ユダヤ人への「最終決定」 | |||||||||||||||||
ヴァンゼー会議場に行って来ました。
1942年1月20日,ヴァンゼー会議がここで開かれました。 この日、この場所で会議に出席した人々は、 この、ヴァンゼー会議にて最も重要な人物は、保安警察兼保安部長官である、ラインハルト・ハイドリヒ。日本で言えば警視庁の長官です。 彼らは、会議が始まる前に、既に会議の内容を子細に把握していました。 具体的には、 ・ヨーロッパ全域におけるユダヤ人の東部への強制移送 すなわち、「最終的解決」とは、対象ユダヤ人1100万人における「殺害、根絶、撲滅」を意味しています。 しかし、その「最終決定」における虐殺は、この、せいぜい1時間半の会議の日から始まったわけではありません。 この建物には、そんなヴァンゼー会議が行われた大きな会議室をはじめ、1Fには常設展としてドイツ独裁政権の誕生からゲットーへの移住、ヴァンゼー会議、強制・絶滅収容所、ゲットー蜂起、ユダヤ人の解放・・・と、順を追ってドイツのホロコースト史の史料や写真が展示されています。そして、展示場の順路に従って案内された、日本語ガイドブックを貸していただけます。
ホロコーストには様々な視点、論点があります。
ただなんというか。 日本人が、過去の戦争意義についてきちんとその経緯を知ることによって、
ヴァンゼー記念館に保管されているすべての資料を100%信用することはできないけれど、
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ユダヤ人は何故迫害されたのか? | |||||||||||||||||
私の中でずっと答えのみつからない疑問、それが「ユダヤ人は何故迫害されるきっかけができたのか?」ということ。 当時のドイツ国民は6500万人、そのうちユダヤ人はたった60万人。1%にも満たない、少数民族であるといえます。 紀元前、ユダヤ人はローマ帝国によりエルサレムから追放されました。 人間が多数の人間をコントロールする、一番手っ取り早い方法、 日本にも同和問題などの差別体制が今だ消えきらず残っています。 仮想敵国とかいう思想がありますが、あんな感じなのかなぁ。 ただ、単に「下層部分に割り当てるにふさわしい人種だったから」と決め付けて、上記の仮説を通すには、実は無理があります。 ヒトラーはこの遺伝子学について、非常に影響を受けていた人間の1人であるといわれています。 ただのアマチュアの聞きかじりで断言することは難しいけれど、 私は、そんな人間の複雑な心や精神について好奇心を持ってるんだな〜と
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ヒトラー政権後のホロコーストの遷移 | |||||||||||||||||
このヴァンゼー会議場では、ヒトラー政権就任前からの一連のホロコーストの歴史をじっくりと学ぶことができました。 1850年頃より、人種、遺伝子における各種理論が盛んに論議されはじめました。 また、同時に「反ユダヤ主義的週刊誌:デア・シュテルマー」が、1923年より創刊され、1933年までには2万部ほど、1940年までには60万部ほどを刊行。読者に対し、ユダヤ人に殺意を抱かせるほどの憎しみを広めていた。 【1933年】
2月27日、国会議事堂の炎上が起こり、その犯人の大量逮捕がなされ、最初の予備的な強制収容所が設置される。 その年、ベルリンのグルーネヴァルト・スタジアムをはじめ、ドイツ中の多くの場所で、人々はヒトラーへの敬礼として腕を掲げた。 4月1日、外国の新聞社がドイツにおける恐怖政治について報道すると、政府は新たなテロ作戦でこれにこたえる。 この日、ナチ突撃隊の衛兵のすべてがユダヤ人の店、医師、弁護士事務所の前を固めた。
5月1日、あらゆる大学にて学生や図書館司書は、すべての「望ましくない」蔵書を図書館から「粛清」。この図書のブラックリストはこの後も次々拡大されていく。主なブラックリスト著者は、マルクス、ハイネ、フロイト、アインシュタインなど多数であり、現代ドイツ文壇のほぼすべてが他国へ亡命する。 この頃より、ユダヤ人に対する迫害が激しくなる。 当時のドイツは、「反ユダヤ」に特化しており、「ユダヤ的である」という言葉が何よりも厳しい非難の言葉だった。マルクス主義、議会制民主主義政治、国際連盟、社会民主主義などは、きわめて「ユダヤ的」なものであるとみなされ、次々と排除されていく。 ドイツはこの年、ゲシュタポ(秘密警察)を設立し、国際連盟を脱退した。 【1935年】ナチス国家は少しずつユダヤ人より権利を奪っていく。 【1938年】ドイツ、オーストリア併合。これは、映画「サウンドオブミュージック」でも著されてますね〜。 ユダヤ人の財産の没収、保護の打ち切り、就業の禁止など、たくさんの人としての権利が失われていったのがこの頃でした。 【1939年】
ドイツはポーランドにも侵攻しました。その当時、ポーランドはソ連に守られていたはずなのに。
【1940年】ゲットーの過密は高まり、ゲットー内への食物の流入がなかったために、人々は不衛生で栄養不足な環境の中、次々と命を落としていっていました。規則で決められている腕章の着用は、子供においては免除。そのために、子供はこっそりと壁を越えて食物を運んだりします。
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強制収容所への移送 |
ヴァンゼー会議開催、プラハでハイドリヒ暗殺。
初めてのアウシュヴィッツへの移送が始まる。オランダ、ベルギー、ユーゴ、ノルウェーなどから列車で送り込まれる。
この列車は8両編成で、男女の客車は別、合計8両編成の貨物列車でした。
水もトイレも何もない貨物列車は、あまりにも重く、のろのろとしか進まないため、アウシュビッツへの移送は1週間以上かかることもあり、もちろん一切外に出ることも許されませんでした・・・。
8両に、合計1000人のユダヤ人が詰め込まれます。それ以上でもそれ以下でもありません。
アウシュビッツに到着した後は、裸になって身体検査を受け、人間を選別されたのです。
ドイツ軍が陥落し、それと同時にドイツは軍関連施設を次々に破壊。
この春、3年間を超える長い長い収容所のユダヤ人たちが解放されました。
国際連合が設立され、ポツダム会議開催。
そして、2度の原爆を経て、8月15日終戦。
ヒトラーとヒムラーは自殺しました。
あまりにも壮絶なる10年間・・・。
←バスは車椅子可能のバリアフリー やっぱ反戦でしょ!→ ドイツの駅はきれいだな〜→→ |
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迷いますね〜!^^ |
まぁまぁおいすぃ〜 全部のテーブルに花があった。造花。 |
郊外列車?いえいえ地下鉄です〜 |
おいドイツ人!バス停で フルボトルのワイン飲むなよ! |