あなたへの月



久しぶりに慌ただしかったせいか、身体が妙に疲れていた。
体力的に。というよりは、気疲れだろうが。
捲簾は風呂上がりに缶ビールを1本空けると、早々に寝ることにした。
寝室へ入る捲簾の後を猫が付いてくる。
「あーっ!疲れたぁ」
捲簾がベッドに身体を倒すと、猫もジャンプしてベッドに乗った。
「ん?お前の寝床はアッチだろ?」
「にゃー…」
猫は捲簾の言葉を無視して、傍らで腰を落として毛繕いし始める。
今日の寝床はここに決めてしまったらしい。
それならそれで別に捲簾も気にしないようで、頭を枕に深く沈めた。
「あー、そうだ。明日どーすっか」
「にゃ?」
腹の毛を懸命に舐めていた猫が、きょとんと顔を上げる。
「金蝉に言われてただろ?明日もお前点滴打つってさ。仕事終わってから戻って連れてくと、タイムロスなんだよな〜」
捲簾は無意識に猫相手に独り言ちた。
金蝉の動物病院は、捲簾の仕事場の近所だ。
マンションに戻ってまた出かけるのも面倒な気がする。
それに今のところ少しは元気になったみたいだが、猫の体調が良くないことに変わりはない。
もし自分が仕事をしている時に何かがあっては。
そう思うと気になって、仕事どころじゃないかも知れない。
捲簾はぼんやりと天井を眺めながら思案した。
「えーっと…明日はアポも入ってねーし、問題ないかなぁ」
「にゃ?」
猫は枕元まで移動してくると、捲簾の顔を覗き込んだ。
捲簾が小さく口元に笑みを浮かべて、小さな猫の頭を指先で擽る。
「ん?明日はお前も病院だし、それなら一緒に仕事場連れてった方がいいかって」
「にゃっ!」
捲簾の言葉に猫は元気良く返事を返した。
尻尾も喜びでパタパタと振られている。
猫の調子が良い様子に、捲簾はプッと噴き出して身体を起こした。
その上に猫が上機嫌でよじ登ってくる。
「そうだよな〜俺が居ない間にもしお前の体調が悪くなったりしたら…っ」

言葉が途中で途切れた。

「…にゃ?」
猫が心配そうに捲簾の顔を見上げてくる。
捲簾の大きな掌が、猫の背中をあやすように何度も撫でていく。
「俺が知らない間に…お前がここで冷たくなってたりしたらって。もう…誰かを失うのは…沢山だ…っ」
悲痛な呟きが捲簾の口から吐き出された。

自分が残業で仕事をしている時に天蓬は事故に遭って。
瀕死の状態で病院に搬送されてる時、自分は事務所で笑いながら従業員と話してた。
自分の知らない間に、天蓬は。
人形のように動くこともなくベッドに横たわり、沢山のチューブで器械に繋がれ。
もう、二度と。
捲簾の好きなあの綺麗な瞳を見せることはなかった。
笑い返すことも、抱き締め返すことも。

短いけど一生で一番幸せだった時間は、永遠に戻ってこない。

「にゃにゃっ!」
気が付くと猫が捲簾へ向かって必死に鳴き声を上げていた。
細く小さな前足を捲簾に向かって懸命に伸ばしている。
「ん?てんぽう、どした?」
視線を落とすと、猫が身体を伸び上がらせて捲簾の頬に前足を当てた。
少し冷たい肉球でポンポン叩く。
「何だよ〜」
捲簾が笑いながら、小さな猫の手を外そうと自分の頬へ指を伸ばすと。

「あ…れ…?」

自分の頬が濡れていた。
気が付くと後から後から涙が溢れてくる。
「な…んだぁ?何泣いて…っ」
捲簾は声を詰まらせた。
病院で横たわる天蓬を見た時だって泣かなかったのに。
堰を切ったように後から後から涙が頬を伝い落ちる。
「にゃぁー…」
猫は捲簾の肩に前足を乗せて伸び上がり、ペロペロと涙を舐めた。
捲簾が無言で猫を抱き締める。
「…天蓬ぉ」
誰にも言えない哀しみが吐露した呟きを、猫は捲簾の腕の中で聞いた。






気が付くと朝になっていた。
泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。
昨夜カーテンを閉め忘れていた窓から、眩しい朝日が差し込んでいる。
捲簾はぼんやり瞼を開けたまま暫く呆けた。
「今何時だぁ?」
腕を伸ばしてサイドテーブルに置いてある時計を掴む。
「ん…まだ6時か。なーんか目が腫れてるな、こりゃ」
出かけるまで瞼を冷やした方がいいかもしれない。
こんな顔で出勤しては、スタッフに心配かけるだけだ。
「あ…れ?てんぽうは??」
ベッド周りに猫の姿はない。
てっきり昨夜はそのまま一緒に寝るモンだと思っていたのに。
捲簾が寝てしまった後、自分の寝床に戻ったのかも知れない。
「ふぁっ…とりあえずお湯沸かすか」
寝た体勢で大きく伸びをしたところで、ふいに気づいた。

何だか腹の辺りが妙に暖かくて重い。

捲簾は眉を顰めると、掛けていた布団をそっと捲り上げた。
「…おーい。何処で寝てるんだよっ!」
何故か着ているパジャマの腹辺りがこんもりと盛り上がり、裾からはダラリと落ちた尻尾が覗いている。
捲簾が苦笑いして腹の膨らみを軽く叩いた。
「…にゃっ!?」
驚いたらしい猫がパジャマの中で声を上げる。
ゴソゴソと動くと、尻の方から這い出してきた。
「にゃっ!」
猫は漸く顔を出し、捲簾に向かって元気良く鳴いた。
おはようとでも挨拶してるのだろうか。
捲簾は腹に座っている猫を引き寄せ、顔を寄せた。
「お前ねー…あんなトコで寝てて息苦しくねーのかよ」
「にゃぁ〜」
否定するように鳴くと、猫が捲簾の鼻先をペロッと舐める。
「それとも寒かったか?お前痩せてるしなぁ」
捲簾の問い掛けに、猫はきょとんと瞬きした。
その後何故か考え込むように顔を伏せ。
「にゃっ!」
短く鳴くとパタパタと尻尾を振った。
猫の様子に捲簾は眉間に皺を寄せる。
「…やっぱ寒かったのか?」
「にゃっ!」
「だから俺の腹ん中に入ってきたと?」
「にゃっ!」

何だか都合良すぎるような気がする。
しかし。

「いくら何でも…猫がそこまで計算高い訳ねーか」
捲簾は頭に浮かんだ疑問を否定した。
寒かったと答えれば、捲簾は自分と一緒に寝てくれるんじゃないか、と。
まさか猫がそこまで考えて返事をするとは思えない。
あり得ない考えを打ち払って、捲簾は抱いていた猫を床へ下ろした。
「にゃ?」
捲簾もベッドから出ると、リビングへ向かう。
その後を猫がしっかり付いてきた。
水を入れたやかんに火をかけると、捲簾は昨日買っておいた袋をガサガサと漁る。
「どうだ?エサ食えそうか?」
猫を見下ろしながら、買ってきたエサの袋を見せてやった。
「…にゃ」
あまり食欲は無いらしい。
まだ胃の調子が回復してないのだろう。
身体の細さから言って、きっと昨日自分に拾われるまでろくに食べてなかったはず。
「でも全然食わねーと直らないから、少しだけ食ってみろ?な?」
捲簾は袋を開封して、昨日用意したエサ入れに少しだけドライフードを入れた。
猫はエサに顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「どうだ?食えそうか?」
「にゃー」
小さく鳴いて返事をすると、カリッとエサを食べ始める。
少しずつだが猫が食べているのを見て安堵した。
ソファで目覚めの一服をしながら、捲簾は猫がエサを食べるのを嬉しそうに眺める。
「今日はこれからお前も一緒に出かけるからな」
「にゃ?」
猫が顔を上げて捲簾を見上げた。
「お前も一緒にお仕事行くの〜。でもちゃんと大人しくしてろよ?そんで帰りに金蝉トコで点滴だからな」
「にゃっ!」
猫は元気良く鳴いて、再びエサを食べ始める。
捲簾は煙草を銜えながら腕を組んだ。
「そっか…連れてってもケースに入れっぱなしって訳にはいかねーよな?」
「にゃぁ〜」
何だか嫌そうな低い声で猫が唸る。
狭いケースの中にずっと入れられては、猫にだってストレスだろう。
猫は本来気ままな気質。
狭いところに押し込められては体調が悪化する可能性もあった。
「しょーがねーな。お前の寝床も一緒に持ってくか。でもっ!事務所を走り回ったり悪戯したりしたらダメだぞっ!」
「にゃっ!」
やけに調子よく返事を返すが大丈夫だろうか?
一抹の不安が過ぎるが、この際仕様がない。
捲簾は肩を竦めると、猫の後を横切ってやかんの火を止めにキッチンへ向かった。






捲簾の予想に反して、猫は1日大人しかった。
朝も籐カゴを運んで駐車場に向かったが、捲簾の腕からストンと降りると自分から開けた助手席に跳び乗る。
猫と一緒に事務所へ出社すると、スタッフ一同が黄色い悲鳴を上げた。
どうやらスタッフ達は皆猫好きらしい。
自宅で飼っている者も居た。
猫はあっちこっちで撫でられたり抱かれたりですっかり人気者。
触られても嫌がる素振りも見せず、愛想良く鳴いていた。
事情を話せば猫の境遇に同情して、昼休みに事務所近くのペットショップで猫じゃらしや猫用おやつまで買ってくる。
猫も最初は事務所内をぐるぐる確認するように徘徊していたが、それが済むと捲簾が用意した寝床のカゴに収まって、大人しく丸くなって眠っていた。

「…じゃぁ少しはエサを食ったんだな?」
「あぁ。でも食うって程の量じゃ無かったけどな」

仕事帰りの動物病院。
猫は昨日と同じように診療台で点滴を打たれていた。
悟空が尻尾にじゃれるのをパタパタ振って軽くあしらったりしている。
「なぁ、ケン兄ちゃん!コイツって大人しいよね〜。病院に来る猫ってすっげー注射の時暴れるヤツが多いんだけど。な?金蝉っ!」
悟空に話を振られて、金蝉は思わず言葉に詰まった。
言われてみれば、此処まで素直で大人しい猫は珍しい方かもしれない。
大抵は飼い主に押さえ付けて宥めて貰うか、ネットやケージに入れた状態で注射を打つことが多かった。
「んー?てんぽう利口だし〜。点滴打てば自分の身体が良くなるって分かってるんだろ」
「うそっ!マジで!?」
悟空は猫に顔を近づけると、興味津々に瞳を輝かせる。
「んな訳あるか、バカッ!お前も本気にしてんじゃねーよ、サルッ!」
「もぉっ!またサルってゆーっ!!」
悟空が抗議して金蝉へ突進していくと、捲簾は面白そうに笑った。
腕を振り回して殴りかかる悟空の頭を押さえ付け、金蝉が仏頂面で捲簾を睨み付ける。
「テメェも変なことコイツに教えんじゃねー。バカがますますバカになる」
「何だとぉっ!!」
猛然と突っ込んでいこうとする小さな身体を、捲簾は横から掬い上げた。
「悟空はバカじゃなーよなぁ?ちゃ〜んとポチの世話だって出来るし」
「そうだよっ!金蝉なんかポチの散歩行くと、いっつもバテバテで帰ってくるんだよっ!」
「余計なこと言うなっ!!」
カッと頬を赤らめて、金蝉が悟空の頭を拳でグリグリ抉る。
当分続きそうな親子ゲンカに捲簾は溜息吐いた。
ふと視線を猫に向ければ、騒がしい様子を楽しそうに眺めている。
「なぁ、てんぽう。コイツらって仲良しさんだよな〜?」
「にゃっ!」
話しかけると、相槌打つように返事をした。
悟空の動きがピタッと止まる。
「なぁ、ケン兄ちゃん?ソイツ…今ケン兄ちゃんに話しかけられて返事した?」
「おうっ!てんぽう人間が何話してるか分かるみてぇよ?」
「すっげーっ!じゃぁじゃぁ、俺が言ってることも分かるかな?」
「分かるんじゃね?何か話してみろよ」
「…バカくせぇ」
金蝉が小さくぼやくと、捲簾がまぁまぁと肩に腕を掛けて宥めた。
ムッとしてその手を振り払うと、捲簾も別段気にせず首を竦める。
「いいから、見てろって」
悟空は診療台に近付いて、猫の頭をそっと撫でた。
「…なぁ、お前ケン兄ちゃんのこと好き?」
「にゃっ!」
すかさず猫が元気に答えると、悟空は捲簾を振り返る。
ニッと口端を上げて、悟空に先を即した。
「じゃぁじゃぁ、俺のこと好き?」
「にゃっ!」
「ケン兄ちゃんっ!てんぽう俺のこと好きだって〜♪」
「そっか、よかったな。今度元気になったら遊んでやってくれよ」
「うんっ!」
悟空が嬉しそうに猫を撫でるのを見て、捲簾にも自然と笑みが浮かぶ。
唯一人、金蝉だけが顔を顰めたまま。
「…ただ鳴いただけじゃねーか」
金蝉がボソッと悪態吐くと、捲簾がにんまりと人の悪そうな笑顔で口元を弛ませた。
「てーんぽ!金蝉は?コイツのことは好きかぁ〜?」
「…………………………にゃ」
「ーーーーーっっ!?」
猫はクルッと顔を背けると、金蝉と視線を合わせずに短く鳴いた。
金蝉は絶句し、悟空は驚いて目を丸くする。
捲簾は。
「ぶっ!あっはっはっはっ!金蝉、てんぽうに嫌われてやんの〜っ!コイツのことバカ扱いすっからっ!!」
「別にっ!バカになんかしてねーっ!!」
捲簾が腹を抱えて大爆笑するのを、金蝉が憮然とした表情で言い訳した。
確かに。
猫の態度は明らかに他の二人と違って、金蝉を差別している。
これはもう間違いなく、この猫は人間の会話を理解していると思わざるを得ない。
今更疑いようも無かった。
「なぁ…あんま金蝉のこと嫌いになんないでくれよ。俺、金蝉のこと大好きだから」
しゅんと項垂れて悟空が話しかけると、猫はじっと金蝉を見上げる。
顔を強張らせて黙っていると、すぐに視線を悟空へと戻した。
そして。
「………うにゃ」
何だか等閑な声で鳴くと、悟空の頬をペロッと舐めた。
擽ったそうに首を竦めると、悟空はニッコリ笑って猫の頭を抱き締める。
「…すっげぇムカツク」
「まぁまぁ、押さえてよ?獣医さ〜ん。相手はちっちゃな動物よ?ヤキモチ焼いたらダメでしょー?」
「チッ…うっせーよ!ったく…いちいち感に障る態度まで天蓬に…あ…っ」
「天蓬に…似てるだろ?アイツ」
言葉を詰まらせる金蝉に、捲簾は微笑んだ。

その瞳は静謐で、哀切に満ちて。

金蝉は自分の短慮さに吐き気がした。
捲簾に掛ける言葉も見つからず。
ただ押し黙るしか無かった。



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