♪♪ 415通信 55号 ♪♪
2002年1月27日発行


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【415ニュース】

 2002年の演奏会に向けての練習が始まりました。今年も演奏会に向けて積極的なご参加をお待ちしています。なお、楽譜が来ましたので、まだの方はパートリーダーからお受け取りください。パレストリーナは800円、バッハは2200円で、両方お買い求めの方は3000円になります。パートリーダーにお支払いください。分割払いでも結構です。
 今年の演奏会のソリストが決まりました。大変有り難いことながら、皆様喜んでお引受けいただけました。わたしたちも技術や声はともかく、熱意だけは負けないよう頑張りましょう。ソリストは以下の方々です。鈴木順子さん(ソプラノ)、脇本恵子さん(アルト)、有馬雄二郎さん(ご存じ会長さん・テノール)、秋山 啓さん(バス)。ソプラノの鈴木順子さんは今回初めてお願いしました。ルネサンスからバロック向きの素晴らしい声の持ち主です。何度か発生の指導もしていただけることになりましたので、楽しみにお待ちください。
 1月から新たに小野敏彰さんが入会されました。川崎医療福祉大のご卒業で「ちょらす」の部員だった方で、パートはバスです。今後も、まだ数名が入会されるかも知れません。よろしくお願い致します。また、ソプラノの丹原由理さん、アルトの横田久里子さん、テノールの守屋 宏さんが復帰されましたが、ソプラノの大森麻紀さん(松野麻紀さんととなられて復帰されました)、テノールの山本 猛さんが都合により当分休会されることになりました。早いご復帰を期待しています。

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【練習計画(2月〜4月)】

 2月以降は、これまで通り第1・3週の土曜日の夜、第2・4週の日曜日の午後を練習とします。器楽については、第2・4週の日曜日の午前中です。土曜日は京山公民館、日曜日は芳田公民館で変更ありません。また、来月からはおおよその練習計画を掲載したいと思います。ご多忙の方などで、ステージを選んで参加されたい方は参考にしてください。

2月2日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
2月10日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
2月10日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館
2月16日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(脇本さん発声指導)
2月24日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
2月24日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館
3月2日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
3月10日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
3月10日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館
3月16日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
3月24日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
3月24日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館
4月6日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
4月14日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
4月14日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館
4月20日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館
4月28日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館
4月28日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館

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【練習計画(2月)】

 おおよその練習計画を掲載します。当面は音取り中心ですので、計画通りに進まないかも知れませんが、お許しください。なお、2ステージの曲目が決まれば、日曜日の練習に加えていきたいと思っています。決まり次第ご報告します。

2月2日(土) P・グローリア前部(8〜11ページ) B・冒頭合唱(58〜98小節)
2月10日(日) P・グローリア後部(12〜18ページ) B・冒頭合唱(99〜126小節)
2月16日(土) P・クレド前部(16〜19ページ) B・45番合唱
2月24日(日) P・クレド中部(20〜23ページ) B・46番および53番コラール

 

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【Bach Strasse東へ(その4)    日下不二雄】

3. Quedlinburg(続き)

 さて、この教会である。町の中で小高い丘の上にあるひときわ目に付く町のシンボルである。ここは城と教会が両方丘の上にあり、教会もあたかも城のように威厳を放っている。町を歩き、この教会まで登るのは大した運動ではないものの、町中からずっと続く石畳が、登りになってからはそれまでの町中の平らな石が丸い石に変わっており、とても歩きにくい。それで歩くのに苦労して結構疲れてしまうほどだ。しかし登ったところには教会の前庭があり、ここから町が360°の眺望となって、実に美しい。どの方向を見てもあかい屋根がうち続き、木々の中に他の教会の塔が見え、遠くにはうねった地形と低い山が見える。向こうの町にもまた別の教会の塔が、森の上につきだしている。前庭にはきれいな花が随分たくさん植えられており、教会の古い建物とよく合って美しい景色を育んでいる。

 ただ、教会の建物自体は決して美しいとは言い難い。この教会は設立がやはり千年以上前ということで、外観はかなり汚れ風化している。内部は何度か手を入れているようで、石造りはそのままであるが、パイプオルガンまで設置されており、きれいにしている。聖堂にはいると正面に大きな十字架があるが、そこから祭壇部分は両側に大きな石段があって登って二階部分にあるようになっている。中央は二階のバルコニーのようになっており、ここに立って説教するようになっていると思われた。二階部分は結構広く、さらに両側には現在は宝物展示室となっている石の部屋があり、もし照明がなかったとしたら年中暗い不気味なところであると思われた。聖堂の三分の一くらいを取ってある祭壇部分だが、その下の一階は、どうやら墓になっているようだった。特に一番奥には馬蹄形に大きな穴が掘られてあり、これはまったくの私見だが、共同埋葬墓だったのではないかと思われた。

 演奏会用のステージは聖堂後方に臨時に設営されており、聴衆は十字架を背にして聞く形になっていた。これは演奏者は十字架に向かい合って演奏するということであり、それに威圧されたと語っていたメンバーもいた。
  前日のトーマス教会では、バッハの心に直に触れ、目の前に眠るバッハを意識するという刺激が強すぎたためか、逆にこのクイトリンブルグでは却って落ち着いて演奏できたように思われた。
 予定では公開ゲネプロいうことだっただが、実際にはゲネプロを見に来た人はほとんどいなくて、これは演奏会はどうなるのだろうと少し心配になったほどだった。おまけにヴァイオリン奏者が一人急に音を立てて倒れてしまい、救急車を呼んだということもあり、心配なままゲネプロを終えることになった。結果的にはたおれたヴァイオリン奏者も本番の演奏会には姿を見せ、弾くことができたのでそれほどのことはなかったのかも知れない。なによりも、ここのカントール、ゴットフリート・ビラー氏がとても温かく迎えてくれた上、ずっとゲネプロの時も付き添ってくれていたことや、指揮者のティム氏が明るく、トーマス教会の時と全く変わらない様子で指示を出してくれていたことが、合唱に安心感を与えていた。これは実に大きいことであった。

 演奏会は八時からだった。初秋を感じさせるここ中部ドイツでも、八時となれば薄暗くなって来はじめており、そんな中、どこからともなく客があらわれ、次から次に入場してきて予定してあった椅子だけでは足りなくなり、椅子を追加するほどだった。ここも聞いてみると10DMから30DMという金額での演奏会ということで、集まった人たちがカントールと親しげに話しているのを見ると、この人口三万七千人の町の住人たちが次々に仕事を終え、食事を済ませて夫婦で静かにこの教会に音楽を聴くために集まってきているのだということがわかった。

 演奏スタイルは前夜と同じく、カントールが始めに私たちを簡単に紹介した後、聖書朗読があり、それからは演奏、聖書朗読と交互に行われてプログラムが進んだ。演奏会の雰囲気は前夜よりずっと良かった。観客は中年夫婦が多く、みんな実にもの静かで熱心に聞いていた。照明はステージ部分だけに特別にあてられていたので客席は頼りないもともとの照明だけで、聖堂上方のささやかなステンドグラスの両側にはめ込まれた透明ガラス部分のを通して僅かに見える空の色は、刻々と変化を見せ、だんだん暗くなってくる聖堂内は雰囲気が高まり、神々しくなってくる。

 私は前夜の演奏会よりもずっと幸せな気分に浸っていた。確かに疲れてはいたし、気持ちの高揚という点でいえばトーマス教会での方が高かった。だがこの世界遺産に指定された町で、人々が毎日見上げる教会の聖堂に、矛らしく賞賛の目で見られている幸せを、この時はしみじみとかみしめていた。それは観客のすばらしさから来るものでもあった。静かで落ち着いている。厳しく、そして温かい目で見、しかも楽しんでいる。観客席が目の前であることで、この聴衆の方々の気持ちは手に取るように分かった。

 演奏が終わると、前夜と同じく、あちこちから拍手が始まり、長く長く続いた。それはおざなりのものではなく、自分たちと、ステージにいる私たちと共に同じ音楽を味わった仲間への共感を表したものであったと私は強く感じた。すばらしい観客。私たちが上手かったから拍手したのではない。この拍手は評価しているものではないのだ。また足を運んだ以上聞いたものが良かったことにしたいという打算でもない。共に同じ時間にこの世に生まれ、先祖から引きついできた文化を共に享受できる相手が、たとえ見たこともないとおい国から来た者であっても、そこに仲間としての人間的な一体感を感じているのだ。その輪。演奏者と観客の一つになった輪の中に自分もいることができた幸せ。これこそ神の恵みでなくて何だろう。
 日本人がこの教会で演奏したのは初めてだという。クイトリンブルグ。来る前には名前も聞いたことがなかったこの町と人々に感謝すると共に、この夜、この丘の上に神はほほえんでくれたのだと、私は固く信じた。

4 Eisenach

 ここまでは私がドイツに来たときの訪問順で書いていたが、ここからは町ごとに分けて書いてみることにする。決して私が訪問した順ではなく、バッハが移り住んだ順に配列した。特にバッハの気持ちをたどってみようと思っている。そして「私のバッハ」を明確にしておきたいという考えである。

 アイゼナハはバッハの生まれ故郷である。アイゼナハには夜の七時半についた。まだかなり明るい。宿についてすぐに行動開始した。とりあえず町を歩き、様子をわかった上で翌日の行動の下調べをしておこうという考えである。もちろんどこかで夕食を取らなければならないという事情もある。この町にもmitがあって、しかも城壁の入場門が現存している。それは車で通れるようになっており、中央駅からmitに行くには人も車も必ず通ることになっている。しかし町のmitはそう大きくないのに、なんだか道がわかりにくい。ライプツィヒのmitに比べると近代化の工事が進んでいて、新しいアパートやビルが増えているせいではないかと思われた。この町には自動車会社のオペルが工場を持ち、工業で生きていこうとする姿勢が見える。町にも若者が多く、学問や芸術の町ライプツィヒとは様子がやはり違う。

 バッハの生家跡、ルターの住んだ家、バッハの洗礼を受けたゲオルグ教会などを見ておき、翌日の行動に備えた。そしてどこかで食事をと思った。

 ここはテューリンゲン州になる。ライプツィヒはザクセン州であり、神聖ローマ帝国崩壊後の中世には別の国であったところだ。テューリンゲンといえばBratwurst。 
つまり焼いたソーセージをパンに挟んで食べるドイツらしいファストフードだ。しかしこれは夕食メニューではない。テューリンゲンは料理が他にも豊富なのだ。ルターハウスの裏側に半地下と、そこから外庭にでられる構造になったケラー(地下の居酒屋)があったのでそこに入る。メニューを見たが相変わらず全くわからない。そこで英語の少しできるウエイトレスに、何かテューリンゲンスペシャルを、と伝え、できれば肉の煮込みをと頼んだ。これがいいのでは、とアドバイスされたものはKasselbratenと書かれたもので、よくわからないながらそれとビールを、と頼んだ。ビールを飲み、ぼんやりしているとだんだん暗くなってくる。日記を書く気にもなれず、靴を脱いで足を投げ出し、ぼんやりしていた。頭の上には樹齢かなりになるだろう木が大きな枝を広げていた。その影が緑色から深緑、そして黒くなるまで空の色も変化していった。なかなか料理はでてこなかったが、ここがバッハ生家から百メートルも離れていないために、この木をバッハも見ただろうかなどと考えていると時間を忘れた。

 出てきた料理は大変満足の郷土料理だった。肉は豚肉の煮込みで、厚切りのものが二枚、大皿に乗せられグレービーのような煮汁がかけられていた。それにドイツでは時々口にしたややとろみのあるザウアークラウト(キャベツの漬け物)。それから生野菜と大きなクレーセが二つ。これだけが皿にのっていた。クレーセとはジャガイモ団子のことで、一見肉まんみたいな外観を持つ。直径六センチくらいのボールで、特に味付けはしていない。ジャガイモの粉を練って中に角切りにした挙げパンを二つ入れてボール状にし、ゆでたものである。ジャガイモだから少し粘りがある。これを先ほどの肉のたれにつけて食べるのである。とりわけ食べたいというほどの強烈なものではないが、家庭料理として食べてみたいものだっただけに、ここで食べられて良かった。しみじみとした家庭料理らしい味がした。

 このケラーでもう一つ印象に残ったことがある。私が座ったテーブルは外にあり、そこは普通の地面から見れば地下にあたるような三メートルくらい低いところの中庭のようになった場所だった。テーブルは十以上合って割合広い。ほとんどのテーブルが埋まっていた。九時頃になり、あたりがとっぷりと暮れると、ウエイトレスがローソクを持ってきてくれる。そうすると、それまでも静かに話していた客たちがもっと静かに、ひそひそ話をするように話をするのだ。周囲が壁になっている空間で十組の客がほとんど話をしているのに、ほとんどシーンとしている。この静かさは実に感動的だった。しかも実に自然なのだ。ここの土地の人よりも旅行者ばかりだったと思うが、それでもみんなそうしている。

 私は端のテーブルに一人でおり、僅かに酔ってくる自分の意識の儘にぼんやりとしていた。こんなにも時の止まった至福の時間はこの旅で初めてあった。バッハの生家に最も近い広場である。きっと子供だったバッハもこの辺で遊んでいたに違いない。バッハを意識しながらの、一人の大切な時間だった。

 食後ホテルに戻ろうとしたら、ルターハウスの横にきれいな紺色に塗られたサイドカー付きの大きなバイクが止めてあった。ちょっと目を留めて、こんなのに乗って旅行しているんだなあと思っていると、そこにたまたま歩いていた初老のドイツ人ご夫婦の、ご主人の方が熱心に見始めた。そしてなんとなく目が合い、ふと声をかけたのがきっかけとなって、それから話し込んでしまった。というのもこのご主人は英語が話せるのだ。結局、この後二時間も奥さんもご一緒に近くの喫茶店のテラスでコーヒーを二杯も飲んで話をした。この方はデュッセルドルフの近くの町からこられたご夫婦だった。

 私は自分がこの国にバッハを歌いに来たことを語ったが、これはこの方には随分興味深いことだったようだ。ドイツの歴史に非常に詳しく、バッハについても詳しかった。カフェテラスがゲオルグ教会前だったために「ここはバッハが洗礼を受けた教会だが、彼はここでは演奏したことがない」とか「ケーテンではバッハは教会音楽家ではなかった。あそこでブランデンブルグ協奏曲は書かれたんだ」とか「ミュールハウゼンにはここからすぐに移ったのじゃなくて、一度他の場所に行ったはずだ。そこは、えーっと・・・」私はすかさず「オードルフ!」と合いの手を入れると、「そうだ、その通りだ」といって高笑いされた。大変楽しい時間だった。こうやって旅先での「袖すり合う」仲だっただけの私にも親しく話をしてくれ、おまけに「私が誘ったのだから」といってコーヒー二杯分もご馳走してくれる紳士と、静かにずっとついてこられた奥さん。英語は分かるらしいが話すのは苦手なようで、私たちの話をずっと聞いていて、面白いところでは一緒に笑っていらっしゃったが、ご自分が話すときはドイツ語でご主人にいい、ご主人が私に英語で通訳されていた。日本人という得体の知れない外国人の私に十一時まで話してくれたことに、私はドイツという国への親しみと懐の広さを感じるばかりだった。(このご夫婦には実は翌日ヴァルトブルグ城の上でまたばったりお会いした。その偶然にも驚いたが、私は再会したことにただ嬉しかった。)バッハはこうやってたくさんのものを私に見せてくれる。

 翌朝はまた暑いくらいのいい天気だった。バッハハウスはバッハの生家と目されていた家だったが、現在はそうではないことがわかっている。ただ、バッハハウスと、昨夜私がいたルターハウスとを結んだ二百メートルほどの小道がルター通りであり、そのルター通りの真ん中あたり35番地が本当にバッハの生家のあった場所だといわれている。だから大変近い。

 ルター通り35番地はただの民家である。両側を他の民家に接した、この辺でよくある姿のやや小さい家である。バッハの生家がどういう家だったのかはわからない。でも私はその前に立ち、ここがあのヨハン・セバスチャンの出発点なのだと何度も思った。ここから始まった彼の人生はどういう方向になっていったのだろう。彼の思う方向に行ったのだろうか。バッハがお金や人間関係や音楽的無理解に苦しんだとはよく書かれていることであるが、そういうことで人間の人生はわかるのだろうか。それだけでつらい人生だったといえるのだろうか。確かに彼は出世している。ではそれで、逆に幸せだったと言えるのだろうか。

 もちろん突き詰めれば、後の人にはなにもわからないのだ。しかし、同じ場所に立ち、同じ視線でものを見て、なんとか理解してやろうとするのが今回の旅である。今ここに確かにバッハの出発点を見たのだと心に刻みつけ、私はまた歩き出した。

 アイゼナハは坂の町である。バッハの生家跡地のあるルター通りも端のバッハハウス前から反対の端にあるルターハウスまでは中央部分が盛り上がった緩やかな坂である。そしてその中央部分、35番地からは、ヴァルトブルグ城につながる山への上り坂が始まっており、すぐに急な上り坂である。アイゼナハを含むここテューリンゲン地方の丘陵地帯という地形はこの町の中にいてもわかる。バッハが、自分のいる場所を地形によって感じていたのではないかという直感は、全く的外れなのかも知れないが、しかし私には一つの思いとして強く残った。テューリンゲンにいる限り、このうねった丘陵地帯という地形はどこまでも意識されるのだ。そしてこれが、ライプツィヒのあるザクセン地方になると変わってくる。バッハ当時の政治情勢から見ると、自分がテューリンゲンという田舎の小国にいるのか、ザクセンという強い大国にいるのかは、自分のいる場所の地形からでも実感できるのだ。

 このうねりこそが、バッハの音楽の中に流れる音楽のうねりそのものなのではないかと、ふと思った。ロ短調ミサのSanctusにはこのうねりが聞き取りやすい。バッハがこの町を出てあちこちにさまよいゆく中で、常に目に入る景色として見えるのがうねりなのである。大きくたゆたううねりの中に旅をしたバッハが、故郷テューリンゲンを思いながら、自らのもっとも安心できるうねりの中に安らぎの音楽の形を見つけたのではなかったのだろうか。

 バッハハウスの中には、もちろんバッハ関係の資料や直筆譜も多く展示されていたが、私が目を見張ったのは最後の展示室、これは実は入り口のすぐ横の部屋だったのであるが、ここにあった楽器だった。壁に掛かった三本の金管楽器。ガラスケース内の多くのブロックフレーテ(縦型フルート)やフラウト・トラヴェルソ(横型フルート)。反対側のケースに入った弦楽器たち。そして圧巻だったのがその部屋に置いてあったシルバマン制作のスピネット、古いクラヴィコード、チェンバロそして二台のポジティフ・オルガン。

 その部屋に向かうときに、どこからともなくチェンバロを練習している音が聞こえていたが、それはその部屋にいた一人の青年が弾いていたのだ。私がその部屋にはいると、青年はあと十分くらいでこの楽器を演奏するから待ってくれと英語で言った。もちろん私はその部屋で楽器を見ながら待つことにした。

 ガラスケースの中のヴィオラ・ダ・モーレに私は注目した。日本のダ・モーレがあったのだが、一方には六本の弦の下側にちゃんと六本の共鳴弦が張られていたのだが、もう一方の楽器は五弦であるうえ共鳴弦がない。そしてどちらにも「ViolaDamore」という説明が書いてあったので、共鳴弦のないダ・モーレもあるのかと、その青年に質問してみた。彼は、自分が鍵盤楽器が専門で弦楽器についてはあまり詳しくないのだがと前置きして、それでもこう説明してくれた。かつてはバッハが弾いたダ・モーレは共鳴弦のあるものだったと言われていたが、最近の研究では共鳴弦なしのものを弾いたという説が有力だ。特にこの楽器は五弦だが、よく見ると糸巻きは六本ついているし、本体のブリッジは六つ空いていた穴の二番目と三番目をふさぎ、その間に一つ穴を開け直すという改造を施して五弦楽器にしてある。こうやって現在の四弦のヴィオラに近づいていく過程の楽器なのである。これらはいずれもヴィオラ・ダ・モーレと呼ばれる。
 いきなり妙な質問を受けた彼は即座にこんな説明をしてくれた。さすがである。舌を巻いた。よく勉強をしている。

 そうこうしているうちに他の客もすこし入ってきたので、彼は説明し始めた。彼が弾いてくれたのはスピネット、クラヴィコード、そして二台のポジティフ・オルガンだった。いずれもすばらしかった中で私がすっかり感動してしまったのは、一台のオルガンの音色だった。それは飾りの少ないオルガンで、鍵盤が本体から離れて置かれてあり、本体を背にして弾く形のものだった。送風は足踏み式であり、音色の中に足でふいごを踏む音が混じる。ただ何ともいえず柔らかいその音色は本当に心にしみこんでくるものであり、私は思わずその音色に涙が流れてしまった。良い音、良い音楽に接すると時は止まる。そして空気と一体になる。僅かな時間の演奏だったが、私にとっては時の止まった至福の時間だった。楽器の音色に涙するなんて今まであったろうか。スピネットは実に端正な張りのあるすばらしい音がした。クラヴィコードも柔らかくささやいた。だがこのオルガンの音色は、一つの理想としていつまでも心に残るであろう音であった。

 バッハの生まれ故郷には、バッハの育てられたいくつものものが今でもそのままの形でちゃんとあるのだと、私には思われた。まさにアイゼナハはバッハの故郷そのものだった。

5 Ohrdorf

 両親が亡くなり、アイゼナハで孤児となったヨハン・セバスチャン・バッハは、兄がオルガニストとして働くオルドルフに移り住むことになる。1695年から1700年まで。バッハがちょうど十歳から十五歳までである。

 十歳から十五歳までといえば、思春期の初めとして多感な時期である。この時期に彼は兄の世話になりながらも、ただ自分の置かれた環境に沈むことなく、次なる自分のステップを探し求めていた。不屈の魂の養われた時期である。そのときにいたのがこのオルドルフの町であった。

 この町でそれほど長い時間のとれなかった私であった。バッハ関係の資料も多少は残されているというこの町でそれらを見て歩くことはできず、ただ町の印象だけを心にとどめるだけであった。
 取り立てて変わった印象のある町ではなかった。どこの町にもあるように城壁に取り囲まれたmitがあり、石畳があり、そしていくつもの教会がある。バッハが兄を頼って行き着いたのは、バッハの兄ヨハン・クリストフがオルガニストをつとめるこの町のミカエル教会であった。ミカエル教会は第二次大戦で爆破され、完全にその姿を、バッハ関係の資料や膨大な書籍資料とともに消してしまった。ごく最近になって教会の塔だけが再建された。

 私は「塔」を目指して進むことにした。塔は、クリームイエローに塗られ、妙に美しい姿で町の中心を少し外れたところに立っていた。町のどこからでもこの特別な明るい色の塔は見える。この塔はもともとミカエル教会のあった場所に建てられているのだが、教会自体がたいへん大きなものであっただけに、広場のような場所にぽつんと立っているのが淋しげであった。塔のすぐ横には大きな井戸があった。この井戸は上にこそ木のふたがかけられていたものの周囲の石は黒く変色しており、クイトリンブルグの教会の外壁を思わせる古い石の手触りであった。この石は、バッハの姿も、大戦も、ずっと見てきたものだ。バッハに触れたものがどこかにないかと思っていただけに、この井戸がなんだか懐かしい思いのする存在であった。

 少年から青年に移りゆこうとするバッハ。孤児として兄を頼らざるを得ず、教会聖歌隊メンバーとして時には屈辱的な慰問奉仕もしなければならなかった生活。しかしその後の彼の生き方を見るにつけ、この町で弱々しく生きていた少年とはどうしても私には思えなかった。むしろ、自らの力をのみ信じ、どこかに自分を活かす場所はないかと虎視眈々とねらっている不屈の少年の姿。

 ミカエル教会のある場所は現在は静かな住宅街である。しかも塔が建てられているのがちょっとした広場のような場所なので、なんだか道の真ん中に突然塔がそびえ立っているような印象を受ける。どちらかというと静かな落ち着いた場所だ。もちろんこの教会が破壊されたほど、この周囲は爆撃で完全に破壊されきっているはずだから、現在のたたずまいを基にバッハ当時を窺い知ろうとするのは危険であろう。思い入れに走り過ぎやすい。ただ、やはりここに傷ついた心をいやし、空想力たっぷりに未来への夢を追っていた石川啄木の「空に吸われし十五の心」に近いものを見ていたバッハを私は感じるのだった。静かさの中に、私は逆に気持ちの高ぶりを感じた。

 この町に来るまで、私は随分遠いのだなと感じ続けていた。地図で見るとアイゼナハからはそう遠いようには見えない。風景も大きく変わるものではない。しかし、うねりのある丘陵地帯の変化に乏しい風景の中を、トボトボと歩いていた少年バッハの辛い心のうちを私は思わずにはいられなかった。
 確かにオルドルフ自体がバッハの人生や音楽に対して直接何かを残したり与えたりしたことはなかったかも知れない。だが、ここで過ごした人生の大事な時期は、彼の不屈の魂の中に開花していったはずだと私は思う。それを育んでいった町は、また伝統を伝えるという十分な仕事をしたのだったろう。

6 Arnstadt

 アルンシュタットは割合大きな町だ。そしてここもご多分に漏れず、いやそれ以上に工事の多い町だ。旧東ドイツはどこも工事中だらけだが、そのなかでもとりわけアルンシュタットの工事は印象的だった。
 バッハがこの町に来たのは十八歳の時である。彼がオルドルフを出たのが十五歳の時。それから彼はドイツのもっとも北、デンマークとの国境に近いリューネブルグに二年間いた。オルドルフから北に300km、友人と二人だからこそ歩けたのだろうか。若さゆえの行動であった。偶然同じ名前のミカエル教会に所属し、そこの合唱団員として僅かながら給料をもらっての生活をしながら、ラテン語・ギリシャ語・神学・修辞学・哲学・数学・作詩法そして音楽を、ここリューネブルグ聖ミカエル教会学校で学ぶことができた。

 そしてここアルンシュタットは、バッハが初めて一人前の音楽家として職を得た町である。この町の、まだ名もなかった新教会のオルガニストである。もちろんリューネブルグからすぐにこの町での職を得たわけではない。いろいろと就職のために奔走し、失敗したり、臨時の職をこなしたりする中で得た、彼の最初の「正採用」であった。

 実はここも、オルドルフ以上に時間がなく、私は町をほとんど歩いていない。だからバッハの印象を書くのは難しい。ただ彼が十八歳からの四年間、二十二歳までという時期、それまでおそらく自分の力を出せる場所に行ったらああもしてやろうこうもしてやろうと、いろいろに想像していたことを一気に試し、そして失敗し、挫折も感じる時期。評伝を読むとここでのバッハはやはり、まさにこのようなことをやっているようだ。四年間の滞在の最後は、やはり楽団員との喧嘩が原因となっているという。若さゆえの自信、それゆえの挫折。しかしそれは次なるステップへの大切なステージであることは、実はもっと先にならないとわからない。挫折の原因は決して自分にはなく、あくまで自分の才能を正当に評価しない周囲の人々にその原因はあるのだというのは、多くに帆とが経験するこの年代の長所であり欠点でもあることである。 
 バッハがこのように感じていたことを知ると、なんだか楽しくなる。安心してしまう。

 アルンシュタットは、やはり一つの田舎町だ。オルドルフよりは大きくても、そこにある閉鎖性はバッハの飛躍にとっては障害になるものに過ぎなかったのであろう。

 さて、私はアルンシュタットから、是非行きたいと願っていたドルンハイムを目指した。ドルンハイムはアルンシュタットから東へ2.5kmのところにある小さな村だ。ここに聖バルトロメオ教会がある。ここはバッハが最初の結婚式を挙げた教会である。バッハの最初の妻マリア・バルバラは、後に急死したためにバッハはケーテンで二度目の結婚式をすることになるのだが、希望に満ちた二十二歳のバッハが結婚式をした教会には、やはりバッハの特別な思いがあったのだろうと、是非ここには訪れたかった。この教会を選んだのはここの牧師と個人的に懇意だったというのが理由であるようだが、アルンシュタットからほど近いこの村でわざわざ式をしたこと自体、なんだかバッハの思いが感じられてならない。

 アルンシュタットから田舎道を少し走ると、そこにはアウトバーンがすぐに見える。ほんの町はずれというところである。ドルンハイムはそのアウトバーンに出る手前を左に入ったところにある。町を出ると、例のうねった地平線の見える田舎道になるのだが、この時期には右側に、牧草を刈り取ってクリームパピロみたいな形にして転がしてある風景が見える。その景色を眺めていると、牧草地のはずれにぽつんと信号がある。それがドルンハイムへの入り口だ。よく見るとそこにバッハの名前が見える小さい案内板が立っており、さらになぜかバッハの名前の所には日の丸らしいマークが描いてある。誰かのいたずらなのだろうか。その信号から教会まではほんの数百メートルである。

 私がそこについてのは夜の八時をまわっていた。日本なら真っ暗だろうが、夏のドイツでは夜八時はまだ夕方の風情である。空も十分に明るい。しかし、人々の生活は時間によってきちんと動いており、当然私はこの教会の聖堂内には入れなかった。しかし敷地入り口の門は開いていたので聖堂の入り口までは行ってみて写真を撮ったりした。するとそこに町の人とおぼしき中年男性が通りがかったので、なんとか中に入れないものかと頼んでみたが、ようやく私の英語での懇願を理解してくれたその男も、私の願いを叶えてはくれなかった。彼はもう、その日の労働を終え、のんびりした雰囲気で歩いていたに過ぎなかった。せかせかと見るだけ見ていきたいという東洋人とはもう全く雰囲気が違っていた。

 教会の入り口には一枚のチラシがセロハンテープで貼ってあった。ドイツ語で書かれた内容を想像してみるに、それはどうやら、「あなたもバッハと同じ場所でバッハと同じ結婚式を挙げませんか」ということらしく、それらしい写真も載せられてあった。ただこれはたいへん小さいもので、こんなもので営業が成り立つのかと余計な心配をしてしまったのだが、とにかくバッハで売ろうという考えもありながら、やはりのんびりした田舎の村に過ぎない場所であった。もちろん特別な産業があるわけではない。何も特別なことのない、本当にのんびりした田舎の村。落ち着く場所だった。教会前に高校生暮らしの若者が数人たむろしていて、何をするのかと思って見てみたが、特に何をするでもなく話をしているだけだった。

 アルンシュタットでの喧噪を離れ、この別世界で結婚式をあげたバッハ。未来への憧れがますます高まり、彼は次のステップに進んでいく。

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2003/01/10 17:32