あなたへの月 |
空は雲一つ無い快晴だ。 捲簾は賑やかな病院の待合室を通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。 目的の階のボタンを押すと、奥まで下がって壁に凭れる。 脳外科の入院病棟は7階だ。 変化するフロアの数字を見上げながら、捲簾が肩から提げていたスポーツバッグをポンッと叩いた。 「…いーか?俺がバッグ開けるまで動くんじゃねーぞ?」 「…にゃっ!」 捲簾が改めて言いつけると、バッグの中から元気な返事が聞こえてくる。 遠慮がちにモゾモゾ動いたかと思えば、すぐに静かになった。 楽な姿勢を取り直した猫は、じっとバッグの中に身を潜める。 「あ…一旦止まるぞ」 「にゃー」 軽く揺れた振動と共にエレベーターが停止した。 途中の階で入院患者の見舞いらしき家族や看護師達が乗り込んでくる。 「………。」 「………。」 些か緊張した面持ちで、捲簾が上がっていく数字を睨み付けた。 猫も言われたとおり大人しく身動ぎしない。 何だか居心地が悪くて、早く着いて欲しかった。 窮屈な思いをさせてる猫を外に出して楽させてもやりたい。 はーやーく着けっ! 時間的には大したことが無くても、箱の中の圧迫感もあり妙に長く感じた。 漸く目的の階に辿り着くと、声を掛けて通して貰い、エレベーターから下りる。 緊張はまだ続いた。 捲簾がさり気なく周囲に視線を巡らせる。 どうやら回診の時間は終わっていたようだ。 病棟の雰囲気も静かで穏やかだった。 小さく安堵の溜息を吐いて、捲簾は極力普段と変わらない体裁を繕う。 天蓬の居る病室はこの病棟の一番奥。 猫の入っているバッグを揺らさないように、静かに歩き出した。 出来るなら誰にも会わずにそのまま病室へ駆け込みたかったが、病棟の中央にナースステーションがあるので黙って通り過ぎる訳にも行かない。 捲簾はいつも病院へ来る時に、必ずナースステーションか廊下ですれ違う看護師へ声を掛けていた。 勿論逆も然り。 正面から歩いてきた看護師が、捲簾に気づいて笑顔を向けた。 足早に近づくと捲簾も軽く頭を下げて会釈する。 「おはようございます。今日はお早いんですね」 「ちょうど仕事が空いて休みが取れたから、早めに来たんだけど。もう回診は終わった?」 「ええ、先程。今日はお休みなんですか。お忙しいのに毎日いらっしゃって…きっと天蓬さんも喜んでますね」 「そうだといいんだけど。あ、アイツ…今日の様子はどうですか?」 捲簾が容態を尋ねると、病棟の看護師長でもある女性がニッコリ頬笑んだ。 「今日は朝から顔色もいいですよ。きっと捲簾さんが来るの分かってたんでしょうね」 「や…それはどうかなぁ?」 「分かるんですよ?そういうことって。ここに入院してる患者さんって病でも怪我でもどこかしら身体に不自由を感じているでしょ?そう言う人って、それを補おうと感覚が鋭くなったり、今までになかった才能が開花したりするんです」 「へぇ…そうなんだ」 捲簾は看護師長の言葉を聞いて、素直に感嘆する。 天蓬もそうなんだろうか。 捲簾の思っていることが分かったのか、看護師長は病室へ視線を向けた。 「私はずっと見ているから気づいたんですけどね?天蓬さんも捲簾さんがお見舞いにいらっしゃった後の寝顔は、凄く穏やかで優しい表情をしているんです」 「………。」 何となく気恥ずかしくなって、捲簾が頭を掻く。 「今は眠っているだけだから、気配で分かるんですよ?」 「そうだと…いいけど」 慈愛に満ちた看護師長の言葉に、捲簾は儚い笑みを浮かべる。 心だけじゃなく身体も俺を求めてくれているなら嬉しい。 でも、やっぱり。 目を見開いて。 捲簾の好きなあの綺麗な瞳を微笑みに和ませて。 力強く抱き締めて欲しい。 優しい声で、名前を呼んで欲しかった。 ふと捲簾の視線がバッグへと落ちる。 『僕は絶対自分の身体へ戻って、また貴方の隣に立ちたいから』 うん、大丈夫。 コイツが言ってるんだから。 俺は、信じて待っていられる。 捲簾が顔を上げると、看護師長が頬笑んでいた。 「ゆっくりと話してくればいいですよ。点滴もさっき替えたばかりだから…ね?」 暗に『暫くは誰も来ないから二人でいられますよ』と教えてくれる。 捲簾も笑顔で頷いた。 「ありがとうございます」 「いえいえ。親友が来てくれれば、天蓬さんも楽しいでしょうから」 捲簾とは親子ほど年の離れた看護師長は、そう言って笑うとナースステーションへ戻っていった。 振り返って見送りながら、捲簾が苦笑いする。 言葉を疑う訳ではないが、一瞬ドキッとした。 「…ま、普通はお友達だよな?」 誰とも無しに呟いてバッグをポンと叩くと、中から叩き返される。 きっとふて腐れているだろう猫を想像して、捲簾は笑いを噛み殺した。 病室の前へ辿り着くと、捲簾は小さく息を飲んだ。 緊張で指先が震える。 もう誤魔化しきれない。 変わり果てた自分の姿を見て、『てんぽう』は大丈夫だろうか。 話に聞くのと実際に確認するのとは衝撃も違うだろう。 捲簾が扉を開けるのを躊躇していると、バッグの中からポンポン叩いてくる。 大丈夫だから、と。 猫に励まされて、捲簾は意を決して病室の扉を開けた。 身体を室内へ滑り込ませると、そっと鍵を閉める。 急に誰かに入ってこられては、猫を誤魔化すことも出来ない。 室内には暖かい陽射しが窓から差し込んでいた。 明るく、真っ白な病室で。 静かに愛しい人が眠っていた。 捲簾はベッドへ近づくと、天蓬の顔を見下ろす。 看護師長が言っていたとおり、いつもより表情が穏やかだ。 透ける程白くなってしまった顔色に、ほんの僅か赤みが戻っている。 壁際に置いてあった椅子を引き寄せ、捲簾が腰掛けた。 天蓬の手をそっと取って、掌に包み込む。 何度も点滴の入れられてる痩せ細った腕は鬱血して痛々しい。 静寂した室内に、規則正しい呼吸器の音だけが聞こえていた。 一度だけ天蓬の左手を強く握り締めると、腕をベッドへ戻す。 持っていたスポーツバッグを膝の上に下ろしてファスナーを開けた途端、にゅっ。と前足が中から伸びてきた。 「大丈夫だったか?」 「うにゃっ!」 バッグの中から猫が顔を出した。 同じ姿勢で疲れたのか、バッグに入ったまま大きく身体を撓らせる。 猫は座り直して、捲簾を嬉しそうに見上げた。 捲簾が僅かに顔を強張らせ、真っ直ぐと前を見つめる。 猫も釣られて前を向いた。 そこに見えたのは、点滴の刺さった細く白い腕。 今目の前に自分の身体が横たわっていた。 「にゃ…」 猫がベッドに前足を乗せ、伸び上がって顔を覗き込もうとする。 すぐに気付いた捲簾が猫を抱き抱えて立ち上がった。 「ほら…ホントに眠ってるだろ?」 枕元に立つと、捲簾は猫に自分の身体の寝顔を見せる。 白い面差しには生命の欠片も無い。 頬の肉が落ち、随分痩せてしまっていた。 浅い呼吸を規則正しく繰り返してるのは、器械によって生かされてるから。 猫はじっと瞬きもせずに己の身体を見つめた。 「…驚いただろう?」 「うにゃぁ〜」 ポツリと囁かれた声に、猫はゆっくり首を振る。 捲簾の言動から何となく予想はついていたから、冷静に状況を把握しただけだった。 無くなってしまったと思っていた身体が今目の前で生きているだけで猫には充分だ。 後はどうしたらこの身体に戻れることが出来るか考えればいい。 何度も宥めるように捲簾の掌が猫の身体を撫でる。 「にゃっ!」 強がりでも何でもなく。 僕は大丈夫だから心配しないで。 確かに痩せ細った自分にはちょっと驚きましたけど、それは大したことじゃないです。 意識が戻ったら回復するように頑張れば良いだけだから。 僕は。 こうして捲簾が。 僕の身体を大切に守っていてくれた。 それだけで嬉しいんですよ? 猫は捲簾の胸元に頭を擦り付け、ゴロゴロと喉を鳴らした。 悲観することも、こうなる原因となった捲簾を責めることもしない猫。 捲簾の身体が小刻みに震え出す。 「うにゃっ?」 猫の小さな身体を抱き締めたまま、捲簾がその場で踞った。 「…っ…ぁっ」 嗚咽を噛み殺して硬く目を瞑れば、感情が一気に溢れてくる。 「にゃ…にゃぁ」 止め処なく流れてくる涙を、猫の前足が何度も拭ってくれた。 小さな温もりが優しくて、涙を止められない。 「ゴメン…てんぽう…ごめ…っ」 「うにゃぁ…」 猫を掻き抱いて、捲簾は今まで言えなかった言葉を何度も繰り返した。 今まで胸にわだかまっていたモノを全て吐き出すと、漸く気持ちが落ち着いた。 捲簾は猫を抱いて立ち上がると、椅子へ座り直す。 「ワリッ…何かみっともねーよなぁ」 「にゃっ!」 気恥ずかしさで苦笑すると、猫は尻尾をパタパタ振った。 猫を膝の上へ座らせると、捲簾は天蓬の手を取る。 「やっぱさ…動いてねーから、筋肉が全部落ちちゃってんだよ。それに点滴で必要な栄養はとってるけど、それって身体を作るモンじゃねーからさ。どうしたって痩せちまうんだよなぁ」 細い手首は指で掴んでも大分余る。 「うにゃ〜」 猫が前足をベッドに乗せた。 「っと!危ねぇだろ?何だよ…触りたい?」 「にゃっ!」 猫の尻尾が大きく振られるのに笑って、捲簾が腰を支えて前に差し出してやる。 前足がそーっと細い手首へと触れた。 ペタッ。 ペタペタペタ。 何度も何度も体温を確かめるように、猫の前足が手首の上を彷徨う。 ペタ… 「…てんぽう?」 猫の様子がおかしいことに捲簾が気付いた。 手首に前足を乗せたまま突然動かなくなる。 「てんぽう?おいっ!てんぽうっ!?」 小さな身体を揺さ振ろうとして、捲簾が目を見開いた。 首輪が…光ってる? 猫の付けている首輪が淡い光を放ち始める。 光は次第に明るく大きな球体にまで膨れ上がり、猫の身体を包み込んだ。 支えた身体は身動ぎもしない。 「な…んだよぉっ!何でいきなりっ!てんぽぉっ!何とか言えっ!!」 捲簾が驚愕していると、急速に光が強くなった。 目を灼くような閃光が走って、膨張した光が弾け飛んだ。 「うわ…あっ!?」 あまりの輝きに捲簾は咄嗟に顔を背ける。 瞬間辺り一面が真っ白に輝き、やがて静かになった。 捲簾は眉を顰めて、頻りに頭を振る。 今の光は一体…? 濁ったように霞む視界に何度も瞬きを繰り返していると、掌の違和感に気付いた。 横たわる小さな身体の感触。 捲簾は我に返って、自分の手元を注視した。 「おい?てんぽう…てんぽうっ!」 グッタリと力の抜けて身体を預けている猫を、捲簾は必死に揺すって名前を呼んだ。 それでも猫は返事をしない。 「てん…ぽ…う?」 恐る恐る捲簾が猫の背中を撫でると。 微かだが呼吸はあった。 生きているのが分かると、捲簾は大きく安堵の溜息を零した。 「心配させやがって…っ」 眠っているだけの猫を見つめながら身体を撫でてやる。 ところが。 じっと膝元の猫を眺めていた捲簾の視界の隅で。 何かが、動いた。 ぼんやりと何気なく視線を上げた先には、天蓬の掌が。 その指先が。 何かを探して動いている。 「うそ…だろ…ぉ…っ?」 捲簾は瞬きをすることも忘れて、動く指先を呆然と見つめた。 すると。 「っ…れ…ん」 聞き逃しそうな程か細い声が、確かに聞こえてきた。 幻聴なんかじゃない。 俺が。 天蓬の声を。 間違えるはずがない。 慌てて立ち上がって天蓬の顔を覗き込むと。 閉じていた瞼が小さく震え、ゆっくりと瞳の輝きが現れた。 捲簾が好きな、天蓬の綺麗な瞳が。 捲簾の姿を捉えて、嬉しそうに笑みを浮かべる。 「けん…れん…ただい…ま」 「う…ああああぁぁぁーーーっっ!」 捲簾は大声で叫んで、猫の身体ごと天蓬の身体にしがみ付いた。 |
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