あなたへの月



「天蓬…今日は天気いいぞ?すっかり暖かくなった。マンションの側の桜並木が満開で、すっげー綺麗でさ。お前引っ越しの時見て、悟空や金蝉…みんなで花見が出来るって楽しみにしてたよなぁ」
規則正しい電子音だけが聞こえる真っ白い部屋。
捲簾は簡素な椅子に腰掛けて、眠っているヒトに話しかける。
両手で握り締めた掌には、生命の温もりが確かにあった。
「…見せたかったなぁ」
自分よりも少し低い体温の掌をギュッと握り締め、捲簾は額を押しつける。
この病院の中庭にも桜の木はあるが、病室からは離れていて見えなかった。
最近は入院している患者達が、長閑に花見をしている光景を良く目にする。
「あ、そうだ。俺最近猫飼ってるんだ。金蝉はシャムの雑種じゃないかって。結構美人なんだぜ?コイツが頭痛ぇぐらいお前にソックリでさ、お前にも会わせてやりてぇんだけど…病院に猫は連れて来れないからなぁ」
捲簾は天蓬の手を握り締めながら、クスクスと笑いを零した。
「でもお前とは気が合わねーかも?お前ってヤキモチ焼きだし、俺の近くに居るヤツには人だろうが物だろうが心狭いし。それに自分に似てるなんてますます拗ねてふて腐れそうだよな」
天蓬に話ながら、捲簾がふと考える。
猫のてんぽうの方はどうだろう。
動物の方が好き嫌いハッキリしてそうだし。
ましてや自分を小馬鹿にしたっていう理由で、金蝉に反抗しているぐらいだ。
自分にそっくりな思考回路を持つ天蓬と会ったら。
「…すっげぇ面白いかも」
捲簾は天蓬とてんぽうが捲簾を取りあって大喧嘩している想像をして、思いっきり噴き出した。
病室で大声は出せないので、必死に笑いを噛み殺して肩を震わせる。
発作が治まるまで一頻り笑うと、捲簾が浮かんだ涙を拭って顔を上げた。
「今度、写真撮って見せてやるから」
細い指先に口付けると、捲簾は天蓬を見つめて微笑んだ。






猫を拾ってから、捲簾の生活は一変した。
毎日が何かと楽しくて慌ただしい。
あれからすっかり元気を取り戻した猫は、少し肉も付いてきた。
浮いていたアバラも今では目立たない。
エサもちゃんと食べるし、捲簾が食事をしていると焼き魚など欲しがったりする。
捲簾にも懐いて、部屋の中何処へ移動するのにも必ず後から付いて回った。
さすがにトイレだけは有無を言わさず閉め出すが、出てくるまでじっと扉の前で待ってたり。
風呂に入ろうとすれば自分も一緒に入ると言わんばかりに、捲簾が服を脱いでいる間に自分からバスルームに入って待ってる始末。
捲簾が猫を洗おうと連れて行くと猛烈に嫌がるクセに、捲簾とは一緒に入りたがる奇妙な猫だった。
それも毎日過ごしていれば慣れて日常となる。

しかし。
最近、捲簾には気になることがあった。

「猫ってさぁ〜普段何やってんのかね?」
「あぁ?」
患畜のカルテを整理していた金蝉に、捲簾が疑問をぶつける。
「ほら、俺って普段昼間はマンションいねーじゃん?その間てんぽうって一匹でなにやってんのかなーって、さ。気になった訳よ」
「んなの簡単じゃねーか。猫は1日の大半を寝て過ごすモンだ。お前が戻ってくるまでは寝てるんだろうよ」
くだらねーこと考えてんじゃねー、と金蝉はブツブツ悪態吐いた。
捲簾はひょいっと肩を竦める。
「金蝉トコはさ。悟空が居るからポチが普段何してっか分かるだろうけど。1日は結構長いんだぞ?猫だってずぅ〜っと寝てるはずねーじゃん」
「だったら監視カメラでも何でも付けりゃいーだろうが」
「まぁ、そこまでは。何となく気になってたんだけどさ…この前変なことがあって」
「あ?何がだ??」
いつまでも話を続けそうな捲簾の様子に、金蝉は仕事をするのを諦めた。
不機嫌そうに髪を掻き上げると、クルッと椅子を回して診療台に寄り掛かる捲簾の方へ向ける。
「そういや、悟空は?」
「ポチの散歩に行ってる」
小学校から帰ってくると、悟空は飼い犬のポチを散歩させるのが日課になっていた。
どうやらタイミングが悪かったらしい。
「せっかくケーキ土産に持ってきたんだけどな〜」
「テメェも仕事さぼってんじゃねーよ」
「俺は出先から戻るついでに寄っただけだしー?」
「…言ってろっ!」
金蝉がイライラと吐き捨てると、捲簾は我関せずと適当に聞き流す。
「それで。猫がどうしたんだよ?」
「あぁ!そうそう。先週なんだけどさ。まぁ、そんなに遅くはならずに帰ったんだよな。いつもてんぽうが玄関まで迎えに来るんだけど、その日は来なくて。てっきり寝てんのかなーって思ったんだけど」
「何だ…違うのか?」
いちおう動物の行動ということで、金蝉も興味があるらしい。
面倒くさがって邪険にしてた割りには、捲簾に話を即した。
「その日の前にも…気付いたことがあって」
「…何かあったのか?」
「部屋がさ、出かける時と帰ってきた時…状態が違うんだよ」
「状態?」
捲簾が上着のポケットをゴソゴソ探って煙草を取り出す。
火を点けようとすると金蝉が睨み付け、換気扇を回せとスイッチを指差した。
はいはい、と適当に返事をしながら、スイッチを入れて来る。
煙を吸い込んで一息吐くと、持っていた携帯灰皿にポンッと灰を落とした。
「俺さ、結構綺麗好きなの。だから、いつも部屋は掃除してるし物も整理してるんだけど。どうも最近戻ってくると部屋が汚れてるんだよな」
「あぁ?猫が走り回って物落としたりしてんのか?」
「それだったら、そんなもんか〜って別に気にもしねーけど。帰るとさ、リビングに雑誌や新聞が乱雑に広げてあるんだよ」
「は?雑誌や新聞が…か?」
金蝉が目を丸くして訊き返すと、捲簾は眉を顰める。
「やっぱ金蝉も変だって思うだろ?雑誌とか新聞がさ、ページ開いたままバサバサッてあっちこっちに落ちてるんだぞ?」
捲簾が腕を組んで唸っているのを眺めて、金蝉は思案する。
「そんなに特異なことでもねーぞ。猫は紙が好きだからな。紙だけじゃなくってコンビニのポリ袋とか…ガサガサ音がする物が好きらしい」
一般的な猫の習性を説明してやると、捲簾は緩く首を振った。
「それは俺も知ってる。事務所のスタッフで猫飼ってる奴が居て、猫がそういう物好きだって言ってたから。そういうんじゃねーの」
「周りくどいコト言ってねーでさっさと吐け!」
曖昧な感じで話している捲簾に、金蝉が苛立ってキレかかる。
捲簾は何だか難しい顔で考え込むと、突然真顔で金蝉を見つめた。
一瞬言うのを躊躇うように言葉を飲み込むが、大きく息を吐くと頭を振る。
「…言っても金蝉信じそうもねーからなぁ」
「あぁ?どういう意味だ?」
「俺、嘘は言わねーから。怒らないで聞けよ?」
真剣に念を押してくる捲簾に、金蝉も不肖ながら頷いた。






捲簾が仕事から戻ったある日。
「…っ!何だぁ?コレはっ!!」
リビングにはいると、捲簾は目の前の惨状に絶句した。
「にゃっ!」
リビングでは、猫が帰宅した捲簾に気が付いて元気良く鳴いた。
「にゃ、じゃねーだろぉっ!何なんだよコレはっ!!」
「…にゃぁ?」
猫はちょこんと座って、小首を傾げる。

朝、出かける前まで綺麗に片づいていたはずのリビングは。
所狭しと雑誌や新聞がページを開いた状態で乱雑に放置されていた。
部屋を見渡せば雑誌や新聞だけではなく、棚に締まってあった本までもが何冊か落とされている。
捲簾は力が抜けて、その場にへたり込んだ。
多少の悪戯は目を瞑るにしても、これは豪快すぎだろう。
帰って早々掃除をしなければならない状態に、捲簾は深々と溜息を零した。
「てーんーぽーっ!悪戯するなって言っただろうっ!何なんだよコレはっ!!」
「にゃっ!?にゃにゃっ!!」
捲簾の剣幕に焦って鳴く猫を眺めて立ち上がると、落ちている雑誌を拾い始める。
「ったく…こんなにあるだけ広げやがって」
ブツブツ文句を言いながら、ページの開いている雑誌をキチンと閉じて抱えていった。
数冊拾い上げた所で、捲簾は奇妙なことに気が付く。
「…何で全部ページが開いてるんだ?」
もし、猫が悪戯で雑誌を落としたのならそのまま落ちていたり、開いていても伏せてある状態の物があってもいいはずだ。
ところが、リビングに落ちている雑誌や新聞は全て”読める”ようにページが開いている。
一体どういうことなのか。
念のために棚の方へ視線を向ければ、落とされている本も全てページが同じように開いていた。
捲簾は愕然とする。
「まさか…な。猫が読める訳…ねーし。偶然だな」
一瞬脳裏に浮かんだ考えを否定して、捲簾は緩く首を振った。

いくら何でも。
てんぽうが言葉を理解するからと言って、文字を読めるはずがない。

その場に立ち尽くしていた捲簾は、振り返って猫の様子に視線を向けた。
てんぽうは雑誌の前に座って、じっと紙面を眺めている。
見ている雑誌はデザイナーズファニチャーの物。
著名なデザイナーから新進気鋭のデザイナーまで、ディテールに凝った家具が紹介されている雑誌だった。
猫が見て面白いような物は、勿論載っていない。
ただ、色遣いがカラフルなので猫の興味を引いてるのだろうかと、捲簾は小さく微笑んだ。

その瞬間。
目の前で信じられないことが起こった。
猫が紙面の上にペタッと前足を乗せ、器用にページを捲ったのだ。

捲簾は驚愕で目を見開く。
呆然としている捲簾に気づきもせず、猫はまた前足を紙面に乗せて器用に肉球に紙を貼り付けるとペラッとページを捲った。
猫の表情を観察すると、視線がまるで文字を読むように動いている。
捲簾は声も出ずに呆然とした。

いくら何でもそんなことがあるんだろうか。

「…てんぽう?」
捲簾が掠れた声で名前を呼ぶと、猫は雑誌から視線を上げて捲簾を見つめた。
「にゃっ!」
嬉しそうに返事をすると、尻尾をパタパタと振る。
捲簾はぎこちなく猫へと近づき、側でしゃがみ込んだ。
「お前…雑誌読んでたのか?」
「にゃっ!」
半信半疑で訊いてみれば、猫は当たり前のように返事をする。
本当だろうか?と、捲簾が抱えていた雑誌を猫の前に何冊か並べた。
「てんぽうはこの中でどの雑誌が面白かった?」
「うにゃ?」
猫は置かれた雑誌をキョロキョロ眺めてから、1冊の雑誌に前足を置く。
「にゃっ!」
「…ソレが面白かったのか?」
「にゃぁ〜」
甘えた声音で鳴く猫が選んだ雑誌は。
捲簾が設計を手がけた美術館が紹介されている雑誌だった。
小さいながらも捲簾の写真も掲載されている。
猫はその雑誌が気に入ったらしい。
あまりにも分かり易すぎて、捲簾はつい笑ってしまった。
すると、猫は踵を返してトコトコと歩き出す。
「あ…おいっ!どうしたんだよ??」
捲簾も慌てて立ち上がると、猫の後を付いていった。
あまりにも不可思議な行動をする猫に、捲簾は戸惑いが隠せない。
猫は本棚の前に腰を落とした。
「うにゃっ!」
どうやらその本も気に入ってるらしい。
上機嫌で尻尾をパタパタ振っていた。
捲簾は近付いて愕然とする。

猫が選んだその本は。
以前、捲簾が天蓬から貰った応用力学の専門書だった。



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