♪♪ 415通信 56号 ♪♪
2002年2月24日発行


Line071.gif (1121 バイト)

【415ニュース】

 今月は、特別なニュースはありません。風邪がはやっていたり、仕事や勉強が忙しかったり、試験があったりで、出席率の悪い日もありました。ん十年前の練習みたいだ、などと言いながらほとんどソロ状態を楽しんだこともありました。皆様お忙しいでしょうが、出来るだけご参加下さい。なお、2月16日の練習を終わった次点で、すでに皆勤賞の可能性のあるメンバーは4人だけとなってしましました。このうち、3人は近々欠席の予定が入っています。ということは、残るはバスの新人お一人。頑張ってください。なお、まだ新年のごあいさつをしていない方もお2人いらっしゃいます。パート内で声を掛け合って、大勢の方の出席をお待ちしています。

Line071.gif (1121 バイト)

【練習計画(3月〜5月)】

 3、4月は、これまで通り第1・3週の土曜日の夜の京山公民館、第2・4週の日曜日の午後の芳田公民館を練習とします。器楽については、第2・4週の日曜日の午前中に芳田公民館で練習です。4月の芳田公民館は実技室ではなく、2階の講義室です。
 5月からは、芳田公民館が使えなくなりますので、土曜、日曜とも京山公民館での練習になります。時間は変更ありません。器楽も京山公民館となります。
 3月31日は第5週なので練習はありません。また、5月の最初の週も連休で公民館が使えないため、お休みとします。お間違えのないようにご注意下さい。

3月2日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
3月10日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館(実技室)
3月10日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(実技室)
3月16日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
3月24日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館(実技室)
3月24日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(実技室)
4月6日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
4月14日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館(講座室)
4月14日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(講座室)
4月20日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
4月28日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館(講座室)
4月28日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(講座室)
5月12日(日) 器楽:10:00〜13:00 京山公民館(実技室)
5月12日(日) 合唱:13:00〜17:00 京山公民館(第2講座室)
5月18日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
5月26日(日) 器楽:10:00〜13:00 京山公民館(実技室)
5月26日(日) 合唱:13:00〜17:00 京山公民館(第2講座室)

 

Line071.gif (1121 バイト)

【練習計画(3月)】

 おおよその練習計画を掲載します。当面は音取り中心ですので、計画通りに進まないかも知れませんが、お許しください。なお、2ステージの曲目が決まれば、日曜日の練習に加えていきたいと思っています。決まり次第ご報告します。

3月2日(土) カントクがお休みのため、第2ステージの練習(曲目は後日)
3月10日(日) P・クレド後部 B・冒頭合唱
3月16日(土) P・サンクトゥス B・45番合唱
3月24日(日) P・オザンナ・ベネディクトゥス B・46番および53番コラール

Line071.gif (1121 バイト)

【Bach Strasse東へ(その5)    日下不二雄】

7 Muhlhausen

 バッハは、アルンシュタットから他の町へ移ることを真剣に考え、ここミュールハウゼン聖ブラジウス教会オルガニストの就職試験を受け、採用が決まって移ってきた。結婚後まもなくのこと、年齢は二十二歳であった。結局彼はこの町に二年弱しか住んでいない。ここはアルンシュタットと比べれば大きな町であり、教会も町の主要教会である。
 私はこの町が活気のある、生き生きした町として私の目に飛び込んでくることを期待していた。それはなんとなく「ミュールハウゼン」という音の響きに、爽やかな風薫る明るさを勝手に感じていたからかも知れない。
 実際に訪れた私の印象の中のミュールハウゼンはしかし「活気のない町」である。どこがどうということではない。町の中心にはまさにsteinweg(石畳)という名のメインストリートがあり、そこは自動車乗り入れ禁止となっていてたくさんの店が建ち並んでいる。人通りも多い。若者もたくさんいる。(ふと道を尋ねた女の子は高校生くらいの二人連れだったが、びっくりするほど色が白く、驚くほどきれいな子だった。)それなのに活気が感じられないのだ。なぜなのだろうか。これも、もしかすると田舎めいたよどみなのだろうか。
町には中世の城郭が、今でもぐるりとmitを取り囲んで残っている。ちゃんと城壁もそのままにある。ところどころに円筒形に円錐の笠が組み合わされた見張り塔がついた城郭である。何カ所か壁の切れ目ができていて、そこから自動社がmitの中に入れるようにはなっているが、mitの中心部は自動車進入禁止である。城郭に沿って外側には周回道路がついており、車は主にmitの外側を走り回るようになっている。それが風景の中では違和感なく合っている。私の興味があったのはその城壁の内側だったので、見に行くと、そこは人や車が通れるような道ではないにしろ、かつては人だけは通行していたのではないかと思われる空間があった。現在は主に建物の裏の空き地のようになっているところが多かった。中世の城郭の話は、ヨーロッパのみならず中国に関してもよく書物に出てくるのだが、果たして実際にそんなもののなかった国で育った者としては全くイメージが湧かなかったのだが、こうやってそれが景観と合う形で残されているのを見ると、町を壁で取り囲むといういかめしい排他性そのもののような町作りも、案外自然な成り行きで作られたものなのかも知れないと安心できるようになる。
 バッハがこの町に住んでいたのが短い期間であったからか、彼がオルガニストとして勤めていた聖ブラジウス教会の入り口にあったバッハがここのオルガニストだったことを示すプレートや、教会前の地名にバッハの名前が残されていることなどを除くと、実際のバッハ自身の痕跡を示すものは何も残されていなかった。聖堂内ではテーブルを出して一人の中年男性が絵はがきやCDを売っていたが、この方に尋ねてみても、バッハの家はもうないしバッハ関係の遺跡も特にはないということであった。
 聖ブラジウス教会から歩いて十分ほどの所にある聖マリエン教会。ここは記録上初めてバッハが自作カンタータを演奏した(BWV71)教会である。ここはむしろ中央通りであるsteinweg沿いにあって町中でもひときわ威厳を誇っている教会であるが、ブラジウス教会と違って入場料を取るこの教会にも、いろいろと古いものを展示してある中にバッハ関係のものは何もなかった。
 聖マリエン教会のパイプオルガンも立派だったが、聖ブラジウス教会のものもなかなか立派なものだった。後にバッハが好んでよく演奏したというライプツィヒの聖ニコライ教会のパイプオルガンと、少なくとも外見上の規模の大きさでは全く変わらない(聖堂はブラジウスの方が大きかったところから見ると、むしろこちらの方が大きかったのかも知れない)ものであった。この教会でもやはりsonmarkonzertが行われており、私が訪れたときも誰か小さく音を出していた。石造りの教会の、驚くほど高い天井と、夏の陽射しのきつい外から入ってすぐの目の慣れない状態と、エアコンもないのにひんやりした湿気の少ない空気のよどみとが、一種独特のぞっとするような威厳を含んだ雰囲気を私に与え手が、馴れてくるとこういった古い教会は安堵を与えてくれる。そしてそれが、過去のものではなく現在もそのまま使われ、生活に密着していることが、今度は自分がいなくなってしまう未来にまでつながる自分の一を知らせることに繋がり、伝統の中に自分も一緒にいるという安心感に結びついていく。ドイツに来て何度か感じたこの思いが、ここミュールハウゼンでも私には起こった。
 きれいだがわかりにくい町でもあった。中心に市庁舎がないという例外的配置であることから来るものだろうか、歩いていてもひどく疲れる町だったのだ。それにして、この町の活気のなさは何なのだろう。
 バッハ一族の土地であったテューリンゲンからは北にはずれたこの町は、周囲に大きな町を持たず、しかも大きな街道からはずれた位置にあり、こういった地理的要因からも余所の空気が入り込みにくかったのかも知れない。バッハがこの空気を好んだとは私には決して思えない。否応なく故郷を離れ、兄の元も離れ、自ら自分の力のみを信じて、自分を買ってくれる人・場所を探して放浪していたのである。こんなバッハにとって、よどんだ空気、外に向かっていこうとする発展性の感じられない町が、自分の意欲を高める環境であったとは、決して思えない。この町とは結局喧嘩別れになって、僅かの滞在のあと出ていってしまうことになるのだが、そうなってしまう原因は、バッハ自身にも内在していたのかも知れないが、この町の持つ空気そのものも原因の一つであったように思われたのは身勝手な思いこみだろうか。

8 Weimar

 ワイマールは歴史上有名になってしまった町であり、そのために旧東ドイツ地域内ではひどく名が知られているのだが、町自体の人口は僅か六万人ということで、意外に小さい町なのであった。
 この町を訪れたときはたいへん暑い日であった。珍しくギラギラ輝く太陽の下、歩き始めるともう汗をたくさんかいてしまって、ふとみかけた紅茶販売専門店の店内にスタンドのティールームが置かれていたのを見るとついフラフラ入り込んで、eiskaffee(アイスコーヒー)を頼んでしまった。アメリカにはないコーヒーを冷たくして飲む習慣がここドイツにはあって、暑がりの私にはありがたいものだったが、ライプツィヒでも、アイゼナハのヴァルトブルグ城でも飲んだ「ドイツのアイスコーヒー」がどれも同じものであって、しかも日本のものとは違うので、どうやって作っているのか不思議だったのが、この店でわかった。カウンターの内側で、店のおばちゃんは、まず冷蔵庫からアイスクリームを出してきて背の高いグラスに一すくい入れた。次に、やはり冷蔵庫からきれいな色の陶器のポットに入れて冷やしてあった深煎りの甘みのないコーヒーを注ぎ入れた。次に、おばちゃんはなんだかキンチョールのスプレーみたいなのを取り出し「ワッ、何をするのだ!」と内心叫ぶ私を後目にグラスの上にシューッと吹きかけた。するとそれは真っ白いホイップクリームになった。そしてチョコレートの粉末をさっとかけてストローを突き刺し、私の鼻先に持ってきて「Trei Mark.(3マルクだよ)」とおっしゃるのだった。なるほど、アイスコーヒーが普通のコーヒーに比べて値段の高い理由も、設備のなさそうな店でもちゃんとホイップクリームを少量かけてくれる理由も、アイスクリームがなぜか半分溶けかかっている理由も、これで全部解明した。アイスコーヒーとは、「アイス(氷)のコーヒー」なのではなく「アイス(クリーム)とコーヒー」なのであった。そういえばあちこちの町中のスタンドなどに「Eis」と書いた垂れ幕がかかっていることがよくあって、それはどうやらアイスクリームやソフトクリームのことをさしているようだった。
 それでもこの一杯のアイスコーヒーのおかげで再び歩こうかという気になったのはいうまでもない。おばちゃんありがとう。
 さて町は典型的なドイツの町である。中心にはmarktplatz(市場広場)があり、その前にはrats(市庁舎)がある。ただ他の町と違うのは、この広場から続くようにしてもう一つの広場が隣接しており、それがワイマール宮殿の入り口に直結しているということである。その二つの広場がつながっているあたりの場所に、有名なホテル・エレファントがあり、その隣の壁には「ここにバッハが住んでいた」と書いたプレートのつけられた壁がある。そのさらに隣は、フランツ・リスト音楽大学である。バッハ旧居あとの壁の向かいには、「赤の城」と呼ばれた宮殿の一つがあり、その前にバッハの胸像が立っている。
 バッハがこの町に住んだのは二回あった。一度目は十八歳の時。アルンシュタットでオルガニストになる前に数ヶ月、このワイマールで宮廷楽師兼従僕として働いていたのだ。走り使いであろう。待遇だけでなく扱いもまた屈辱的なものだったに違いない。それが今回は宮廷音楽兼オルガニストである。自分の力の出せた満足感はそこにあったに違いない。かつて従僕だったときから僅か五年後のことである。かつての自分を知っている人もたくさんいたはずだ。その人たちに鼻高々に再会する二十三歳のバッハの姿を想像してみた。
 ここで私はしかし、バッハを感じなかった。いやバッハの姿はむしろ宮殿の内部だけにあって、宮廷音楽家の姿を町に探すのは間違いなのだろう。でもその一つの理由として、町にはもっと有名なドイツの誇りたる大人物、ゲーテの姿があったことがある。ワイマールはゲーテの町といってよい。現在国立博物館となっているゲーテハウスには観光客がひっきりなしに入り、たくさんの学生が先生と思われる人の案内説明のもとで一生懸命見学していたし(こういったときのこの国の人々の「人の話を聞く態度」には感動をおぼえてしまうほどだ。実に立派である。大人が立派だから若者や子供も立派である。誰かが説明を始めたら、しゃべっていた子供に対しても「シッ」と声がかけられ、子供でさえ真剣に話している人の顔を注視する。)、なによりも土産物店はゲーテにちなんだ銀杏の葉のデザインのものと、ゲーテが自宅の入り口にかけていた「Salve(ようこそ)」プレートの模型ばかりであった。ちなみに私は土産物店でバッハにちなんだものを見つけることがついにできなかった。こうやって町に見られない一つの理由が、やはり教会音楽家でなく宮廷音楽家であったことであろう。これは同じく宮廷音楽家として働いていたケーテンでも同様である。ケーテンはワイマールのゲーテのように、バッハ以外には「観光資源」を持たない町であるにもかかわらず、やはりバッハについては少ない。
 ワイマールでのバッハは、年齢的に見てもまとまった仕事のできる年齢に入ってきており、事実多くの、後の世に残る作品を生みだしているし、また演奏家としての名声も随分高まっている。なんといっても九年間という長きにわたって住んでいた町である。没後250年もたっていることや、百年間も忘れられていた作曲家だったこと(録音のない時代の名演奏家は早く忘れられる)から、それほど町や人々の間に残るものがないのは仕方がないのだろうが、宮廷に活動場所を持った人物は庶民にはやはり遠い存在であったのかも知れない。この町でのバッハはやはり悲劇的な結末を迎え、次の町に移らざるを得なくなっている。ケーテンに移るために辞職を申し出たバッハに対して、領主は命に背いたということで投獄してしまう。結果的には四週間の投獄生活のあと、バッハはケーテンに身を移すことになる。

9 Kothen

 三十二歳になったバッハは、無類の音楽好き領主レオポルトに迎えられ、ケーテンの宮廷音楽長に任ぜられた。
一般に「ケーテン」と呼ばれているが、この「o」の上に二つのドットを持つオー・ウムラウトは、ドイツの人に発音させると「エ」よりや「ユ」に近いようで、この町の名も「キューテン」と呼んだ方が近いようである。この町はたいへん小さい町で、中心にあるmarktplatzもJakobikircheヤコボ教会も、それほどかからずにすぐに見て回ってしまう。なんといってもここもやはり工事中で、ヤコボ教会も入場時間が一日の中で午後三時から五時までのみ、とたいへん短いものであって、何か観光しようと思ったらレオポルト候ゆかりの宮殿しかない。その宮殿も、建物の一部が音楽学校として使われていた。さすがに「音楽好きのレオポルト候ゆかりの宮殿」と思ったが、門を入って左側はやはり工事の最中で、美しいアーチ型の支柱を持つ建物は見ることができなかったので、結局バッハ博物館を見るより他にない。町にバッハがあふれているとは決して言えない町ながら、結局はバッハゆかりの宮殿に足を運ぶことになる。町の案内所でも「Bach in Kothen」という英文のパンフレットを無料でくれたが、こんな所はライプツィヒも含めて、他にはなかった。
 バッハがこの町でどこに住んだのかはわかっていない。こうやってみても、この町でのバッハ研究は進んでいるとは言えない。案内所ではバッハゆかりのものを少々扱っているが、町中にはバッハはいない。僅かにバッハを町中に見たのは、なぜ過去の町中にたくさん飾られてる実物大の牛の模型であった。牛を見慣れていない者はぎょっとしてしまうほどリアルな大きい牛が、町中には至る所にあり、いずれもいろいろに飾られている。銀行前の牛は全身にマルク紙幣がべたべた張られていた。面白かったのは宮殿内の小川におぼれかけたように上を見上げる牛の模型があり、それに浮き輪がかけられていたのだ。それも船舶の救命用のものが。私がバッハを見つけたのは、ヤコボ教会前の牛の足に付け根に楽譜の一部が描かれており、そこにBachの文字が読みとれたことだ。
 バッハはこの町に六年間住んだ。それもレオポルト候との「蜜月」である。居心地の良さでは今までのどの町よりもよかったはずだ。宮殿は、私のイメージするような豪華なものではなかった。ワイマールやドレスデンなど、ドイツの宮殿には幾つか寄ってみたのであるが、ここほど質素だったところはなかった。じつは宮殿の入り口で、本当にここが宮殿の入り口なのだろうかと半信半疑で入っていったのだった。建物はコの字型に配置されており、入場して一つアーチをくぐると、そこは中庭で両側に細長い四階建ての建物が並んでいる。この配列は宮殿というよりはなんだか学校のようだった。中庭は整備されておらず、おそらく職員のものと思われる自動車が数台無造作に停められているだけの殺風景なものであった。「Bach Museum→」の矢印をたよりに右奥のドアに向かったのだが、ドアの中で「ここは本当にバッハ博物館なんですか」尋ねることになった。そうですという返事をもらってもまだ、本当はまだべつにもっと立派なバッハ博物館があるのではないだろうかなどと疑ってしまったほどであった。
 学校の校舎のような質素な無愛想な外観とはべつに、内部はそれなりによい作りであった。ただ豪華さはない。これがここでのやり方であったのだろう。もちろんここでも英語は全く通じない。一階の売店にいたおばちゃんにお金を払い、見始めた。一階フロアを見て回ったが、レオポルト候に関するものがほとんどで「やはりここはバッハのじゃないんだ。でもチケットにはバッハの肖像があったりしておかしいな。」などと思いつつ、もう他に展示物もないので、Thank youなどと声をかけ、一度はでていった。すると守衛服を着たおじさんが気むずかしそうな顔で何か大きな声をして私を呼び止めた。わたしはもう数十メートルも歩いていたのだった。
 なんだかこちらに帰ってこいというようなことを言っている。怒ったような顔つきや声の調子で、私は何か悪いことをしてしまったのかと思い、引き返した。するとおじさん、ついてこいという身振りで急に外階段を上り始めた。これは螺旋状の階段で、先ほどの展示室の外にあり、建物のうちでは廊下のはしにある階段というものである。建物の端の方から子供のリコーダーの練習のような音がずっと聞こえている。あとはたいへん静かである。私の他には観光客は一人もいない。そもそも人間だって、売店のおばちゃんと、気むずかしそうな守衛のおじさんしかいないのだ。他に人影はない。
 さて階段を上って二階につくと、おじさんは持っていた鍵でそのドアを開けてくれた。そこにびっくりするほど大きなスリッパがいくつもおいてある棚がある。そこを指さした。私は習慣的に自分の靴を脱ぎ始めるとおじさんは急にそばにやってきて、靴ごとスリッパを履くまねをして、こうやるのだと教えてくれた。おや、なかなか親切なおじさんなんだ、と少し見直してついていった。そこは領主の間そのままに豪華な調度品のある部屋、たくさんの古楽器の展示されている部屋、豪華な作りの客間など、見応えのある展示物で一杯だった。実に面白い場所だった。私がひとしきり見ているのを待っていたおじさん、今度はまた身振りでついてこい、と示し、別の鍵で奥を開けてくれた。するとそこは驚くほど小さくて美しい聖堂になっていた。私は感動してBach played here?というと、おじさんはわかってくれたらしく、うんうんとうなずいた。ここはバッハが演奏しただけでなく、彼がこの町に住んでいるときに死別してしまった最初の妻の死後、二度目の結婚式をした聖堂でもあるのだった。
 私の感動を知ったおじさんは、随分満足げで優しい表情に変わっていたように思った。またついてこいといって、三階に上がった。そこは半分工事中で、工事の資材を避けるようにして奥のドアの鍵を開けてくれた。そこが、この宮殿の最も美しく豪華な、通称「鏡の間」であった。ああ、ここにいたって初めてここがバッハのいたところだったのだと思った。やや細長い部屋である。建物を学校の校舎だと考えると、端に理科室や美術教室があって、少し広くて作りがよいところがあったりするが、まさにそんな感じの所である。中央に白いピアノが置いてある。豪華なシャンデリアが二つ吊されている。ピアノの横にバッハの胸像が、部屋の端にレオポルト候の胸像が飾られている。演奏会が開けるようにたくさんの客席が並んでいる。この客席用の椅子の背もたれが、籐で編んだネットになっていたのだが、それが私の自宅の食堂の椅子のものと全く同じであったので不思議な思いがした。
 この部屋自体はバッハ当時の作りではないのだが、場所としてはここがレオポルト候の玉座の場所であったということで、この空間、窓外の景色、ここにバッハがいたことを実感した。貧しく辛い生活をしていたものが、こうやって栄光をつかんでいけた喜びをも感じた。
 この部屋でも感嘆の声を挙げる私を、おじさんはただ黙って待っていてくれ、私が名残惜しそうに何度も振り返りつつ部屋を出たあと鍵を閉めて一緒に下に降りた。おじさんとおばちゃんとはなんだか世間話を始め、私は売店で少し買い物をしたりした。「鏡の間」での演奏会のCDを買ったりした。
 宮殿を出たところがちょっとした広場になっていた。そこに夏の陽射しが、建物の形に影を作っていた。宮殿前のいかにも古い建物は、ちょっとした塔のような突起を屋根の一部に持っており、それが日陰を矢印のように石畳に写していた。この宮殿が町はずれにある以上、宮殿前の空間は何かしらしんみりした場所であるのは否めない。バッハはここで息を整えて、どこかこの近くであったはずの自宅に急いだのだろう。前を見ても横を見ても、道の奥ににぎやかな雑踏は見えない。「別世界」での仕事、そして、大家族の待つ家庭。町のにぎわいとは別の所で、自分のだけの世界をもてた安らぎがバッハを支配していたのではなかっただろうかと、この景色を見ながら思った。

Line071.gif (1121 バイト)

【編集後記】

久しぶりの編集後記である。日下さんにいただいた原稿のおかげで定期発行が出来たが、その区切りの関係で編集後記のスペースが作れなかった(作らなかった)ためである。先月、今月と続けて増ページにしたため、日下さんの紀行文はあと2号で終わる予定である。私は、大変楽しく拝読したが、皆さんは如何でしたか?
 電脳部の部長に依頼されて、表のホームページに拙文を掲載してもらっている。月1回と言うことだったが、書いてみるとなかなか楽しく、癖になりそうである。今、3回分のストックがあるが少なくとも年内は頑張ってみたいと思っている。FUJIさんやOniさんのコーナーもあるので、是非一度ご覧下さい。
 今年は、例年になく音取りが早く進んでいる。音楽作りもこの調子で行くと良いのだが・・・・・・。<蛙>

Line071.gif (1121 バイト)


[第55号] [目次へ] [第57号]

2003/01/10 17:36