♪♪ 415通信 54号 ♪♪
2002年1月13日発行
【415ニュース】
新しい年が始まりました。本年が、皆様にとって、またOPEにとって良い年でありますことをお祈り申し上げます。
さて、新年早々の5日に会長、技術部長、事務局長、パートリーダー(一部代理を含む)が音楽監督宅に集まって選曲会議を行ないました。侃々諤々の(それほどでもありませんが)討議の結果、第18回演奏会の曲目が次のように決まりました。
第1ステージ パレストリーナ作曲 教皇マルチェルスのミサ曲
第2ステージ 独唱、合唱、器楽によるルネサンス世俗曲集
第3ステージ バッハ作曲 クリスマスオラトリオ第5部
この2年は4ステージ構成で合唱の曲が多すぎるとの声が大分ありました。また、今年はカンタータをやりたいそれも明るい感じのものを、との希望もありました。それらのご意見を反映して3ステージ構成とし、第2ステージは器楽と合唱を交互に演奏するなどして簡潔なものとしたいと思います。具体的な曲目については、もう少しお待ちください。第3ステージは、クリスマスオラトリオから1曲を選びました。クリスマスオラトリオは、クリスマスから新年にかけての6回の主日に演奏するためのものですから、結局はカンタータ6曲のセットということになります。本来は続けて演奏するものではありませんでしたが、近年になって、一連の曲という形で連続して演奏されるようになりました。今回はこの5番めにあたり、新年後の日曜日用のもので、1735年1月2日に聖ニコライ教会の午前礼拝で初演された。今年で言うと1月6日に相当する。。冒頭合唱、短いキャラクターコーラス1曲、単純コラール2曲で、実質的にはカンタータと同じことです。20周年に全曲演奏することを視野に入れています。
楽譜は、今回からできるだけコピーを避けたいと思っています。パレストリーナとバッハで3000円程度となります。申し訳ありませんがご負担ください。分割払いでも結構です。
【練習計画(1月〜3月)】
今月から気分も新たに練習を再開することにしたいと思います。1月は若干変則ですが、2月以降は、これまで通り第1・3週の土曜日の夜、第2・4週の日曜日の午後を練習とします。器楽については、第2・4週の日曜日の午前中です。土曜日は京山公民館、日曜日は芳田公民館で変更ありません。また、来月からはおおよその練習計画を掲載したいと思います。ご多忙の方などで、ステージを選んで参加されたい方は参考にしてください。
1月13日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 1月13日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(終了後新年会) 1月19日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 1月27日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 1月27日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館 2月2日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 2月10日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 2月10日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館 2月16日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 2月24日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 2月24日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館 3月2日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 3月10日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 3月10日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館 3月16日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館 3月24日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館 3月24日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館
【Bach Strasse東へ(その3) 日下不二雄】
2 Thomaskirche(続き)
翌日は夕方から演奏会ということで、午後からトーマス教会の聖歌隊席でゲネプロが行われた。ゲネプロというのはいつも慌ただしいものである。位置決めをしたり、曲想を確かめたりもするが、着替えの順番や持ち物の置き場所や、およそ音楽的ではないところを確認する作業である。
こういった音楽的でないことをするためにこの神聖で憧れの対象である場所をうろうろするということは随分違和感があった。しかしこれが演奏会というものだ。音楽家はただ音楽を考えていればいいものではない。いい音楽を生み出すための雑事はいつの世にも付き物だ。ゲネプロの騒然もその一つ。こうやって一つずつ解決していって初めて音楽演奏の時間が来る。私は今回は歌うだけでほかに何も役割がないという幸せな立場だったので、自分のことだけを考えていればよかった。違和感を違和感とだけ考えていればよかった。世話係の方々は大変だった。
演奏会にはたくさんの人が来たようだった。「ようだった」というのは、演奏している場所から客席である下のフロアが全く見えないからだ。ただステージとなった聖堂後方二階のオルガン前空間は、同じ床続きの両翼二階席を持ち、そこにも聴衆が入ったので、その人たちの数や反応は見えた。後で五百人の聴衆だったと聞いたが、20DMから40DM(1200円から2400円)という、ここでの物価を考えるとかなり高価なチケットをわざわざ買って、この得体の知れない合唱団の演奏を(いかに指揮者DavidTimm氏やバスソリストPeter Kooij氏が有名人だからといって)聞きに来てくれることに対しては頭の下がる思いがした。20DMあれば夕食をカフェで食べ、さらにビールを3杯も飲めるのだ。
演奏は「太い」ものだった。これは前夜のここでの練習の時に感じたものと同じであり、その太さはもう一段際だっていた。太いといっても動きが悪いわけではない。動きがいいのはこの合唱団の一つの特徴なのだが、それが緊張感と安堵と興奮のために、大きなものになっていたということだ。繊細さには欠けていたかも知れない。しかしこの残響の驚くほど長い聖堂では、この太さがプラスに働いていたように私には思えた。いい演奏だったと思う。少なくともこのメンバーでできる最良の演奏であったと思う。
私はやはり、ここでバッハを直接は感じなかった。何も考えていなかった。かといって今まで注意されてきた膨大なことがらを一つ一つ思い出すこともしていなかった。むしろ空白だった。無心になっていたのか。いや、楽しもうとしていたのかも知れない。
私は自分を客観視するのが好きである。今ここにいる自分の姿を楽しむということでもある。このたびの演奏曲モテット6番、カンタータ102番、カンタータ158番、カンタータ39番では、合唱曲はそう多いわけではない。ただ私は合唱を歌っている間、なるべく楽譜から目を離し、指揮者を見つめ、他の楽器演奏者の様子を見、両翼の観客の反応を見ていた。指揮者Timm 氏の指揮とチェンバロ演奏(Timm氏はチェンバロを弾きながら指揮した)がいかに生き生きしていたか。このライプツィヒ・バロック・オーケストラのまとめ役でもあったチェロのStephanの、エンドピンをつけずヴィオラ・ダ・ガンバのように膝に乗せて抱きかかえるように引いていた古楽器チェロを、踊るように恋人のように自分と一体にして弾いていたその音色と音楽性がいかにすばらしかったか。このオーケストラでは最年長のおじいちゃんコントラバス奏者の、弓の持ち方こそモダンスタイルであれ、そのタッチたるや本当にとろけるような、甘く弦をたたきながら弾くバロック的演奏のいかに柔らかいものだったか。二人のリコーダー奏者の女性が踊るように体を動かして吹いていた姿が全く同じ動きをして吹いており、それがテレビタレントのようにわざわざ合わせて同じ動きをしているのではなく作為なく自然に、しかも寸分狂いのないデュエットダンスを、柔らかい音色と共にあらわしているその姿のいかに感動的だったか。コンサートマスターであった第一ヴァイオリン女性奏者の、冷静さを失わない厳しい表情がいかに全員をまとめていったか。このオーケストラがいかに「生きた」ものであったかは、語り尽くせない。そして指揮者についても。さらにはじっと聞き入っていたドイツ人観客たちの真剣な表情についても。
この上なく幸せな時間が過ぎた後、「教会だから拍手はない」と聞かされていた私たちの耳に入ってきたのは、最後の和音が前方祭壇前のバッハの墓に吸い込まれるように長く長く響いて消えた後、決して急にではなく、どこからともなく、しかも会場のあちこちから同時に、はじめ遠慮がちに、それからだんだん大きくなっていった拍手の音だった。この拍手は随分長い間続いた。たいへん感動した。そして観客と共に、一つになっていい音楽をすることのできた喜びが沸々とわき起こってきた。
ライプツィヒ音楽演劇大学で、トーマス教会で、私が得たものはたった一つのものである。しかもそれは初めてここで知ったことではない。今までに数回、その指揮で歌わせてもらっていたヘルムート・ヴィンシャーマン先生とドイツバッハゾリステンから得たものと同じものであった。それは「生きた音楽」ということだった。
音楽は、特にクラシック音楽は、作品が作られてから長い時間がたっている。同時性がない。だからこそ作曲当時と同じスタイルで演奏するというのも一つの方法ではある。しかし、いつの時もその音楽を演奏するのは生きている人間である。生きた人間が、今、演奏しているということをまずしっかりとつかんでいなければ、共時性の芸術である音楽は理解できない。演奏スタイルの前に、今演じている自分がいるのである。音楽は再現ではないのだ。新たな創造なのだ。それも今私が生きていることの証なのだ。
ヴィンシャーマン先生はいつも「生き生きと」とおっしゃった。次のフレーズに移れる喜びを常に持てということだと思っている。そこで次のフレーズに移れるのは、自分が生きていて、生きる力を持っているからだ。そうやっていった先に安らぎと喜びを与えてくれるのは、バッハの仕事だ。後はバッハを信じていけばいい。
バッハは生きている。私は生きたバッハを日本に持って帰る。そして生きたバッハをここでも広げていくのだ。
3. Quedlinburg
Leipzig Thomaskirche演奏会の翌日がQuedlinburgでの演奏会であった。
このクイトリンブルグというのはどこにあるどんな町であるのか、全く知らなかった私は出発の前にトーマスクック時刻表の索引で調べてみて、やっとどの辺にある町かはわかった。しかし何一つ知らずに出発したといって差し支えない。トーマス教会の、バッハから数えて何代後になるかよくわからないが、現在のカントールはゲオルグ・ビラー氏という方だが、その実兄ゴットフリート・ビラー氏がこのQuedlinburg St.Serbatiikircheクイトリンブルグ聖セルバティ教会のカントールをなさっているということから、ここでの演奏会が実現したということであった。ここはライプツィヒからバスで二時間の所にある、魔女伝説で有名なハーツ地方の小都市である。
ヨーロッパで山あいの町に行くと必ず山歩き用の杖につけるための小さな町のプレートを売っている。それも長さ5mm位の小さい釘二本とセットで。ここクイトリンブルグでも小さい店に杖を売っているのを見かけたので、入っていってこの町のプレートを見せてくれるよう頼んだところ五種類出してきてくれたが、そのうちの二種類が「魔女マーク」のものだった。そういえばみやげ用のぬいぐるみも、ほうきにまたがった魔女のものがたくさんある。ただアメリカのウィッチと違うのは、ユーモラスなものではなく、もっとおどろおどろしいものであったということだ。あまり気軽なみやげとして買いたくなるようなものではない。
さて、この町は実は町全体がユネスコの世界遺産に認定されている町である。というのも、設立以来もう1000年以上になるのにそのまま姿を変えていないで今日まで保たれているからである。
この世界遺産というものには私は少々疑問を抱いていた。そもそも世界遺産を制定した人たちにはヨーロッパの人たちが多く、自分たちの感じる「美」にはすぐに世界遺産の認定をし、東洋的なものに対してはなかなか厳しいのではないかという一種の贔屓が働いているのではないかと思っていたのだ。ところがここにきてみて少々見方が変わった。
この町は千年間姿を変えていないわけだが、大切なのはそのまま現在でも使われているということだ。もちろん内部改造はしている。私たちが演奏会を持った教会にも、中にはちゃんと、用を足し終わった後自動的に水が流れる設備を持ったトイレもあるのだ。しかし建物自体はそのままであり、それを人々は大切に保っている。日本なら、何かを保とうとするなら保つための何か特別なことをしなければならない。お金を特別にかけ、修復をくり返し、保つための努力を公にやっていかないと個人の力だけで何かを保つことは通常非常に難しい。それがここでは自分たちの中で行われている。これこそ「遺産」の名にふさわしいのではないかと、私には思われた。
町はまさにどこをとっても絵はがきになるような美しさである。町中に停まっているのが乗用車でなく馬車であっても、町の人がコンピュータでなく羽根ペンを使っていても全く違和感はない。名物料理も、そろそろ季節に入りがけの「きのこ料理」。これも中世からなにも変わっていないように思われた。昼食にカフェに入り、隣のテーブルの人と同じものを頼もうと思ったがまたもや英語が通じない。何度かいろいろな言い方をしているうちに、隣のテーブルで食事をしていたカップルの男性の方が、つっと立って私たちの方に来た。何やら気分を害してしまったかなと少し緊張したが、私たちのウエイトレスの所に来ると通訳してくれ、私には美しい英語で話してくれた。そして自分たちの食べていたものを説明してくれ、大変美味しいのでこれはおすすめだ、とまで教えてくれた。私はその方のおかげで、同じもの「キノコソテーの乗ったオムレツに、チーズを乗せて焼いたポテト添え」Pfifferlinge mit Ruhrei und Harzer kneisteを頼めた。その方はベルリンから観光できたといっていた。またもやドイツの人にお世話になってしまった。さて、そのキノコだが一見したところ日本のなめこみたいな色や形をしている。しかしぬめりはなく、口に入れてみるとこりこりした感じでなめこより随分固い。かんでいると風味が感じられ、なかなか美味しいものであった。
食事の後ちょっと寄ってみた骨董店の店内で、立ち位置用の背の高い譜面台の両側に燭台のついたものがあって、これは欲しいと思った。しかし折り畳み式でなく、一メートル以上もある高さの譜面台を持って帰るすべもなく諦めざるを得なかった。しかしこんなもののあるのもまさにこの町ならではだと、改めてこの中世の町の奥深さを感じたものだった。(この項、続く)
2003/01/10 17:28