あなたへの月



天蓬の最終的な検査結果が出た。

異常なし。

ほんの数日前まで意識を取り戻すのさえ絶望的だと言われていたのに、一体天蓬の身体に何が起こったのか。

「奇跡どころか魔法ですよ」

担当の医師が苦笑した。
今回のケースは闘病している全ての患者の希望ですよ、と。
確かに魔法なのかも知れない。
月が、その不思議な力で天蓬を返してくれた。
暗闇の中。
進む道が見えずに立ち竦んでいた俺に、手を差し伸べたのは他でもない天蓬自身。

こんな場所でいつまで留まってるんですか?
僕たちこれからもずっと一緒に歩いていくんでしょう?
ほら、もうすぐ闇夜が明けますから。

そう笑って離れてしまった手をもう一度引いてくれた。
俯いていた視線を上げて前を見れば、明るい陽射しが地平線から溢れてくる。
繋いだ手を強く握り締めた。

もう二度と、手放さないように。






体力の回復してきた天蓬は、リハビリを開始した。
まずは上半身の強化。
上半身に力が入らなければ、転んでも身体を起こすことも支えることも出来ない。
根気強く上半身の筋力を戻ることに専念して、それから脚のリハビリに入る。
食事も漸く医師から許可が出て流動食から普通食になった。
身体を作る栄養を考慮したメニューを栄養士とも相談する。
まずは軽く上半身それぞれの部位を動かすだけ。
今までは満足に腕の上げ下げさえ出来なかった。
急激に運動しても身体に負担を掛けて、返って調子が悪くなる。
天蓬としては一刻も早く元の身体へ戻りたがったが、リハビリ担当の医師に窘められた。
天蓬のような症例では、元の状態に戻れるまで一年程かかるらしい。
それほど失われた身体の機能を取り戻すことは、過酷で根気のいる作業だった。
今は決められた時間のみ、無理をせずに腕のリハビリをしている。
天蓬はリハビリメニューを無視して過度な運動をしたため、一度筋を痛めてしまった。
医師からも捲簾からも散々説教をされるわ身体は激痛で動かせないわで、すっかり天蓬も懲りたらしく、モクモクと日々決められたリハビリメニューのみをこなしている。
しかし、それも段々と飽きてきた。
慢性化したリハビリメニューはとにかくつまらない。
それに運動をして気分も身体も爽快になるほど動かす訳でもなかった。
淡々とした単純作業には、次第にストレスが溜まってくる。
医師や看護士、捲簾に言われないと適当に手を抜こうとさえし始めた。
かといってまだメニュー段階を上げるまで天蓬の身体は回復していない。

「…何か良い方法ないかねぇ?」
「…またテメェは仕事サボってんのか」

金蝉が思いっきり眉間に皺を寄せ、厭そうに捲簾を睨み付けた。
捲簾は金蝉の言葉を聞き流して暢気に茶を啜る。
「ケン兄ちゃんっ!饅頭てんぽうにあげてもいい?」
「バカ猿!余計なモン食わせるんじゃねーっ!!」
「また猿ってゆーっ!いーじゃんっ!金蝉のケェ〜チ!!」
「猫の味覚と人間の味覚は違うんだ。猿と一緒にすんじゃねーよ」
「猿じゃねーもんっ!!」
悟空が金蝉に突進してポカポカと叩きまくった。
猫の『てんぽう』は目の前に出された饅頭をじっと見つめる。
いちおうフンフンと匂いを確かめてから、飼い主の捲簾を見上げた。
「ん?食いたいのか?」
「にゃっ!」
猫はご機嫌に尻尾を振って返事をする。
「全部はダメだぞ?ちょこっとな」
捲簾が皿に置かれた饅頭を手に取り、少し摘んで猫へ差し出した。
顔を近づけ、猫が饅頭を食べる。
「…旨い?」
「うにゃぁ〜」
どうやら口に合ったらしく、満足そうに尻尾を振りたくった。
大騒ぎしていた金蝉が気付いて、捲簾を睨み付ける。
「おい。エサ以外余計なモン食わせんな」
「えー?ちょととぐらいイイじゃん」
「そうやって人間の都合で甘やかすと、結局はコイツの寿命を縮めることになる」
「んな…大袈裟な」
「そういう飼い主が多いんだよ。最近はイヌやネコでも糖尿病になりやがる。それだって可愛いからとか欲しがるからってほいほい人間の食ってるモンやるのが原因なんだ」
「猫が…糖尿病って」
捲簾は驚いて、饅頭を食べている猫を見下ろした。
「元々猫は肉食なんだ。それ以外を分解して消化吸収する機能は無い。ソイツが可愛いなら食事はキチンとやれ」
「そうなんだ…」
金蝉に諭され、捲簾が落ち込む。
普段仕事で構ってやれない分、ついつい甘やかしている自覚はあった。
それが猫自身に良くないというなら、自分の考えを改めなければならない。
「じゃぁ、猫用のおやつとかは?」
「それぐらいなら構わねぇ。但しやりすぎんなよ」
「おー。てんぽうよかったなぁ〜。お前が好きなチーズたらは食ってもいいってさ」
「にゃっ!」
「でも病気になるから、甘い菓子はダメだって」
「うにゃっ!」
猫は声をひっくり返してショックを受けた…らしい。
キッ!と涙目になって金蝉を恨めしそうに睨み付けた。
猫は宿主だった天蓬の影響か、甘いお菓子が大好きだ。
沢山は食べないが、捲簾がチョコの欠片をやると嬉しそうに食べる。
他にもケーキや和菓子まで、甘い物を食べると恍惚とした状態になった。
猫のてんぽうにとっては甘い物はマタタビと同じ。
その楽しみを奪った金蝉を、恨めしそうに見上げた。
「うにゃぁ〜」
「………。」
怨念の籠もった唸り声に、金蝉の顔が僅かに引き攣る。
「てんぽう…あんまり怒んなよ。金蝉だって意地悪で言ってるんじゃないから。ケン兄ちゃんがてんぽうを可愛がってるから、病気したりして心配させないように考えてんだからな?」
「………にゃ」
捲簾と同じぐらい可愛がってくれる悟空にお願いされては、猫もそれ以上強気にはなれない。
不承不承鳴いて返事をすると、悟空の掌を舐めた。
「はぁ…てんぽうも悟空の言うことはちゃんと聞くんだな」
「そっかな?えへへ〜♪」
悟空が得意げに笑う。
何だか納得いかない表情で、金蝉はブスッと黙り込んだ。
「ったく。テメェもサボってねーで、とっとと仕事しろ!」
「あー?何言ってんの〜今日は土曜でお休みだも〜ん」
「テメェの仕事に曜日なんか関係ねーだろうが」
金蝉に突っ込まれ、捲簾は苦笑しながら肩を竦める。
「ま、それはそうなんだけど。ちょうど仕事が余裕空いたからさ。取れる時に休まねーとさ。天蓬も構ってやんねーと、ま〜た拗ねるし」
「…またか」
「そうっ!ソレなんだよぉ〜。参ってんだよな…」
「天ちゃんに何かあったの?」
頭を抱えて唸る捲簾に、悟空が不思議そうに小首を傾げた。
昨日金蝉と一緒にお見舞いへ行った時は、天蓬の様子にこれと言って変わりはなかったように思えたが。
「ん。悟空今度病院言ったら怒ってくれよ。アイツどっかから雑誌とか本貰って読んでるんだよなぁ。天蓬が本読むとリハビリ真面目にやらねーんだ」
「ダメだよそんなのっ!俺が今度天ちゃんを怒って上げるっ!」
「そーして?天蓬も悟空に言われたらやるだろうし」
悟空が使命感に燃え、コクコク頷いた。
さすがの天蓬も小さな悟空から怒られればバツが悪いだろう。
確かに入院生活は単調で、しかも長期間動けないことに関しては同情する。
だけど決められたリハビリをやらないと、すぐに身体は元の状態に戻ってしまう。

早く戻りたい。
でもそれには長いリハビリを克服しなければならない。

捲簾を前にしてあからさまに口にすることもないが、天蓬がかなり参っているのは気付いていた。
それでも甘やかす訳にはいかない。
そう思ってはいるが、捲簾だって仕事がある。
四六時中天蓬を見張っていることは無理だ。
何か効果的な。
天蓬が真面目にリハビリに励まざるを得ない方法はないだろうか。
多少身体が動かせる状態ならば、捲簾にだって作戦はある。
一番効果的なのは捲簾自身。

「頑張ってリハビリやればご褒美にイイコトしてやるんだけどな〜」

とでも言えば、天蓬は俄然やる気を出してリハビリに励むだろう。
そう言う意味での天蓬の愛情は分かり易い。
しかし、まだその手を使える程天蓬は回復していなかった。
今が一番辛い時期なのは分かっている。
リハビリの先生も、この状況を耐えてリハビリに励めば、筋力の回復スピードも早まると言っている。
今が正念場だからこそ、何としてでも天蓬に乗り切って欲しかった。
「あんまりうるさく言ってもますますアイツを追い込みそうだしさぁ…どうしたもんかねぇ?」
溜息混じりに捲簾がぼやくと、何やら金蝉が思案する。

「まぁ…無いこともねーが」
「………は?」

金蝉の視線が悟空とじゃれている猫へ注がれた。
釣られて捲簾も猫に視線を向ける。
「…うにゃ?」
金蝉と捲簾二人に注視され、猫がちょこんと首を傾げた。






ゴロンッとベッドの上にダンベルが転がった。
「…飽きちゃいました」
枕に凭れ掛かって天蓬がぼやく。
毎日毎日同じコトの繰り返しに嫌気が差す。
目に見えて身体が戻っているという感覚もなかった。
ただ以前より少しは上半身が動かせるようになったというだけで。

もっともっと。
早く回復して動きたいのに。

今だってリハビリに使っているのは、水を入れたプラスチック製のダンベル。
女性がダイエットに使う健康器具なので、大した負荷も掛からない。
苦しくないと言うことは、筋力を付けるにも大した役に立っているのかどうかも怪しいモンだ。
ただ決められた時間に、ノルマのように腕を上げたり下げたり。
単調な入院生活が余計に長い時間に感じる。
「面倒臭くなっちゃいますよねぇ…」
さっきとなりの入院患者に貰った雑誌へ天蓬は手を伸ばすと、パラパラページを捲った。
記事自体に興味はないが、活字を見るだけで少しは落ち着く。
ぼんやりページを眺めていると、扉がノックされた。
「あーっ!またサボってんのかよ!」
「捲簾〜vvv」
顔を出したのは捲簾だった。
物凄い勢いでベッドへ近付き、天蓬の手から雑誌を引ったくる。
「リハビリは?」
「ちょっと…休憩してただけですよぉ」
サボっている所を見つけられ、天蓬がバツ悪げにそっぽを向いた。
捲簾はこれ見よがしに溜息を零す。
「ちゃんとやらねーとダメだって言ったろ?」
「分かって入るんですけど…ねぇ」
気怠げに髪を掻き上げる天蓬を、捲簾が軽く小突いた。
「そういえば。今日はいつもより遅かったんですね?」
「あぁ。ちょっと金蝉トコに寄ってから来たから」
「そうなんですか。何か用事でも?」
「ん?悟空がてんぽうに逢いたがったから、一緒に連れてった」
天蓬の眉がピクリと引き攣る。
「そうだっ!悟空がさ、金蝉にデジカメ買って貰ったんだって〜。写真撮ってプリントアウトして貰ったんだ。ほれ」
捲簾が嬉しそうに鞄から出した写真を天蓬へ差し出した。
そこに写っていたのは。

「捲簾っ!何猫となんか浮気してるんですかあああぁぁっ!!」

天蓬の絶叫が病室に響き渡った。
捲簾に渡された写真は、全て猫のてんぽうと捲簾の仲睦まじい姿がこれでもかっ!と写っている。
極めつけは猫と捲簾が楽しげに頬を寄せている写真。
写真の中の猫は、これ見よがしに挑戦的なカメラ目線でデレデレ捲簾に甘えていた。
「いやぁ〜てんぽうのヤツ、すっげぇ甘えちゃってさ。可愛いのなんのって」
ニコニコ嬉しそうに微笑む捲簾に、天蓬はダラダラと脂汗を流す。

捲簾のそんな可愛らしい表情は…僕だけのモノなのにっ!

天蓬の瞳に闘志がメラメラ燃えた。
こんなダラけ切ってる場合じゃない。

一刻も早く回復して、捲簾を取り戻さなければっ!
捲簾に甘えて懐いていいのは僕だけですっ!
あんな…あんな猫なんかに捲簾は渡しませんよっ!

ベッドの端に転がっていたダンベルを、天蓬がむんずと掴んだ。
「捲簾っ!時間見てて下さいねっ!」
「あいよ〜」
真剣にリハビリを再開する天蓬に、捲簾は呆れた視線を向ける。
それでも。

…ちょっと嬉しいかも。

自分を猫に取られまいと馬鹿馬鹿しい勘違いをしてリハビリに励む天蓬を眺め、捲簾はこっそり小さく笑った。



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