路面電車のある街角 - Berlin -

-東西ドイツの統一-
壁の向こうは孤独な自由の世界?


SAVE OUR PLANET --- Berlin's Wall 2003 ----

ベルリンの壁が崩壊したのは、1989年。
平成の時代が始まり、同時に日本のバブル崩壊が始まった頃でした。
TVでは、激しい壁の破壊と汗にまみれた笑顔のお祭り騒ぎがありました。
まさか、その十数年後。
私がその「ベルリン」を訪れるなんてその頃は考えもしなかった。

このベルリンの壁の認識は、多くは「旧東ドイツと西ドイツの国境」というとらえられ方をしています。(実際当時の私はそう思っていた)
しかし、実はこの壁、その認識とは違う、複雑な歴史を抱えていたのです。

壁で区切られた日

1945年
第二次世界大戦の終戦後、日本とイタリアとともに敗戦したドイツは、戦勝国であったアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4か国に共同占領されました。
ドイツは、4つの領土を分割され、それぞれ別々の国、別々の法律による統治が始まります。
これら4か国は、ドイツを共同で統治するための機関をベルリンに設立し、戦争を2度と起こさない平和なドイツ作ろうとしました。
ドイツの4国分断統治とは別に、ベルリンがさらに4分割して占有されていたのです。
資本主義国家であったアメリカ・イギリス・フランスは、当然ながら統治したドイツ領を資本主義国家として復興させようとします。
しかし、旧ソ連のみは、社会主義国家でした。

資本主義国家とは、一人一人の個人が自由に会社や商店を経営することが許され、ものの売買にて利益を得る、私たちにはすっかりおなじみの社会体制を中心とした国家ですが、社会主義国家とは、国民は皆公務員。国の計画生産によって、国として得た利益を国民に共同分配する、貧富の差のない体制を中心とした国家です。(そのサンプルとして、今一番身近なのは北朝鮮か。気になる・・・)

戦後、どこも同じような状態であったドイツ。この国土は資本主義と社会主義に分かれて復興の道を歩み始めます。
資本主義としての道を歩み始めた西ドイツは「ドイツ連邦共和国」として、
東ドイツは「ドイツ民主共和国」として、
1949年に国として独立を遂げます。
しかし、ベルリンという都市は東ドイツの真ん中にあり、それがさらに2つのドイツに分かれていたのです。
すなわち、「西ベルリン」 は、共産主義体制の東ドイツの真ん中にある、小さな資本主義の孤島でした。

たった数年で、次第に資本主義経済と社会主義経済の格差が明確に目に見えて現れ始めます。多くは、経済格差でした。
特に旧ソ連が占領していた東ベルリンでは、国家による生産ノルマ引き上げなど、労働者への締め付けが厳しくなっていきました。
この体制に反抗して、東ドイツでは国家間の人口流出が目立ち始めます。
ベルリンは東ドイツの真ん中にあるがゆえに、社会主義の世界から資本主義の世界へ潜り込むための地の利があります。
1950年代より、東ドイツから西ベルリンに移住したり、実際は東ドイツに住居を構えながらも、稼ぎのいい西ベルリンへ通勤する人が後を絶たなくなります。そして、移住する人々(亡命者)は増加の一途をたどり、その数は1年間に平均で20万人に達したそうです。

人口、というよりも貴重な労働力がどんどん資本主義社会に吸収されてしまい、労働力の流出による計画生産の狂いが発生してしまうと怒った社会主義体制の東ドイツは、とうとうベルリン市内の資本主義社会をすっぽり覆いつくすための「壁」を作ることにより、人口の流出を物理的にせき止めてしまいました。

これが、ベルリンの壁でした。

1961年8月13日より、ベルリンの壁が作られます。

最初の「壁」は、鉄条網における封鎖から始まります。
東ドイツは、鉄条網を張り巡らせた「国境」に銃を持たせた兵士を配置し、人口の流出をせき止めます。
そして、その後から順次、コンクリートの「壁」に進化させていったようです。

まずは鉄条網を張り巡らせることで、人々の行き来を止めました。それを越えようとする人を止めるため、東ドイツはあちこちに銃を持った兵隊を立てて見張らせました。
こうしてできたのが「ベルリンの壁」です。
その「壁」は1重にあらず、5メートルから数十メートル後ろにも、2重の壁を設置し、その空間は立ち入り禁止の「無人地帯」。
ドーベルマンをその地帯に配置し、ありとあらゆる「流出防止措置」がとられます。
当時の東ドイツが発行したベルリンの地図の中には、
西ベルリン部分は空白になっていて、道路も鉄道も、何もかもが記されていないものがあったそうです。
「ありえない地域」
それが、東ドイツの中の西ベルリンだったのです・・・。

ちなみに、東ドイツと西ドイツの、「本来」の国境は、
ベルリン市内よりさらに厳しく、地雷までが埋め込まれていたそうです。

そして、アメリカと旧ソ連を中心とした「冷戦時代」に突入します。

ベルリンの壁の崩壊<

=1990年、市民は自由を手に入れた=

ベルリンの壁の崩壊が始まったのは、1989年11月9日のことです。

その頃は既に旧ソ連を軸とする社会主義体制の政治は各国で崩壊し始めており、東ドイツやハンガリーなど、社会主義各国は各地で反体制運動が起こります。
このベルリンの壁崩壊における、直接のきっかけを作ったのは、ハンガリーでした。

ハンガリーでも時を同じくして、自由化への運動が高まりつつあり、ついに政府は自由化へと動き出しました。
そして、1989年5月、ハンガリーは資本主義体制であったオーストリアとの国境を開放します。
開放といっても、鉄条網を撤去するという段階です。
監視兵はまだ配置されており、国境を越えるにはヴィサとパスポートを必要とします。
ハンガリーとオーストラリア間の国境から、東西の世界の融和が始まります。

これは、たった13年前の出来事です。
それまでは東側から西側に出ることさえ許されなかった。
外国へ行くといえば社会主義国にしかいけませんでした。

この夏、東側の人々は、自由に行き来できる共産圏のハンガリーへ「休暇・旅行」の名目で旅をします。その人数は数万人であったともいわれます。
そして、国境を突破してオーストリアに入る人々が、夏だけでも数百人。

1989年夏、ハンガリーの反政府団体が集会を開きます。この集会にはハンガリーだけでなく、東ドイツ人も多数参加していました。
その集会が開かれた場所はオーストリアとの国境近くの観光地です。
そして1989年8月19日、「汎ヨーロッパ・ピクニック」というイベントを計画していました。
この「ピクニック」は、ハンガリーからオーストリアへの国境を歩いて越境しようというもので、
東西の社会体制が分かれてしまったヨーロッパを自由に通行できることをアピールしようという内容でした。

そして、このピクニックは実行に移され、この日だけで東ドイツの900人もの住民が越境したのです。


=壁の向こうは資本主義の社会=

この話は瞬く間に伝り、資本主義の国へ越境したい東ドイツ人が次々とハンガリーに殺到します。
東ドイツの市民は、あの「壁」を命がけで突破する必要はなくなり、ハンガリー経由の「安全な資本主義国への流出」という手段を得ます。
労働者資本の流出を防ぐために、ベルリン市内の小さな資本主義エリアを封鎖したものの、
ハンガリー経由で国自体から人が流出していきます。
その頃、既に、「壁」はその意味を失ってしまっていました。

その年の秋頃から、東ドイツの中では自由化を求める運動が盛んになり、デモが多発。
次第にその勢力は増し、11月ともなると既に政府はそれらを統制しきれなくなってしまいます。
あの「ピクニック事件」からたった3ヶ月たらず後の11月9日
東ドイツは、とうとう「市民の自由な出国」を認め、ベルリンの壁とともに、東西ドイツ国境の開放を即刻実施するという発表を行います。

東ドイツ市民はその夜から次々とベルリンの壁の検問所(チェックポイント・チャーリー)に詰めかけ、出国を求めます。
この夜だけで、数万人の市民が西ベルリンに流入したといわれています。
そして、彼らによって、「意味を失った壁」は次々と破壊され、東ドイツ市民にようやく「自由の風」が吹き込みはじめたのです。

テロのトポロジー

=テロのトポロジー=

ベルリンの壁のすぐ近くに、「テロのトポロジー」があります。
これは、東西ベルリンを隔てる壁にまつわる歴史を展示してある資料館。
壁博物館や、チェックポイント・チャーリーとは違い、ガイドブックにも載ってないみたい。
屋外にあるので、夕刻の早い時間に閉まる様で中にはいって閲覧することは残念ながらできませんでした。

現代に生きる私にとって、「お金を稼ぐこと」は自分の選択。
働けばお金が得られる、そして自分が好きなだけ働ける職を選べる、自分の働きたい職を選べる。
個人プレーの人生。
そんなの、当たり前。私の中では資本主義なくして自分の人生は考えられません。

でも、社会主義国家とは、そんな「選択」の自由が残されていない連携プレーの国家です。
分け前は平等だけど、何もかもが国の選択。
でも、そんな中に人間の持つ「優越感」が取り除かれない限り、
人は、人よりも自分が優位に立つという「優越感」を得たいがために、賄賂が横行し、国家としての機能を失ってしまうのでは?
社会主義国家がよいか悪いかは別として、このような国家における一番の課題は、人間の「優越感」という厄介な心理の解決にあるのではないかなーと私はなんとなく思います。
だから情報を統制する必要があるんですね。

目の前に壁があって、その数十メートル先には自由の国がある。
東ベルリンの人々はその壁を乗り越えたいと、どれだけ苦悩したのでしょうか。

資本主義経済と、共産主義経済の国家は、地球上で平和に共存できない異質な国家と思います。
生活するうえで、どうしても、今の自分の世界と「比較」してしまいますから。
国対国の問題という以前に、そこに住む、国を構成する人々の心の中で、問題が起こってしまうのが、資本主義VS共産主義なのではないかと思います。
北朝鮮の人々は、本当に、「ある日突然」壁が崩壊し、統一されたベルリンについてどんな感情を持っているんだろう。
それ以前にきっと北朝鮮では情報が統制されていると思うけど。

そんな気持ちで壁を後にしました。

他にも、見たいところはたくさんあったのだけど、悔いを残しながらね・・・(笑)
これはいつかまたベルリン・リベンジ!だわ〜!!

東西ドイツ統一のシンボル、ブランデンブルグ門を見てきた!

ニヤッ・・お嬢さん、ちょっとそこまでどう?

この後、壁にそって「ブランデンブルグ門」へ行く際、
時間もタイトだったのでこのオッサンの運転する「自転車タクシー」に乗ってしまった。それゆえに、チェックポイント・チャーリーや壁博物館を立ち寄らずに通過することになりました・・・


で、これって何?(笑) こんなんしか撮影できてない・・・

途中には、アーティスティックな「壁」や、検問所(チェックポイント)など、興味深いものがたくさんありますが・・・
←まずは、このさわやかな笑顔もまぶしいオッサンの健脚をご覧あれ!

こんな健脚で激しく自転車をこがれると、ワタクシのカメラではまともに周辺の景色が撮影できません!(笑)

というわけで、この壁跡からブランデンブルグ門への道のりの写真は涙を呑んでくださいね〜。
もし、このあたりをまわるなら、ぜひ体力を残してじっくりと見てまわるのが私の中ではオススメ☆

ブランデンブルグ門

この「ブランデンブルグ門」は、ちょうど東西ドイツを隔てる壁の中央に位置しています。
ベルリンの壁崩壊前は、この門の両側にびっしりと壁が張り巡らされていました。
まさに、東西ベルリン統一のシンボル。
その門の東側には、「パリ広場」(Pariser Platz)が広がり、共産主義社会特有の、角ばった大きな広場と、それを取り囲む石造りの建物。


=東西ベルリン統一のシンボル。これは東側から見たところ=

この門は古代ギリシアの神殿、「パルテノン」の柱を模範にして設計されたそう。
門頭にある「古代の戦車に乗った勝利の女神」像は、1806年、戦勝品としてナポレオンがパリに持ち去ってしまい、1814年に返還されたそうです。
・・・どうやって持ち去ったんだ?


=パリ広場(旧東側)=

ちなみに現在、門の周囲の建物の改築が完全に完了していないようでしたが・・・
2003年夏には完全リニューアルすると思うな〜。

春のドイツ料理は贅沢だよ!

世界各国どこへ行っても、「その土地の料理」を食べないと気がすまないワタシ。
ベルリンでは、ウンター・デー・リン・ゲンのレストランで、旬のホワイトアスパラを食べました!^^

この季節ねーホワイトアスパラがそこらじゅうに出回ってるの。
1束数EURで・・・
日本で買うと、キロ当たり3千円近くするような太いのが、これでもか!と贅沢にでてきます〜!
去年のイタリアでは食べれなかったけど、この季節、ドイツ・フランスなんかではかなり出回ってるようで、食べまくりできるのがオススメ!

そうそう、ドイツはパンが美味しいというのは本当だった!フランスパンだけどもちもちしてウマイよ!

ベルリン名物三昧

ジャガイモとヴルストのシチュー
アイスバイン(豚すね肉のボイル)
ミートボール、っていうかロールキャベツ?
ホワイトアスパラガス

ワタシ的にはアイスバインがイマイチ・・・

こう、写真で見るとたいした量でもないように見えるんだけど、実際は・・・どれも日本の1.5倍サイズはあります。
覚悟して食べないと大変なことに!!

というわけで、満腹です〜^^

あ、写真のアップルジュース美味しいよ。
ドイツに行ってまでワインを飲まないのか?という突っ込みはナシね。。。

Unter den Linden 5 10117 Berlin
Tel.: 030-202 68 450
Fax: 030-202 68 410
email: info@schinkel-klause.de

夜のベルリン

ベルリンからポーランド間は夜行列車で移動します。
旧西側のほぼメインの駅、ZOO駅ではなく、
旧東側の駅、Ostbahnhofから乗車しました。


=この車掌さんにお世話になりました〜=

まるで巨大な工場のようなドームに覆われたホームは、まさに「出発」にふさわしいノスタルジックな雰囲気です。

入ってくる電車(汽車?)は、さすがヨーロッパ各地から電車が乗り入れてるだけあって、色も形も、様々です、二階建て電車とかもあったよ〜。

つくづく思うのだけど、ヨーロッパの鉄道って、日本のように「改札口」ってのがないから楽だよね。
そのかわり、日本には中距離線以上にしかない「検札」は必ず行われるけど。
「 あ〜ホーム入っちゃった!もう出れないじゃん!」ってのがないのがうれしい。
特に大きな荷物を持っているときは。


=ショッピングセンターじゃなくて駅です=

1Fはキレイなショッピングセンターのようになっていて、ホントにここってつい最近まで共産圏?って感じだったな〜・・・

あ、あとEURでは結構ペットを駅に連れてきてる人を見かけました。

電車にペット乗せて一緒に旅行していいの?
ちょっとうらやまし〜い。

 

でも・・・ここで気持ち悪い事件が。

キオスクの前に喫煙所があったので、電車を待ちながら、ぼけーっとタバコを吸ってたときのこと。
労働者風の小汚いおじさんが、ポケットにビールの缶を2つも突っ込んで、フラフラとさまよっていました。
あいも変わらず、ぼっけ〜〜っとタバコを吸っていると、そのオッサンが私にむかってフラフラフラフラ・・・と突進してくるではないか?

「いっひっひっひうをっほっほっほフェッフェッフェッフェ〜〜〜〜」(ドイツ語)

な、なんだ?このオッサンは!?
左右を見渡してみたが、どうやらワタシに話しかけているようだ・・・。
でも、ドイツ語は「イッヒ」とか「ウォッホ」とかいう感じの言葉なので、
ワタシには、気がふれておかしくなっているオッサンにしか見えない。
・・・それ以前に、このオッサンはどうも真っ赤な顔でラリっており、外見からしても気がふれておかしくなっているオッサンだった。


=かわいいわんこ発見!=

ウザいなーと思いつつも、平常心を保っている私は、またそのタバコを口元にもってきて、
すっぱ〜〜〜!
と吸ったら、、、

そのオッサンは私に手を伸ばしてくるではありませんか?

「何よ?用があるなら私に聞かないでもいいじゃない?あっち行ってよ!」

当然ながら日本語は通じない。(アタリマエ)
近くにいたドイツ人の年配の奥様がびっくりした顔で、「何してるの?こちらへいらっしゃいよ」ワタシを呼びにくる・・・御夫婦2組の小グループのようでした。
さすがに、気持ちが悪くなって、タバコを半消しにして喫煙所を離れ、彼らの薦めるベンチの一角に座ろうとして振り返ると、
あの気持ち悪いオッサンは、私の捨てたタバコの吸殻を拾い、そのまま口元に・・・

オッェェェェェ〜〜〜〜〜!!

ワタシはあのオッサンの存在よりも、
ワタシが吸っていたタバコをまた吸われたという行為自体が気持ち悪い。。。
オッサンは、震える足取りで、大切そうにワタシの吸いかけのタバコ(4/5残ってたはず)を片手に、どこかへ去っていった・・・。

ベンチに座りながら、奥様方にドイツ語でお礼を申し上げた。お金持ちそうではないものの、微妙に品の良い紳士婦人だった。
今からどこへ行くのかといわれ、クラクフに行くと答える。
夫妻たちも同じ電車だけれど、クラクフまでは行かず、ポーランドのどっかの駅で降りるらしい。
日本から来たというと「まぁまぁそんな遠いところから〜」といわれた。

ちょっとキレイな列車が来たので、「コレに乗るの?」といったら、違うと言われる。
そのしばらく後に到着した列車は、想像したとおり、微妙にぼろく、なんとなくノスタルジーを感じる。
ポーランド国鉄の運営らしい。お礼をいって奥様方とお別れする。

・・・それ以前に、ワタシはドイツ語もわからないのだけど、なぜ知らない国で意思疎通ができているのかよくわからない。妄想か?


KIOSKがあります。何でも売ってたよ〜

駅にはエスカレータもあります。人通りが激しい。

ドイツで流行ってる飲み物?
スーパーでもあっちこっちにあった。QOO。