♪♪ 415通信 57号 ♪♪
2002年3月24日発行


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【415ニュース】

 テノールに新入会がありました。理大のクリスタルコールの学生指揮者です。
  吉本 大博 テノール 〒700-0803 岡山市北方・・・ 
仲間が増えることは喜ばしいことです、みんなで歓迎しましょう。歓迎会はいつ?!?

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【練習計画(4月〜6月)】

 4月は、これまで通り第1・3週の土曜日の夜の京山公民館、第2・4週の日曜日の午後の芳田公民館を練習とします。器楽については、第2・4週の日曜日の午前中に芳田公民館で練習です。4月の芳田公民館は実技室ではなく、2階の講義室です。
 5月からは、芳田公民館が使えなくなりますので、土曜、日曜とも京山公民館での練習になります。時間は変更ありません。器楽は第2が京山公民館、第4は八画園舎となります。
 5月の最初の週も連休で公民館が使えないため、お休みとします。また、6月30日は第5日曜のため今のところ練習お休みの予定です。お間違えのないようにご注意下さい。

4月6日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
4月14日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館(講座室)
4月14日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(講座室)
4月20日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
4月28日(日) 器楽:10:00〜13:00 芳田公民館(講座室)
4月28日(日) 合唱:13:00〜17:00 芳田公民館(講座室)
5月12日(日) 器楽:10:00〜13:00 京山公民館(実技室)
5月12日(日) 合唱:13:00〜17:00 京山公民館(第2講座室)
5月18日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
5月26日(日) 器楽:10:00〜13:00 京山公民館(実技室)
5月26日(日) 合唱:13:00〜17:00 京山公民館(第2講座室)
6月1日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
6月9日(日) 器楽:10:00〜13:00 京山公民館(第2講座室)
6月9日(日) 合唱:13:00〜17:00 京山公民館(第2講座室)
6月15日(土) 合唱:18:00〜20:50 京山公民館(第2講座室)
6月23日(日) 器楽:10:00〜12:00 八画園舎
6月23日(日) 合唱:13:00〜17:00 京山公民館(第2講座室)

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【練習計画(4月)】

 おおよその練習計画を掲載します。当面は音取り中心ですので、計画通りに進んでいませんが、お許しください。なお、2ステージの曲目は、イギリスものを中心としたマドリガルに決まりました。日曜日の練習に加えていきたいと思っています。

4月6日(日) P・アニュス・デイ B・冒頭合唱
4月14日(日) 脇本先生による指導
4月20日(土) P・グローリア B・45番合唱
4月28日(日) P・クレド前半     マドリガル B・46番および53番コラール

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【クリスマス・オラトリオ    坂本 尚史】

 1723年5月にライプツィヒの聖トマス教会カントルとして赴任したバッハは、はじめの数年間を毎週の日曜日に演奏されるカンタータや毎春の聖金曜日に演奏される受難曲の作曲に没頭した。息子のカール・エマヌエルによれば、およそ300曲におよぶ5年分の教会カンタータと5曲の受難曲を作曲したらしいが、現存するのは約200曲のカンタータとマタイ・ヨハネの二つの受難曲のみである。赴任後の数年を経て、カンタータの創作に一段落したバッハは、器楽曲を中心とした世俗音楽の作曲に力を入れていたらしいが、赴任して11年が経過した1734年、イエスの降誕を祝う作品である《クリスマス・オラトリオ》とを作曲した。当時のライプツィヒでは、クリスマス前四週間の待降節の期間のうち第二から第四日曜まではカンタータなどの奏楽が控えられていた。バッハはこの期間を利用してこの作品をまとめたのである。バッハ自身の手で題書されたこの作品は物語風の流れを持つとはいえ、続けて演奏されるものではなく、降誕節第一祝日(12月25日)から顕現節(1月6日)にかけての6祝日に演奏される一連の連作カンタータといえるものである。
 《クリスマス・オラトリオ》をなす6つカンタータは、自筆楽譜でも別々の用紙に書かれており、音楽的にも独立している。しかし、バッハが全体を統一的なものとして構想したことは、ニ長調を主調とした調性の配置や、ルカによる福音書第2章とマタイによる福音書第2章の降誕記事の順次的配列、コラールの配置などからも、明らかである。聖書の記事はテノールの福音史家に委ねられ、天使、ヘロデ、羊飼いも登場する。聖母マリアは直接的には登場しないが、アルト独唱による自由詩の部分にその役割が与えられている。
 バッハは、この《クリスマス・オラトリオ》のほとんどの部分を旧作からの転用でまとめた。このような手法は『パロディ』と呼ばれている。このような手法はバッハに限られるものではなく、当時は広く行なわれていたものである。また古くは、ルネサンス時代に既存のモテットや場合によっては世俗曲の旋律に基づくミサ曲であるが『パロディ・ミサ』が数多く作曲すされた。これに対して、グレゴリオ聖歌の旋律に基づくものを、『パラフレーズ・ミサ』と読んでいる。バッハは、かなり多くの『パロディ』を行なっている。有名ないわゆるロ短調ミサ曲も、その多くの部分が『パロディ』によっていることが明らかにされている。バッハが『パロディ』を行なった理由は。はっきりしていない。その『パロディ』の多くは世俗カンタータから教会音楽への転用であること、晩年の作品に『パロディ』が多いことなどから、たった一度しか演奏する機会のない世俗カンタータを、より演奏機会の多い形にして残そうとしたのではないかと言われてきた。しかし、マタイ受難曲の主要な部分がレオポルド公の葬送音楽に転用されたなどその逆の転用もあり、さらに、カンタータよりも演奏機会の多い器楽曲から教会カンタータへの転用もあり、いまだに多くの議論を呼んでいる。いずれにしても、当時一般的に行なわれていたことであり、バッハに限った特別なことではない。
 バッハが第1部から第4部の原曲に用いたのは、1733年9月5日に上演されたザクセン皇太子フリードリヒの誕生日のためのカンタータ《心を砕き、見守ろう〔岐路に立つヘラクレス〕、BWV213》、1733年12月8日に上演されたザクセン選帝候妃兼ポーランド王妃マリア・ヨゼファの誕生日のためのカンタータ《太鼓よとどろけ、ラッパよひびけ、BWV214》。1734年10月5日アウグスト三世のポーランド王即位記念日カンタータ《汝の幸を讃えよ、恵まれしザクセン、BWV215》である。また、第6部は失われたカンタータからのほぼ全面的転用であり、第45曲は失われた《マルコ受難曲、BWV247》の第114曲からのパロディと推定されている。純粋に新しく作曲されたのは、レチタティーフとコラールを除くと、第10曲のシンフォニア、第21曲の合唱(いずれも第2部)、第31曲のアリア(第3部)の3曲のみであるとされている。この他、第43曲(第5部)もパロディの可能性があると指摘されている。バッハは、このようなパロディを行なうことを前提にして、歌詞の作詞を依頼したのであり、作詞者は当時バッハに多くのカンタータや受難曲の歌詞を提供していたピカンダーであると考えられている。何故、このようなパロディ関係が明らかにされたのであろうか、それは初演時に用いられた自筆総譜とオリジナルのパート譜が残されているのである。その総譜のほとんどの部分は、まるで清書されたように美しく、推敲のあともなく、間違いや訂正がほとんどなされていない。さらに、原曲の歌詞まで書き込んでしまい慌てて訂正するという、ほほえましい間違いまで残されているのである。
 成立の経緯はどうであれ、バッハの《クリスマス・オラトリオ》は、弾けるようなクリスマス到来の喜びと幼子を見守る温かく柔らかい眼差しに満ちた作品であり、クリスマスの三が日のみでなく新年を経て顕現節におよぶ喜ばしい季節を豊かに飾る、至福に満ちた作品なのである。

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【Bach Strasse東へ(その6)    日下不二雄】

10 Dresden 

 ドレスデンは、実はバッハが住んだことのある町ではない。それでもなおここに挙げたのは、この町がバッハの思いの中で非常に重要な町ではなかったかと感じ取ったからである。
 ドレスデンはたいへん大きな都市である。中央駅はご多分に漏れず工事中であったが、線路をまたぐ高架橋工事の横を通り、町中に向かって歩き始めると、もうそこは店の建ち並ぶプロムナードであり、ホテルもあるし、レストランもあり、その先には大きなデパートや大きな店舗、そして市の紋章を誇らしく先頭に掲げた黄色い市電が通り、右の方には聖十字架教会の塔がそびえ立っている。さらに少し行くと前方にはカトリックの国らしくカテドラル大聖堂、その左にはオペラ劇場、ツヴィンガー宮殿と壮大な建物が続いている。道路は広く、多くのバス、乗用車、人通り。活気あるにぎやかな町の姿がそこにはある。
 私が訪れたときはちょうど雨であり、町の壮大さはそれほど迫ってこなかったのだが、青空の下であったならばもっとその威厳が私に迫ってきていたであろうことは言うまでもない。なんといってもここはザクセン国の都。しかもザクセンは、当時選帝候をもつ神聖ローマ帝国の中でもとりわけ力のある国であったのだ。
 バッハはライプツィヒにいた間、しばしばこの町を訪れたという。プロテスタントの町ライプツィヒと違ってカトリックの町ドレスデンがあって、はじめてバッハ唯一のカトリックミサ曲「ロ短調ミサ」が生まれるのであるが、バッハはここの宮廷音楽長になりたかったのだ。しかしかなわなかった。
 地理的に見ると、ドレスデンはドイツの東のはずれであるといってよい。エルベ川の畔のこの美しい都から川に沿って100kmも南に下るとそこはチェコのプラハである。現在のドイツ国内でも、バッハの生きていた当時の神聖ローマ帝国でも、ここを過ぎてなお東にはもう大都市はない。ハプスブルグ家の支配していたオーストリアは確かに神聖ローマ帝国の一部に扱われていたけれども、バッハの中にその地方への憧れは感じるものの、そこまで実際に入り込み自分の活躍の場所を求める気持ちはなかった。してみるとザクセン州(当時のザクセン国)は東のはずれであり、その強大なザクセンの中心都市であるドレスデンは、バッハにとって憧れの終着目標であったのではなかったろうか。
 私は、ドレスデンカテドラル大聖堂の内部に入り、思わず声を上げてしまった。「わーっ」という小さな叫びは、しかし私だけのものだったのではなく、かつてこの教会が建設されて以来、訪れる人々全員の叫びであっただろう。もちろんその中にバッハの声もまたあったに違いない。それほどまでにここは豪華であった。バッハ当時この協会内部がどの程度整備されていたのかはもちろん定かではないが、選帝候を戴くこのカトリックの町のカテドラルが手入れされずにいたということはあり得ず、私が見たものと変わらない内部装飾があっただろうと思う。
 とにかく豪華で美しいのである。圧倒されるのである。白色と金色。美しく造形された装飾を純白に塗り、それを金色で丹念に縁取っている。それはもうこの世のものとは思えない雄大な贅沢さだ。大きい。そして細かいところまで装飾されて、美しい。
 私はもう自分の陳腐な言葉で表現するのはやめよう。書けば書くだけあの圧倒的な迫力から遠ざかるばかりである。かつてのザクセンの貧しい農民たちは領主の町ドレスデンに行くと、この聖堂に入り、その大きさにびっくりし、ひれ伏して帰ったことだろう。そして家族や近所の人々にその聖堂は「山のように」大きく、中は「湖のように」広く、飾りは「天国のように」美しかったと説明したことだったろう。
 ここを訪れたバッハは、この教会や宮殿内の音楽を自分が治めることを切望したのだ。これだけの舞台装置があれば自分の音楽はさらに神々しく、美しく、神に近づくだろう。人々の賞賛を得られるだろう。バッハが東の端で見たものは、想像を絶する大きさ、偉大さだったのだ。ドレスデンはそんな町だった。

11 Leiptig reprize

 さて、私の旅も終わりに近づいた。日本を離れていたのは十日間であり、ドイツにいられたのは正味八日だった。帰国のための飛行機がライプツィヒ発であり、それが割合朝早い時刻のフライトであったので、最後の晩は再びライプツィヒに宿泊した。ライプツィヒを離れ、あちこちまわってきてまた戻ってきたのである。「帰ってきた」と感じた。
 私は、まだ買っていなかった家族へのみやげを手に入れるために、ホテルに着くとすぐにライプツィヒmitに出かけた。ひとしきりドイツでの生活に浸かっているため、数日前よりももっと楽な気分で町を歩くことができた。買い物も終わり、どうしてもこれだけはやり残したと考えていたことを果たそうと思った。それは、もう一度聖トーマス教会に赴くことであった。
 夕暮れの聖トーマス教会は威厳を持った姿でそこに立っていた。一週間ほど前、私はこの聖堂内で歌い、拍手に包まれていたのである。でもそれは遠い昔のことのように感じられた。私はこのバッハの終焉の地から始まって、バッハの足跡をたどり、そしてまた再びここに戻ってきた。一週間前にここに始めてきたときの興奮は確かによく覚えているが、今はそのときと違った目でこの聖トーマス教会を眺めることができる。
 バッハがこの教会のカントールとして働いていたのは、38歳から亡くなる65歳までの27年間であった。もちろんバッハの人生の中でもこれほど長く一所にいたことはない。しかもそれは彼のこの場所での満足感を示すものではなかったことは、いくつもの評伝にある、バッハのトーマス教会での生活に対する不満の項目を読んでみても明らかである。それでも結果的に彼はここに、本当に「骨を埋めた」。バッハの墓は、当初、同じライプツィヒの、トーマス教会からは1km程東に行ったところにあった聖ヨハネ教会に埋葬されたが、十九世紀に同教会の工事のあった時に発掘され、ここトーマス教会に移されている。ヨハネ教会はその後破壊されてしまい、現在その場所は市電の分岐点横にある三角形の空き地に過ぎない。芝生が植えられていて美しく整備されているが、ヨハネ教会があったとか、バッハの墓があったとかいうことを示すものは何もなかった。
 バッハの生涯を追いながら、私はバッハの合唱曲を歌う者として、宗教音楽家としての側面を追い求めたかったのだったと気づいたのだが、実際にバッハは宮廷音楽家として活躍していた時間が意外に長いということがわかった。宮廷音楽家でありながらカンタータ上演も目指していた時期もあるようだが、やはり望んでいたのは宮廷音楽家としての方が強かったのではないだろうか。結果的にライプツィヒでのカントールの仕事が長かったために、単純に関わった時間を比較すれば、バッハは教会音楽家であった結論づけられるのかも知れないが。
 そうだとすると、さらなる宮廷音楽家としての出世は、ドレスデン宮廷楽長、これしかない。そしてこれこそが、バッハが望んでいた「ライプツィヒのあと」の職であったのだ。
 もう一つバッハがその生涯をかけてやっていたことがある。それは、アイゼナハからライプツィヒまでを結んだBach Strasse(バッハ街道)をもう少し東に延長するとドレスデンがあるということから気づいたことである。彼は東を目指していたのだ。この文集の目次通りにずっと地図で追ってみると、バッハの住んだ町は東へ東へと移動している。そして東の果てが、ザクセンなのであり、ザクセンの中心がドレスデンなのである。小国であったテューリンゲン、その東にある大国ザクセン。バッハは東を目指していた。
 アイゼナハのバッハハウスで「あなたもBach Touristなのか」と聞かれたことがあった。そう、私はBach Touristであった。そしてバッハツーリストは、皆、東を目指して進むのである。
 今、聖トーマス教会に再びやってきて私が感じたのは、この地では終わりたくなかったバッハの無念だった。ドレスデンに行きたかった。教会音楽「も」書きながら、宮廷音楽家として過ごしたかった。東へ東へというみちはドレスデンで行き止まる。自分自身の体力が、精神力が、周囲の状況が、意のままにならず、じぶんがこの、自分にとっては「途中」の町で止まってしまわなければならない無念さを、私は強く感じてならなかった。
 聖トーマス教会の中では、この時、小さい葬式をやっていた。祭壇のところで祈りを捧げ、歌をうたう十数人ほどの人たちがいた。観光客も少なくなってきた時間、僅かの観光客たちは私も含め、ただ静かに座って聖堂内の雰囲気を感じているだけだった。ここはまさしくバッハの終焉の地であったが、でもこの場所を出発点として、新たに力をもらって歩き始める人もいるのだ。
 わたしは、静かな聖堂内で小さくつぶやいた。
 「ここまで来たじゃないか。アイゼナハから随分遠いこのライプツィヒまで、二十八年かけてちゃんとやってきたじゃないか。ちゃんと、テューリンゲンからザクセンまで来たじゃないか。
 あなたの人生は、思い通りに出世することのできた、成功したものだったのだ。いかにドレスデンまでは行き着けなかったとはいえ、後の世に予想外の名声を得ることになったといえ、これでよかったのだ。きっとあなたの両親も喜んでくれているはずだ。私は認めたい。私は讃えたい。自分の道を全うできた、あなたのことを。
 大いに誇りを持って、ここまでやって来たことを語って欲しい。私も共に語りたい。音楽という共通の言葉で・・・。

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2003/01/10 17:40