路面電車のある街角 - Berlin -

-壮絶なるホロコーストの歴史-
ユダヤ人への「最終決定」

ヴァンゼー会議場に行って来ました。

ヴァンゼー会議場
Am Grossen Wannsee 56-58
D - 14109 Berlin (-Wannsee)
Tel.: +49-30-80 50 01-0
Fax: +49-30-80 50 01 27
e-Mail: info@ghwk.de

1942年1月20日,ヴァンゼー会議がここで開かれました。
この「ヴァンゼー会議」とは何であったかというと、 「ユダヤ人問題の最終的解決」の、一連の決議を行うための会議でした。

この日、この場所で会議に出席した人々は、
ホロコーストといえば真っ先に思い浮かぶアドルフ・ヒトラーをはじめ、ヒムラーやゲーリンなどの有名なナチ党の幹部ではありません。ほとんどが各省の次官クラスで、大臣は含まれていませんでした。
しかし、当時ドイツを構成していた主要な部門のトップが一同に集まったのです。

この、ヴァンゼー会議にて最も重要な人物は、保安警察兼保安部長官である、ラインハルト・ハイドリヒ。日本で言えば警視庁の長官です。
警察の中の主要な6名をはじめ、ナチ党、東部地域責任者、民間部門、交通労働省、内務省、外務省、食品経済省のなど、ありとあらゆる政治家が集まります。

彼らは、会議が始まる前に、既に会議の内容を子細に把握していました。
この会議における「最終決定」とは、
「ヨーロッパにおけるユダヤ人を撲滅・虐殺すること」を指しています。

具体的には、

・ヨーロッパ全域におけるユダヤ人の東部への強制移送
・ゲルマン民族とユダヤ人の「混血児」における種の強制断種
 (純粋なユダヤ人よりも、ゲルマンとユダヤの混血児のほうがタチが悪いとされた)
・ユダヤ人、および混血児における権利の剥奪
・最終的なユダヤ人種の断種

すなわち、「最終的解決」とは、対象ユダヤ人1100万人における「殺害、根絶、撲滅」を意味しています。

しかし、その「最終決定」における虐殺は、この、せいぜい1時間半の会議の日から始まったわけではありません。
また、この会議において、これらの決議は採択されていませんでした。
実際にはこの会議が行われる既に半年前から、ソ連でのユダヤ人虐殺が始まっており、その事実を相互に承認したに過ぎないのです。
この犯罪行為において関与した機関についてですが、軍部や国家だけではなく、民間の機関も含まれていました。
この会議の議事録において、 ユダヤ人の「東方移送」については「疎開」、「断種(虐殺)」を「特殊な措置」と言い換えて記録されています。
合法的な、”キレイな言い方”で、ユダヤ人の「最終決定」を話し合ったのがこの会議です。

この建物には、そんなヴァンゼー会議が行われた大きな会議室をはじめ、1Fには常設展としてドイツ独裁政権の誕生からゲットーへの移住、ヴァンゼー会議、強制・絶滅収容所、ゲットー蜂起、ユダヤ人の解放・・・と、順を追ってドイツのホロコースト史の史料や写真が展示されています。そして、展示場の順路に従って案内された、日本語ガイドブックを貸していただけます。
じっくりと読みながら時間をかけてまわったので、かなり足が疲れた〜!

Wannsee会議場の門
(閉まっているけど)
ここはもともと美しいヴァンゼー湖の
ほとりにある瀟洒な別荘でした
庭には木立に囲まれて
案内板が設置してあります
3体の小便小僧・・・

ホロコーストには様々な視点、論点があります。
私がホロコーストに思うのは、第二次世界大戦時代、日本とドイツが一緒に戦ったこと。
ドイツは、徹底的な戦争犯罪における追求があり、当時のマスコミは1つ残らず解散させられました。
そして、今なお、このヴァンゼー会議場には【被害者としての負の遺産】ではなく、【加害者としての負の遺産】が守られ保存されています。
過去の反省だけにとどまらず、今後の未来にこの反省をつなげていくための意識を感じました。
ただ、ドイツの場合は、日本とは違って、「ユダヤ人」という、ヨーロッパ全土の人種、すなわち「同じ国民も含む」人々への迫害であったことが特徴です。日本よりずっと特殊な問題です。
日本の戦争犯罪は、自国対他国というごくシンプルな問題であるはずなのに、今でもその戦後処理は終わっているとはいえません。
これは、対相手における「文化、価値観、背景」がお互いに異なっていることも関係しているのか?
軍部と民部があいまいに切り分けられて戦後処理されてしまったことも、原因の1つかもしれません。


大戦時代の日本ドイツ進出の様子
壁にはスローガン・・・
【時代は工業、土台は組合】
【躍進日本に工業組合】

ただなんというか。
日本の戦争の原因や意義については別として、
加害者としての日本、の負の遺産を未来につなげていくという考えが、日本において欠如しているということは感じます。
明治維新から日露戦争を経て第二次世界大戦に入った経緯について、「語り伝え」としては残っています。
けれど、その経緯が明らかな事実としてかすかにでも把握できる史料を日本は残し、公開しているのでしょうか。
東京裁判についても、最近やっとその片鱗が公開されたばかりのはず?(うろ覚え)
そんな史料がきちんとそろっているのであれば、私はぜひ見に行きたいです。

日本人が、過去の戦争意義についてきちんとその経緯を知ることによって、
反省するべきことは反省し、誇ることは誇ることが、初めてできるのではないかとも思います。
経緯は、あくまでも、「事実」に基づいたものであれ。それが断片的なものでも。
私はコンピュータの仕事をしていますが、この仕事において基本となる「根拠」は
「仮定」ではなく、断片化されていようとも、「事実」がすべてです。
これと同じ、至極シンプルなことなのだと思うのだけど・・・。


様々な展示物

←ここがヴァンゼー会議場



1人につき3キロのパンと
1キロのママレードを支給するという
告知を出し、人を集め
強制収容所に送り出していた。

ヴァンゼー記念館に保管されているすべての資料を100%信用することはできないけれど、
それ以前に、自分の国の経緯をきちんと史実として保管し、知ってもらい、そして未来につなげていこうという姿勢は見習うべきだな〜と思います。
あんまえらそうなこと言えないけど。

当時のナチ勢力Map

 

ユダヤ人は何故迫害されたのか?

私の中でずっと答えのみつからない疑問、それが「ユダヤ人は何故迫害されるきっかけができたのか?」ということ。
これが、今でも実はあまり見えてきません。

当時のドイツ国民は6500万人、そのうちユダヤ人はたった60万人。1%にも満たない、少数民族であるといえます。
このユダヤ人迫害については、近年に起こったことではなく、はるか昔から抑圧され、虐げられてきている様子です。
ユダヤ人迫害については、少数民族ということ、そして、キリスト教とは異なる、独自のユダヤ教を基にしている文化がその根底にある様子。
間違ってるかもしれないけれど・・・いくつかの仮説の中での1つの話を少し。

紀元前、ユダヤ人はローマ帝国によりエルサレムから追放されました。
そのために、ユダヤ人は陸続きであったヨーロッパの各地に移住せざるを得なくなります。
ヨーロッパではキリスト教が国教となっている国が多く(信教の自由を制限されていた)、しかしユダヤ人はユダヤ教を礎に生活しています。
「キリスト教を信じない人々」=「国としての政策宗教に対する反抗勢力」として位置づけられてしまいます。
2千年にわたって、キリスト教を礎とした国の中で、異文化の異宗教として疎外され、抑圧されてきたのがユダヤ人。
そのために、なにか災厄が街に降りかかると、何もかもがユダヤ人のせいにされてしまっていた。
中世のペスト大流行のときも、ユダヤ人の呪い、井戸水に毒やばい菌を入れたと迫害されていたそうです。
ユダヤ人はペストの大流行の中、無事に生き延びていたためだと。
しかし、これはユダヤ教としての生活の知恵でした。
体を清潔に保ち、衛生面に気を使うことをよしとしたユダヤ教は、衛生概念について気を配っていたためだそう。
また同時に、ユダヤ人は「金融」を生業としていたことも関係しています。
キリスト教のことはよく知りませんが、「お金を人に貸す」ことは罪なのだそうです。
だからこそ、その「穢れた職業」がユダヤ人に割り振られたそう。それ以外の仕事には就けませんでした。
そして近代に入り、ユダヤ人が市民権を獲得します。そう、ドイツの市民になったように。
市民権を得て、ユダヤ人にもチャンスが広がります。すると、今まで先祖代々培ってきた金融のノウハウが役立ち、ユダヤ人はどんどんお金持ちになっていく。実際、あの「モノポリー」もユダヤ人の考えた遊びだそう。多くの銀行家がユダヤ人です。
そんな姿を見て、今まで歴代虐げられていた民族が、という憎しみの目がユダヤ人に向けられ、そしてユダヤ人は各国に飛び出していきます。アメリカにもたくさんの移民が移っていった。その憎しみに便乗して世界大恐慌を起こしたのもユダヤ人であるとされたそうです。

人間が多数の人間をコントロールする、一番手っ取り早い方法、
それは敵対分子をつくり、「優越感をもたせる」こと。

日本にも同和問題などの差別体制が今だ消えきらず残っています。
それは、当時の士農工商の、もっとも下層部分である商人よりもさらに下層部分をあてがうことにより、
人間の優越感をコントロールしたものであると言われています。
その、下層部分のあてがい方については、これについて私の中で結論は出ていないので割愛しますが、ドイツのヒトラー政権における「手っ取り早い最下層人間の区分」がユダヤ人であったということだそうです・・・。

仮想敵国とかいう思想がありますが、あんな感じなのかなぁ。
ナチには敵、虐げるものが必要だった。自身のカリスマ維持のために。
その中で、ユダヤ人は、その市民割合(人数の少なさ)やこれまでの歴史的迫害の過去からいって、格好のターゲットであったそうです。
そんな背景を、ナチはうまく利用しようとして、
その結果、発生したのがホロコーストであると言われています。

ただ、単に「下層部分に割り当てるにふさわしい人種だったから」と決め付けて、上記の仮説を通すには、実は無理があります。
ヒトラーは人間の「遺伝子」「種の保存」について深い興味を示し、その学術の判断に従ってユダヤ人を「区別」したという説も強いので。
日常、私たちは当たり前のように「私の家系は高血圧家系なの」「長生きする家系なの」とか、
競馬の馬を見る際、「この馬は**を種牡馬に持っているから粘り強い」とか、ありがちな日常会話の1つですよね。
そんなレベルで、遺伝子を論じている場面に思い当たると思います。
これが「進化論」や「遺伝学」に基づいた話です。
メンデルの法則が発見されたのは1900年。
まさに、この時代は遺伝子学の花盛りの時期だったといえるでしょう。
1915年頃、アメリカでの犯罪者の増加、イギリスでの精神異常者の増加や逆淘汰を憂い、人種改善学を説く人々が多かったのは事実です。
優性学だけでなく、人口問題、社会生物学、体質研究、社会問題、医学、心理学、結婚問題、産児問題、人類学など、様々な面で遺伝子の研究による、国民を優秀に持ち上げることによる国としての国力の強化が、真剣に研究されていた時代です。
「戦争は人種衛生上、もっとも恐るべき逆淘汰」とも言われていました。そんな時代です。日本もそうでした。
同和問題は、遺伝子学的分類であったという説もあります。私には答えがわかりませんが。
いや、正直このような遺伝子の研究については、当然、今も花盛りですが。

ヒトラーはこの遺伝子学について、非常に影響を受けていた人間の1人であるといわれています。
ホロコーストについても、私は遺伝子学には詳しくないけれど、そのような方向の強い影響があったという説もまた強い。
けれど、結局、科学という武器を使って、迫害するもの、されるものといった構造を作り出した点についてはどんな説でもまず間違いないんじゃないかなぁ。

ただのアマチュアの聞きかじりで断言することは難しいけれど、
どちらにしても、支配するもの、されるもの、という役割を徹底的なまでに確立させたのがヒトラー政権であったこと。
これは政治の問題という以前に、人間の本質としての問題ですね・・・。
人間はどのような心理的推移によって支配する、されるのか?
人間はどのように憎しみを持つのか?
人間はどのように優越感を持つのか?
人間の憎しみや優越感はどのような文化や風俗、結果をもたらすのか?
そんなグロテスクな、平和なときには見えてこない人間の心の中の檻のようなものが
歴史からはいろいろ見えてくると思います。あるいみ精神科学みたいなかんじ。
これは、社会主義と資本主義を考える中でもそう。

私は、そんな人間の複雑な心や精神について好奇心を持ってるんだな〜と
改めて気づかされます。 (もともと人工知能・認知科学専攻だったので〜)

 

ヒトラー政権後のホロコーストの遷移

このヴァンゼー会議場では、ヒトラー政権就任前からの一連のホロコーストの歴史をじっくりと学ぶことができました。
ので、ここから下はあくまでもただの年表・・・興味があったら見てください。(内容正確な保証ないけど)

1850年頃より、人種、遺伝子における各種理論が盛んに論議されはじめました。
特に、ドイツではその研究が盛んであり、日本もそうだったと思われます。
その中で、1921年に著された「民族衛生学」については、種の遺伝子学 における傑作といわれ、ヒトラーはその書籍に強く影響されたそうです。

また、同時に「反ユダヤ主義的週刊誌:デア・シュテルマー」が、1923年より創刊され、1933年までには2万部ほど、1940年までには60万部ほどを刊行。読者に対し、ユダヤ人に殺意を抱かせるほどの憎しみを広めていた。
「ユダヤ人はわれわれの災厄である」というスローガンとともに。

【1933年】

ヒトラーへの敬礼
〜グルーネヴァルト・スタジアム〜

2月27日、国会議事堂の炎上が起こり、その犯人の大量逮捕がなされ、最初の予備的な強制収容所が設置される。
議会において、圧倒的優位を誇っていたブルジョワ派が、ヒトラーが12年間統治する全権委任法に賛成投票。その瞬間から、ドイツ憲法はまったくの無効となる。すなわち、それまでの民主主義は消滅する。 これが、ナチ党の始まりである。

その年、ベルリンのグルーネヴァルト・スタジアムをはじめ、ドイツ中の多くの場所で、人々はヒトラーへの敬礼として腕を掲げた。
国家社会主義国ドイツ労働党の権力を掌握し、ナチに反対する人々に対するテロが始まる。
共産主義者、社会民主主義者、労働組合員たちが最初の犠牲者で、その後政権に対立するすべての者が標的となる

4月1日、外国の新聞社がドイツにおける恐怖政治について報道すると、政府は新たなテロ作戦でこれにこたえる。 この日、ナチ突撃隊の衛兵のすべてがユダヤ人の店、医師、弁護士事務所の前を固めた。
政府は彼らの状況について「ユダヤ人による虐殺でっち上げ宣言」に呼応するものと主張し、それ以来、ユダヤ人は実業界、専門職からの追放の発端となる。
また同時に、「アーリア血族でない公務員は退職、名誉職については役職待遇からの解任、これまでの政治活動によって、国家に対して常に全面的に服従することを保証できない公務員は解雇」という追放が始まる。


ユダヤ人お断りと明記された公園のベンチ

5月1日、あらゆる大学にて学生や図書館司書は、すべての「望ましくない」蔵書を図書館から「粛清」。この図書のブラックリストはこの後も次々拡大されていく。主なブラックリスト著者は、マルクス、ハイネ、フロイト、アインシュタインなど多数であり、現代ドイツ文壇のほぼすべてが他国へ亡命する。

この頃より、ユダヤ人に対する迫害が激しくなる。
政府の介入により、ユダヤ人に対するレストランや公園の立ち入り禁止。そしてベンチの着席禁止などである。
これは、この後に締結される、ニュルンベルグ法に向けてのドイツ国民の心理的準備であるとされている。

当時のドイツは、「反ユダヤ」に特化しており、「ユダヤ的である」という言葉が何よりも厳しい非難の言葉だった。マルクス主義、議会制民主主義政治、国際連盟、社会民主主義などは、きわめて「ユダヤ的」なものであるとみなされ、次々と排除されていく。

ドイツはこの年、ゲシュタポ(秘密警察)を設立し、国際連盟を脱退した。

【1935年】

ナチス国家は少しずつユダヤ人より権利を奪っていく。
9月15日 ニュンベルグ法締結。
「ドイツ帝国市民憲法」は、ユダヤ人を二級市民と宣言し、ユダヤ人と非ユダヤ人間の婚姻を禁止。また、同時にキリスト教徒の使用人を家庭にて雇い入れているユダヤ人は人種汚辱とされ、告発後有罪判決を受ける可能性さえ出てきた。この法から逃れようと、外国で結婚したとしても2人とも有罪となることに。

【1938年】

ドイツ、オーストリア併合。これは、映画「サウンドオブミュージック」でも著されてますね〜。
ヒムラー、ハイドリッヒ、アイヒマンらはオーストリアに、やはり自国ドイツと同様、反ユダヤ人法を適用・・・。
ナチ党員たちは、ユダヤ人にペンキを与え・・・強制的にユダヤ人の店先という店先に、Judeというサインやユダヤの星印を書かされたそうです。

ユダヤ人の財産の没収、保護の打ち切り、就業の禁止など、たくさんの人としての権利が失われていったのがこの頃でした。
ユダヤ人の商店はみな閉鎖に追い込まれ、ユダヤ人は公園に入ることさえできず、学校にもいけず、家畜でさえ飼うことを許されません。
そして夜8時以降はすべてのユダヤ人に外出禁止令が出されます。次から次へと新しい法律を制定し、じりじりと苦しめていた時期でした。
この頃から、海外への移住が目立ちはじめます。行き先は英国、上海、パレスチナなど。
日本では岐阜県の八百津町出身の外交官、杉原干畝さんが、日本経由のための「命のヴィサ」の発給に一人戦ったのが1940年頃でした。
その頃は、既にすべてのユダヤ人のパスポートに、「J」(Jude)のサインがはいっていたそうです・・・。

【1939年】


ゲットーへ向かう人々

ドイツはポーランドにも侵攻しました。その当時、ポーランドはソ連に守られていたはずなのに。
敵同士であったドイツとソ連が不可侵条約を締結することにより、ポーランドはなすがままの状態になり、あっという間に陥落。
ポーランドにて、ユダヤ人の「区別」が行われました。それぞれの街ごとに、三角の小片、星印などの方法でユダヤ人の区別が始まります。
そして、それは厳しい規定をもった、ダビデの星の腕章に変わっていきます。
財産の没収はもちろんのこと、銀行口座はドイツ銀行により停止。外出禁止令の慣行。これらに違反した人々は死刑でした。
この年の終わりごろから、ユダヤ人居住地区が解体され、有無をいわさず、たくさんの家財道具を引きずりながら、あまりにも狭いユダヤ人居住区への移転を強要させられはじめます。この地区は、人がすべて移住した後に、高い壁ですっぽりと出口を取り囲まれました。
このようなユダヤ人居住地区を、Getta(ゲットー)といいます。


労働許可証
【1940年】

ゲットーの過密は高まり、ゲットー内への食物の流入がなかったために、人々は不衛生で栄養不足な環境の中、次々と命を落としていっていました。規則で決められている腕章の着用は、子供においては免除。そのために、子供はこっそりと壁を越えて食物を運んだりします。
見つかれば即銃殺で。
この頃より、強制収容所への移送が始まる。
最初は飢えに苦しむ人々に、3キロのパンと1キロのママレードを配給することによって人を集め、強制収容所に送り込んでいた。
ドイツ人のために働いていると証明することができる労働許可証があれば、収容所には行かなくてよかった。
だが、無差別の人狩りがいきなり行われ、この許可証の効力もほんの短い期間にて無効となる。


【1941年】

この年にはもうEURのほとんどがドイツ軍の手に陥落しており、ユダヤ人を次々とゲットーに送り込んでいた。
この秋よりユダヤ人の虐殺が始まる。
日本の真珠湾攻撃。第二次世界大戦勃発。

【1942年】

強制収容所への移送

ヴァンゼー会議開催、プラハでハイドリヒ暗殺。
初めてのアウシュヴィッツへの移送が始まる。オランダ、ベルギー、ユーゴ、ノルウェーなどから列車で送り込まれる。
この列車は8両編成で、男女の客車は別、合計8両編成の貨物列車でした。
水もトイレも何もない貨物列車は、あまりにも重く、のろのろとしか進まないため、アウシュビッツへの移送は1週間以上かかることもあり、もちろん一切外に出ることも許されませんでした・・・。
8両に、合計1000人のユダヤ人が詰め込まれます。それ以上でもそれ以下でもありません。
アウシュビッツに到着した後は、裸になって身体検査を受け、人間を選別されたのです。

【1945年】

ドイツ軍が陥落し、それと同時にドイツは軍関連施設を次々に破壊。
この春、3年間を超える長い長い収容所のユダヤ人たちが解放されました。
国際連合が設立され、ポツダム会議開催。
そして、2度の原爆を経て、8月15日終戦。

ヒトラーとヒムラーは自殺しました。

あまりにも壮絶なる10年間・・・。

←バスは車椅子可能のバリアフリー

やっぱ反戦でしょ!→
ブッシュ、ドイツでも評判悪いな。
地下鉄の入り口です〜

ドイツの駅はきれいだな〜→→


迷いますね〜!^^

まぁまぁおいすぃ〜
全部のテーブルに花があった。造花。

郊外列車?いえいえ地下鉄です〜

おいドイツ人!バス停で
フルボトルのワイン飲むなよ!