
「おーい、天蓬?大丈夫か?」
頬をペチペチ軽く叩くと、天蓬は唸りながら顔を顰めた。
瞼が震えてゆっくりと綺麗な瞳が現れる。
パチパチ瞬きしてから、思いっきり身体を伸ばして大欠伸した。
「くあ〜っ!ふぅ…間接がギシギシしますねぇ」
「そりゃ…いきなりデカくなればな。それにしてもどうやって変化してんだろうな?」
捲簾は首を傾げつつ、起き上がった天蓬へ着替えを渡す。
差し出した着替えを受け取って袖を通し、天蓬も首を捻って思案する。
「さぁ…変化する時の熱さでどういう状態か客観的に見てないんですよねぇ。意識もぼんやりしてるし。僕もどういう仕掛けになってるか見てみたいんですけど」
「自分を研究材料にしてどうするっての」
ペチッと額を叩いて、捲簾はベッドサイドから腰を上げた。
寝室を出て行こうとする捲簾を見て、天蓬は慌てて服を身につける。
「待って下さいよぉっ!」
「何慌ててんだよ。喉乾いたろ?コーヒー入れるから、着替えたら来いよ」
捲簾は掌を閃かせて寝室を出ていった。
薄暗い部屋に一人取り残され、天蓬は小さく溜息を零す。

何を不安になってるんだか。
捲簾が居なくなる訳じゃないのに。

じっと自分の掌を眺めて指先を動かす。
コレは確かに自分の身体。
こうやって自分の意志通りに動く。
でも。
本当の身体は器械に命を繋がれ、病院で眠っていた。
早く取り戻さないと。
捲簾の為に。
そして、天蓬に身体を貸してくれているこの猫の為にも。
天蓬は気づいていた。
自分とは違う命の鼓動が、身体の心底に今も息づいている。
ただ静かに天蓬の意識下で眠っているだけだ。

自分の為だけじゃない。
大切な人の為に早く戻らなければ。

天蓬は決意すると、勢い良くベッドから飛び降りた。






「あ、天蓬。腹減ってるか?」
「いえ…まだそんなには減ってませんけど」
「そっか。じゃぁ先に済ましちまうか。ちょっとコッチ来いよ」
リビングの床に座り込んだ捲簾が、ボンヤリ立っている天蓬を手招く。
言われたとおり捲簾の側へ行くと、突然ガッチリと腰を掴まれた。
「は?なっ…何ですかっ!?」
「いーから後ろ向けよ」
無理矢理立ったまま後ろを向かされ、天蓬には何が何だか分からない。
背後では捲簾が天蓬の尻に向かって、何やらブツブツ呟いていた。
いきなり尻に向かって話しかけられ、天蓬が途方に暮れる。
「けんれーん。僕のお尻に何かあるんですかぁ〜」
「バカッ!別にお前の尻じゃなくって…いーから動くんじゃねーぞっ!」
「動きませんけど〜見えないと気になるじゃないですかぁ〜」
情けない声で天蓬がぼやくと、何か尖ったモノで腰の下を突っつかれた。
「うわわっ!くすぐったいですよっ!」
「コラッ!動くなっての。ずれるだろっ!」
「は?ずれるって??」
天蓬は困惑して立ち竦んだ。
一体捲簾は自分の腰を突っついて何をしてるのか。
訳が分からずオロオロしていると、突然尻をパシッと叩かれる。
「おっし、オッケー。んじゃ天蓬そのショートパンツ脱げよ」
「えっ!?脱げって…そんないきなりっ!いえ、捲簾がお望みなら僕は何時でもドコでもバッチオッケーですけどねっvvv」
「………はぁ?」
ポッと頬を赤らめた天蓬は、いそいそと言われたとおり履いていたショートパンツを脱ぎだした。
床に脱ぎ捨てると、座っている捲簾の肩にガッチリ手を掛ける。
「さぁっ!ドコでしましょうかっ!僕はこのままでもベッドでも捲簾の好きな場所で構いませんけどねっ!!」
頬を紅潮させ興奮気味にまくし立てる天蓬を、捲簾は口を開けたまま呆然と見上げた。

股間を露出した状態で、俺の好きな場所?
それって…

「バカッ!勘違いすんなっ!べ…別にいますぐ犯ろうなんて言ってねーっっ!!」
今にものし掛かる勢いの天蓬から捲簾が後ずさって逃げる。
「またまた…そんな照れなくってもいいんですよvvv」
「照れてねーよっ!」
真っ赤な顔でしっしっと掌で追い払う捲簾を見つめて、天蓬は尻尾をクルンとくねらせた。
「捲簾の気持ちは分かってますってばvvv」
「全っ然分かってねーだろっ!!」
明らかに欲情している天蓬に壁際まで追いつめられ、捲簾は顔を引き攣らせる。
何を言っても天蓬には自分の都合言いようにしか伝わらない。
こうなったらっ!
「けんれ〜んvvv」
「今しやがったら…この先ずうぅぅ〜っと!お前が元に戻るまでセックス抜き」

ピタッ。

天蓬の身体がのし掛かる一歩手前で硬直した。
「…それでもいいなら、俺は構わねーけど?」
双眸を眇めて頬笑むと、捲簾の脚が天蓬の腰へ絡みつく。
「捲簾…」
「ん?」
「…ごめんなさい」
天蓬は捲簾の上から退いて、床の上に深々と土下座して謝った。
捲簾が呆れきって溜息を零し、勢い付けながら身体を起こす。
「お前もねぇ…後先考えず盛ってんじゃねーよ」
「捲簾目の前にして後先考えられる訳ないじゃないですかっ!」
「んなこと力説してんじゃねーよ、バカ天」
涙目で主張する天蓬の頭を、捲簾が軽く小突いた。
「何でそんな意地悪言うんですかぁ〜っ!!」
「…勃起した股間押さえ込んで意地悪って言われてもなー」
「ヒドイですぅっ!!」
グシグシと半泣きになって詰る天蓬に、捲簾は頭痛がしてくる。

何でコイツってこんなにバカなんだ?

上目遣いで拗ねる天蓬をキッと睨み付け、捲簾は座っていた場所に這い蹲って戻る。
天蓬が脱ぎ捨てたショートパンツを取り出すと、傍らに置いてあった箱をゴソゴソ探った。
何かを始めようとする捲簾が気になって天蓬も近寄る。
捲簾の肩越しにヒョコッと顔を覗かせ、興味津々に手元を覗き込んだ。
「捲簾、何するんですか?」
「…意地悪だから教えなぁ〜い」
「〜〜〜〜〜っっ!!!」
「…分かった分かった。そんなに悔しそうに泣くなっての」
天蓬が震えながら捲簾の背中を、抗議してべしべし尻尾で叩く。
手にしたハサミを掲げてみせると、捲簾はニンマリ笑った。
「けっ…けけけけ捲簾っ!?凶器は卑怯ですっ!!」
もの凄い勢いで壁際まで逃げた天蓬に、捲簾が肩を竦める。
「ばぁか。ハサミでお前に何するってんだ。コレは穴開けんの」
「穴?」
天蓬は不思議そうに首を傾げて、恐る恐る捲簾の元へ戻ってきた。
「尻尾出せねーと邪魔だろ?服着たら収まり悪ぃし。だからコレに穴開けてやるんだよ」
そう言うと、捲簾は先程脱がせたショートパンツの生地にハサミを入れる。
印を付けた部分に沿って、丸く生地を切り抜いていった。
「…こんなもんか?目分量で直径測ったけど、大丈夫だよな」
捲簾はハサミを置くと、箱の中から針と糸を取り出す。
どうやら裁縫セットで天蓬の尻尾が楽になるよう、ショートパンツをリメイクするらしい。
器用に針穴へ糸を通して、切った生地の部分を糸でかがり縫いし始めた。
天蓬は物珍しそうに捲簾の手元を眺める。
「捲簾って凄いですねぇ…炊事掃除に洗濯だけじゃなく、お裁縫もできるなんて」
「だろ?俺って意外と家庭的だし」
「新婚旅行はニューカレドニアにしましょうねvvv」
「…何で新婚旅行なんだよ?」
「捲簾の誕生石って何でしたっけ?」
「…だから何で指輪なんだよ?」
「白無垢も捨てがたいですよねぇ〜」
「お前が着ろ、お前が」
「え?それでもいいですけど。じゃぁ、捲簾はミニのウエディングドレスですねvvv」
「…勝手に結婚式場でパンフでも貰って妄想に耽ってろ」
「そうですね〜身体が元に戻ったらそうしますvvv」
天蓬が幸せそうにニッコリ微笑むと、捲簾は一瞬言葉を詰まらせプイッと視線を逸らした。
背中を向けて、モクモクと生地を縫っている。
「けんれーん」
「何だよ?」
「耳…真っ赤ですよぉ〜♪」
「うるせぇっ!!」
大声で喚きながら捲簾が天蓬へショートパンツを差し出す。
「さっさと穿けよなっ!俺はメシの準備すっから!」
背中を向けたまま立ち上がって、捲簾は逃げるようにキッチンへ駆け込んだ。
あまりの素早さに、天蓬はショートパンツを握ってポカンと呆ける。
「…あ、綺麗に穴が開いてる」
クスクスと笑いを零してショートパンツを穿き直し、とりあえず尻尾をクルンと回してみた。
尻尾周りに適度な余裕があり動きやすい。
「捲簾っ!丁度ピッタリですよっ!!」
天蓬ははしゃいで捲簾に尻尾を振ってみせた。

…やっぱ可愛いかも、アレ。

上機嫌に揺れる天蓬の尻尾を眺めて、捲簾は僅かに頬を染める。
「…そーかよ」
「はいっ!ありがとうございます〜♪」
照れ臭さそうに夕食の準備をする捲簾を、天蓬は幸せそうに眺めた。



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