あなたへの月



数日後。
捲簾は金蝉に呼び出され、猫を連れて動物病院へやってきた。
本格的な夏の前に、混合ワクチンを打った方がいいらしい。

「何かさ〜あんま調子良さそうじゃないんだよな」
「あ?」
「だからてんぽう。なーんか昼間は怠そうっつーか。寝てることも多いけど、起きててもダラダラしてるし」
そう言われて金蝉は診療台の上の猫へ視線を落とす。

だらりん。

猫は台の上で仰向けになり、身体をだらしなく開いて寝ていた。
しかも熟睡。
病院に来てここまでリラックスしている患畜も初めて見る。
「最近はいつもこんな状態」
捲簾は見慣れているせいか、小さく肩を竦める程度。
ワクチンの用意をしながら、金蝉が呆れた溜息を零した。
「他におかしなとこはねーのか?食欲が無いとか吐いたり」
「あぁ、それは全然。食欲は結構あるんじゃねーかな」
「梅雨だからな。かったりーんだろう」
「おいおい。そんな診察かよ」
面倒臭そうに言う金蝉に、捲簾はさすがに呆然とする。
注射器を診療台に置くと、開きになって寝ている猫の身体をゴロンと俯せにひっくり返した。
「人間だってあんま雨ばっか降りゃ、憂鬱になったり怠く感じたりするだろう。猫だって同じだ。湿気と蒸し暑さであんまり動きたくねーだけだな」
「…そんなもんかねぇ」
捲簾は不審気に金蝉へ視線を向けた。
「別にコイツだけじゃねーよ。うちに来る患畜の大半がそんなもんだ。エアコンで部屋をこまめに除湿してやりゃいいだけだ」
「ふーん。エアコンはタイマーで点けてるけど。じゃぁ帰りに除湿器でも買ってくかなぁ。」
「そうしてやれ。ケロッと直る」
今度は俯せになってだらけている猫の首を金蝉は指で摘み上げると、無造作に注射器を突き刺した。
あっという間に2本注射し終わると、適当に猫の首を揉んでやる。
「まぁ、そんなに杞憂があるなら栄養剤も打つが?」
「うーん…とりあえずそうして。あんま怠そうだと、仕事してても気になるしさ」
「…それにしても。ここまで物怖じしないどころか病院でくつろぐ猫は珍しいな」
「そうなん?」
「あぁ。大抵は怯えて硬直するか、暴れる。暴れられると面倒だ」
栄養剤を注射器に移しながら、金蝉は嫌そうに顔を顰めた。
注射を打たれてもなおも寝転ける猫の身体を眺めて、捲簾が小さく笑いを零す。
「どうせ悟空が押さえてるんだろ?」
「アイツが押さえなきゃ俺が治療できん」
キッパリと言い切る金蝉に、捲簾は目を丸くした。

確かこの病院にはれっきとした看護師が居るはずだが。

現に今も2人の看護師が入院中の患畜の世話をしている。
捲簾がまじまじと金蝉の顔を眺めた。
金蝉は捲簾が何を言いたいのかすぐに分かって、バツ悪そうに視線を逸らす。
「別に看護師がさぼってる訳でも、悟空をコキ使ってる訳でもねー」
「じゃぁ、何で?」
捲簾にしてみれば素朴な疑問。
思い返してみれば捲簾が病院の方へ顔を出すと、ほぼ確実に悟空が診察室にいる。
今は飼い犬のポチとご近所の犬を連れ、日課の散歩に出かけていた。
それと学校に行ってる時以外は、いつも診察室で悟空に会うことが多い。
「どんな患畜でも、アイツには一発で懐くんだよ」
金蝉曰く。
どんなに怯えたり大騒ぎして暴れまくる患畜も、悟空が声を掛けて宥めながら身体を撫でれば、コロッと大人しくなるらしい。
それは飼い主さえも呆気に取られる見事さだと。
「さっすが元野生児小ザルちゃん。この病院も悟空が居れば安泰だな〜」
うんうんと勝手に頷いて捲簾は納得した。
途端に金蝉が眉間に皺を刻んでムッとする。
「うっせー。診察してるのは俺だ」
「…何悟空と張り合ってんだよ」
呆れた口調でぼやくと、金蝉が僅かに頬を染めた。
ツカツカと診療台に近付くと、注射器の入ったトレーをガンッと乱暴に置く。
「うにゃっ!?」
耳元で聞こえた大きな音に、散々寝ていた猫が跳ね上がった。
そのままドベッと診療台へ無様に落ちる。
「ほら〜金蝉。てんぽう驚いてんじゃん。お前も猫だったら着地しろよな、カッコ悪っ!」
プッと捲簾が噴き出すと、猫はキッと金蝉を睨んだ。
「着地失敗したのは金蝉のせいじゃねーだろ?」
「…にゃ」
捲簾に痛い所を突っ込まれ、前足で顔を洗って誤魔化す。
「そのまま大人しく座ってろ」
「にゃ?」
猫が金蝉を見上げると、金蝉は首を掴んで先程と同じ場所に栄養剤を注射した。
何を打たれたのか分からずに首を傾げる猫へ、捲簾が笑いかける。
「お前怠そうだから栄養剤打って貰ったの」
「にゃー」
猫は返事をすると、そのまま丸くなってパタパタと尻尾を振った。
二人の遣り取りを眺めていた金蝉の瞳が困惑で揺れる。
以前は馬鹿らしいと一笑に付したが、こうして見ると本当に会話しているように思えてしまう。
金蝉の視線を感じて、猫が顔を上げた。
しばし無言で見つめ合う。
何だか先に目を逸らすと負けた気になって、金蝉はつい睨んでしまった。
すると。
「うにゃ〜」
突然猫が前足を金蝉の掌にポンと置き、頻りに顔を洗い始めた。
「???」
意味不明な猫の行動に、金蝉はただ戸惑う。
どうやら捲簾は分かってるらしい。
猫の背後から小さな頭をペチッと叩いた。
「お前ね…別に金蝉はお前に惚れやしねーよ。なにカッコつけてんの、バカ」
「うにゃぁ〜vvv」
「いや…別にヤキモチ焼いてんじゃなくて呆れてるだけ」
「にゃっ!」
ふて腐れたように鳴くと、前足で捲簾を猫パンチする。
猫と捲簾の遣り取りを金蝉はぼんやりと眺めた。

何か本当に天蓬とじゃれてるみてぇだな。

心の何処かで痛みを感じながら、金蝉が口元を歪めた。
これじゃ捲簾のことを揶揄できない。
「ん?金蝉どーした?」
「何でもねーよ。注射打ったんだから、今日ぐらい大人しくさせておけ」
「だってさ〜。てんぽう」
「にゃ〜」
捲簾に念を押されて、猫は返事をするように鳴いた。
適当にそこら辺の椅子を持ってきて、捲簾が煙草を取り出す。
面倒臭そうに金蝉が換気扇を回すと、煙草に火を点けた。
「それにしても…悟空は元気だな。ここに来る動物にも好かれて、近所の人とも仲良いんだろ?悟空も病院のために健気に頑張ってんだ〜」
「…悟空は病院を継ぐとは言ってねーぞ」
「そう言うことじゃなくってっ!」
言葉の裏にある意図にまるで気付かない金蝉は、そのまま思いっきりボケた。
眉間を押さえて、捲簾が溜息を吐く。
「ずっと悟空が金蝉と一緒に居るんだから、て事。手放す気はねーんだろ?」
「そんなことは…悟空が決めることだ。俺には関係ねー」
戸惑いながら金蝉が捲簾に反論した。

本人が居ないにも拘わらず、全く素直になれない不器用な金蝉。

捲簾がニッと意地悪い笑みを浮かべた。
「ふーん。そんなこと言っちゃっていいの?そのうちどっかの誰かさんに悟空が喰われちゃったらどーすんだよ?」
「にゃっ!」
猫までその通りだと言わんばかりに鳴き声を上げる。
「どっかの誰かって…まさかお前っ!?」
「おいおい。それこそまさかだろ。何で俺が悟空に手ぇだすんだって」
「だったら!」
「だから、あくまでも仮定の話。ったく…んな取り乱すぐらいなら、さっさと自分のモノにすりゃいーじゃん。欲しいモノを欲しいって言えなきゃ、悟空はお前のモノにはなんねーよ」
「そんなの…アイツはまだ小学生で11才だぞ!?」
「だからさ〜ちっとは冷静になって考えろって。別に抱くだけが気持ちを伝える手段じゃねーの」
な?と捲簾は猫を見つめて同意を求めた。
診療台に肘を付いている捲簾へ猫が近付く。
小さな身体を伸ばすと、捲簾に顔を寄せて唇をペロッと舐めた。
「これも愛情表現の一種」
捲簾が双眸を和らげ、楽しそうに笑う。
一瞬目を見開いた金蝉が、苦々しげに顔を歪めた。
「…悟空はまだ子供だ。そういう気持ちを理解できるはずがねー」
「それはオトナの都合イイ理屈だな。悟空は分かってるぞ?」
「何が分かってるんだ」
「金蝉と自分が幸せになる方法」
「俺と…幸せに?」
意外な言葉に金蝉の瞳が困惑で揺れる。
「前にさ、悟空言ってたぜ?ずっと金蝉と一緒に居るんだって。金蝉が好きだから、一生側にいて離れないってさ」
「悟空が…そんなことを」
「にゃっ!」
猫が小さく鳴いて金蝉の腕に前足をパシッと掛けた。
捲簾もニッと口端を上げる。
「金蝉…顔、真っ赤だぜ?嬉しいんだろ〜」
「うにゃ〜」
「お前ら…うっせーよっ!!」
照れ隠しに大声で喚いた金蝉は、プイッと顔を逸らす。
素直じゃない態度にますます笑いの発作が刺激され、猫と捲簾は大爆笑して金蝉をからかった。






梅雨場の天気のせいか、昼間でも外は薄暗かった。
折角の休日も、雨のせいか何だか気怠い感じだ。
いちいち傘を差して出かけるは面倒なので、病院の帰りに必要な食材や日用品は買い込んで置いた。
病院から戻ってきた捲簾と猫は、午後をのんびりと過ごしリビングで本を読んでいる。
先日捲簾が買い込んできた本だ。
ページを捲っていた捲簾が、目に疲れを覚えて視線を上げる。
目頭を強く押さえると、読んでいたページにしおりを挟んで本を閉じた。
ふと気になって、捲簾は隣にいるはずの猫を見下ろす。
「…おいおい」
捲簾が猫を眺めて苦笑を漏らした。
分厚い本を読んでいた猫は、いつの間にか開いた本に突っ伏して眠っている。
小さな背中が規則正しく上下に動く。
そっと撫でてみても、猫は熟睡しているのか身動ぎもしない。
猫を眺めていた捲簾の表情が僅かに曇った。
「ホント…最近よく寝るよなぁ」
慣れない猫の身体で疲れてるのかも知れない。
それに日頃から本やパソコンを使ってネットを調べるなど、相当負担を掛けているはずだ。
人間だって長時間文字や画面を見ていれば疲れる。
ましてや猫の身体は、そう言う習慣には慣れるように出来てるとは思えない。
それでも。
「てんぽう…悪ぃ」

捲簾は天蓬を止めることが出来なかった。
これは自分のエゴだ。

天蓬は誰よりも捲簾を想ってくれる。
言葉に出さなくても察知して、捲簾の望みを叶えるためには何を犠牲にすることも厭わない。
今の願いは、天蓬が早く自分の身体に戻れること。
自分が戻りたいから必死になっている訳じゃない。
捲簾がそう望んでいるから、天蓬は無理をしてでもあらゆる方法を探していた。
本人は言わないが、相当疲れているはず。
最近しょっちゅう眠気に襲われるのも、きっとそのせいだ。
分かっていても、捲簾は止めようとは思わない。

早く、天蓬に笑って欲しいから。

自嘲して顔を歪めると、捲簾が視線を窓へ向けた。
いつのまにか雨は上がっていたようだ。
薄暗い空に雲の切れ間が見えている。
きっともう少ししたら、月が上がって天上を淡い光で照らすだろう。
「俺も…頑張るからさ」
捲簾はポツリと呟いて、眠っている猫の背中を何度も優しく撫でた。




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