Valentine Attraction



ぐるりとキッチンを見渡して、八戒は溜息を零した。
とにかくこのままにしておく訳にはいかない。
「とりあえず…片づけをしてからですね」
八戒が振り返ると、天蓬はダイニングの椅子に腰掛け、ナゾの物体が埋まった鍋を首を捻りながら覗き込んでいた。
「おかしいですねぇ…ちゃんと本を見て作ってたんですけど」
独り言ちる天蓬を無視してテーブルの上に視線をやれば、そこにはチョコレート菓子のレシピ本が乗っている。
どこの本屋にでも売っている一般的なレシピ本だ。
勿論ナゾのゲル物質の作り方など一切載っていない。

本に書いてある通りに作ったら、そんなモノが出来上がる訳ないだろうっ!

突っ込みたい言葉を飲み込んで、八戒はモクモクと布巾でブヨブヨの物体を拭いていった。
そのまま流してしまってもいいものか分からないので、とりあえずは流しに袋を置いて真っ黒いゲル物質を集めていく。
「うっわー…気持ち悪いっ!コレ本当にチョコから作ったんですかぁ?」
「チョコから作ったんじゃ無くってチョコですよ、それ」
天蓬は鍋に指を入れて、ナゾの物体を突っついて一掬いした。
じっと自分の指先を眺めていたかと思うと、それを自分の口へ運ぼうとする。
「うわああああぁぁっ!ダメですよ天ちゃんっっ!!」
顔面蒼白で悲鳴を上げた八戒が、必死になって天蓬の指を捕まえて押さえ込んだ。
あまりの恐怖に八戒の額から脂汗が伝い落ちる。
しかし当の本人はパチクリと瞳を瞬かせ、不思議そうに指と八戒の顔を交互に見遣った。
「何でそんなに慌てるんですか?」
「慌てるに決まってるでしょうっ!そんなモノ食べられる訳ありませんよ…お腹壊してもいいんですか!?」
「お腹って…だって僕チョコ作ってただけなんですよ」
しゅんと気落ちして天蓬が項垂れる。
珍しくしおらしい天蓬に、八戒は焦って掛ける言葉を探した。
天蓬だって愛する捲簾のために、頑張ってチョコを作ろうとしたのだ。
普段は面倒臭がって、生活の大半を他人任せにしているような天蓬が。
誰かのためを想ってやったこともない料理までしようとしたのも、八戒の記憶を辿っても全く思い当たらないから初めてだろう。
そういう天蓬の気持ちを、勿論八戒は十分理解した。
しかし頭では分かっても、実際にこの物体を目の前にしては推奨も出来ない。
「天ちゃんは今まで料理したこと無いんですから、本を読んだからと言って手順も仕方も良く知らないでしょう?」
天蓬はチラッと八戒を見上げた。
「そうなんですよねぇ…説明読んでも作り方に専門用語が書かれてると、どうしたらいいのか分からなくて。多分こういうことなのかなーってカンでやってみたんですけど」

そのカンが不味いんです。

喉まで出かかった言葉を八戒は必死に飲み下した。
「料理は慣れてる人はカンでもいいですけど、初めて作る時はより正確にレシピに沿って作るもんなんですよ」
「…そういうもんなんですか」
「そういうもんなんです。とにかく天ちゃんシャワー浴びて、そのデロデロにチョコで汚れてる身体綺麗にしてきてくださいよ。その間に僕はここ片づけちゃいますからね」
「はぁ…そうします」
天蓬は力無く応えると、フラフラしながらバスルームへと消えていった。
ドアの閉まる音を聞くと、八戒は改めてキッチンを眺める。
ダイニングテーブルには、天蓬が見ていたらしいお菓子のレシピ本が。
八戒は手に取るとそのページを見た。
「天ちゃんトリュフ作ろうとしてたんですか…それが何であんな物体に。無謀すぎでしょう」
此処に来て何度目かになる重々しい溜息を吐いて、本をカウンターの方へと避ける。
壁に掛けてあったエプロンを取ると、慣れた手つきで付けて紐を結んだ。
「さてと。さっさと片づけちゃいましょう!」
八戒は気合いを入れると、ナゾのゲル物質と再度闘い始めた。






「…おかしいですよねぇ。何であんなになってしまったんでしょう?」
湯を張ったバスタブに浸かって、天蓬がのんびりと考え込む。
確かに本に書いてある通り忠実には作らなかったが、天蓬だって普段から好きでチョコは食べている。
どういう風に作るのかは分からなくても、チョコがどういう物なのかは分かっていた。
「それにただチョコを溶かしただけだったのに…う〜ん?」
乳白色のお湯に天蓬はブクブクと沈み込む。

八戒が訪れる1時間前。

とりあえず本番に向けて予行練習してみようと、天蓬はダイニングテーブルにレシピ本を広げて材料を置いた。
「えっと〜まずチョコを湯煎にかけて溶かす、と。湯煎?鍋でチョコ溶かすんじゃないんですか?湯煎って何でしょう??」
天蓬が本を眺めながら唸り出す。
暫く本を睨み付けて考え込むが、そうしていた所で分かる訳がない。
「湯煎っていうぐらいですから、チョコをお湯で溶かすのかな?」
天蓬はとりあえず手頃な鍋に水を入れると、火に掛けてお湯が沸くのを待った。
その間に何かすることはないかと、また本を読み始める。
「チョコは溶けやすいように細かく刻んでおくんですか。えー?包丁でこんなにするんですか〜?面倒だなぁ…細かければいいんですよね?」
天蓬は袋を漁って、板チョコを取り出した。
銀紙を剥くと、板チョコをパキパキと割っていく。
ついでに欠片を一つ摘んで、口に中へと放り込んだ。
「…苦い。本当にこんなチョコが捲簾はいいんでしょうか?」
甘党の天蓬にはよく分からない。
そうしていると鍋の中のお湯が沸騰した。
「あ、沸きましたね♪」
普通本に載っているのはお湯の沸いた鍋を下ろして、その上に適度な大きさのボールを置き、その中に細かく砕いたチョコを入れてゆっくりとお湯の余熱でチョコを溶かしていく。
正しく『湯煎する』とはそういうことだ。
しかし、天蓬はその『湯煎』自体を知らなかった。

そこで天蓬の起こした行動と言えば。

あらかじめ割ったチョコを、何を考えたのか天蓬は湯の沸いた鍋へと放り込んだ。
しかもコンロには火をかけたまま。
チョコは鍋の底へとどんどん沈んでいった。
「さてと。これでチョコが溶けるのを待てば良いんですよね」
天蓬が上機嫌に鍋を覗く。

10分経過。

「…なんか薄いかな?膜も張ってるし。何でだろう??」
鍋の中では薄茶色のお湯に油が浮いてきていた。
とりあえず天蓬は鍋の中を掻き回してみる。
それでも底に沈んだチョコとお湯が混じることはない。
「あれ?これじゃチョコを固められませんよねぇ…どれどれ」
天蓬は再度本を手に取ると、載っている写真を眺めた。
トロリと溶けたチョコの写真がそこには載っている。
「…どうやったらこうなるのかな?粘りが足りない?う〜ん…」
グツグツと煮え立つ鍋を見下ろして、天蓬が首を捻りながら思案した。
「あっ!そうだ。粘りが出ればいいんですよね♪」
天蓬は突然キッチンから出ると、書斎に使っている部屋へと向かう。
キャビネットを開けたり閉めたりして、何かを探しているようだ。
「あった!コレを入れれば大丈夫でしょうっ!」
嬉々として戻ってきた天蓬は、袋を開けるとスプーンで中に入っている白い粉を掬って鍋の中に入れる。
「もうちょっと入れた方がいいかな?」
更に掬うと白い粉を鍋の中に入れて、グルグルとスプーンで掻き回した。
暫くすると小さな泡が立ち始めて、中の水分に粘りが出始める。
「あ、やっぱり入れて正解でしたね〜」
天蓬は大喜びで鍋の中を覗いた。

天蓬が入れた白い粉。
それは重曹だった。

細かい気泡がどんどんと出来て、液体の容積が増え始めた。
その間も天蓬は本を眺めて確認する。
「うーん…なんか色が違いますよね?もっと茶色いしトロ〜って感じだし…そうだっ!」
またもや何かを思いついて、天蓬は冷蔵庫を開けた。
「きっとチョコが足りないんですよね!」
天蓬は昨日昼に買って残っていたトリュフチョコを、鍋の中に全部入れる。
「あとはとろみか…確か八戒がこの辺に入れておいてますよねぇ」
今度はキッチンの棚を手探りして、調味料ポットを取り出した。
ポットの中身は片栗粉。
「どれぐらい入れたらいいんでしょうか?どうせなら沢山の方がいいのかな?」
勝手に納得すると、天蓬はポットに入っていた片栗粉をひっくり返して全部鍋の中に落としてしまった。
天蓬はそれら全ての入った鍋を、じっくり観察する。
「ん?何かあんまり反応ありませんね?火が弱いのかな??」
呟くとコンロの火を強火に変えた。
「さてと。後は全部溶けるのを待てばいいんですよね〜」
待つ間時間が余ってしまった。
珍しく慣れないことをしているせいで喉も渇いてしまう。
冷蔵庫を開けてミネラルウォーターの瓶を出すと口を付けた。
おさらいしようと本を手に取り、眺めていると。

プスッ。

何だか気が抜けるような音が鍋からしてきた。
何事かと天蓬が鍋に視線を向ける。
「え…あ…あれっ!?」
鍋の中から山のように膨らんだ真っ黒いゲル状の物質が、次から次へと溢れ出していた。
どうしていいか分からず、天蓬は呆然と鍋の変化を眺める。
そうしている間にもナゾのゲル物体は鍋の中で更に膨張し、溢れ出してはボタボタと床に落ちていった。
「ど…どうしようっ!」
焦って天蓬がうろついていると、鍋のゲルがめいいっぱい膨れ上がった。
すると。

ボシュッッ!!!

「うわああああぁぁっっ!?」
突然中身が爆発を起こし、部屋中にゲル状物質が派手に飛び散った。
「熱っ!」
慌てて腕で庇うが、容赦なく天蓬の身体にドロッとした物が降ってくる。
これ以上破裂したら大変だと気づいて、漸く天蓬はコンロの火を消した。
へなへなと天蓬は床に尻餅を着く。
茫然自失で部屋中を見渡すと、キッチンも床も天井も自分の作り出したナゾの物体で汚れていた。
天蓬はガックリと項垂れて視線を落とす。
ちゃんと本を見たのに。
捲簾にどうしても手作りのチョコをプレゼントしたくて、やったこともないお菓子作りにも頑張って挑戦した。
それもこれも捲簾に喜んで欲しかったから。
あんなに嬉しそうに微笑んで、自分からのチョコを欲しいと想ってくれてる。
捲簾が望んでいるなら、どんなことだって出来た。
それがしたことのない料理だって。
捲簾のためなら何だってしようと思ったのに。
それなのに、どうして。
どうして自分はこんなにも不器用なんだろう。
どんなに見た目が良くたって、収入があったって。
自分がこの世で一番大切で大好きな人の願いさえ叶えられないなんて。
自分自身オールマイティーな人間だと自惚れてもいないけど。
それでも。
これほど自分を不甲斐ないと思ったことはない。

「僕はただチョコを作っていただけなのに…」

天蓬の力無い呟きを聞いてくれる者は誰も居なかった。



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