あなたへの月



長閑な昼の時間。

金蝉は入院している患畜の部屋に居る看護士達へ声を掛ける。
「おい。もう休憩行ってきていいぞ」
「え?でも…」
「今は重病で入院してるヤツもいねーしな。かまわねー」
素っ気なく言う獣医を眺めて、看護士達は顔を見合わせた。
いつもは患畜の世話もあるので、二回に分けて交代で休憩に入っている。
まだ最初に出かけた看護士達が戻るには三十分は掛かるはず。
どうしようかと迷っていると、責任者でもある金蝉が腕を組んだまま仁王立ちしていた。
無愛想なので分かりづらいが、気遣っているのだろう。
看護士達は小さく笑うと、看護室から出てきた。
「それじゃ先生。お先にお昼行ってきます」
「…あぁ」
残っていた看護士達も出かけて、病院には金蝉一人が残った。
午後の診療は二時から始まる。
定期的に来ている患畜もいるので、午前よりは午後の方が忙しい。
金蝉は椅子に座ると、午前中に診察した患畜のカルテへ目を通す。
カルテを眺めながらコーヒーを飲もうとカップを持ち上げると、もうあまり残っていなかった。
小さく舌打ちして、面倒臭そうに立ち上がる。
何気なく時間を確認すれば、まだ一時前。
あまり空腹ではなかったが、何か胃に入れておかないといけなかった。
夕方から夜にかけて動物病院は慌ただしくなることが多い。
救急は受け付けていないが、頼まれれば昼夜問わず診察することが殆どだった。
そうすると大抵食事を取る時間も無くなる。
食事を取らないで仕事をしていると、小さいけどしっかり者の悟空がうるさく注意してきた。
子供なりに金蝉の身体を心配しているのが分かるから、空腹かどうかはともかく時間が取れる時はちゃんと食事をするようにしている。
「…何か食うか」
金蝉は億劫そうにカップを持ったまま、一旦奥の自宅へ戻ろうとした。
その時、ドアの開く音が耳に入る。
急患かと思って振り返ると、そこには見知った男が立っていた。
「何だ捲簾…またテメェは仕事サボッてやがんのか。悟空ならまだ学校から帰ってこねぇぞ」
カップを置いて溜息混じりに揶揄するが、待合室にいる捲簾は黙っている。
いつもならすぐに笑いながら弁解してくるはずなのに。
捲簾の不審な態度に、金蝉は僅かに眉を顰める。
「…おいっ!」
唯ならぬ雰囲気を察知して、金蝉が慌てて待合室への扉を開いた。

「けん…れん?」

金蝉は驚愕して目を見開く。
待合室に立っていたのは間違いなく捲簾だった。
普段着で大きなスポーツバッグを両手に抱えて、身動ぎもせずにただ立ち竦んでいる。
金蝉もよく知っている、いつもどおりの捲簾の姿。

しかし。
捲簾は声を殺して泣いていた。

目を真っ赤に腫らして嗚咽を噛み殺し、止め処なく涙を零している。
捲簾が金蝉の目の前で号泣していた。
捲簾の泣いている姿を見るのは二度目だ。

一度目は、天蓬が二度と目覚めないと医者から告知された時。

金蝉の胸中に昏い影が過ぎる。
奇妙な胸騒ぎがして、鼓動が激しくなった。

「何が…あった?」

息を飲んで金蝉は確かめる。
捲簾がこれほど心を乱すのは、ただ一人にだけ。
病院の天蓬に何かあったのか。
すると。
捲簾はボロボロと涙を溢れさせて、晴れやかに笑った。

「天蓬…起きた…っ」
「―――――っっ!」

捲簾が笑いながら、思いっきり顔を歪ませる。

「あのバカッ…やっと…起きたぁっ!」

嗚咽に声を詰まらせながらも、捲簾が大声で絶叫した。
金蝉は強く拳を握る。
身体の震えが止まらない。
詰めていた大きく息を吐くと、腕を組んでふん反り返る。

「ふん…相変わらず寝汚ぇヤツだ。漸く起きやがったか」
「あぁ…やっと起きやがって。動けもしねーのに、あのバカ『ちょっとトイレ行きたいんですけどー』とか言いやがんの」
「…天蓬のバカは死に損なっても直らねーのか」
「無理だろ?アイツってばホントッ…バカ…っ」

しゃくり上げて笑う捲簾に、金蝉は口端を上げた。
「で?今そのバカは何やってんだ?」
「え?あぁ…もう病院中大騒ぎで。医者や看護師が入れ替わり立ち替わり検査してる。何か落ち着かねーからさ、一旦戻ろうと思って。コイツも居たし」
そう言うと捲簾は持っていたスポーツバッグをヒョイッと掲げる。
意味が分からず金蝉が眉を上げた。
「あぁ、そうだっ!悪ぃんだけど、コイツの診察頼む」
「診察…だと?」
捲簾は勝手知ったる診察室に入り込むと、診療台の上へバッグを置く。
バッグのファスナーを開けると、中には猫が入っていた。
驚いて金蝉が捲簾を睨み付ける。
「お前っ…コイツを天蓬のトコへ連れていったのか!」
「だってさぁ…天蓬に会わせたかったから」
バツ悪そうに視線を逸らせて、捲簾はポリポリ頭を掻いた。
捲簾の言い分に金蝉が呆れ果てる。
「会わせたかったって…よく見つからなかったな」
「あ、それは大丈夫っ!コイツもバレたらマズイって分かってたから大人しかったし」
「…もういい。それで?どうかしたのか?」
これ以上聞くのは馬鹿らしいと思ったのか、金蝉はバッグから猫を出すと診察の準備をし始めた。
一見したところ、猫はただ眠っているだけのように見える。
「病院でさ…いきなり…その…気ぃ失ったみてーに寝ちゃったから」
捲簾は言い淀みながら状況を説明した。
さすがに本当のことは言えないだろう。

実はさっきまで、ソイツの中身は天蓬だった。なんて。

不可解な説明に金蝉が思いっきり顰めっ面をする。
「いきなり寝たのか?」
「まぁ…そう…かな?」
「…全然分からねーぞ。昏倒するまでは何ともなかったんだな?」
「あ…えーっと…うん」
「ハッキリしやがれっ!」
「だからっ!いつも通り普通だった…けど」
奥歯に物が挟まったような言い回しに、段々金蝉がイラついてきた。
「…メシは?」
「ガツガツ食った」
「昨夜の様子は?」
「至って元気。昨日の様子は金蝉も知ってるだろ?釣りの帰りに寄ったんだし」
「確かに…何ともなかったな。相変わらず妙な行動してやがったが」
「家に帰ってもそのまんま。晩飯も食ってたし」
「…とりあえず看てみるか」
金蝉は眠っている猫の身体を触診していく。
これといって異常は見当たらない。
次ぎに熱を計るため、猫の尻尾を持ち上げた。
遠慮することもなく体温計を猫の尻に突っ込んだ。
その様子を捲簾は何となく複雑な面持ちで眺める。

…てんぽう。コレすっげぇイヤがってたっけ。
金蝉に犯られてるみたいで屈辱だって騒いでたよなぁー。

天蓬が真っ赤な顔で怒っていたのを感慨深げに思いだして、つい笑い出しそうな口元を手で覆った。
すぐに体温計を抜き出して、金蝉が熱を確認する。
「平熱だな…三十八度」
寝ている猫の瞼をひっくり返したり、口の中を無理矢理こじ開けて覗いたり。
一通り診察すると、金蝉は捲簾へ視線を向けた。
「何ともねーよ。昨日暴れすぎて疲れでも出たんじゃねーか?ただ寝てるだけだ」
「そっか…よかったぁ」
愛猫が無事だと分かり、捲簾はほっと胸を撫で下ろす。
ずっと疑問に思ってたことだった。

もし、天蓬が身体に戻ったら。
本当の『てんぽう』はどうなってしまうんだろう、と。

捲簾は最悪な状況も危惧していた。
天蓬の魂が抜けてしまったら、『てんぽう』は死んでしまうのではないか。
そうなってしまったらどうしようと、ずっと不安に思っていたのだ。
天蓬は身体の中に自分以外の命が眠っているのが分かると言っていた。
だから、一時自分がこの猫の身体に居候させて貰ってるだけなんだから、自分が離れればまた猫の魂が眠りから覚めるだけで何も心配することはないと、天蓬は笑いながら捲簾に教える。
それでも確実ではない。
実際天蓬と『てんぽう』が離れてみないことには分からなかった。

確かに『てんぽう』は天蓬だったけど。
『てんぽう』も捲簾にとっては、大切な愛猫だから。

猫が無事だと分かって、捲簾は今度こそ嬉しそうに笑った。
「心配無いと思うが、夜になっても目が覚めねぇようなら連れてこい」
金蝉は眠っている猫の頭を軽く叩く。

「…うにゃ」

ビシッ!と猫パンチが金蝉の掌にヒットした。

「…テメッ」
「…ぷっ!」

猫は目覚めていない。
寝ながらも金蝉の等閑な態度に腹を立てて反撃したらしい。
金蝉が顔を引き攣らせるのを、捲簾は必死で笑うのを堪えた。
「ったく…名前が悪ぃんだよっ!生意気なところまで天蓬に似てやがる」
「んな怒んなって〜」
喉で笑いを噛み殺して捲簾が宥めると、ふいに金蝉が目を見開く。
何か思案しながら猫と捲簾を交互に見つめた。
「何?何だよ?」
「いや…思ったんだが。天蓬が元気になってお前の所にまた転がり込むようになったら、コイツと天蓬…上手くやっていけんのか?」
「はぁ?」
「いや。似た者同士だろ?天蓬も大概ガキみてぇに心狭いが、コイツもこれだけ似てるなら…もしかして」
「…俺の奪い合いでもするっつーの?んな馬鹿らしい」
「そうでもないぞ?猫は結構縄張り意識が強くってプライドが高い。多分お前のことも自分のモノだっていう認識をしてるだろうからな」
「俺が?コイツの?飼い主じゃなくって?」
「コイツのテリトリーはお前の家。そのテリトリー内にいて可愛がって面倒看てくれるんだから、当然自分のモノだって思ってるだろうよ」
「マジ?それって…すっげぇヤバイかも」
「あの天蓬がそんな状況、黙って見過ごすと思うか?」
「っちゃぁ〜っ!」
捲簾は猫と天蓬のバトルを想像して頭を抱える。

確信じゃなく、決定。
絶対近い将来、捲簾の周辺は騒々しくなるだろう。

「あ〜あぁ…ウルさそうだなぁ」
「天蓬一人でも手が掛かるのに、倍になるな」
「そーいうコワイこと言うなよぉ〜」
「今更どうしようもねーだろうが」
「…そうだけど」
捲簾は金蝉にトドメを刺されて、ガックリ項垂れた。

「あれ?捲簾さんいらしてたんですか〜」
入口のドアが開いて、先に食事に出ていた看護士達が戻って声を掛ける。
時計を見れば一時を過ぎていた。
「おい。天蓬の所へ戻らなくていーのか?また拗ねると面倒だろうが」
「そーだな〜。あ、俺病院行ってる間コイツ預かってくれる?」
「もう少ししたら悟空も帰ってくるから相手させておく」
「助かるっ!そうだ、悟空にも伝えてくれよ?天蓬起きたってさ」
「分かってる。アイツだって天蓬に会いたがって騒ぐだろうしな」
「んじゃ…俺戻るから」
捲簾が看護士達に挨拶して診察室から出て行こうとする。
「おいっ!捲簾」
「ん?」
「天蓬に言っておけ。今回の貸しはとっとと退院して返せって」
そっぽを向きながら金蝉が捲簾へ伝言する。
一瞬捲簾は目を丸くするが、すぐに満面の笑顔を浮かべた。
金蝉だって天蓬が目覚めるのを信じていた一人だ。
「よぉ〜っく言っておくっ!」
捲簾はヒラヒラ手を振ると、天蓬の待つ病院へ戻っていった。



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