♪♪ 415通信 46号 ♪♪
2001年2月25日発行


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【415ニュース】

 今月2回目の通信の発行です。年頭にお約束した「毎月最終練習に発行」に合わせるためと、ラッススの記事を早くお伝えしたかったためです。次号からは毎月最終練習日に発行するつもりです。皆さんからも記事を募集しています。OPEに入会しての感想、自己紹介、演奏会などの広告、そのほか何でも結構です。お待ちしています。

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【会員動静】

 このところ、毎週のように新入会や見学の方があります。OPEにとっては大変に嬉しいことです。歓迎会も行なわれることですし皆さんでお世話をお願い致します。前回の練習で会員カードをお出しいただいた方々を以下にご紹介します。
 天野晴美 ソプラノ〒710-0001 倉敷市×××
 岡野美絵 ソプラノ〒710-0837 倉敷市×××
 平松加七子 ソプラノ〒701-1153 岡山市×××
 茂木雅美 アルト〒710-0001 倉敷市×××
 大森靖展 テノール〒701-1144 岡山市××
 玉木之弘 テノール〒710-0012 倉敷市×××

 これらの方のうち、大森さん以外は川崎医療福祉大学混声合唱団「ちょらす」のメンバーです。ひょっとするとクリコ関係者より大勢力になったかな。この他まだ会員カードを頂いていない方が2名いらっしゃいます。いただき次第ご紹介します。

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【練習予定など】

 3月から5月までの練習計画を掲載します。5月は第1週の土曜日が祝日で公民館がお休みのため、翌日6日の日曜日に変更になっています。そのため、日曜日が3回ですのでお気を付けください。なお、土曜日は京山公民館、日曜日は芳田公民館でこれは変更ありません。

3月8日(木) 器楽:12:30〜13:30 アークホテル岡山(RC例会出演)
3月10日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
3月25日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
3月25日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館
4月7日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
4月15日(日) 山本栄子さんピアノコンサートに出演:詳細は未定
4月22日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
4月22日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館
4月28日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
5月6日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館
5月13日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
5月13日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館
5月19日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
5月27日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
5月27日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館

4月15日の演奏会では、合唱は昨年の第16回演奏会で歌ったパレストリーナのミサ曲(クレド以外)を歌います。練習の際に楽譜をご用意ください。前号で会場を吉田公民館と書いてしまったのは、芳田公民館の誤りです。訂正いたします。

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【オルランドゥス・ラッスス(2)】

 前号では、ラッススの生い立ちを中心に述べてきた。今回は、前号の終わりに触れた世俗曲から、彼の作品を見ていこう。

 マドリガーレのジャンルでは、ラッススは好んでペトラルカ (FrancescoPetrarca, 1304-74) の詩をとりあげている。この時代のイタリア・マドリガーレ作曲家に見られる音画的手法はあまり用いられず、むしろ歌詞全体の雰囲気を漠然と暗示する程度で、フランドル的なポリフォニック書法が基調となっている。
 ダニエル書のスザンナの長老の物語によったフランス語のシャンソン<スザンナ(Susanne un jour)>もラッススの代表的な世俗作品で、当時各種の編曲が試みられたばかりでなく、彼自身これによるパロディ・ミサ(他の曲の旋律を主題とするミサ曲)を1曲作曲している。また、ラッススの<きぬた打ち (Un jour vis un foulon)>は、多少変容してシェークスピアの戯曲<ヘンリー4世>第2部5幕3場にサミンゴの歌として転用されている。その他、老いた亭主の嫉妬に苦しむ若妻の悩みを風刺的に扱った<うちの宿六 (Wuand mon mari)>、論サール (Pierre de Ronsard,1524-85) の詩によった可憐な<今日は、いとしい人 (Bon jour mon coeur)>なども、ひろく愛唱されているラッススの名シャンソンである。
 ドイツ語リートにおいては<扉のカンヌキをあけて (Tritt auf den Rigel vonder Th殲 )>に見られるように、生気あるリズム、対話ふうの構成、やや卑俗な歌詞などが特徴である。
 ラッススの約60曲のミサ曲は、パロディ・ミサが圧倒的に多く、音楽的にはさして密度の濃いものではない。同一テキストにより、既存の素材の改編を基調にするミサ曲は、彼の創作意欲を刺激するところが少なかったのであろう。ここにはモテトゥスに見られるような激しい焔の輝きは亡く、むしろ反宗教改革の線にかなった実用的な、分かりやすい音楽を作ることに徹しているように感じられる。もとよりそこにも巨匠の熟した筆使いを聞き取ることは可能であるが、それは時としては職人的な慣用句と同一のことも少なくなく、前代のジョスカン・デ・プレらの充実した作品に一歩ゆずるところがあることを否定しがたい。
 一方、ラッススのモテトゥスは、彼の全創作の頂点を形成するものであり、また、ルネサンス全ポリフォニー作品のなかでもきわめて特異な位置をしめるものである。<7つの懺悔詩篇歌 (Psalmi Davidis poenientiales) 1584>、<エレミアの哀歌 (Hieremiae prophetae lamentationes) 1585>、そしてラッススの死後1604年に二人の息子によって出版された<大楽曲集 (Magnum Opus Musicum)>、同じく死後出版の<シビラの予言 (Prophetiae Sibyllarum)>などにおさめられたモテトゥスは、フランドル伝来のポリフォニー書法を基調としながらも、歌詞と音楽との密接な結びつきをはかり、その劇的な表現力、色彩的な和音の用法、半音階法などによって、前人未踏の世界を作りだしている。ここにおいてモテトゥスは典礼のための実用音楽であることを脱して、聖書の歌詞によるラッスス個人の主観の表現の器となっている。ラッススは時には聖書の語を若干変更することさえ、あえてするのである。彼のモテトゥスには、パレストリーナのそれにおけるように、明澄でバランスの取れた構成への指向は見いだせない。むしろ、歌詞の変化に応じて、突発的な変化と動き、ひろい音程跳躍、シンコペーションにみちたリズム、付点リズムの多様、鋭いリズムの対比、半音階法、そして予期しない中間終止など、不均整な構成の中に劇的な表現を追求する傾向がいちじるしい。
 こうした傾向を端的にしめす<七つの懺悔詩篇歌>は、1572年の聖バルテルミーの大虐殺の暗い思い出に悩むシャルル9世の心をいやすために作曲されたと言い伝えられているが、この曲集のラッススによる序文によれば、すでに1560年頃に作曲されたことが示唆されており、実際にはアルブレヒト5世のために作曲されたものと考えられている。旧約聖書の中の150篇からなる詩篇の中には、神への懺悔と救いの願いを歌ったものがいくつかあるが、ラッススは、その中の詩篇の6、31(32)、37(38)、50(51)、101(102)、129(130)、そして142(143)をとりあげ、絶望から希望へと移り変わってゆく苦しむものの心をまとめあげたのである。音楽は基本的に5声で書かれているのだが、2声、3声、4声の部分がいくつか挿入され、2声部分ではカノン書法が用いられたり、4声部分ではホモフォニックな動きがきわだたせられたりして、苦悩と落胆の状態が強い緊張感のなかに表現されつくしている。この曲一つをとってみても、ラッススの作曲家としての才能の非凡さがうかがえる。
 ラッススは、栄光あるフランドル楽派の最後を飾る偉大な音楽家である。彼はこの楽派特有のポリフォニー技法からは決して離れようとはせず、その基本的な枠内で、自己の表現の世界を極限まで開拓していった。もっとも、その歌詞の内容に即した劇的な表現意欲が、結果的にフランドルの線的ポリフォニーの流れを異質なものに変形させてしまっていることは否みがたい。通模倣による均衡あるルネサンス的書法も、ラッススの手にかかると極めて自由な扱いをうけ、最初のモチーフをリズムだけで模倣する形に変わっている。またその旋律も、歌詞の正確なデクラメーションを求めて一種の叙唱様式ともいうべき形態にいたり、モンテヴェルディらのモノディ様式を予告するものになっている。
 このようなラッススの音楽と歌詞との密接な結びつき、そして音楽の幅ひろい表現力は、同時代者たちも注目し、賞賛しているところである。彼と同じ時期にバイエルン公宮廷で活躍していたアントワープ出身の人文主義者ザムエル・コイケルベルグは、ラッススについてこう書きしるしている。「ラッススは主題や歌詞にふさわしい悲しげな旋律を用い、多様な情緒を、あたかも目の前に見るがのごとくに再現する。したがって、その音楽を聞く者は、甘美な情緒が悲しい旋律をよそおっているのか、逆に悲しい旋律が甘美な情緒をよそおっているのか、区別しがたいほどである。このタイプの音楽がムジカ・レゼルヴァータという者であり、ラッススは彼がその大天才であることを証明している」。 
 コイケルベルグのいうムジカ・レゼルヴァータとは、1552年頃から1610年に頃にかけて、音楽理論書や記録などに現われる語であり、それぞれの場合に応じて、歌詞の情緒を表出した音楽、即興的な装飾音による音楽、かくされた半音階やその他の特殊な技法による音楽、特定のエリートや通人にだけ理解される音楽、というように多様の解釈が可能であり、今日なお音楽史学者の間で定説は確立されていない。
 しかし、その語がいかなる内容をもつにせよ、ラッススの音楽が言葉の持つ情緒の表出を目指すものであることは明らかであり、フランドル楽派伝来のポリフォニー書法はその劇性と情緒表出への指向によって、崩壊の危機にさらされることになった。16世紀末のパリのイエズス会学寮で、ラッススの作品の演奏が禁じられ、フォーブルドン様式(1400年頃にはじめられた書法で、6の和音の連続を中心とした書法である。定旋律は時に装飾音ゆたかに飾られて上声部におかれ、楽譜には上声部と下声部の二つだけを記譜しておく。記されない中声部は上声部の4度下をいわば即興的に歌ってゆくことによって、生み出されてゆく)のアンティフォナ(交唱詩篇唱の間に挟み込まれた試験の言葉によらない短い楽句)で代用することが命じられたというのも、ひとえにラッススの強烈な表現力のゆえであったと思われる。彼の門下生から、イタリア人ジョヴァンニ・ガブリエリ(1553頃-1612)、ドイツ人レオンハルト・レヒナー(1553頃-1606) ら、バロック音楽の先駆者たちが排出しているのもまた当然であった。
 しかし、その理由でラッススをバロック音楽史の最初の音楽家の一人に数えあげるのは適切ではない。たとえラッススが歌詞の内容の表現に心をくだこうとも、それはルネサンス的ポリフォニー書法の基本線の内側においてであって、むしろこの二つの矛盾した異質の要素をいかに一つのものに結合させるかに、ラッススの努力がはらわれているのである。
 表出への志向の点では次代のバロックの方向に結びつくものがあっても、それを可能とする技法の面はむしろ正反対のものである。しかも、ここにはルネサンス末期のエリートたちによってのみ理解されうる特殊な半音階的技法(シビラの預言に見られるような)、マニエラなどが著しくあらわれている。ラッススの音楽は、バロック音楽の成立を促進し刺激するものではあっても、それ自体はバロック音楽として把握されるべきものではなく、むしろ美術史におけるマニエリスムの方向でとらえられるべきものであろう。
 1600年以来のバロックの劇音楽および器楽音楽の台頭とともに、ラッススの音楽、そしてラッススに代表されるフランドルのポリフォニー音楽は急激に衰退の道をたどっていった。
    (皆川達夫著 西洋音楽史 中世・ルネサンス、今谷和徳著 ルネサンスの音楽家たち、より抜粋)

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【編集後記】

 ニュースでも書きましたが、今月2回目の発行です。風邪で体調を崩して2日ほど大学を休みました。その際に原稿を作りだめしてあったので、気分的にゆとりがあり、このような発行が出来ました。でも、あとで自分の首を絞めることになるかな・・・・・?
 2週続けて脇本さんのが発声指導がありました。特に女性の方いかがでしたでしょうか?なかなかエネルギッシュなご指導で、声を出すというのはどういうことか参考になるものと思います。出来れば、近いうちに男声の指導もバスの方にお願いしたいと思っています。ご期待ください。 <蛙>

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2003/01/10 16:51