あなたへの月



捲簾はマンションの駐車場に着くと、眠っている猫をそのままにして一旦降りた。
車の後部に回るとトランクを開け、買ってきた猫用グッズを車外へ下ろす。
作業していた捲簾の手が、途中まで外に出して止まった。
「…こう見ると結構あるなぁ。1回で運ぶのは無理か」
猫トイレやエサなど大きさや重さもあってかさばり、とてもじゃないがこれプラス猫も一緒には運べない。
とりあえず持てる物だけ持って一度部屋に帰り、台車を持ってきて運んだ方が良さそうだ。
大きな物はまたトランクへと戻し、袋に入った小さめのグッズ類を持てるだけ腕に掛けた。
トランクを閉めると捲簾は助手席側へ回ってドアを開け、丸くなっている猫に手を伸ばす。
「…てんぽう着いたぞ?部屋に戻ろうな」
捲簾が声を掛けると、猫は眠そうながらも目を開いた。
返事をするように小さく鳴くと、大人しく捲簾に抱えられる。
「やっぱ軽すぎるよな、お前」
成猫の標準体重がどれぐらいだか猫を飼ったことがない捲簾には分からないが、単純に身体の大きさから考えれば明らかに軽すぎた。
捲簾はキーをロックすると、地下駐車場からエレベーターに乗り込んだ。






部屋に入ると持っていた荷物は適当に床へ置く。
猫を抱えたままリビングに入ると、捲簾はキョロキョロと部屋の中を見回した。
「お前の寝床どうしようか。やっぱ日当たり良い方が猫にはいいのか?」
長毛種ならともかく、『てんぽう』は短毛種だ。
きっと外気温にも敏感だろう。
捲簾は少し思案すると、抱いていた猫をとりあえずソファへ下ろす。
一旦床に置き去りにした袋を取りに戻って、大きな籐製のカゴを出した。
猫用のベッド代わりだ。
中敷きには布団用にフカフカのクッションを置く。
それを窓際に置くと、ソファから猫を移してみた。
「どーよ?寝心地は」
捲簾はその場にしゃがみ込んで、猫の様子を観察する。
猫はしきりに回りの匂いを嗅ぐと、クッションへ顔を擦り始めた。
自分の場所としてマーキングしているつもりらしい。
案外気に入っている様子の猫を眺めて、捲簾は楽しそうに笑った。
顔を擦りつけたり、前足でクッションをこねてみたり。
すっかり猫は目が覚めたらしい。
病院で点滴を打って、少しは元気が出たようだ。
「んじゃ、そこがてんぽうの寝床な〜。さてと。荷物取って来なきゃ」
捲簾が立ち上がると、猫はびっくりして目を丸くする。
物置代わりにしている部屋から台車を出すために部屋を移動すると、慌てた猫が捲簾に付いてきた。
しきりと捲簾に向かってニャーニャーと鳴き声を上げる。
「ん?どうしたんだよ。もう寝ててもいーんだぞ?俺は荷物取ってくるだけだから」
足許に擦り寄る猫へ捲簾が声を掛けると、猫はガシッと脚へしがみついてきた。
まるで行かないで欲しいと縋り付いているようで、捲簾は小さく噴き出す。
「なぁ〜に甘えてんだよ。しがみつかれたら歩けねーだろ?」
捲簾がわざと離させようと脚を振っても、猫は懸命にまとわりついた。
「あーもうっ!しょうがねーな、ほらっ!」
一向に離れようとしない猫に苦笑いして、捲簾は身体を屈めると猫を抱き上げる。
捲簾と視線を合わせた猫は満足そうにニャーと小さく鳴いた。

…猫って気紛れであんま人に寄りつかないと思ったんだけど。

どうやらてんぽうは違うらしい。
それとも漸く拾われた飼い主に見捨てられてはと必死なんだろうか。
「ま、今日やっと拾われたんだもんな」
捲簾は猫を抱えたまま部屋から台車を取り出した。
引っ越しの時に事務所から持ってきてそのままにしていたのが幸いだ。
片手に台車、片手に猫を抱いて捲簾は玄関へ向かう。
「ほい、お前はここまで。大人しく留守番してろよ?すぐに戻るから」
玄関先に猫を下ろして言い聞かせると、まるで返事を返すようにニャーと鳴いた。
捲簾は猫をまじまじと見下ろして、眉間に皺を寄せる。
「悟空の言い分じゃねーけど…マジで俺の言葉分かんのか?」
先程からあまりにもタイミング良く返事をするので、不思議に思っていたのだが。
首を捻りながら捲簾は玄関先でしゃがみ込む。

「…ちゃんと留守番してろよ?」
「にゃっ!」
「…すぐに荷物取ってきて戻るからな?」
「にゃっ!」
「…そしたらお前が住みやすいように部屋も変えてやるから」
「にゃっ!」

話しかけるたびに猫は律儀に返事を返してきた。
ますます捲簾の眉間に皺が寄る。
「…マジで分かってんのか?お前」
「にゃっ!」
これにもきちんと返事を返す。
捲簾は複雑な心境で頭をガシガシと掻いた。
チラッと視線を上げれば、猫はきちんと座ってご機嫌に尻尾を振っている。
コホンと小さく咳払いをすると、捲簾は猫へ身を乗り出した。
今までのは単なる偶然かも知れない、というかそう思いたい。
捲簾は首を傾げて、試しにただ返事をするだけでは答えにならないような質問をすることにする。

「そういや、お前点滴打ったけど…腹減ってねーの?」
「うにゃ?にゃ〜」
猫は首を傾けて捲簾から視線を逸らした。
捲簾の顔が僅かに強張る。
「…トイレは?」
「にゃ?にゃぁ〜」
これまた猫は一旦捲簾を見上げてから、否定するように視線を反らせた。
ますます捲簾の頬が引き攣ってくる。
本当に自分の言ってることを理解しているのか?
「そういやぁ〜俺、確認しねーで名前つけちゃったけど。お前って雄?雌?」
捲簾の質問に猫は大きな目を瞬かせると、小さく首を傾げた。
「にゃっ!にゃ〜ん」

すると。

何故か猫は捲簾の目の前で、自分の股間を覗き込む仕草を見せる。
そこにはこれまた立派なタマと、性器の先っぽが覗いていた。

「…うっそ。マジかよぉっ!?」

これはどう考えても偶然とは考え難い。
明らかに捲簾の言ってることを理解して、返事を返してるとしか思えなかった。
人に飼われている動物なら、付けて貰った自分の名前を理解するぐらいは当たり前だろう。
しかし、この”てんぽう”は。
そういう常識の範疇を思いっきり逸脱していた。
間違いなく、捲簾の言葉を理解している。
「…お前ってばもしかして、天才猫?」
驚愕で目を丸くした捲簾が呆気にとられて呟いた。
それにも。
「にゃっ!」
猫は元気良く返事を返すと、自慢げに胸を張って機嫌良く尻尾を振りまくった。
ここまでされれば疑う余地がない。
「…やっぱお前、天蓬に似てるわ」
捲簾に褒められると調子に乗るところまでソックリだ。
何となく複雑な面持ちで猫の頭を撫でる。
妙に脱力しながら捲簾が立ち上がった。
「…荷物取ってくるから」
部屋を出ようとドアを開けると。
「にゃにゃっ!」
見送っているつもりなのか、猫は元気良く玄関叩きの上で飛び跳ねた。
捲簾はその姿を眺めつつドアを閉める。
「…考えるのはやめよう」
一人言い聞かせるように頷くと、捲簾は台車を押しながらエレベーターへと向かった。






一通り猫仕様に部屋を整えると、漸く一息吐く。
「…こんなモンでいっか?」
「にゃっ!」
確保した猫用食事スペースにエサ入れと水入れを置くと、猫は満足そうに鳴いた。
早速用意して貰った水をペロペロと舐め始める。
捲簾はキッチンへ行くと、今度は自分用にコーヒーを用意した。
豆をセットしてコーヒーメーカーにスイッチを入れる。
「な〜んか慌ただしかったな。今何時だよ?うわっ!もう11時!?」
猫を拾ってからバタバタしていたので、時間の感覚が無かった。
病院に連れて行ったり、猫環境を準備したりで結構な時間が経っている。
「あー…疲れた」
捲簾がドッカリとソファへ腰を落とすと、水を飲み終えた猫が近づいてきた。
ソファの上へジャンプすると、すかさず脚の上へ乗ってくる。
ゴロゴロと甘えるように喉を鳴らして、そのまま丸くなってしまった。
「コラッ!ここで寝るんじゃねーよ。お前の寝床はあっち〜」
捲簾が指差した籐カゴに猫が視線を向ける。
しかし。
「…うにゃ」
プイッと視線を戻すと、またもや寝の体勢に入ろうとした。
「ダメだって言ったろ?俺は一息吐いたら風呂にはいんだよっ!」
「にゃ?にゃぁ〜vvv」
「……………あ?」
何故だか猫は顔を上げ、瞳を輝かせながら尻尾を振りまくる。
「…何で俺が風呂にはいるの喜ぶんだよ」

猫ってこんな不可解な反応するモンなのか?

捲簾が不思議そうにじーっと猫を見下ろすと。
「……にゃぁ」
どういう訳か、猫は捲簾から視線を逸らした。
何となくその仕草はバツが悪そうで。
捲簾は訳が分からず首を捻った。
考えたところで、猫が答えられるはずもないので仕方がない。
猫を抱えて立ち上がると、籐カゴのクッションへそっと下ろした。
「いいか?寝るのはソコ!俺は風呂の準備するから」
「にゃー…」
やけに不満げな鳴き声を出すと、猫は捲簾に背中を向けて丸くなる。
どうやら構って欲しいのに放っておかれて拗ねているらしい。
ますます誰かを思い出して、捲簾は一瞬寂しそうに笑った。
「…そんなとこまで似なくてもいいのに、な」
捲簾は無意識に呟くと、寂寥感を振り切るようにバスルームへ向かう。
その背中を。
消え入りそうな声に気づいた猫が、瞬きもせずにじっと見つめた。






コーヒーを飲んで少し身体を休ませてから、捲簾は風呂へ入った。
髪を洗い終わったところで、外から聞こえる小さな音に気が付く。
「ん?何だ??」
捲簾は濡れた髪を掻き上げてシャワーを止めると、ドアの方を振り返った。
「にゃーっ!にゃーっ!」
バスルームとサニタリーを仕切る扉と壁は全面透明なガラス製だ。
そのガラス戸の向こうで、猫が叫びながら跳び上がってはタックルを繰り返している。
「…何してんだ?」
捲簾が呆然とサニタリーで暴れる猫を眺めていると、ふいに視線が合った。
「にゃっ!」
猫は嬉しそうに一声鳴くと、そのまま扉の前にちょこんと座り直す。
シッポをパタパタと振って、バスルームの捲簾をじっと見つめてきた。
「どうした?寝てろって言ったろ〜?お前はさっき風呂入ったんだから」
捲簾は扉を少し開けて顔だけを出すと、行儀良く座ってる猫に声を掛ける。
「にゃ〜ん」
甘えるような声で捲簾に返事をすると、猫は何をする訳でも無くただじっとしていた。
一体何がしたかったのか?
それとも広いリビングに1匹にされ、寂しくなって追いかけてきたのだろうか?
「ま、いっけど。寝ないんだったらそこで大人しく待ってろよ」
「にゃっ!」
猫は捲簾の言いつけ通り、そのままじっと座っている。
バスルームの扉を閉めても、リビングに戻る様子もない。
捲簾はスポンジを取ると、ソープを泡立て身体を洗い始めた。
丁度壁に向かって洗っていたので、真後ろの扉は見えない。
何となく気になって捲簾が振り返ると。

「うわっ!?」

大人しく座っていたはずの猫は。
ガラス戸に思いっきり近付いて、捲簾の姿を眺めていた。
視線が合うと猫は慌てて視線を逸らし、誤魔化しているつもりなのか知らん顔して前足で顔を洗い出す。
これが猫じゃなかったら、コッソリ覗き見されていた気分だ。
捲簾は挙動不審な猫の行動に、小さく溜息を零す。

「…そんな馬鹿なトコまで天蓬に似てなくてもいいのに。はぁ」

名は体を表すのか、”てんぽう”と名付けられた猫は、捲簾が呆れるようなところまで天蓬に似ていた。



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