あなたへの月



「…何だ?そのふざけた格好は」

悟空を伴って見舞いにやってきた金蝉が、開口一番厭そうに顔を顰める。
ベッド上の天蓬を見つめて悟空も一瞬目を丸くするが、すぐに金蝉を見上げて笑った。
「何で?天ちゃん可愛いじゃん」
「ですよね〜」
褒められた天蓬は上機嫌。
金蝉から侮蔑の視線を向けられても、一向に気にしなかった。
天蓬の肩口でピンクのリボンが揺れる。
「何かさ〜、リハビリしててもメシ食ってても髪が邪魔そうだから。さすがに病室で切る訳にはいかねーだろ?」
洗って持ってきた天蓬の洗濯物を整理しながら、捲簾は小さく肩を竦めた。
仕方ないと口では言っていても、案外満更でもない様子。
「だからってイイ歳した男に三つ編みするこたぁねーだろ…」
金蝉は呆れ返って天蓬を眺めた。
天蓬の髪は捲簾によって綺麗なおさげ髪にされている。
ご丁寧にもピンクのリボンまで結ばれていた。
正常な大人の男なら厭がるだろうに、天蓬はどうやら気に入ったらしい。
「他にもおだんご頭とかもしてくれるんですよ。捲簾ってホント器用ですよねぇ」
「そうか?」
「ええ。結構リハビリで動いても崩れませんし。看護師の皆さんも感心してますよ」

…誰も止めねーのかよ。

看護師まで面白がってる状況に、金蝉は額を抑える。

それに、だ。

患者本人も本人なら、この病室も一種異様だった。
グルッと室内を見渡した金蝉が、これ見よがしに溜息を零す。
「おい…この猫だらけの部屋は何のつもりだ?」
金蝉に突っ込まれた天蓬の瞳が、唐突に不穏な色を湛えた。
スッと眇められた視線が、サイドテーブル上の写真立てを睨み付ける。
「…捲簾が置いていくんですよ」
低い声音で唸りながら答えるのに、捲簾は知らんぷりを決め込んだ。
ベッドサイドにはアクリルのフレームに『てんぽう』の写真が入っている。
小首を傾げた愛らしい猫の顔がアップになっていた。
愛嬌を振りまいているのは、明らかにカメラマンが捲簾だからだ。

しかもそれだけじゃなかった。

天蓬のベッド周りの至る所に、猫や猫と捲簾がツーショットで仲睦まじく写っている写真がベタベタと飾られている。
壁を埋め尽くす勢いで貼られた猫の写真に、医師や看護師も天蓬が余程の愛猫家だと思い込んでいる始末。
早く猫ちゃんと一緒に暮らせるといいですね〜。などと的外れな激励までされていた。
勿論、猫が恋しくて写真を貼ってる訳じゃない。
この写真こそが天蓬のリハビリを促進する起爆剤だった。

のうのうと僕の捲簾に擦り寄ったりして…許しませんよっ!

捲簾の隣は自分の場所だ。
たかが猫ごときに譲る訳にはいかない。
何よりも捲簾が自分以外の存在を可愛がっているという状況が納得できなかった。
確かに自分が猫から離れた後も、捲簾には面倒を見て欲しいと頼んだけど。
そこまで親身に世話をしろとは言ってない。
捲簾は天蓬が猫だった時と変わらず、それはもう猫可愛がりしてるらしい。
猫だった天蓬が過ごした捲簾との至福の一時。
それをあの猫が自分の居ない間に過ごしているのかと思うと、悔しくてギリギリ歯軋りしてしまう。
猫は猫らしく尊大で気ままでいればまだ許せる。
ところが自分と同じ名前を付けられたあの猫は、可愛がる捲簾をこれ幸いと甘え倒しているようだ。
しかも何だかやけに天蓬に対して挑戦的だった。
捲簾の話からも、猫の行動や思考が自分に似ているのが分かる。
天蓬が身体を借りてる時の影響が残ってしまったのかもしれない。

早く復活して僕の地位を取り戻さなければっ!

天蓬にとっては死活問題。
猫の甘えて弛みきった顔を見ると敵対心が燃え上がり、俄然リハビリに気合いが入った。
おかげで天蓬は順調すぎるほどの回復を見せている。
猫の写真を睨み付ける天蓬を、金蝉は呆然と眺めた。

まさかここまで天蓬が単純だとは。

リハビリにやる気を出さない天蓬をどうにかできないかと捲簾に相談されて、何となく思いつきで猫とイチャついてる写真でも見せてやれ。とは言った。
捲簾に関しては猪突猛進一直線で、許容範囲の狭い天蓬のこと。
自分以外の存在が捲簾に可愛がられてると知れば、何が何でも回復して邪魔しようとするはずだと思ったことは思った、が。
こんなに過剰反応してあっさり引っかかるとは、さすがに金蝉も予想していなかった。
あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて開いた口が塞がらない。
一体天蓬は何の心配をしているのか。
金蝉は暫し考えてみるが、脳が答えを出すのを放棄した。
どうせ聞いたところで、ろくな事を言わないだろう。
これ以上係わらないのが一番だ。
幼い悟空には悪影響極まりない。
腕を組んで心配する保護者を余所に、当の悟空は無邪気に天蓬へ懐いていた。
天蓬がお裾分けで貰ったらしいお菓子を渡され、ニコニコ上機嫌に食べている。
何だか自分一人が悩むのも馬鹿らしくなり、金蝉は悟空の頭をコツンと叩いた。
「おい。晩飯前にガツガツ菓子ばっか食ってんじゃねー」
「ほれふらいらいりょうぶらって〜」
「口に入れたまましゃべんなっ!」
「ふぁ〜い」
叱られた悟空は口を手で覆ってモグモグ租借する。
口いっぱいに頬張ったお菓子を飲み込むと、買って貰ったジュースに手を伸ばした。
缶を置いてあったサイドテーブルの写真立てを眺めた悟空が、あっ!と声を上げる。
「そうだっ!思い出した〜」
「ん?どうかしたのか?悟空」
「んと…俺てんぽうに持ってきたんだけど…あれ?」
ポケットを探りながら、悟空がキョロキョロした。
「お前…アレ渡す為に来たんだろーが。さっき右のポケットに入れてただろ?」
「そうだっけ?」
金蝉に言われて右のポケットを掻き回すと、指先に目的のモノが当たる。
「あったっ!はい、ケン兄ちゃんコレ!」

悟空が指し出したのは、ラベンダー色のビーズで作られた首輪だった。
以前貰ったモノとは少し細工が違うが、真ん中にムーンストーンも付いている。
前の首輪が壊れたと捲簾に申し訳なさそうに謝られて、悟空はもう一度作って渡すと約束していたものだ。
「前のよりは綺麗に出来たんだっ!」
「おー、すげぇ。綺麗に出来てるじゃん。てんぽうも喜ぶよ。悟空サンキュ」
「ホント?えへへ〜」
捲簾に褒められた悟空が、照れくさそうに笑う。
「帰ったらてんぽうに付けるからな?」
「うんっ!」
無くさないように腕に付けたラベンダー色の首輪を、天蓬がムスッと頬を膨らませながら睨み付けた。

…元々は僕のモノなのに。

天蓬は唇を尖らせて不機嫌を隠そうともせずに拗ねる。
頭を打ったショックで天蓬に洒落っ気が出た訳じゃない。
そもそもアクセサリーの類には興味もないし持ってもいなかった。
服だって身体を隠せればいいとしか思ってない。
それなのに何で悟空が作ったビーズアクセサリーに拘るのか。
単にクソ生意気な猫に対しての敵愾心だけだ。
ブツブツと低い声で悪態を吐いていると、気づいた捲簾が溜息を零した。

ったく…何ガキみてぇに拗ねてるんだか。

悟空や金蝉が猫を構ったり甘やかすのは気にならない。
要するに、捲簾が猫の為にアレコレするのが厭だった。
どこまでも色々勘ぐってどんな結論に達したのか、打って変わって昏く落ち込んで項垂れる天蓬に捲簾は笑いを噛み殺す。
捲簾の言動に一喜一憂して、大騒ぎして。
泣いて笑って怒って、馬鹿みたいに素直すぎて。
懐いてくる天蓬が捲簾には可愛くて仕方がない。
金蝉に言えば、厭そうに顔を顰めるが。

ま、最初にコイツを拾っちゃったのは俺だからな。
キッチリ最後まで面倒看てやるよ。

捲簾は布団に突っ伏している天蓬を眺めて頬笑んだ。
「天蓬?もうそろそろリハビリじゃねーのか?」
「…今はそんな気分になれません」
「サボろうってのかよ?悟空にも怒られたばっかだろ」
「別にサボろうって訳じゃ…あれ?悟空と金蝉は?」
天蓬が嫌々顔を上げると、いつの間にか二人の姿は無かった。
きょとんとする天蓬に、捲簾は小さく笑う。
「お前がブツブツ言ってる間に声掛けて帰っただろ?悟空が『ちゃんとリハビリしないとダメだからなっ!』て釘差してったぞ?」
小さな子供にまで諭され、天蓬がバツ悪そうに苦笑いした。
「せっかく歩行訓練に入ったんだから、今頑張らねーと。焦ることはないけど、根気よく繰り返しやるのが結局完治する一番の早道なんだから」
「分かってるんですけどねぇ…」
天蓬はぼんやり天井を見上げながら吐き出すように呟く。
今はどうにかバーに掴まって足を前へ出すのが精一杯だ。
自分の力で踏みしめて歩けるようになるにはほど遠い。
リハビリ室から憔悴しきって戻ってくる天蓬に、捲簾もあまり無茶なことは言えなかった。
思うように歩けず、天蓬が苛立っているのは分かっている。

叱り飛ばすだけじゃダメだよなぁ。

躾には飴も必要だ。
捲簾には効果絶大の切り札がある。

「それにある程度動けるようになって貰わねーと、俺が困るんだけどな?」
「え?何かあったんですか?」
驚いて見つめてくる天蓬に、捲簾はニッと口端をあげた。

淫靡な色香が漂う、独特の微笑み。

天蓬の心臓が小さく跳ね上がった。
「俺さぁ…いつまで規則正しく独り寝してなきゃなんねーの?」
「け…捲簾っ!」
ゴクリ、と天蓬の喉が大きく鳴る。
捲簾は意味深な笑みを浮かべたままベッドの端へ腰掛け、身体を天蓬に擦り寄せた。
間近から卑猥な視線で見つめられて、天蓬の頬に朱が昇る。
捲簾が布団の上から天蓬の下肢をゆっくり撫で回した。
「ずーっとお預け喰ってんだぜ?いい加減独りで寂しく慰めんのも飽きてきたなーって」
「捲簾自分でヤッてるんですかっ!」
「何?誰かとヤッちゃってもいー訳?」
「そんなのダメに決まってるでしょうーーーっ!」
「だ・か・ら!天蓬だったらこーやって触るよなー?とか。お前の手や舌を想い出しながらヌイてんじゃん」
「け…捲簾が…僕をオカズに…恥ずかしいコトいっぱいシテ…」
妄想でいっぱいいっぱいになった天蓬が、視線を遠くのお空へ漂わせる。
きっと捲簾が考えている百倍はとんでもない痴態を想像しているだろう。
ベッドの中で天蓬の下肢がモゾモゾ蠢く。
「でもな〜。すっげぇ天蓬とヤリたくっても、お前が動けないんじゃ無理だし」
「そんなことありませんってばっ!」
「あるわ。バカヤロウ!」
興奮気味に飛びかかってくる天蓬の頭上にドスッと手刀を喰らわす。
「いっ…たいですぅ…っ」
頭を押さえて踞り、天蓬が涙目になって抗議した。
ぷぅっと頬を膨らませて拗ねる天蓬に、捲簾は呆れた視線を投げつける。
「今のお前じゃ俺がイク前に腰が砕けて終わりだって。んなの生殺しじゃねーか」
「捲簾の発言の方が生殺しですって〜」
天蓬は股間を押さえて泣き言を漏らした。
捲簾が我慢しているなら天蓬だって同じ。
これだけずっと一緒にいて匂いだけでも欲情しているのに、何も出来ないジレンマは捲簾以上だ。
天蓬が上目遣いで悔しそうに睨んでいると、捲簾の顔が近付いてきた。
「だから、さ?早く動けるようになって欲しい訳よ」
「動けるようになったらって…どれぐらいですか?」
「そうだなぁ…支えが無くても前に歩けるぐらいかな?そしたら…」
吐息が天蓬の耳朶を掠める。

「お前が好きなコト…いーっぱいシテやっちゃうんだけど?」

低く甘い声音で囁かれ、天蓬の身体がビクンと痙攣した。
勢いよく捲簾の方を振り向くと、鬼気迫った真剣な表情で詰め寄ってくる。
「本っ当ぉーに!僕がお願いしたら何でもシテくれるんですかっ!」
「…シテ欲しくねー?」
「欲しいに決まってますっ!」
天蓬は即答すると、上掛けを勢いよく跳ね避けた。
ベッドサイドに置いてあった車椅子を回転させて、勢いのまま身軽に乗り移る。
「こんなダラダラしてる暇はありませんよっ!捲簾ちゃっちゃとリハビリ室へ連れてって下さいっ!」
唐突にヤル気を漲らせた天蓬が、車椅子を押すよう捲簾を即した。
欲望が絡むとこうも変貌するのか。
呆れるのを通り越して感心してしまう。

まぁ、そんな天蓬は馬鹿正直で可愛いけど。

早く早くと腕を振り回し子供のように急かす天蓬を、捲簾は軽く小突いて大人しく座ってろっ!と怒鳴りつける。
それでもじっとしていない天蓬を叱って大騒ぎしながら、二人は病室を出てリハビリ室に向かった。



Back     Next