White day Attraction



「あぁー…憂鬱ぅ」
捲簾はマンションの駐車場に車を止めると、鞄と買い物袋を手に降りた。
キーをロックすると、深々と溜息を零す。
まだ夕方といえる時間だが、すっかり陽は落ちて薄暗くなっていた。
それでも春が近いせいか、大分日は延びているように感じる。
食材の入った買い物袋を持ち直して、捲簾は駐車場から直通のエレベーターへ向かった。
悟浄の車とバイクは止まっていたから、簾は帰っているはず。
きっとお腹を空かせて捲簾を待っているだろう。
エレベーターのボタンを押して、捲簾はぼんやりと降りてくる階の数字を見上げた。

早く帰りたいけど、帰りたくない。
と、いうより。
この瞬間でいいから時間が止まって欲しい。

それが今の捲簾の切実な願いだ。
このまま帰宅して、夕飯の支度をして息子に食事をさせ。
一緒に風呂へ入って、お風呂おもちゃで遊ぶ簾を宥めながら身体を洗わせたり。
風呂から上がったらビールでも飲んでくつろいで。
簾のゲーム対戦に結構ムキになって付き合ったりして。
少ししたら簾も眠くなるだろうから寝かしつければ、後はゆっくりと自分の時間が過ごせる。

…はずだった。

普段の穏やかな当たり前の日常なら。
しかし、今日は違う。
ただでさえ週末で、明日は土曜日で。
「よりによって、何で天蓬が来る金曜にホワイトデーなんか当たるんだよぉっ!」
今日は恋人達のスペシャルイベント、ホワイトデーで。
しかも明日は起きあがれなくっても大丈夫、ゆっくり過ごしなさいと言わんばかりに休日で。

そんな日に。
あの天蓬が。
大人しく添い寝して素直に眠る訳が無く。

尚かつ、とんでもない要求を捲簾に突き付けていた。
天蓬がどこまで暴走するのか、捲簾にさえ見当が付かない。
想像することを頭が拒絶していた。
「…クソッ!」
捲簾はエレベーターの扉を拳で殴った。
それと同時にタイミング良く扉が開く。
エレベーターに乗り込むと、奥へ寄って背中で凭れ掛かった。
軽い浮遊感と共に、エレベーターが上昇していく。
「はぁ…アイツ何時に来るんだろ?」
捲簾は溜息混じりに呟くと、後頭部を壁にぶつけた。

今日の昼。
天蓬と一緒に昼食を取らなかった。
昼の少し前に天蓬から捲簾の携帯に電話が入り、どうやら怪我をした急患が来るらしく病院で待機しなくてはいけなかったらしい。
仕事なら仕方ないだろうと、拗ねてご機嫌斜めの天蓬を宥めた。
急患の乗った救急車が到着したらしく、呼ばれた天蓬が慌てながら捲簾に謝って通話が切れる。
何だか気が抜けて携帯の画面を眺めて呆けていると、唐突に今日の予定を思い出した。
天蓬が自宅に来る時間を確認しなかった事に気付く。
まぁ、来たら来たでアレだし。
いっそ急患の容態を24時間態勢で見ていなくてはならない。
なぁ〜んてことになんねーかな、などと捲簾は不謹慎なことを考えてしまった。
それほどまでに天蓬との約束は気が重いのだ。

今夜はボンデージ緊縛拘束プレイを強要されるなんて。

「…やっぱイイなんて言わなきゃよかった」
自宅階に着いたエレベーターを降りると、捲簾はトボトボと自宅に向かう。
そういうモノに刺激を求める性癖を否定するつもりはないが。
「断じて俺は違うぞーっ!!」
捲簾が叫びながらグッと拳を握った。

…こんな場所で一人虚しく否定したって意味無いけど。

ブツブツとぼやいて捲簾は自宅のドアを開けた。
「ただいま〜。簾、帰ったぞ〜」
玄関先で声を掛けるが、いつもは飛び出してくるはずの簾が来ない。
「…あれ?」
不思議そうに首を傾げて靴を脱ぎ、ダイニングへと歩いていった。
明かりは点いてるし、人の気配もある。
何やら簾の楽しそうな声も聞こえてきた。
「ただいまー…」
ひょいと長身を伸ばして、捲簾はリビングを覗き込んで声を掛ける。
しかし、そこに居たのは。

「あっ!捲簾おかえりなさ〜いvvv」
「てっ…天蓬っ!?」

自宅のリビングに。
何故か天蓬が簾を膝抱っこして絵本を読んでいる。
「パパおかえりー♪」
簾は天蓬に抱き抱えられた状態で、ニコニコと捲簾に手を振った。
捲簾は荷物を持ったまま、呆然とダイニングに立ち竦む。
唐突すぎて状況が頭まで上手く伝わらない。
「捲簾?どうかしましたか?けんれ〜ん??」
硬直して身動ぎしない捲簾を、天蓬は不思議そうに見つめた。
それでも捲簾はピクリとも動かない。
さすがに心配になって、天蓬が抱えていた簾をソファに座らせると、捲簾の元へ近付いた。
「捲簾?」
「うっわあああぁぁっ!!」
ぽん、と肩を叩かれ、捲簾が絶叫しながら跳び上がる。
「え?何なんですか??」
あまりの驚きように、天蓬がまん丸く目を見開いた。
そんなに驚かせるように声を掛けたつもりはなかったが。
捲簾は瞬きもせずに、まじまじと天蓬を見つめてくる。
「えーっとぉ…」
いくら声を掛けても捲簾からまともな反応が返ってこなくて、天蓬はちょっと途方に暮れた。
捲簾がそれだけ驚く理由が分からない。
ただ天蓬はいつもどおり捲簾の家へ遊びに来て。
捲簾より先に着いてしまったので、その間簾の面倒をみたり。
漸く帰宅した捲簾にただ声を掛けただけで、別段おかしな行動もしていないはずなのだが。
相変わらず捲簾は天蓬を見つめながら立ち竦んでいる。
さすがにどうしようかと天蓬が思案すると、捲簾の手から持っていた荷物が落ちた。
「あ…れ?うわっ!タマゴ入ってるんだったーっっ!!」
漸く我に返ったらしい捲簾が、慌ててしゃがんで袋の中身をゴソゴソと確かめだす。
「よかった…潰れてねー」
タマゴの無事を確認すると、捲簾は袋を持ち上げテーブルへと置き直した。
ほっと溜息を吐いてると、間近で心配そうに天蓬が顔を覗き込んでくる。
「捲簾大丈夫ですか?何か仕事であったとか…」
今日は昼前に急患が入ったおかげで、こうして捲簾と顔を合わせるのは初めてだ。
普段何かあれば、昼食を取る時に察することも出来るし、何の手助けにならなくても話ぐらい聞いてあげることができるけど。
捲簾を気遣う天蓬の気配に、捲簾は僅かに頬を染める。
何だか天蓬に心配されると、気恥ずかしいけど嬉しい。

が。

その挙動不審の原因そのものが天蓬自身にある。

複雑な心境で、捲簾は天蓬に笑顔を向けた。
「何でもねーよ。俺より先に天蓬が来るなんて珍しい、つーか初めてだろ?ちょっと驚いただけだって。それにしても早ぇよな?仕事大丈夫なのか?」
ちょっと顔が引き攣ってしまうのは勘弁して欲しい。
それほど捲簾は動揺していた。
天蓬は腕を組んでちょこんと首を傾げる。
「そうでしたっけ?今日は夜勤明けなので早上がりなんです」
「…チョット待て。夜勤明けって!じゃぁお前寝てねーのかっ!?」
「チョコチョコ仮眠は取ってましたよ?昨夜は夜間の急患も小児科は2人だけでしたし。命に係わるような病気でも怪我でもなかったので。仕事も一段落ついたから、早いかな〜と思ったけど、こうしてお邪魔しに来たんですvvv」
「バカッ!早く上がれたんなら、家で寝てから来いっ!ぶっ倒れたらどうすんだよっ!!」
猛烈な勢いで捲簾は天蓬を怒鳴りつけた。
無精で不摂生が日常当たり前な天蓬は、捲簾が何でそんなに怒るのかが分からない。
きょとんと目を見開いて驚いていると、天蓬は唐突に腕を掴まれた。
そのままズルズルと引きずられて行く。
「ちょっ…いきなりどうしたんですか、捲簾っ!」
「いーから来やがれっ!」
捲簾の剣幕に天蓬は口を噤むと、大人しく付いていった。
行き先は捲簾の寝室。
「うわっ!?」
思いっきり腕を引き寄せられたかと思った瞬間、強引にベッドへ放り投げられた。
天蓬の身体がベッドのスプリングで派手にバウンドする。
起き上がろうと肘を付くと、すかさず捲簾が覆い被さって押さえつけた。
「…寝ろ」
「え?」
天蓬はコロンと身体を転がされ、捲簾に布団を掛けられる。
ポンポンと布団を叩くと、捲簾は満足そうに頬笑んだ。
「よしっと。いいか?メシの用意が出来るまで大人しく寝てろよ?出来たら呼びに来るから」
「あ…あのっ…捲簾?」
慌てて起き上がろうとする天蓬の肩を捲簾が強く押し返して許さない。
もぞもぞと居心地悪そうに布団の中で身動ぐ天蓬を眺め、捲簾は深々と溜息を零した。
「いーから。ちょっとでも目ぇ閉じて寝てろよ。お前自分で分かってねーかもしれないけど、目も充血してるし顔色も良くねーぞ?」
「そう…なんですか?」
「そうなのっ!簾のことはいいから。少し横になって目閉じてるだけでも大分楽になるはずだし」
「…捲簾が見えなくて僕が寂しいんですけど」
天蓬は自分の頭を撫でている捲簾の手をキュッと掴む。
じっと拗ねながら上目遣いで睨む天蓬を、捲簾は仕方なさそうに肩を竦めた。
「ちゃーんと仮眠しないと、マジで怒るぞ?」
真剣な表情で見下ろしてくる捲簾を見上げ、天蓬は漸く大人しく枕に頭を付ける。
捲簾は布団を肩まで掛け直すと、中腰になって天蓬を覗き込むように覆い被さってきた。
「メシ出来たら起こしてやるから」
「おやすみのキスして下さい」
「…何甘えてんだよ、バカ」
ふて腐れる天蓬に苦笑しつつ、捲簾がゆっくり顔を伏せる。

柔らかく、触れるだけの熱。

欲情を煽るモノではなく労るような感触に、天蓬の唇が笑みで解ける。
そっと離れていく気配に、天蓬は目を閉じた。
「…おやすみ、天蓬」
捲簾は小さく声を掛けると、静かにドアを閉める。
「ねーねー?天ちゃんセンセーどうしたの?」
絵本を抱えたまま、簾がソファから身を乗り出していた。
眉を顰めて心配そうに捲簾を見上げてくる。
「ん?天蓬は仕事でちょっと疲れてるから、少し寝かせてあげような」
捲簾は息子の頭を優しく撫でて言い聞かせた。
「そっか…天ちゃんセンセーお仕事大変なんだね?」
「どんなお仕事だって大変だけどな。天蓬、昨夜は寝れなかったみたいだからさ」
「寝ないでお仕事なの?お医者さんってスゴイんだなぁ…」
キラキラと羨望の眼差しで、簾は天蓬が寝ている寝室をじっと見つめた。

…マズイ、すっかり忘れてた。
簾は天蓬が好きなんだっけ。

頬を引き攣らせて、捲簾が乾いた笑いを漏らす。
「とっ…とにかく!簾は静かに絵本読んでろ、な?」
「はぁ〜い♪」
素直に返事をすると、簾はソファに座り直して絵本を開いた。
とりあえず食事の準備をしようと、捲簾は上着を脱いでエプロンを付ける。
着替えたかったが、服は全て寝室のクロゼットだ。
漸く寝の体勢に入った天蓬を起こしたくもない。
仕方ないのでシャツの袖を捲って、買ってきた食材を整理し始めた。
捲簾はチラッと時計に視線を向ける。
用意するまで大体1時間というトコだろう。
その頃には天蓬の熟睡しているに違いない。

「いっそ、そのまま起こしても目ぇ覚まさないでいいんだけどなー…」

ついつい捲簾はポツリと独り言ちた。
天蓬が目を覚ませば。
気力も体力も充填満タン。
ついでに性欲も絶好調に絶倫だろうし。
ただでさえ、先週末は天蓬の仕事があって逢うことが出来ず、もちろん何もシテいなかった。
今週も一緒に昼食は取っていたが、お互い仕事でバタバタしていて。
キスや、まぁちょこーっと身体に触ったり握ったり舐めたりする、こっそりスキンシップも取っていない。
そういう些細なガス抜きもしていない天蓬が、一体どれだけ煮詰まっているのか。
しかも今日はアレを使ってもいいと、迂闊な約束までしてしまっている。
「あ〜もぅ!ずっと朝まで寝てて欲しいなぁっ!!」
ちょっと涙目になりながら水道を捻ると、捲簾はバシャバシャと乱暴に手を洗った。
天蓬がそのまま寝ていれば。
起こさないようにベッドの傍らに潜り込んで。
天蓬を抱き枕にしてゆっくり眠れることができる。

でも。

それだけじゃやっぱり物足りなくて。
何だか寂しくて。
触れて欲しくって。

「…俺ってどうしようもねーバカ」
我慢効かないのは自分の方こそだ。
捲簾は諦めたように苦笑を浮かべると、緩く頭を振った。
「クソッ!何だってヤッてやらぁっ!!」
気合い付けに煙草を銜えて火を点けると、不安と羞恥を煙と一緒に吐き出す。
よし、と腕を上げると、捲簾は鍋を火に掛け夕食の準備を始めた。



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