あなたへの月 |
捲簾がマンションへ帰ると、いつも通り猫が玄関先で出迎えた。 しかし、何だか様子がおかしい。 いつもより元気がないような気がした。 「…どうした?てんぽう?」 「にゃ…」 返事をする声にも覇気がない。 今朝はいつもと変わらず元気だったので、早々体調が崩れると言うこともないと思うのだが。 とりあえず捲簾は猫を抱えると、ダイニングで荷物を下ろした。 椅子に腰を下ろすと猫に顔を近づける。 「んー?何か元気ねーなぁ。朝はちゃんとメシも食ってたし、腹も壊してなかったよな?」 「うにゃ…」 猫はぼんやりと捲簾の顔を見つめ返した。 もしかしたら先程まで眠っていて寝惚けているだけかも知れない。 「メシは?食えるか??」 「にゃ…」 どうやら食欲はあるらしい。 捲簾はホッと胸を撫で下ろすと、猫をフローリングへと下ろした。 自分よりも先に食事をさせた方が良さそうだ。 キッチンから猫用のエサ袋を取り出すと、それでもいつもよりは量を控えめにして器へ入れる。 「どうだ?これぐらい食えそうか?」 「にゃぁ」 捲簾が水を取り替えながら話しかけると、猫はのんびり鳴いてエサを食べ始めた。 勢いはないが、食事が出来るのなら安心して大丈夫そうだ。 暫く猫の様子を眺めてから、今度は捲簾が買ってきた物を袋から出して準備をする。 「にゃ?」 ガサガサと袋から取り出される物に、猫が興味を示した。 「あ、コレか?今日はメシ作らねーの。のんびりてんぽうと月見でもしようかと思ってさ」 「にゃ?」 猫は捲簾に言われて、窓の外へ視線を向ける。 どうやら本当に言葉が分かっているらしい。 外を確認して不思議そうに捲簾へ視線を戻した。 「今日は今世紀稀に見る皆既月食なんだってよ。都内でも天気良ければ綺麗に見えるらしいから、月見でもしながら酒飲もうかと思ってさ」 そう言うと捲簾は酒瓶を目の前で揺らして見せる。 「にゃ〜」 納得したように鳴くと、猫は再び食事を再開した。 猫が食事をしている間に、捲簾がリビングのソファを移動し始める。 どうせならフローリングに座り込んで酒宴をするつもりらしい。 窓の前からソファを壁際へ移動して軽くモップがけしてから、クッションを2〜3個ポンッと投げた。 買ってきた出来合いの食事を皿へ盛り直し、大きめのトレーへ載せると窓際へ持っていく。 酒をグラスに注いでいると、食事を終えた猫がトコトコと捲簾の元へやってきた。 「にゃぁ」 胡座を掻いて座り込んだ膝に上がって丸くなる。 背中を撫でてやると、気持ち良さげに喉を鳴らした。 窓から見える天上の月は、まだ淡く輝いている。 覆い隠されるまでまだ少し時間が掛かりそうだ。 「てんぽうは皆既月食見たことないよな?」 「にゃっ!」 捲簾が顔を覗き込むと、顔を上げて返事をする。 「俺もテレビでは見たことあるんだけど…本当にあんな綺麗に光の輪っかが見えんのかねぇ?」 「にゃ〜?」 どうやら猫も半信半疑らしい。 思わず人と話しているような感覚に、捲簾は小さく笑った。 「綺麗に見えるといいなー…」 捲簾は空を見上げながら、グラスに口を付ける。 冷えた酒が喉を滑り落ちるのが心地良い。 こうして猫と一緒の奇妙な酒宴が静かに始まった。 大分酒も進んで、捲簾は微酔い加減で時計を見た。 もうすぐ深夜3時になろうとしている。 空では月が太陽の影に大分隠れてきていた。 もうすぐ天上で綺麗に光の輪が現れるだろう。 「ほら、てんぽう。もう少しで皆既月食が見れるぞ?」 捲簾の側に置いた藤カゴで丸くなっていた猫が、ぼんやりと顔を上げた。 何だか呼吸がおかしい。 苦しそうに胸を喘がせ、顔を伏せてしまった。 「…おい?どうしたんだ、てんぽう?大丈夫か?」 突然体調を急変させた猫に、捲簾が慌てて近付く。 背中を撫でながら前足をそっと握ると、肉球がかなり汗ばんでいた。 熱でも上がっているのだろうか。 「マズイな…しゃーねぇ。金蝉に電話して診て貰った方がいいな。てんぽう、ちょっと我慢しろよ?病院に連れてってやるからなっ!」 捲簾が携帯で電話しようと腰を浮かし掛けた時。 突然猫がゆっくりと身体を起こした。 そのまま藤カゴから出ると、身体をふらつかせながら床を歩いていく。 「おい?てんぽう…何処に行くんだよ?」 リビングの真ん中まで歩いたと思うと、身体が揺らいでそのまま倒れ込んだ。 ドサッ。 目の前で猫が動かなくなり捲簾は驚愕する。 「てんぽうっ!?」 焦って捲簾が猫に駆け寄ろうとしたが、ふいに不思議なことが起こった。 床に倒れた猫の身体が淡く光り始めたのだ。 「な…んだ?あれ…っ」 淡い光は猫の身体を包むように輝いて、その容積が次第に大きくなっていく。 目の前で起こっている現象に、捲簾は大きく目を見開いて動けなかった。 どんどん光に覆われていく小さな身体を呆然と見守る。 「何だよ?一体何がっ!?」 捲簾がどうしたらいいか分からず呟くと、光の容積が一気に膨張して球状に大きく変化した。 その時。 「うわぁっ!?」 膨張した光が一気に破裂して、眩い閃光が捲簾の目を焼き付けた。 あまりの眩しさに腕で目を覆って身体を屈める。 天上では皆既月食が。 光の輪が厳かに輝きを放つ。 しん、と静まり返った室内。 「あ…てんぽうっ!?」 動揺して身動き出来ずに身体を強張らせていた捲簾が、漸く我に返った。 光に一瞬で視界を奪われ、なかなか瞼が開けられない。 「てんぽうっ!てんぽうっ!?」 それでも倒れた猫が心配で、捲簾は必死になって名前を呼んだ。 頭の中は困惑したまま。 さっきの異常な光は何だったのか? 何で突然猫の身体があんなことになったのか? 一体目の前で起きた現象はどういうことなのか? それよりも何より、猫は大丈夫なのか? ただ焦りと戸惑いで、捲簾はひたすら猫の名前を呼び続ける。 すると。 「いっ…たたたた…もぅっ!何なんですかねぇっ!あ、コブが出来てるじゃないですかぁ!!」 唐突に聞こえた声に、捲簾の身体が大きく震えた。 聞きたくて、聞けなくて。 毎日毎日、祈るように切願していたヒトの声。 見えない先から、愛したヒトの声が聞こえてきた。 「てん…ぽ…う?」 確かめる声が掠れてしまう。 心臓がバクバクと脈打って、今にも破裂しそうだ。 今すぐ目を開いて姿を見たいけど、光に焼かれた瞳が開けられない。 もどかしい想いに、捲簾は手を差し伸べた。 「天蓬…?」 「あれ?捲簾どうしたんですか?目がおかしいんですか!?」 目の見えない暗闇から、誰かが近付いてくる気配がする。 それは捲簾がよく知っている、優しい…愛しい存在。 「天蓬ぉ…っ!」 どうして、何て考えられなかった。 ただ捲簾が懇願して望んだヒトが今目の前にいる。 それだけで良かった。 歓喜で溢れる涙が止まらなくなる。 もっともっと、声が聞きたい。 この目で存在を確かめたい。 捲簾が手を伸ばすと、そっと身体が抱き寄せられた。 「天蓬っ!!」 「どうしたの?捲簾…そんなに泣いたりして。目が痛いんですか?」 耳元で優しい声音が蕩けて響く。 必死になって身体にしがみ付きながら、捲簾は緩く首を振った。 「本当に大丈夫?捲簾はいつも無理をするから」 頭を抱き寄せられ小さく宥めるように囁かれると、もっと涙腺が壊れてしまう。 「じゃぁ…ゆっくり少しずつ目を開いて、何度か瞬きして…見えますか?」 「ん…」 言われた通りゆっくり瞬きをすると、まだぼやけるが周りの様子が見えてきた。 「…痛いですか?」 「何か…大丈夫そう」 「良かった」 捲簾は霞む視界で、目の前にいる愛しい存在を確かめる。 しかし。 捲簾は驚愕で目を見開き、呆然と自分を抱き寄せるヒトの顔を眺めた。 確かに目の前で微笑んでいるのは、逢いたくて堪らなかった恋人の天蓬だったが。 捲簾の知っている天蓬とは、若干違っていた。 思わずぽかーんと口を開けてしまう。 「どうかしましたか?そんなにまん丸く目を見開いたりして??」 様子に気付いた天蓬が、小さく首を傾げた。 「天蓬…なんだよな?」 「当たり前でしょうっ!貴方は恋人の顔を忘れるようなおバカさんですかっ!」 「誰がバカだっ!だって…お前…ソレ」 捲簾はチラチラと天蓬の頭に視線を向ける。 先程から視界をちらつくソレが気になって仕方なかった。 しかもそれだけじゃない。 視線を落とせば、やはり捲簾の知っている天蓬にはあり得ないモノが。 「…何か落ち着きないですねぇ。どうかしたんですか?気になるじゃないですかぁ」 気になってるのは俺の方だ! 大声で喚いて反論したいのをグッと堪えて、何度か深呼吸を繰り返す。 捲簾はコホンとわざとらしく咳払いをすると、ジッと天蓬を睨め付けた。 「俺はさっきまで”てんぽう”と一緒に居たんだけど?」 「あっ!ソレですよ!何だって猫に僕の名前なんか付けるんですかぁ〜?ま、僕だって分かってて付けたなら、これはやはり愛ですよねvvv」 「…どうりで。似てる訳だよな」 捲簾はガックリと天蓬の肩に項垂れる。 「ん?どうかしましたか??」 脱力する捲簾を支えながら、天蓬はきょとんと目を瞬かせた。 捲簾が偶然か運命の導きで拾った猫は。 どういう経緯か理由か分からないが、天蓬そのものだったらしい。 その証拠に。 今、目の前にいる天蓬には。 髪と同じ焦げ茶色のピンッと尖った猫耳と、長くしなやかな尻尾が付いていた。 |
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