虫愛ずる姫君 二章

 お化け屋敷につれ込まれた……。
 蜂飼大納言の館における備前の最初の印象は、あながちはずれでもなかったようだ。
「夜叉王は、蜂を飼う技を知っているというので、昔、殿さまが見つけてこられた者なのです。そう、いまだ鳥羽院がお若くて、御位にいらしたころでしたよ。当時、夜叉王の髪は燃えるようなまっ赤! 赤い髪に青い目、ですからねえ。そりゃあもうわたくしも、腰を抜かさんばかりにおどろいたものでした。見なれたのでしょうなあ、今ではなんとも思いませぬが……」
 庭先にいた異形の者の、それが乳母の説明である。
「大納言さまは、どこであのような者を見つけられたのでございますか?」
 疑問で頭がいっぱいの備前は、はやる心をおさえ、まずそれだけを聞きかえした。
「そのことでございまするよ。備前どの、殿さまが蜂飼大納言と呼ばれなさるそもそものわけを、ご存じですか?」
「それは……、蜂を飼うのを好まれるゆえと聞きおよんでおりますが……」
 蜂飼大納言宗輔が変人呼ばわりされる最大の理由は、人を刺す蜂を好んで飼うという、その変わった趣味にある。宗輔は、一匹一匹、足高、角短などと名前をつけて可愛がっているのだと、見てきたように世間では言いはやしていた。
「ですから、殿さまが蜂を飼われる、そのわけですよ」
「はあ?」
 いったい、蜂を飼うのにわけなぞあるのだろうか? 備前には見当もつかなかった。
「なにも殿さまは、可愛がるために蜂をお飼いあそばすわけではございませんので。これですよ、これ」
 乳母はにんまりと笑い、朱塗りの小腕を取り上げ、目の前にかざした。
 腕の中になみなみと注がれているのは、蜂蜜の湯どきである。
「これって……、あの、まさか、蜂蜜でございますか?」
 備前の驚愕は、深かった。蜜を集めるために蜂を飼うなどと、いったいそんなことができるものなのだろうか?
「そうですとも。わけも知らずに殿さまを笑うとは、世間のほうがおかしいのですよ」
「で、でも……、蜂を飼って蜜を取るなどと、どうしてそのようなことが……」
「蜂蜜……、というより、露蜂でございますな。殿さまは、堀川院と同い年でおられたのですが……、堀川院は、まこと末の世にもったいないような帝であられました。備前どのもお聞きになられたことがありましょう?」
「はあ……」
 むろん堀川院の話ならば、備前もたびたび耳にしていた。
 若くして世を去った、鳥羽院の父君だ。
 五十年近くも前のことでありながら、いまだにあの君が生きておわせばと嘆く年寄りは多い。
 しかし、蜂蜜がなぜ堀川院へとぶのか……、まわりくどい乳母の話ぶりが、備前にはもどかしかった。
 乳母は、そんな備前の思惑なぞ気にもとめず、とくとくとしゃべり続ける。
「殿さまは、心底堀川院をお慕いあそばされておられたのですがな、堀川院はお身体がお弱く、なかなかお子に恵まれませなんだ。そこで殿さまは、亭子院(宇多天皇)の例を思い起こされたのです。なんでも、露蜂がそういうことには一番よろしいのだとか……。しかし、たやすく手に入るものではありませんし、殿さまも苦労をなさいました。ま、少量ながらご献上のはこびとなり、そのかいあって、鳥羽院はご誕生あそばされたのではありますまいか? 凝り性の殿さまのこと、もっと簡単に露蜂を求める方法はないかと八方手をつくされましてな、その折りにはなんの手応えもなかったものが……、皮肉と申しましょうか、堀川院ご崩御のあとになって、京の水銀商人のもとに出入りする者で、蜂を飼い、露蜂や蜜を取る者があるとわかりましたので……」
「それが、夜叉王だったのですね」
 備前は、乳母の言わんとすることを悟り、こらえきれずに口をはさんだ。
「そうなのですよ。なんでも水銀商人は、夜叉王に協力して、ずいぶんともうけておりましたそうな。なにしろあの異相では、あまり人前には立てませぬものなあ。しかし殿さまは、まったくお気にもとめられず、熱心に蜂飼を習われたのでござりまするよ」
「そのような技を……、蜂を飼って蜜を取るなどという技を、夜叉王はどうやって身につけたものでしょうか?」
「夜叉王の生れた国では、それをなりわいにする者も多いと申しますよ。胡人には、あたりまえの技なのでしょうなあ」
「あたりまえの……、ねえ。なんと不思議な……」
 備前はつくづくと、自分の前に置かれた小腕を取り上げてみる。かすかに花の香を漂わす琥珀の液体が、朱の漆の肌にゆれ、一口含むと、甘やかな滋味が舌に染む。
 一息ついて、備前は次の疑問を口にした。
「それにいたしましても、あれは、唐や新羅(この時代、現実には宗と高句麗。正式の国交がないため、前王朝の名で呼んでいる)あたりの相ではございませんでしょう? いったい、どこからどうやって……?」
 乳母は、自分もまた一口、蜜で喉をうるおし、おっとりと答える。
「なんでも、唐人の船に乗っておって、若狭やら越前やらの浜に打ち上げられたと聞いておりますがな、さあ、もとはどこの国の者やら……。最初は山にこもって、盗賊のまねごとをしておったようですよ」
 備前はむせかえって、せっかくの蜂蜜を吹き出しかかった。
 乳母は、平然と先を続ける。
「そのうち、盗賊の棟梁のようになりましての、水銀商人と知り合い、蜂飼をしたり、唐との交易などにも手を出すことになりましたとやら。今でも、ふだんは山にいて、人里を出歩く折りには、深笠で相をかくすのですよ」
「まったく、同じ人間とはとても思えない相ですものねえ」
「それがあなた、十年ほど前、この館の雑仕女があれに惚れ込みましてねえ、子を産むようなことにまでなりましたのですから……、あれも人間なのでしょうぞ」
「こ、子を……、でございますか?」
 おどろきのあまり、あやうく備前は、手にした小腕を取り落とすところだった。
「はい。雑仕女は産で死にましたが、子は元気に育ち……、それをまた、姫さまがえらく気に入られましてね、胡蝶と名づけて女童のように使っておられますので……」
「胡蝶……、はあ、それで……」
 備前は、若御前のそばにいた女童の、萌黄の衵に白っぽい上衣を重ねた姿を思い出していた。
 肌が青味をおびて白く、赤味がかった髪の癖のある様子が、たしかに尋常ではなかった。
 しかし夜叉王のように、異相というほどでもない。母親の血が濃く出たものだろう。
「おや、思わぬ長話を……。はよう、これを仕立てねばなりませぬなあ」
 乳母は、そそくさと縫いものを取り上げ、備前もそれにならった。

 即位式から大嘗会へと、行事続きの時期だった。備前もさっそく五節の準備にひき込まれたのだが、言葉のはしばしにまで神経を使わなければならなかった内裏務めにくらべて、あまりの気楽さに、気ぬけするほどである。
 若御前つきの女房は、比較的年も若く、見目のいい者が集められている。しかしどの女房も、よくいえばおっとり、悪くいえば気概がなく、新参の備前の指図にもなんの反発もみせず従う。
 それどころか、内裏女房の前歴には、一目も二目も置いているふうであった。
「宮中では、中納言中将(師長)さまと、お話しなんかなさったこともありまして?」
 縫い物をしながら、そんなことを聞いてくる女房がいたりする。
「ええ、それはまあ、お言葉をかけていただいたこともございますけれど……、中将さまは、こちらのお館に、たびたびお顔を出されるのではありませんの?」
「わたしたちには、関係のないことですのよ。呼ばれもしませんのに、母屋へ出向くわけにもまいりませんでしょう? 時折、筝の琴や琵琶の音を、遠く拝聴いたしましてね、いったいどんなお方なのかと……。で、いかがですの? お美しい方ですか?」
 備前は、その単刀直入な聞き方に、一瞬、返事につまった。
 そして次の瞬間、師長の容姿について、なんの形容の言葉も持ち合わせていない自分に、気づいた。
 考えてみれば、不思議なことだ。ほかの公達はいくらでも批評ができるのに、師長は、ただ師長であるとしか、言いようがないのである。
「ど、どうなのでしょう。華やかさでは、徳大寺の左少将(実定)さまの方がまさると、そんな意見が多いようですけれど……」
 備前は、そうごまかした。
「ああ、徳大寺の左少将さま! あのご一家ほど、美男美女がおそろいなのも、珍しいですわねえ。近衛帝の皇后でいらした多子の君は、絶世の美女と評判ですし、今上(後白河帝)の女御に上がられた姉君(忻子)も、もちろんお美しいのでしょうし、ねえ」
 熱心にいう女房に、もうひとりの女房が、ふくみ笑いで応じる。
「ちょっと、左近、やめなさいよ。そうお美しい、お美しいを連発してると、またうちの姫さまに、叱られるわよ」
「そうそう、こうですものねえ。……顔の凹凸に、なんの意味があるっていうの? 一皮むけば、みんな同じ。それを塗りたくって取りつくろうなんて、ばかげたことよ……」
 片眉をつりあげ、じっと目をすえる女房の、真にせまった若御前のものまねに、みな、身体を折りまげて笑った。
「姫君が、そんなことをおっしゃられますの?」
 備前は、目をまるくして聞いた。
 あまり自分の容貌に自信のない者ならば、負けおしみ半分、そういう説教を好むこともありがちである。しかし、あれほどの美貌に恵まれながら、それを問題にしない姫君というのは、ちょっと信じがたい。
「まあ備前どの、それどころではありませんのよ。姫さまご自身が化粧を嫌われますことは、残念ではございますけれど……、あきらめるしかないことですわ。ところが姫さまは、わたしたちにまで素顔をお望みですの。ちょっとねえ……、まあ、たじたじとしますわね。それでこの間、左近ったら……」
 兵衛という女房は、そこまで言うと、袖で口を押さえて、笑い伏してしまった。
 左近は、赤く染めた頬をふくらまし、憮然としている。
 その様子を横目でうかがいながら、兵衛は、笑い声で先を続けた。
「ほんとうに左近ったら、正直に言ってしまいましたの。それは姫さま、姫さまみたいにお美しければ素顔もおよろしいかもしれませんけれど、わたしの顔なぞ、化粧でもしなければ見れたものではございませんわ。そばかすはありますし……、ですって」
 兵衛は、また吹き出してしまい、ほかの女房たちも、笑いに身をふるわせている。
「で、姫君は、なんと答えられたのですか?」
 備前は、心底興味を覚えて、聞いた。
「姫さまは、さっと鏡を手にとられて、ご自分のお顔と左近の顔をまじまじと見くらべられて、おまえの顔とわたしの顔とどこがちがうの、ですって。ああ、おかしい。それが、皮肉ではございませんのよ。真剣も真剣、おおまじめでいらっしゃいますの、姫さまは!」
 どっと笑う女房たちにつられて、備前も吹き出していた。
 どうやら若御前は、容貌というものに、まったく無関心であるらしいのだ。
(そうだとすれば……、これはなかなか、おもしろいことだわ)
 備前は、笑いながらも、若御前の人柄に、強く引きつけられるものを感じた。
 もっとも、今のところ備前には、若御前とまともに言葉をかわす機会は、ほとんどといっていいほど、ない。
 だいたい、こうして女房たちが大声で興じていられるのも、几帳のかげに、若御前本人の姿がないためである。
 若御前の朝は、おそい。昼前に起き出して、しばらくは西の対の奥に引きこもり、漢籍を読んだり、考えごとをしたりしている。
 その間は、女房たちもひそひそ声である。ついうっかり、几帳のかげの若御前の存在を忘れ、へたな話をしていると、痛烈な皮肉がとんでくることもあるのだ。
 しかし、昼すぎからの若御前は、席のあたたまる暇がない。
 一家の主のように、家司に会ってこむつかしげな指図をしているかと思うと、小舎人童や牛飼いなど、身分卑しい男童を集め、なにごとか熱心に話し込み、ときには北面から、声高らかに今様歌なぞが聞こえてきたりもする。
 おおよそ姫君らしくない日常だが、この館で変わっているのは、なにも若御前だけではない。
 備前が女房たちから聞き出したところでは、当主の宗輔にしてからが、生活の面倒はさっぱりと娘にまかせ、公務のない昼間など、庭に出ずっぱりで、ひたすら蜂飼と花造りにはげんでいるらしい。
 そういえば、凝り性というだけのことはあって、自ら選定し、肥をやった菊や牡丹は宮中でも有名だったと、備前は思い起こす。
 異母兄の俊通はといえば、これまた唯一の趣味が庭造りなのだと、女房たちはうんざりした口調でいう。
 近在の野山に出向き、いちはやく、季節の植物を掘り起こしてくるほか、苔や岩などの手入れ、木々の世話も自分ですると聞き、なるほど、それでこの館は、建物よりも庭に神経が行き届いているのかと、備前は納得した。

 十一月に入ったある日、蜂飼大納言の館は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
 備前は朝まで知らなかったのだが、前夜おそく、宗輔は師長を自分の牛車に乗せて、宮中を退出したものらしい。
 折りからの月明りに、師長は宗輔に笛をすすめ、宗輔も興を覚えて、『羅陵王の序』を吹き澄ましたという。
 するとそのとき、装束もあでやかな陵王の精霊が、どこからともなく姿をあらわし、ひとさし舞って、ふと闇にかき消えた。
 供についていた小舎人童の雨彦などは、たしかにその精霊は宙に浮いていたと、ガクガクと歯を鳴らして、若御前に報告した。
「陵王の精霊ですって? おおかた中納言中将が、傀儡子(くぐつ)の子でも雇って仕組んだいたずらでしょうよ」
 若御前は、聞くなり、そう言って笑いころげた。
 朝から、館はその話でもちきりで、小舎人童たちの大騒ぎから察するところ、京中に噂がひろまるのも時間の問題だろう。
 夜に入り、西の対の若御前のもとに、宗輔と俊通がそろって姿をあらわした。こんなことはよくあるらしく、若御前つきの女房たちは、潮が引くように下がっていく。備前も下がろうとしたが、宗輔に呼びとめられた。
「姫や、備前の筝の琴は、もう聞いたかの?」
 宗輔の言葉に、若御前は、口もとにまっ白な歯をのぞかせて、笑った。
「いいえ。即位式や舞姫やらで、ちょっと暇がありませんでしたわ。先帝の女房の中では、ピカ一といわれた腕を、きょうはぜひ、披露してもらわなければね」
 くっきりと弧を描く眉をつりあげ、若御前は備前を見すえる。
 そのためらいなく突き刺さってくる視線と、男君のような美貌に、われ知らず、備前はどぎまぎしてしまう。
 しばらく、そんな備前をおもしろそうに見つめて、若御前は、宗輔に視線をうつした。
「お父さま、雨彦から聞きましたわよ。昨日の夜、内裏からのお帰り、大変な目にお合いになったのですって?」
 若御前の低い笑い声に、宗輔の笑い声が、高く重なる。
「ふむ。わしはもう、夜中の中御門大路は通らぬぞよ」
 備前は、うつむいたまま、扇のかげで吹き出した。
「まったく、中納言中将はなにを考えているのかしら? のんきに、お父さまを追いまわして、いたずらしている場合じゃないでしょうにね」
 若御前は、笑いながらも、皮肉な口調で言い放つ。
「おそらく……、こういう場合だからこそ、中将さまは、そうなさっておいでなのですわ」
 思わず口をはさんだ備前を、若御前は、まじまじと見た。
「おや、備前、それはどういうこと?」
「あ、あの、その……、中将さまは、誇り高いお方でいらっしゃいます。ご一族籠居のことがございまして、面と向かって申すものはおりませずとも……、いたたまれないような、冷え冷えとした空気を、宮中でお感じなのでございましょう。悠然と、趣味に没頭して見せることで、中将さまは、自尊心を保っていらっしゃるのではないでしょうか?」
 つっかえつっかえ説明し終えて、ほおを紅潮させた備前を、若御前は、大きく目を見開いて見つめ続ける。あまりにその凝視が長いので、備前はもじもじと身体をちぢめた。
「ふうん、なるほど。おまえ、なかなか鋭いじゃないの。鋭いついでに教えてほしいんだけど、先帝がお子を残さなかったのは、不能でいらしたからだって噂、ほんとう?」
「なっ、な、な……、なんでございますって!?」
「だから、先帝が寝所で、男性としての役目をお果たしじゃなかったていうのは、ほんとうかって聞いてるのよ。まあねえ、お気持ちはわかるわよ。まわりからぎんぎん、それやれ、さあやれってけしかけられたんじゃねえ、自分は種馬でしかないのかって、虚しい気もなさるでしょうし……」
 備前は、絶句した。
 あまりにもあっけらかんとした若御前の話しぶりに、一瞬、意味を正確に理解して言っているのかどうか、とまどってしまう。
そ して次の瞬間、それにしても無邪気な顔をして露骨な言葉をつらねるものだと、備前はあきれた。
 若御前は、濃くまつげにふちどられた瞳を見ひらき、真剣な表情で答えを待っている。
 備前は、救いを求めるように、宗輔を見た。
「こ、これ、姫や。そんなことはのう、姫の気にするようなことじゃなかろうに……」
 宗輔はしょぼしょぼと目を細めて、自信なげに、それでも一応は若御前をいさめる。
「あら、お父さま、もしもそれが本当なら、若い身空の先帝のご崩御は、この世を憂きものと思いつめられたあげくのこと。帝王というのも楽な商売じゃないなと、わたくし、興味があるんですわ」
 若御前は、けろりと言う。
 備前は覚悟を決め、威厳のありったけをかき集めて、答えた。「先帝は、帝であらせられるには、おやさしすぎるお心根の持ち主でいらっしゃいました。そう申し上げれば、姫君には、おわかりいただけましょうか?」
「ふうん……、よくわかる返答だわ」
 と、若御前は、軽く肩をすくめた。
「姫や、ほれ、ばかなことを話しておらんと、はよう備前の琴を聞かせてもらおうではないかの? 久しぶりじゃて、俊通も、腕が鳴っておるじゃろうし……」
 それまで黙りこくっていた俊通が、父親の言葉に、ぐっと身体をのりだし、熱っぽく若御前を見つめた。
「ほんとうに、ここのところ行事が多くて、ろくに話すひまもなかったね、若御前。さみしかったな……」
 備前は、ぎょっとした。
 宮中では、唖か白痴かと思うほどむっつり無口な俊通が、こんなセリフを吐けるのも意外なら、その相手が異母妹というのがまた、異様である。
「兄さまったら、そうやって宮中のご用をきらうから、出世しないんじゃないの?」
 そう言って、若御前は嫣然と笑う。
 言いこめられた俊通も、それをそばで見ている宗輔も、怒るどころか、上機嫌そのものの笑顔である。
 こうしてはじまる夜の音楽会は、蜂飼大納言家の恒例だった。宗輔が、筝の琴と横笛、ともに名人であることはいうまでもなく、俊通も父にならって、このふたつにはなかなかの腕前をしめす。新顔の備前をまじえて、合奏は深夜まで続いた。
 そして備前は、やっとのことで、若御前の筝の琴を聞くことができたのである。
 愛用の梨地蒔絵の琴を引きよせたときから、若御前のまわりの空気が、変わった。
 弾き始めたのは、盤渉調の簡単な曲で、あまり本気になっているとも思えないのだが、ふと気がついてみると、まわりの情景は消えて、爪音が鮮明によりそってくる。聞くものの現実が現実でなくなるような、強力な磁場を、若御前の演奏は持っていた。
 しかし、もう少しと思うところで若御前は演奏をやめ、備前は物足りなさを噛みしめる。
(もっと真剣に弾いておられるのを、聞きたい。いったいいつ、練習しているのかしら?)
 備前の疑問は、ほどなく解けた。
 深夜、というより、暁闇の、冷たく静まった濃い藍色の空に、星のまたたく音さえ聞こえそうな時刻だった。ふと目覚めた備前の耳に、風の音にまがい、最初は空耳かと思ったほど小さく、それはひびいた。
 備前は、冷気に肌がすくみあがるのもかまわず、簀子縁にとび出る。爪音のひびく方角をのぞむと、庭の奥、ゆれる木の間に、うっすらと御堂の明かりが見えていた。
 備前の背を、戦慄が走る。
 白銀の星の光が、梢をさわがす風の音が、人になりかわって琴をかき鳴らすのではないかと思えるほど、しんと澄みわたったその調べに、備前は、自分が立っている場所さえ、忘れた。
(これは……! 結局、ここまで行き着いてしまうものなのかしら?)
 もともと、筝の琴の技は、宮中の社交の場で、洗練に洗練を重ねてきたものである。
 しかし、その洗練の極みにある若御前の爪音は、社交などという生ぬるいものを拒絶して、異次元に完結していた。
(姫君にとっては、琴を弾く瞬間の自分、ただそれだけが、切実な現実でいらしゃるのだわ。あとはなにもかも、夢を見ているようなもの。だからこそ、自分の容貌さえ、どうでもいい。世の中の動きに関心を持つにしても、それは無関心と紙一重の、第三者的な興味。そうでなくて、どうしてこんなふうに弾けるかしら?)
 備前は、その才能に脱帽すると同時に、胸苦しさを覚える。
(つまりは、程度はちがっても……、師長さまと似ていらっしゃる。 そしてわたしは、因果なことに、この種の人間がふりまく魅力に、抵抗しきれない……)
 このとき、備前が若御前に抱いた感情は、限りなく、恋に近いものだった。
 若御前がそれを知ることは、……なにしろ、他人の自分に対する感情を、気にかけるような若御前ではなかったので……、ありえなかったはずなのだが、若御前も、備前を、他の女房と同列には扱わなくなった。
 おそらく、備前の筝の琴の腕を認めたか、あるいは頭の回転のよさが気に入ったか、どちらかだったのだろう。
 もちろん、備前にはうれしいことだったが、かといって、手放しで喜べるわけではない。
 まったく若御前の相手を務めた日には、なにを言わされ、なにをやらされるか、わかったものではないのである。

「備前、手伝ってちょうだい。女装するのだから……」
 涼しい顔で若御前がそう言ったのは、丑の日の帳台の試、寅の日の御前の試と五節の行事も前半が終わり、ほっと一息ついたときだった。
 皇室に不幸ごとがあった年の例で、卯の日の童御覧はなく、三日後の豊明の節会まで、舞姫の出番はない。
「はっ? あの、女装……と申されましたか?」
 備前は、若御前がなにを言おうとしているのか理解できず、ぽかんと聞きかえした。
「そう。清暑堂の御神楽と御遊を聞きに行くのよ。舞姫の宿所は八省廊に移ったのでしょう? そこへしのび込めば、聞こえるにちがいないわ」
「は、はあ、しのび込む、のでございますか……」
「だから、女房に化ければ目立たないじゃないの?」
 備前は、あきれ果てて、それ以上口がきけなかった。
 清暑堂の御神楽と御遊とは、大嘗会にのみ行われる行事である。
 かつては豊楽院付属の清暑堂で催されたのでこの名があるが、百年ほど前に豊楽院が焼失して以来、大極殿後房の小安殿が使われている。
 公卿、殿上人のうちそれぞれの名人が、神楽と、次いで御遊、つまり管弦の合奏に興じるのである。なんといっても一代に一度の音楽会であるから、琵琶は玄象、和琴は鈴鹿と皇室の名器が持ち出され、奏者は慎重に選ばれる。
 蜂飼大納言宗輔は、三十年前の崇徳帝即位の折り、十数年前の近衛帝即位の折りに続いて今回も、筝の琴を演じるという名誉を得ていた。
 その父親の演奏を若御前が聞きたがるのはわからないでもないのだが……、それにしても、と備前は思う。
 若御前の言う通り、舞姫の宿所は、豊明の節会をひかえて、八省廊と呼ばれる大極殿の廻廊に移っている。
 宿所とはいっても、吹きさらしの廻廊に御簾をめぐらし、障子を立てて臨時にしつらえたもので、五節の舞姫の一行はいったんそこを退出しており、あらためて節会の当日に上がる手はずとなっていた。
 たしかに、今は無人のその宿所に入り込めば、小安殿の御遊は聞こえるだろう。しかし、深窓の姫君の振舞いとしては……、あまりに常識はずれだ。
 備前は、思いあまって、弁の乳母に相談を持ちかけた。弁の乳母は、
「どうせ、お止めしてもきかれる姫さまではございますまい」
 と、大きくため息をついた後、
「それにいたしましても、姫さまも少しは分別がつかれましたなあ」
 意外にも、落ち着きはらってそう答えた。
「あ、あの、分別が、でございますか? 姫さまは女装してしのび込まれると……」
「ですから、でございますよ。いや、備前どの、お人柄を見込んで打ち明けるのですがな、三年ほど前、鳥羽院の五十の御賀がございましたでしょう?」
「はい、ございました」
「あの折りの御遊にも殿さまは筝の琴をお務めあそばしましたが、なんと姫さまは、小舎人童にばけて聞きにお出でになりましたので……」
「こ、小舎人童! ま、まことでございますか?」
「どうかよそにおもらし下さいますな。幸い、殿さまがお気づきあそばしましてな、なに事もなくつれて帰られましたが、さすがの殿さまもこれにはあきれられて……。頼むから二度とこんなまねはしてくれるなと、こんこんと諭されたのですよ。ま、女房装束ならば格段の進歩でしょう。手伝っておあげなされ」
 へたをすると今回も、若御前は男装して乗り込みかねない……。乳母の表情は、はっきりとそう語っていた。

 十一月巳の日、その日は朝から天候が定まらなかった。透明な冬の陽射しがきらきらと輝き出たかと思うと、にわかにかき曇り、大粒の雨が地面に黒い斑点を描く。日が暮れるにつれ、雲は厚く、重たくなってゆき、梢をさわがせる風の音が一段と耳についた。
「ほんとうに、行かれますの?」
「あたりまえじゃないの」
 念を押す備前に、若御前は不機嫌に言い放つ。
 髪をとかれ、眉を抜かれ、白粉をつけられ……、朝からの騒動に心底うんざりした様子である。
 ついに装束を着せ終わり、備前はあらためて、若御前の姿に見惚れた。
「どうでもいいけど、赤はいやよ」
 若御前の好みで、紅も茜も蘇芳も除外された。
 女房装束に赤系統の色を使うなというのは、むつかしい注文だ。
 うらめしく思いながら備前が選んだのは、紫の薄様の重ねだった。
 純白の単に白の袿が二枚。残り三枚の袿は薄紫からしだいに濃く上へ匂って、表着は唐草模様の明るい紫。裳も白綾の紫裾濃で、唐衣は葡萄染めの地に白糸で蝶を織り出したものだ。
 全身白と紫の濃淡に統一された中、これだけはさけるわけにいかない紅の袴が、思いがけなくつやめいて見える。
「なんと、まあ……」
 一目見るなり、弁の乳母も、言葉を失っていた。
 眉をつくり、紅を掃くと、若御前の美貌はいやが上にもきわ立つ。
 重々しい衣裳がかえって細い首筋を強調し、漆黒の髪はたっぷりと流れて、言いようもなく優美な姿だ。
「見世物じゃないんだから、ほら、さっさと出かけましょう」
 若御前はじれて髪をかきやり、いら立たしげに言う。
(黙ってじっとしていらっしゃれば、天女といわれても信じるほどなのに……)
 そう思いつつ、備前は自分の支度をいそいだ。

 音を立てて吹きつける氷雨の中、若御前と備前を乗せた牛車は、無事宮城門をくぐった。
 日が落ちて、大極殿のまわりには、あちこち焚き火の炎が風になびいている。
 大嘗会につめかけた公卿、殿上人、その従者や警護の者たち……、かなりの人数をのみ込んでいるはずなのに、大内裏の敷地は茫漠と、物の怪でもひそんでいそうで薄気味が悪かった。
 平安京の中枢である大内裏の中の皇居がすたれたことは、鳥羽院在位のころにさかのぼる。
 以来、崇徳、近衛と幼帝が続き、大嘗会など特別の行事以外は、洛中の里内裏ですませてしまう慣例となっていた。
 何十年も使わずにいたため殿舎はすべて倒壊してしまい、したがって今回、後白河帝は一本御書所を仮の御所としている。
 その広大な内裏の廃墟が、大極殿の北にひろがっているのである。西にはこれまた豊楽院の跡地がひろがり、大極殿は、荒野のただ中にあるといってもいいすぎではない。
 そして、壮麗なはずの大極殿自体、柱の朱は色あせ、緑釉の瓦はこぼれ落ち、巨大なばけもの屋敷の一歩手前である。
 舞姫の宿所である八省廊に入り込むと、さすがに参会した雲客と従者たちのざわめきが身近に感じ取れ、備前はほっと胸をなで下ろした。
 しかし、それもつかの間、一段と強まった風が御簾を巻きあげたかと思うと、稲光が一瞬、青白くかげを浮かし、凄まじい雷鳴があたりをゆるがせる。
「ひ、姫さま……」

 備前は思わず若御前に取りすがり、几帳のかげに引き入れようとした。
「大嘗会に雷とは、さてまあ、今上(後白河帝)のご治世はどうなることやら」
 若御前はそうつぶやいただけで、眉ひとつ動かさなかった。吹きつける雨にも、腹の底に染みわたる雷鳴にも微動だにせず、小安殿からもれる明りを見すえている。
 一瞬、稲妻に浮かび上がった、その彫像のような横顔に、備前はふと恐怖を忘れた。
 やがて雨音がと絶え、しだいに雷も遠のいてゆく。
「始まったわ」
 若御前がにっこりとほほえみ、備前の耳にも神楽の拍子がとどいた。
「千歳、千歳、千歳や、千歳や、千世の千歳や……」
「万歳、万歳、万歳や、万歳や、万世の万歳や……」
 鳴りやまぬ風のうなりが耳ざわりではあるが、小安殿の反響はすばらしく、和琴、篳篥、大笛の音も聞き分けることができる。
「玄象を弾くのは、中納言中将ね。まさか、そのために、院と寝たのかしら?」
 神楽が終わったところで、若御前が低い声で聞き、備前はほほえんだ。
 名器中の名器といわれる琵琶、玄象を、年配の公卿を押しのけ師長が弾くことになったことは、世間でも評判だった。
 師長が、一族籠居の中でなおかつ出仕を続けているのは、実のところ、どうしてもこの日、玄象が弾きたかったためではないかと、備前はにらんでいる。
 師長が鳥羽院に抱かれたという確証はないが、そのためになら、まあ、それくらいはやりかねないだろうとも、思う。
「そこまでは存じませんけれど、たしかに、中将さまの琵琶はすばらしいものですわ。わたくし、それだけ琵琶を弾かれるのですから筝の琴はいいかげんでよろしいじゃありませんかと、ご本人に申し上げたことがございますのよ」
「そしたら?」
「涼しい顔をなさって、筝の琴でも自分の上を行くのは蜂飼大納言どのおひとりだろう、とこうですの。なんとも、うぬぼれの強い方ですわ」
 言ってしまってから、備前は、はっと、若御前をあおろうとしている自分に、気づいた。
「ふうん、たいした自信じゃないの。それほど……」
 管弦の始まる気配に、若御前はいいかけた言葉を途中でのみ込む。
 ほどなく、話題の主、中納言中将の玄象の音色が、蜂飼大納言の筝の爪音が、からみあって空気を震わせた。
 『万歳楽』、『安名尊』などよく知られた曲ばかりだが、さすがに、洗練された音色だ。
「伊勢の海の、伊勢の海の、きよき渚に潮かひに……」
 若御前は『伊勢の海』を小声で歌い、陶然と瞳を閉じて、我を忘れている。
「姫さま、そろそろ引き上げませんと……」
 最後の曲が終わるや否や、なんとか人目につかないうちにと気がせいて、備前はまだ夢見心地の若御前を引きずるように、廻廊を駆けた。
 牛車に乗りうつる寸前、
「入松乱れ易し、明君が魂を悩まさんとす、流水反らず……」
 のびやかに詠じる若い男の声が、備前の足をとめた。その声は強風にまぎれ、しかし次第に大きく、すぐにもその角をまがって、目前にせまりそうである。
 若御前と師長の出会い……。
 備前は、胸の奥に生まれかけていた願望が、今にもこの場で果たされそうな予感に、全身を熱くした。
「あ、あれは……」
 備前のつぶやきに、若御前は肩ごしにふりかえり、目線で声の主を問う。
「中納言中将さまのお声ですわ」
 ささやいたとたん、若御前の描いた眉がつりあがり、半身がふりむけられた。端紫の檜扇で顔半分をおおいながら、その目はしっかりと、声の方角にすえられている。
 黒方の冴えた香を先触れに、下襲の裾を飾太刀にかけた正装の貴公子が、あらわれた。
 篝火の照り返しにつやをおびた、表衣の黒綾。裾の白綾と千鳥の刺繍の平緒の紫が彩りをそえ、黒と白の、高貴ではあるが地味な装束の、しっくりと身についた師長の姿だった。
 美青年というには甘さに欠けるが、すっきりと通った鼻筋といい、引き締まったあごの線といい、端正な顔立ちである。
 浅黒い肌の色が、切れ長の瞳をいきいきと輝かせ、表情の陰影を深めている。
 師長を見つめる若御前の口もとにあるかなきかの笑みが浮かび、次の瞬間身をひるがえして、若御前は牛車の中に消えた。
 甘く薫衣香が匂いたち、さっと引かれた裳の、紫の濃淡にちりばめられた銀砂が、ちょうど雲がはらわれた夜空の星のようにきらめく。
 師長は、幻でも見たかのように目をしばたいている。
 若御前の姿が牛車に吸い込まれる寸前、扇がひらめき、風に髪がなびいて、ほの白い横顔が闇に浮くのを、つかの間、彼の瞳はとらえたのだ。
 無意識に一歩二歩、牛車に歩みよろうとした師長の袖を、備前がとらえた。
「おやめなさいませ」
「えっ? これは小備前の局……、なぜこんなところに? あ、あれはいったい……?」
 女には冷たいと内裏でも評判だった師長の、これほど取り乱した姿を、備前はかつて見たことがなかった。もっとこの思いに火をつけてやりたいという奇妙な誘惑に駆られ、
「蜂飼大納言家の姫君ですわ。どうしても玄象の音色を聞いてみたいと仰せで……、しのんで参りましたのよ」
 備前は、意地の悪い言い方で、若御前の正体を明かした。

「蜂飼大納言? し、しかし、大納言どのには、たしかひとりしか姫君は……」
 師長の反応は、予想どうりのものだった。
 毛虫を飼うの男装を好むのと、その奇人ぶりで世に知れた姫君が、実は絶世の美少女だったなぞと……、容易に信じられるものではない。
「ですから、そのたったおひとりの大納言の姫君ですわ。筝の琴の名手だと、むろんあなたさまもお聞きおよびでございましょう」
 音楽のこととなると見さかいのつかなくなる師長が、このひと言で胸を焦がすだろうと承知の上で、備前は、筝の琴の名手、に力こぶを入れた。
「そんな……、まさか! いや、しかし……」
 師長は、まじまじと備前を見つめた。
「そうか、それが目的で大納言家に上がったわけだ」
「はっ? わたくしのことでございますか?」
 備前は、すまして言う。
「ふむ。大納言どのが後生大事に抱え込んだ筝の秘曲さ。娘にだけはすべて伝えたとおっしゃっていたが、まさかそれが、こんな……」
 がやがやと人の近づく気配に、備前は師長をふりきり、
「失礼を……」
 小声でそれだけ言い置くと、素早く牛車にとび乗った。
「まったく、わたしもばかだな。今の今まで……、これに考えおよばなかったとは!」
 取り残された師長は、晴れやかに笑って、闇にまぎれ遠ざかる牛車を、見送っていた。

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