あなたへの月



相変わらず天蓬は猫のままだった。
これといった解決策も見つからず、時間だけが過ぎていく。

「…うにゃ」

猫は捲簾のベッドの上で、意味もなくゴロゴロと転がっていた。

ゴロゴロ〜。

「にゃ」

ゴロゴロゴロ〜。

「うにゃぁ〜」

ベッドの端から端へ転がりながら、調子っ外れな鳴き声を上げている。
そうして暫く転がっていたが、俯せに戻ると全身を伸ばして伸びきった。
「にゃー…」
だらけきった鳴き声を上げて、捲簾の枕へ顔を埋める。
捲簾は仕事へ出かけて、夜まで帰ってこない。
猫は枕へ顔を擦りつけて小さく溜息を零した。

ずっと毎日毎日。
捲簾と一緒に元の身体へ戻れる方法を探している。
さすがに同じ事例が見つかるとは天蓬も思っていない。
それでも自分の状況と酷似したモノがあるはずだと、懸命に探していた。
ありとあらゆる検索をかけて世界中のネットを見て回ったり、捲簾が探してきた書物を調べてみたり。
それでも未だ方法は見つかっていない。

「にゃ…」

捲簾の痛々しい笑顔が猫の脳裏に蘇る。
気遣って普段明るく振る舞ってはいるが、ふとした時に見せる昏い表情に天蓬は愕然とした。
明かりを点けていない部屋の中。
一人ベッドへ腰掛け、天上に浮かぶ月をぼんやり見つめる捲簾。
「…捲簾?」
「ん?どうした、天蓬?」
今にも泣き出しそうな儚い笑顔に、天蓬は心臓が押し潰されそうだった。
自分が捲簾にこんな顔をさせているのか、と。
それ以上捲簾を見ていられなくて、天蓬は床へ視線を落としてしまう。

月明かりに浮かび上がる自分の影。
あるべきじゃない三角の小さな耳に、長い尻尾。

どうすることも出来ない焦燥感で、天蓬は悔しげに唇を噛みしめた。
去ることも捲簾に近付くことも出来ず、その場で立ち尽くしていると、ベッドの軋む音が聞こえてくる。
「何だよ?喉でも渇いたのか?コーヒーでもいれるか」
捲簾の優しい声と共に、天蓬は抱き締められた。
子供をあやすようにポンポンと背中を叩かれ、リビングへ即される。
天蓬をソファへ座らせると、捲簾がキッチンでお湯を沸かす。

「捲簾…」
「ん?何だよ?」
「僕って…病院でどんな容態なんですか?」

一瞬、フィルターに挽いた豆を入れる手が震えた。

「どんなって…ただ眠ってるぞ。それ以外は別に何でもねーし」
「だって、あれだけの事故に遭った訳でしょ?外傷とか…」
「んー、そうなんだけど。鉄骨が落下して骨折した脚はもうくっついてるし。あんな事故だったのに内臓は無事だったから。ホント、ただ意識が戻らなくて眠ってるだけって状態でさ」
捲簾はサーバーへお湯を注ぎながら、苦笑いを浮かべる。
天蓬がじっと捲簾の表情を探るように見つめた。
視線が合うと、ぎこちなく逸らして背中を向ける。
「天蓬はカフェオレの方がいいんだろ?」
マグカップを取り出して、捲簾が努めて明るく問い掛けてきた。

捲簾は、何かを隠している。
僕には言えないことなのか?

「…天蓬?」
「え?あぁ…ミルク少なめでお願いします」
「砂糖も?」
「あ、今日は砂糖いらないです」
「おっけ〜」
捲簾が陽気に返事をし、小さめのミルクパンで牛乳を温める。
ソファへ深く腰掛けると、天蓬は気付かれないように溜息を零した。
問い詰めたところで、捲簾は決して話さないだろう。
仕事のこととか、捲簾自身のことなら別に僕へ隠す必要は無いはず。
実際今までだって何もかも全てではないにしろ、捲簾は天蓬へ愚痴でも相談でも気軽にしていた。
捲簾が何か悩んでいた時に天蓬が声を掛ければ、大抵は事情を話してくれる。
天蓬に関係が無いことでも、捲簾自身話して気が楽になったり気分を切り替えるきっかけになれればいいと思っていた。
捲簾も天蓬へ甘えたり弱音を吐くことは無い。
それでも疲れた時、天蓬が捲簾の安堵できる存在で居たのも確かだ。

でも、今は。

自分は捲簾に依存しなければ生きていけない。
捲簾があんな辛そうに微笑んでいるのに、自分はどうすることもできないなんて。
天蓬は自分の無力さが歯痒くて仕方なかった。
守らなければいけない程、捲簾は弱くはないけれど。
共に並んで立つことさえ、今は出来ない。
こんなちっぽけで庇護されなければ生きていけないような自分だから。
捲簾は何かが辛くても、自分には言えずに一人で耐えている。
天蓬はソファの上で膝を抱え、小さく身体を丸めた。

ぽん。

優しい掌が天蓬の頭を優しく叩く。
「ほら、カフェオレ。なぁ〜にいじけてんだよ?」
捲簾がニヤニヤしながら、天蓬の膨れっ面をムニッと引っ張った。
天蓬はムスッと唇を尖らせ、捲簾の指を払い除ける。
「…別にいじけてなんかいませんよ」
「そ?んじゃその尻尾は何だよ?」
「え?」
捲簾に言われて自分の尻尾を見ると、ふて腐れた心情そのままにソファをペチペチ叩いていた。
どうやら尻尾は誤魔化せないらしい。
バツ悪げに頬を赤らめ、天蓬は頭を掻いた。
「まぁまぁ。カフェオレ飲んで機嫌直せって」
捲簾が笑ってマグカップを差し出すのを、天蓬は素直に受け取る。
暖かいカフェオレを一口啜って、ホッと小さく息を吐いた。
天蓬の隣に腰を下ろして、捲簾が顔を覗き込んでくる。
「んで?何ふて腐れてたんだよ?」
「だって…捲簾が冷たいから」
「は?こぉ〜んなに優しい俺を掴まえて、何言っちゃってんのかね?」
「冷たいです…いえ、僕が勝手に落ち込んでるだけですから気にしないで下さい。お構いなく」
「…お前ねぇ」
天蓬はマグカップを持ったまま、プイッと視線を逸らす。
そんな態度を取られて、気にしないヤツがいるだろうか。
大体気にするな。構うなと言ってるわりに、天蓬の尻尾は捲簾の身体にスリスリと懐いていた。
何をそんなに意固地になっているのか。
天蓬が何かを拗ねているらしいのは、その態度で分かるけど。
捲簾は肩を竦めると、自分に擦り寄る尻尾をギュッと掴んだ。
「んな訳分かんねー拗ね方しねーで、ハッキリ言えっての」
「じゃぁ、捲簾もちゃんと教えて下さい」
「何を?」
振り返った天蓬の瞳が真っ直ぐ捲簾を射抜く。

「僕の容態…本当のところどうなんですか?」
「天蓬…っ」

捲簾の瞳が驚愕で見開かれた。
天蓬が真摯な表情で捲簾の肩を掴む。
「僕には何も隠さないで下さい」
「俺は…別に隠してなんか…っ」
「もう一度聞きます。病院での僕の容態はどうなってるんですか?」
「天蓬…」
捲簾の瞳が哀しみで曇った。
ぎこちなく目を伏せて黙り込む。
逡巡しているその表情は、苦渋に満ちて痛々しい。
それでも現実から目を背けることは出来なかった。
天蓬は俯いている捲簾の肩を引き寄せ、強く抱き締める。
「遅かれ早かれ分かることです。本当のことを教えて下さい」
「でも…」
捲簾の声が僅かに震えた。
きっと本当のことを言えば、捲簾以上に天蓬を傷つけることになるはず。
現実は残酷だった。
しかし。

「捲簾。僕は絶対諦めませんから」
「てん…ぽ…っ?」
「どんなことになっても…例え自分の身体が二度と起き上がれないとしても、僕は貴方と生きることを諦めたりしません。絶対。もう一度。貴方の側に立って…一緒に生きたいと思っていますから」
「…っ…天蓬ぉっ!」

捲簾の手が強く背中にしがみ付く。
その震える力が、今までの慟哭を顕していた。
どれだけ捲簾は一人で現実に耐えていたんだろうか。
声無く泣いている捲簾を、天蓬は何も言わずにただ抱き締める。
「ただ…その時…僕が挫けそうになったら、甘やかさなくてもいいです。支えてくれますか?」
静かに懇願する天蓬の言葉に、捲簾は何度も頷いた。
この先、どんなことになっても。
捲簾は天蓬と一緒にいたいと、生きていきたいと思っていた。
天蓬もそう願ってくれるのが嬉しくて。
上手く言葉にならない変わりに、捲簾は強く天蓬の身体を抱き締め返す。
「教えて、貰えますか?」
「ん…」
漸く捲簾が顔を上げ、今度は誤魔化すことなく天蓬を真っ直ぐに見つめ返した。






「うにゃー」

何となく捲簾の態度で予感はしていたが。
半身麻痺…ですか。
ゴロンと転がると、猫は天井を見上げた。
きっと捲簾は医師から告知され、今まで自分を責め続けていたのだろう。
あの時。
事故のあったあの日、捲簾が自分を部屋へ呼ばなければこんなことにはならなかった、と。
「にゃぁ〜」

本当に…捲簾は優しすぎてお馬鹿さんですねぇ。

あの事故は捲簾のせいじゃないのに。
仮にあの日捲簾に誘われていなかったとしても、自分は逢いに行っていただろう。
どのみち自分がこうなることに変わりはなかったはず。
それに。
天蓬は猫になってしまったと分かった時点で、既に自分の身体のことは諦めていた。
もう身体は埋葬されて、この世には無いだろうと。
その事から考えれば、身体が不自由だろうと捲簾の側に居られると分かっただけで充分だ。
ただ、杞憂があるとすれば。
自分ではなく、捲簾に負担を掛けることになるかもしれないこと。
障害者となる自分の世話を捲簾に押し付けるということ。
そう考えると、天蓬は自分が不甲斐なくて溜息を零してしまう。
捲簾に申し訳ないと言えば、絶対殴られそうだけど。

「うにゃっ!」

でも悩んでいたって仕方ない。
まずは、自分の身体に戻ることが先決だ。
戻ってから、後のことは考えればいい。
捲簾と居られるのなら、どんなことだって苦にはならない。
乗り越えて見せる。

とは、言うものの。

その方法がさっぱり見つからないのが現実だ。
「うにゃああぁぁっっ!!」
猫は癇癪を起こして、ベッドの上をジタバタ暴れながら転がった。

ぼて。

「にゃっ!?」
勢い余って思いっきり床に落っこちてしまい、猫が情けない声を上げる。
しかし。
「…にゃ?」
落ちた衝撃で、猫は何かを思いついた。
床へ落ちたまま暫し考え込む。

そう言えば、僕はまだ自分の身体を見ていないんですねぇ。
もしかしたら、自分の身体に会えば何か分かるかも知れない。

「うにゃっ!」
猫は勢いよく身体を捻って立ち上がると、自分に対峙する決心をして強く頷いた。




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