あなたへの月



仕事のスケジュールを調整し、猫を病院で眠っている身体に対面させる予定をどうにかつけて。

「天蓬…明日1日デートしよっか」
「えっ?」

夕食の後。
キッチンで洗い物をしていた捲簾が、リビングにいる天蓬へ声を掛けた。
新聞を読んでいた天蓬はきょとんと目を丸くする。
水を止めて食器を拭きながら、捲簾は振り返りもせずに話を続けた。
「いや…お前がその姿になってから、出かけたのって金蝉の病院に行くぐらいだろ?たまにはいーかなーって」
「それはそうですけど…でも…僕のこの姿じゃ無理でしょう?」
天蓬は尻尾をパタパタ振って苦笑いする。
確かに服装で耳と尻尾を隠そうと思えばどうにかなるかも知れないが、それにはある程度重ね着しないと誤魔化せない。
最近は夏も近づき、夜でもかなり暖かくなっていた。
不自然な厚着は返って不要に人の目を引いてしまうだろう。
天蓬は捲簾に不快な思いはさせたくなかった。
「ん。だからさ…昼間、お前が猫の時に車で郊外に出て、のんびり過ごそうかなって思ったんだけど。2時間ぐらい走れば、川もあって釣りも出来るし。イヤか?」
捲簾が振り返って床に座り込んでいる天蓬を伺った。
「捲簾とデート出来るのにイヤな訳ないでしょう?でも仕事は大丈夫ですか?」
明日は平日で、捲簾は仕事のはず。
天蓬の我が侭で自分の身体に会いたいと強請り、既に忙しいスケジュールを無理矢理調整して貰っている。
これ以上捲簾に気を遣わせたくはなかった。
天蓬の言いたいことが分かったのか、捲簾が小さく頬笑む。
「大丈夫だって。今週入ってたアポは何処も前からつき合いのあるところだったから、頼み込んで翌週に予定をずらせたし。実際施工に取りかかってるところは、うちの精鋭部隊で充分やりくりできるから」
食器を片付け終わった捲簾が、天蓬の目の前にしゃがみ込んだ。
煙草を銜えて火を点けると、小さく首を傾げる。
「ホントは今のお前を連れてってやりたいんだけど。それだとどうしたって夜に出かけることになっちまうし。そしたら行ける場所なんか限定されるだろ?」
「…夜のデートなんてショットバーぐらいですよねぇ」
「あんま派手に動けないし。第一今の状態で酒なんか飲んで、どんな影響が出るか検討付かねーよ」
「うーん。翌日二日酔いで病院に出かけるのはちょっと…ねぇ?」
「俺は二日酔いの猫なんか介抱したくねーぞ」
捲簾は噴き出すのを堪えながら、わざと渋面を作った。
さすがに、猫がバケツに顔を突っ込んで吐いてる姿はイヤ過ぎる。
「そんで。まぁ〜景気づけにパーッと遊びにでも行こうかなーって。たまには健康的なのもイイだろ?お前だって部屋の中だけ動き回ってるのじゃ飽きてるだろうし」
「たまにはそういうのもいいですね」
捲簾の言う通り、広々と開放的な自然の中でのんびり過ごすのもいいかもしれない。
その方が気分的にスッキリして、何か言い考えも浮かぶだろう。
最近天蓬は自分の身体に戻れる方法がなかなか見つからずに、結構焦っていた。
捲簾へ言ってはいないが、それなりにストレスも溜まっている。
時折見せる捲簾の焦燥した表情に、天蓬は自分で自分を追い込んでいた。
そんな鬱屈した状態では、良い考えだって浮かんでこない。
天蓬は顔を上げると、捲簾へ微笑みかけた。
「どうせ釣りをするなら、僕その場でお魚食べたいです」
「そうだなぁ〜じゃぁ、調理器具も一緒に持って行くか!」
「別に簡単に塩焼きでもいいですけど?」
「それだけ食うんじゃ飽きるだろ?」
「…捲簾、そんなに釣れるって思ってるんですか?1匹も釣れなかったらどうするんですか?」
天蓬が意地悪くニヤニヤ笑うと、捲簾の頬がカッと朱に染まる。
「テメッ!この俺サマがボウズになる訳ねーだろっ!俺の華麗且つ芸術的な竿捌き見せてやるっ!!」
「へぇ〜僕もベッドでの『竿捌き』は得意ですけどね〜」

ガコッ!!!

「いいぃぃっ…たいっ!?」
「…そういう下品なオッサンギャグを言ってんじゃねー」
捲簾渾身の鉄拳が天蓬の頭にめり込んだ。
殴られた頭を抑えて、天蓬が恨めしそうに唸る。
相当痛かったらしく、頭上の猫耳はペタリと寝ながら震えていた。
「場を和ませようと言っただけなのにぃ〜」
「和むかボケッ!」
涙目でふて腐れる天蓬を捲簾が睨み付ける。
クリクリと尻尾の先を弄って拗ねている天蓬を放置して、捲簾はあれこれ思案し始めた。
「何釣れっかなぁ〜。あの辺りだとヤマメとイワナ辺りか?」
「やっぱり塩焼きですねvvv」
捲簾が視線をやると、天蓬が瞳を輝かせて尻尾を振っていた。
魚の塩焼きは猫じゃなくても天蓬の好物だ。
しかも釣りたて新鮮な魚を食べられるとあって、期待でウキウキ浮かれている。
捲簾は溜息混じりに笑うと、天蓬の頭をガシガシ撫でた。
「旨い魚食いたかったら、お前も追い込むの手伝えよ〜」
「何言ってるんですか。今の僕なら素手でパーンッ!て捕れますよ」
「…熊かよ」
得意げに腕を振り回す天蓬を呆れて眺め、捲簾が立ち上がる。
「さてと。自然回帰デートに出かけるんだから準備しねーと。水と必要な食材は行きがけに買えばいいな。持ってくのはグリルと鍋と…炭も確か余ってたよな?」
捲簾は物置になってるウォーキンクローゼットを開けると、キョロキョロ見回した。
大物は嵩張るから今のうちに車へ持って行こうかと考える。
しまいこんでいたアウトドアグッズを床へ下ろして、次々箱の中身を確認していった。
「捲簾、捲簾。僕も何か手伝いましょうか?」
後からシャツを引っ張られ、捲簾が背後の天蓬を振り向く。
「デカイのは先に車積んでおこうかと思って。運ぶの手伝えよ〜」
「はいっ!でも、結構いっぱいあるんですねぇ」
天蓬は床へ下ろされたグッズを物珍しそうに眺めた。
箱や袋から出された鍋やフライパン、木のチップに炭までゾロゾロ出てくる。
「ちょっと出すからどいてろ」
捲簾がクロゼットからリビングへ荷物を出しては移動した。
「…何か本格的ですねぇ」
「いつもこんなだったろーが。お前は出かけても木陰でぼーっと本読んでるだけで用意なんか手伝ったことないじゃん」
「…そうでした」
何となくバツ悪げに天蓬が視線を泳がせる。
天蓬の物臭は今に始まったコトじゃない。
事故に遭う前も、たまに天蓬や会社の社員達を引き連れて釣りに出かけていた。
その時は天蓬は本を読んでるか、ぼーっと食事の準備しているのを眺めているだけで。
返って天蓬が手を出すと余計に手間が掛かるので、竈に使う石や木を集めるような簡単なことにしか使えなかった。
捲簾もそんな天蓬に慣れているので別段気を悪くした訳でもなく、モクモクと荷物を準備する。
手際よく台車に荷物を積むと、残りの荷物を指差した。
「天蓬はそっちの袋持ってきて」
「分かりました…あっ!チョット待って下さいね」
天蓬が慌てて立ち上がりゴソゴソ服を弄り出す。
外に出していた尻尾を服の中に押し込んで、外から見えないように上手く隠した。
「捲簾、帽子かバンダナでもあります?万が一誰かと会ったりしたら、この頭マズイでしょ?」
「ん?アッチのローボードにバンダナ重ねて積んであるけど」
捲簾がベッドルームに視線をやると、天蓬が走っていく。
あった!と声が聞こえると、今度は何やら唸り声が聞こえてきた。
「…何やってんだ?」
戻ってこない天蓬に捲簾が首を捻る。
「お待たせしました〜!バンダナなんか付けたこと無いから、ちょこっと手間取っちゃいました」
戻ってきた天蓬の姿に、捲簾は思いっきり脱力した。
天蓬の場合、笑いを取ろうとか受けを狙おうとかではなく、本気でやってるから頭痛がしてくる。

「何でそんな泥棒巻してんだよっ!!」
「えっ??」

天蓬は泥棒コントのような『ほっかむり』をしたまま、ちょこんと首を傾げた。
何も基本を守って鼻の下で結ばなくてもいいだろうに。
「だって、正体がバレないようにするには、こうやって結ぶんじゃないんですか?」
「バレなくっても明らかに不審者だ、バカ」
天蓬からバンダナを外すと、捲簾は頭だけ隠れるように結び直した。
姿見で自分の姿を確認し、天蓬がやたらと感心する。
「へぇ〜こんな風に被るモンなんですか?」
「別に耳が見えなけりゃ顔隠す必要ねーだろ」
「言われてみればそうですね〜あははは」
暢気に笑う天蓬に呆れた視線を向けると、捲簾は台車に手を掛けた。
「おらっ!駐車場行くからな。ちゃんとソッチの袋持って来いよ」
「はぁ〜い」
カップや皿などの小物が入った袋を抱えて、天蓬は捲簾の後を追いかける。
玄関で靴を履いていると、天蓬が小さく声を上げた。
「捲簾、どうせなら川遊び用の浮き輪が欲しいですっ!」
「…生憎と猫用の浮き輪なんか持ってねーよ」
「あ、そうか。僕明日は猫なんですよね」
「第一近くでバシャバシャ騒がれたら魚が逃げるだろーが」
「そうなんですか?」
「魚はお前と違って繊細なの〜」
「ヒドイですっ!僕だっていくらなんでも魚よりは繊細ですよ!!」
「…どうせなら人間と張り合えよ」
ガラガラ台車を押しながら、捲簾がツッコミを入れる。
「明日…お天気晴れだといいですねぇ」
「予報は晴れだってさ」
「楽しみですねぇ〜。捲簾と久しぶりのデートですしvvv」
「…そうだな」
上機嫌で先にエレベーターを下りる天蓬の背中見つめて、捲簾は寂しそうに頬笑んだ。






翌日。
住んでいるマンションから車で2時間余り掛かって、捲簾と猫は山間の渓流に捲簾へやってきた。
小石が散らばる河川敷に荷物を下ろすと、捲簾は周囲を見渡す。
本格的に釣りを楽しむ人は更に奥へ入った岩場に居るだろう。
捲簾も一人なら奥まで入るが、猫連れでは危険が伴う。
万が一川に落ちれば、猫は上流の速い流れにあっという間に飲み込まれて助けることは難しい。
この辺りは川の流れを複雑に変える岩も少なく、比較的浅瀬になっていた。
キャンプを張ることも考えれば充分だろう。
此処より更に下流に行くと、キャンプ場があって家族連れで遊びに来ている人達で賑やかだった。
さすがに子供が多く騒がしい場所で釣りを楽しむのは無理がある。
捲簾はキャンプ場に併設されている駐車場へ車を止めて、荷物を運びながら釣り場を選定した。
荷解きをしていると、猫が恐る恐る川へと近づいていく。
「てんぽ〜。川に落っこちねぇよう気を付けろよ?」
「にゃ〜」
猫はそっと水の中に前足を入れて、水の温度を確かめた。
「うにゃっ!」
結構冷たかったらしく、猫は慌てて水から前足を上げると、ペロペロ肉球を舐める。
尻尾の毛を逆立てて驚いている猫を眺めて、捲簾は小さく噴き出した。
「何だよ?そんなに水冷てぇの?」
「にゃぁ〜っ!」
笑っている捲簾の元へ、猫が猛ダッシュで戻ってくる。

ペタッ。

「…何俺の手で肉球暖めてんだよ」
「にゃー…」
しゃがんで荷解きしていた捲簾の手に猫は前足を乗せ、水で奪われた体温を取り戻した。
前足を下ろすと、捲簾を見上げて尻尾をパタパタ振る。
「ホラ、準備すんだからチョットどいてろ〜」
「うにゃ?」
「お前は手伝えねーだろ?どうせ水で遊ぶんだから、今のうちに慣れとけば?」
捲簾が川を指差すと、猫が顔を向ける。
じっと川の緩やかな流れを見てるかと思えば。
「…にゃ」
厭そうに鳴いて川から視線を逸らせた。
相当水の冷たさに懲りたらしい。
足許に転がっている小石をチョイチョイ前足で転がしてふて腐れる猫に、捲簾は苦笑して肩を竦めた。
「冷たいのは最初だけだって。もう大分陽も昇ったから、水温も上がってくるし。それに石は結構熱保ってるだろ?冷たかったら石に手ぇ付けばいーじゃん」
「にゃ?」
「お前騙してどーすんだよ…折角来たんだからてんぽうだって遊びてぇだろ?」
「うにゃ」
捲簾に即され、猫は渋々川に近付いた。
川の水は澄んで綺麗だが、やっぱり冷たそうだ。
どうしようかと思案していると、眺めていた水の中で何かが動く。
「…にゃぁ?」
浅い川底でゆっくりとした動作で何かが歩いていた。
猫の身体が前屈みになって狙いを定める。
「うにゃーっ!」

パシッ、と。
水飛沫を上げて生き物が跳ね上げられた。

「おー?てんぽうスゲェ〜!サンショウウオじゃん」
宙を舞う生き物を、捲簾が感心して見上げる。
猫がパンチしたのは、サンショウウオだった。
石の上に落ちたサンショウウオは素早い動きで川へと逃げて行く。
「にゃっ!うにゃーっっ!!」
逃がすものかと猫は川へ入り、水面を掬い上げてサンショウウオを追いかけた。
バシャバシャと派手に水飛沫を上げ、猫が浅瀬で跳ね回っている。
調理器具のセッティングも終えて釣り竿を出していた捲簾が、ムキになって追い回す猫を感慨深く眺めた。
「アレでも天蓬なんだよなー。何か子供っつーかバカっつーか…猫だからいーけど」
無邪気に川で遊ぶ『天蓬』を眺めて、捲簾は髪を掻き上げながら複雑な笑みを浮かべた。



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