♪♪ 415通信 52号 ♪♪
2001年10月14日発行
【415ニュース】
演奏会まであと1ヶ月となりました。何とか形も出来てきたようですが、バッハに関してはほぼ順調に、シャンソンもそこそこに進んでいるように思いますが、ラッソが心配です。お忙しいでしょうが出来るだけ都合をつけて練習にご参加ください。お待ちしています。
ところで、演奏会前後の予定がほぼ下記のように固まりました。11月17日 男性2名 17:30 坂本尚史宅集合
男性 18:00文化ホール集合舞台準備
女性・オケ・ソリスト 19:00 文化ホール集合
19:00〜21:00 練習(バッハ中心)
11月18日 器楽 10:00 集合 10:15〜12:30 ゲネプロ
合唱 12:00 集合 12:15〜15:00 ゲネプロ
オケ・ソロ 13:30 集合 14:00〜15:00 ゲネプロ
【練習計画(9月〜11月)】
演奏会までの練習計画を掲載します。土曜日は京山公民館、日曜日は芳田公民館でこれは変更ありませんが、祝日の関係で若干曜日の変更がありますのでご注意ください。演奏会が近づいてきましたので、器楽は原則毎週練習で、会場が少し移動します。ご注意ください。
10月14日(日) 器楽:10:00〜12:00 芳田公民館 10月14日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館 10月20日(土) 器楽:18:00〜20:50 八画園舎 10月20日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 10月28日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 10月28日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館 11月4日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 11月4日(日) 合唱:13:00〜16:30 芳田公民館 11月10日(土) 器楽:13:00〜16:30 八画園舎 11月10日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 11月17日(土) 合唱:17:00〜21:00 文化ホール(会場リハーサル) 11月18日(日) 第17回演奏会 文化ホール
【Bach Strasse東へ(その1) 日下不二雄】
Overture(前奏曲)
統一された一つのドイツの地図をひとしきり眺め渡し、南北を合わせるように二つ折りにすると、左右方向に一本の線が浮かび出る。その線に沿っていくつもの町が点在するのがわかる。その道はGoete Strasse(ゲーテ街道)と呼ばれ、文豪ゲーテが何度も通った街道であるようだ。観光ドイツにはさまざまな街道がある。そもそも徒歩旅行が前提であり、しかも可能であったヨーロッパに街道が発達したのは必然であったとはいえるものの、とりわけ有名観光地を結んだルートに「strasse(街道)」という名を冠していることが目立つ。このドイツ地図上の中心を東西に走る道に文豪ゲーテの名を与えているのには有名人物名を与えることによって親しみを持たせる観光的意図を強く感じる。ならば私がこの道に対して、自分のもっとも思い入れのある名を与えることは、認められても良いのではないだろうか。
私はこの道を、しかも西端は旧西ドイツであるフランクフルトではなく、旧東ドイツになるテューリンゲン州のアイゼナハから始め、東はザクセン州のドレスデンまでの道に限定して「バッハ・シュトラーセ(バッハ街道)Bach Strasse」と名付けたい。
私のとりわけ好むヨハン・セバスチャン・バッハは1685年にこの街道の出発点アイゼナハに生まれ、1750年に65歳でこの街道の東端の近くライプツィヒで亡くなるまで、ほとんどこの街道沿いの町にだけ生活していたのである。交通機関の十分に発達していなかった当時であったといえ、録音されたものを売るのではなく、自らの才能と技術を買ってくれる町に次々と移り住む当時の音楽家の生活スタイルから見ても、またバッハ自身が旅行としてもっと遠くの町にも出かけているのを見ても、演奏家としても名声を博したこの作曲家が、こんなにも狭い世界だけに住み一生を終えたということにはやはり驚きを感じざるをえない。生誕地アイゼナハから最期の地ライプツィヒまで距離でいえば200km強、最新のドイツ新幹線ICEを使えば2時間かからないのだ。しかも州でいえばテューリンゲンとザクセンの二つの州にすぎない。
今回私がこの地方への旅の機会を得られたのは、私が所属している合唱団「岡山バッハカンタータ協会」が、バッハがカントール(音楽監督)として働いていたライプツィヒのトーマス教会における演奏会の機会を与えられ、私もその公演メンバーに加えてもらったからである。この話が持ち上がったのは出発の九ヶ月も前だった。参加の決定した当初は漠然とした喜びと不安に満ちていろいろと考えていたのが、しばらくすると日々の雑事に取り紛れてしまい、ふと気がつくと一ヶ月前になっていた。いつもこうやって旅の出発はかくれんぼか缶蹴りしているように、急に隠れ、急に出現して、びっくりする。子供の頃の遊びは人に原体験を与えるために存在するのだろうかと思われるほど、人生のいたるところに思い出させるものを持つ。
人の作り出したものには必ず精神性が顕れる以上、風土的要素は盛り込まれているものである。ましてや精神性の重視される芸術作品の場合、風土を無視して語ることはとうていできないほど、その影響は大きい。となると作品を理解するために作者と同じ場所に立ち、同じ空気を吸い、同じものを食べ、同じ風景に接することこそ、何よりも知的にではなく情的に受容する基になるのではないか。
私が自分の好きな文学者の活動場所をときどき歩き回るのはこれが理由である。これによって何かがわかるという知的満足を得るものではない。だから「何のために行くのか」と問われてもうまく答えられない。ただ情的に解ることが時折ある。これはなかなか言葉をもって表現しにくい。ただ自分の中にたまっていくものである。時々大きな力となって現れることはあってもたいがいは取り立てて何の役にも立たない。でもこれがなければ成り立たない作品理解というものもあるのだ。
今回の相手は、日本の文学者ではなく、作曲家・オルガン演奏家であるヨハン・セバスチャン・バッハである。私にはなじみの薄いドイツ人だ。しかもバッハがこれほど狭い地域だけに暮らしていたのだということを知った驚きは、同時に、短い旅の中にそのほとんどの場所に触れることができるのだというチャンスとなって私の中に再構築された。このたびの演奏旅行はライプツィヒに留まるものであったために、そこから二つ折りの折れ線に沿って東西に移動し、バッハと同じものを見ていきたいと思ったのだ。
「バッハは小川でなく大海である」とは、バッハが小川を意味する言葉であることからのベートーベンの比喩であるが、私はむしろ「バッハの小川は泉から流れ出る」と譬えたい。いかにも広々として大きな海よりも、一見ささやかに見えてそのくせ汲めども汲めどもつきせぬ深さを内包するバッハの作品は、私にはむしろ「泉」に見える。「泉」は「出づ水」語源とし、何もないところから何かが突然出現する驚きとして人々の目に映り、言語化された。
旋律を知り、鑑賞し、次に演奏する。それが度重なるにつれてこれほど深みが増す音楽を私は他に知らない。まさに「出現の驚き」をもって泉に譬えられよう。泉から流れ出た水はたおやかなものとして人々の心に安心感を与え、しかもいったんせき止めてみるとその水量には驚くものがある。
この文章は時系列をあえて捨てて書くことにする。ただ始めの方に、演奏会を持った二つの場所であるライプツィヒとクイトリンブルグについて書くことにする。ドイツという国に初めて来たことへの感動を書きたいからである。ただ、その後はバッハが生まれてからずっと移っていった場所をバッハの人生通りの順で書いていくことにする。したがって、4「アイゼナハ」からは私が訪れた順ではない。
この方法が読みやすいものではないのかも知れないが、この方法で「私のバッハ」に少しでも迫っていくことができるのではないかと期待している。CONTENTS
1 Leipzig (ライプツィヒ)
2 Thomas Kirche(トーマス教会)
3 Quedlinburg(クイトリンブルグ)
4 Eisenach(アイゼナハ)
5 Ohrdorf(オルドルフ)
6 Arnstadt(アルンシュタット)
7 Muhlhausen(ミュールハウゼン)
8 Weimar(ヴァイマール)
9 Kothen(ケーテン)
10 Dresden(ドレスデン)
11 Leipzig reprize(ライプツィヒ再び)
12 ドイツ生活点描1. Leipzig
ライプツィヒ
ライプツィヒは実におもしろい街だ。新しいものと古いものが混在している。それも、私の感覚では、混在するときにはなめらかな変化があるものだと思っていたが、ここでは急に変化しているのだ。古いものの隣に新しいものが、そしてそのまた隣には古いものが、そしてまた・・・。
廃墟
古いとか新しいとかいうのは、単に出来上がって何年たったかということではない。ここでは古いものとは、もう使われなくなったものをさすのだ。この旧東ドイツの街で私が最初に感じたことは廃墟のたくさんあることだった。そして工事の多いことであった。道路も建物も、とにかく工事が多い。
ヨーロッパの街はmitと呼ばれる旧城郭内が中心となっており、そこが文化的にも商業的にも中心である。そのさらに中心にはmarktplatzと呼ばれる広場があり、今でも毎日露店が立ち並ぶ。現在旧東ドイツ地域は急速に復興の工事が進んでおり、1990年東西統一後の12年間でどこもmit部分は出来上がっているようである。しかしその周辺部はまだまだである。町の鉄道駅はHauptbanhof(中央駅)とか、Banhof(駅)とか呼ばれているが、これらはmit内には造られず、mitに隣接した位置に置かれているのが通常である。
ここライプツィヒでもHauptbanhof(中央駅)は町のmit東北端に隣接するように置かれていて、その周辺はmitの外になる。駅自体がその中に商店街を持ち、人を集めているのに対して、駅の周辺には大きな建物といえばホテルくらいしかなく、いくつかある大ホテル周辺のビルは廃墟である。中には爆撃された後そのままに、赤煉瓦の半分崩れた建物から鉄骨が飴細工のようにねじ曲げられてつきだしているところもある。これでも中央駅から徒歩三分の場所である。
とてつもなく大きく感じられる建物が廃墟になっている。六階建て、七階建ての住宅や工場などが人っ子一人いない姿で、窓ガラスが割れ、中には変色しきったカーテンが枠さえなくなった窓から風になびいているのも見える。建物の入り口付近には必ずと言っていいほどスプレーぺイントで大きな文字の落書きが書かれている。一応使われていない建物の入り口はブロックを積んで入れないようにしてあり、敷地の入り口には高いフェンスを置いて入ってはいけないところであることを示している。
ライプツィヒで最初に私を驚かせたのかこの廃墟であった。私たちの泊まったホテルはmitのはずれからさらに10分ほども歩いたところにあった。ついた翌朝、時差のせいか早く目ざめてしまった私は、シャワーを浴び、輝く朝日の中を一人で散歩に出かけた。
町中を子供達が歩いている。ここザクセン州では私のついた8月9日から、6週間の夏休みが終わり新学期が始まっているのだそうだ。色とりどりのカラフルなリュックサックを背負った子供達、数人の子供の乗ったSchool Busと書かれたワゴン車(Volkswagen Vanagon)を運転する中年女性。ホテルの前には、この町の著名人の一人、活版印刷技術の発明者グーテンベルグの名を冠したGutenberger Schuleという学校もあった。散歩に出かけたときには誰もいなくて閑散としていた前庭が、戻ってきた7時半ころにはたくさんの生徒で埋まっていた。ここはどうやら職業学校であるらしく、高校生くらいの男女がたくさんいる。校舎の入り口はまだ閉まっているらしく前庭でそれぞれ本を広げたり話をしたりしている。中には座ってたばこを吹かしている女の子もいるが、どの子も慎ましい感じでおとなしい。親に車で送ってきてもらう子がいたり、歩いてくる子もいてますますにぎやかになる。全体にもの静かで、雰囲気は整然としている。
登校する小学生が古いものと新しいものの中を歩き、古い町並みにちらっと目をやり、何事もなかったかのようにまた前を見て歩き始める。私は「何事もなかったかのように」と今書いたが、本当はそうではないのだ。「何事もない」のだ。そこに何かを見つけようとしているのは遠い国から来た自分だけなのだ。古い建物。壊れゆくものが目の前にあることはここではあたりまえのことなのだ。ところが自分にとってはあたりまえではない。私自身が、壊れゆくものは保存しようとするか、一気に取り払って見えなくしてしまい、新しいものに取り替えてしまうか、この二つしか方法を知らないだけなのである。しかしライプツィヒの人たちは、もう一つの、そしておそらくは最も自然な方法である「放置」という形を知っているというだけのことなのだ。
しかしこの町もこれから変わっていくことになるのだろう。「西」化され、若者たちは頽廃的になり、もっとゴミにあふれてくるようになって初めて、何かに慌てて何かを始める、というどこか東方の国のようなことが起こってくるのだろう。こんな身勝手な危惧を抱きながら、散歩の途中で拾った石畳(steinweg)の石ひとつをポケットに入れて帰ってきた。四角い石の一つの面が磨かれたようにすべすべしている。この表面をどんなものが去来したのだろうか。ここが東ドイツと呼ばれていた時代の途中に、私は国交なく何も知らされない国、日本で生まれた。この石が見たものを私は歩きながらいろいろに想像していた。 (続く)
【編集後記】
とうとう2週間遅れの発行となってしまいました。日下さんから大量の原稿をいただいたので何とか発行できました。ホームページにも掲載されるそうですが、パソコン環境のない方もおありでしょうから、掲載させていただくことに勝手にさせていただきました。私自身のライプツィヒの一番の感想は「狭い田舎街だ(現在ではなくバッハ当時を思うと)」ということでした。片田舎の街々で一生を過ごしたバッハが後世に輝く作品群を残したことに驚きました。詳しくはまたいずれお話しすることにします。ともあれ、日下さん、本当に有り難うございました。私は、東京からの帰りの新幹線で、一気に読み上げてしまいました。感動でした。 (蛙)
2003/01/10 17:22