虫愛ずる姫君 十章

 平治元年十二月九日の夜半、備前は、ふと目を覚ました。
 半蔀のすき間から明りがさし込み、簀子縁を走る足音やら、ざわざわとした話し声やら、妙に館内がさわがしい。
 肌をさす寒気にしばらくためらったのち、備前は思いきって身体を起こし、袿に手をのばした。
 ふるえながら簀子縁に出ると、女童の姿があった。
「なにか、あったの?」
「ああ、備前の君。また火事らしいのです。三条辺ではないかと言っているのでが……」
 備前は、女童とともに、南面にまわった。
 女房たちが数名、庭のこずえのかなた、南の空を見上げている。
 たしかに夜空は、不気味に紅く色を変えていた。
「また、火事ですの? 三条辺というのは本当でしょうか」
「さあ、どうでしょうねえ。夜の火は近く見えると申しますから……。そう言えば備前どの、后宮(忻子)の里第は、三条西洞院であられましたっけ? いえ、それどころか……、院御所も三条ですし……、まったく、どうなっているのでしょう」
 備前は、無言でうなずいた。
 この八月、高松殿が焼けて以来、後白河院は三条殿を御所にしている。
 火事が三条辺だというのが本当ならば、一年のうちに二度目の院御所火災という可能性もあるわけだ。
「こんなところにいても、寒いだけだわ。中へ入りましょうよ」
 左近の言葉にみな賛同し、ひさしの間で火桶をかこんだ。
「姫さまは、御堂におられるのですわね……」
「さっきまで、筝の琴を弾いておいででしたわ」
 女房たちは、そんな話をかわしている。寝なおす気にもなれず、白くなった炭火の灰を、ぼんやりと備前は見つめていた。突然、簀子縁がざわつき、
「信頼が!? 信頼が、ですって? そんなばかなことが!」
 ひびきわたったのは、若御前の声である。
 女房たちは顔を見合わせ、いっせいに簀子縁にとび出した。
 身を乗り出した若御前を前に、男童が二、三名、口々にさけび合っている。
「まちがいございません。右衛門督(信頼)が、源氏の武者たちの先頭に立っておりましたそうで。いやまあ、それが、赤地錦の直垂に紫裾濃の鎧という派手ないで立ちで……」
「むろん、左馬頭(義朝)はいっしょでございますが、いやはや、武者たちの無法なことと申しましたら! 火はつけるわ、矢は射かけるわで、女子供が逃げまどい、三条殿は地獄のような有様。姉小路の信西の館も、やられましたとか……」
「右衛門督(信頼)は、無理やり上皇さま(後白河院)を内裏におつれ申したと、そんな噂でございますが……、なんでも内裏のほうには、頼政、光保にひきいられた摂津源氏がつめかけておりますそうで……」
 どうやら、焼けているのは院御所三条殿と信西の館であるらしいと、それだけは備前にも飲み込めた。
 しかし、男童たちの話はあまりに脈絡がなく、
「姫さま、いったいなにが起こったのでございますか?」
 備前は、いら立って聞いた。
 若御前は、手ぶりで男童たちを下がらせ、ひさしの間から、自分の寝所へと向かう。ぞろぞろとついて来た女房たちを目線で追い、備前ひとりにとどまることを許した。
「信頼と義朝にひきいられた源氏の兵が、三条殿を焼き討ちにしたって言うのよ。どうやら、信西入道の首がお目当てらしいのだけど……」
 若御前はこめかみに手をあて、釈然としない口ぶりで答える。
「の、信頼が……、よりにもよって院の御所を焼き討ち? た、たしかに信頼と信西は仲が悪うはございましたが……、それにいたしましても……」
 備前は、頭が混乱して、なにがなにやらわからなくなっていた。
 信頼は、後白河院の寵臣である。
 浅ましいほどの院の寵愛ゆえに、二年前の賀茂祭の折りには近衛中将に取り立てられ、いまでは権中納言右衛門督と、公卿にのし上がっている。
 これは名門の子弟を超越した顰蹙ものの人事であり、二条帝の周辺では、後白河院を非難する恰好の材料となっていた。
 いかに仲が悪くとも、信頼にとって、信西入道は同じ院政派の人間であり、仲間われは自分で自分の首を締めるようなものなのだ。
 若御前は視線を上げ、まっすぐに備前を見つめた。
「つい先日、信西入道が信頼を安禄山にたとえて院に訴えたとかって、噂があったわね」
「はい、それは本当でございます。信西は、わざわざ安禄山の絵巻を献上し、院をおいさめしたそうですわ。と申しますのも、なんでも信頼が、大臣大将になりたいと突拍子もないことを言い出しましたのだとか……」
「大臣大将! なにを考えているのでしょう、あのばかは……」
「まことに、考えられない高望みですわ。ですが姫さま、院は、信頼の望みならばそれくらいお聞き届けなさりかねない方でございましょう? こうなってみれば、安禄山とはまあ、信西もうまいことを申したものでございますね」
 安禄山は、その昔、唐の玄宗皇帝につかえ、破格の取り立てにもかかわらず、反乱を起こした男である。
 この乱によって玄宗皇帝は、最愛の寵姫、楊貴姫の命を失った。白楽天の『長恨歌』にうたわれている悲劇だ。
「いさめるのが信西というのが、いまひとつ、説得力に欠けはするけどね。自分の息子たちは破格の取り立てにあずからせておいて、信頼にだけひかえろというのも……、ねえ。先妻腹の長男は参議、紀伊の乳母(後白河院の乳母)腹の成範、修範にいたっては近衛の次官とは、あきれたものじゃない。信西は、自分も成り上がりなのを忘れていたのかしら」
 若御前の言葉に、備前は、大きくうなずいた。
「たしかに、信西にくらべれば、信頼のほうがまだましな家柄ではございます」
「ともかく信西は、だれに恨まれ、だれに殺されてもおかしくはないのだけど……」
「そう申せば姫さま、たしか……、義朝も、信西を恨んでいたはずでございますわ」
「義朝が? なぜ?」
 そう問いつつ、若御前はつと視線をそらし、気のせいか、声も心持ちぶっきらぼうに、備前の耳にはひびいた。
「いえ……、噂でございますが、義朝は先年、信西の息子のひとりに、自分の娘はどうかと、縁談を持ちかけたのだそうでございます。それを信西は、学者の家に武者の娘は合わないと、にべもなく断りましたのだとか……」
「義朝の娘って……、それは、遊女腹の娘のことかしら?」
「遊女腹? さあ、遊女腹なのか正妻腹なのか、そこまではわたくしも存じませんが、ともかく、その舌の根もかわかないうちに信西は、息子の成範を、武門平家の清盛の婿にいたしましたのですわ。どっちみち、義朝が婿にと望んだ信西の息子は、先妻腹の三男か四男かで、身分も少納言。たとえ遊女腹でも、それほど不つりあいな縁談ではございませんでしょう? 面子をつぶされた義朝は、保元の乱の折りは利用するだけ利用しといてと、信西への恨み骨髄に達したと申します」
「河内源氏の基盤は坂東だし、なんといっても坂東は遠いわ。信西としては、機内に地盤を持つ平家のほうに頼らざるをえなかったのでしょうね。どっちみち、義朝の取り柄は武勇だけだし、なにかひと騒動なければ浮かぶ瀬はないと、誘いに乗ったってところかしら? ちょうど平家一門が、熊野詣で都を留守にしていることではあるし……」
 片眉をつり上げ、冷然と言ってのける若御前を、備前はあきれて見つめた。
 燈台の明りに、くっきりと浮かび上がったその若御前の横顔は、美しいだけでなく、傲然と気位の高さをのぞかせている。
 義朝うんぬんの言葉には、心底ばかにしたような調子があり、まさかその義朝の嫡男を愛人にしていようとは、備前ならずとも、信じられるものではなかった。
「だけど、摂津源氏が動いているというのは妙な話ね。たしか光保の娘は土佐とかいって、主上(二条帝)の乳母のひとりだったでしょう? いわば光保の軍勢は、主上の手勢のようなもの。頼政にしても、代々内裏守護を任務としてきた家柄だし、備前、おまえ……、頼政の娘が主上の寵愛を受けてると言わなかったかしら?」
「その通りでございます。讃岐と申す内裏女房ですわ」
「やはり、主上が裏で糸を引いておられるとしか考えられないわね。うかうかとそれに乗るほど、信頼と義朝がばかだったってことよ」
「姫さま! お、主上が……、御年十七歳になられたばかりの主上が、御父君であられる院の御所を焼き討ちになさるなどと、そんなばかなことが!」
「しいっ! 声が高いわよ、備前。別に、主上が焼き討ちなさったとは言ってないじゃない。信西ひとりが目当てのところ、現場の義朝の手勢がやりすぎたのではないかしら? それに、主上ご自身のお考えなのか、側近のはかりごとなのか、それはわからないわよ」
「なんにしろ、恐ろしいことでございます。三条殿には知った女房も多く……」
 備前は、いまころになって焼き討ちの実態に思いいたり、身震いを感じた。
 皇宮后忻子が院のもとに上がっているときであれば、自分もまた、現場に居あわせたかもしれないのである。
「后宮の里第は、三条殿にも信西の館にもお近くのはず。問い合わせてみれば、もっとくわしく様子がわかるのではない?」
「あ……、はあ、そうでございました。さっそく……」
 備前は、ため息とともに若御前のもとを下がり、見舞いの文をしたためた。

 三条殿の惨状が予想外のものだとわかったのは、翌十日である。
 九日の夜、三条殿には、後白河院と上西門院(後白河院の同母姉、統子内親王)が同殿していた。
 信頼はふたりを内裏につれ去り、あとは、義朝の手勢にまかせた。
 火のまわりは早く、逃げおくれた女房、雑仕女、雑色たちは、火勢を恐れて井戸に身を投げる。
 恐怖にかられ、正気を失った人々が次から次に井戸を埋め、下の者は圧死する。
 信西を生かして出すなと、坂東武者ははやり立ち、かろうじて火から逃れ出てくる者、だれかれかまわず矢を射かけ、切り伏せた。合戦というよりは、虐殺である。
 信西の館も同じような有様で、多くは館に働いていた下々の者が惨死した。
 結局、信西の行方はわからず、武者たちは臨戦態勢をそのまま、内裏に詰めている。
 昼ころ、宗輔は呼び出されて参内し、夜には事件の詳細が若御前や備前の耳にも届いた。
 首謀者は、信頼、義朝のほかに数名の貴族がいる。
 そのうち、中納言師仲、越後の中将成親は、後白河院の近臣であり、信頼と心を合わせて不思議のない連中だ。
「やはり、主上が一枚噛んでいらっしゃいましたのですね」
 備前があきれてため息をついたのは、大納言経宗、検非違使別当惟方の名が上がっていたためである。
 経宗は、二条帝の母方の叔父。
 惟方は、二条帝の筆頭乳母、坊門の局の愛息と、いずれ劣らぬ帝の側近なのだ。
「顔ぶれを見わたしたところ、かなめになっているのは惟方ではないかしら? 信頼の母親は惟方の身内と聞くし、おまけに信頼は、惟方の義兄弟におさまったのでしょう?」
 若御前は、皮肉に口をゆがめて聞き、備前は無言でうなずく。
 惟方の義兄弟……。
 つまり信頼は、一年ほど前、坊門の局の娘婿に迎えられ、結果的に、師長と相婿ということになったのだ。
 時勢に応じて、羽振りのいい婿をむかえる坊門の局の要領のよさ、そして定見のなさが、備前にはにがにがしかった。
「信頼をたきつけるには、いい立場だわ。ひょっとすると、坊門の局も一役買ったわね」
「ぼ、坊門の局が、でございますか?」
「そう。紀伊の乳母のやり口を、腹にすえかねたんじゃないこと? 成範、修範の中将、少将就任の件よ。惟方の家も成り上がりにはちがいないけど、信西よりはましだわ。惟方に許されなかった近衛の次官を、紀伊の乳母の息子ごときに! ってところじゃないかしら? 院の乳母と主上の乳母と、乳母同士のさや当てよねえ」
 若御前は笑みさえ浮かべて、うたうように言う。
「そう申されればたしかに……、今日の公卿詮議は、信西の息子の扱いに終始した様子でございますわね。成範も修範も、主上の宣旨で解官されましたとか……」
 備前は、坊門の局と紀伊の乳母と、どちらもどちらのくせのある顔立ちを並べて思い浮かべ、首をすくめた。
「九重の城闕、煙塵生ず……、か。ま、信西の首が上がるまでは、一枚岩でしょうね」
 天子の居城に戦乱の煙塵が立ち込めたと、『長恨歌』の一節から物騒なことを口にしながら、このとき若御前は、鼻歌まじりで、高みの見物を決め込んでいた。

 数日後、大和の山中で信西の死体が発見された。
 信西は、すでに自害して果てていたのだ。
 探索にあたっていたのは、二条帝の手勢、源光保である。
 信西の下人を責めて行方を聞き出し、掘りかえして死体の首をはねた。
 十四日、信西の首は光保の手で都に運ばれた。
 さっそく、別当惟方が首実験におもむく。
 ここまでは、二条帝とその側近の思惑どうりに、事は運ばれていた。
 事態が紛糾しはじめたのは、その同じ十四日、公卿詮議の席である。
 夜、内裏を退出してきた宗輔は、久しぶりに俊通をともない、西の対へ顔を出した。
「ではお父さま、なにがなんでも信頼は、大臣大将にならねば気がすまぬと申しますの?」
「ふむ……。信頼だけではないのじゃよ。成親は中将のまま中納言を兼ねたいと申すし、まったく、近ころの若い者は、いったいなにを考えておるのかのう。大宮の左大臣が、おもしろいことを言っておった。人を多く殺したからとゆうて位が上がるのなら、三条殿の井戸にこそ官位をやるべきじゃ、とな。まったく、そのとうりじゃの」
 宗輔は、珍しく多弁に、詮議の様子を語った。
 信西の死が確認されたとなると、首謀者たちは当然のように、褒賞を求める。
 義朝は播磨守、頼政、光保もそれぞれ国守にと、武者たちの希望は問題なく認められた。
 播磨守は成範が兼職していたものであり、そのほかの国々も、信西の息子たちの没官領をやりくりして間に合わせることができたのだ。
 しかし、大臣大将ともなれば話はちがってくる。
 年長の、しかも名門の公卿で、長年大臣を待ち望んでいる者は多いのだ。大宮左大臣伊通の言葉は、顔をそろえた公卿すべての気持ちを、代弁しているといってよかった。
 第一、だれかがゆずらない限り、大臣にも大将にも空席はないのである。
「いやのう……、大臣のほうは、関白(基実)が、信頼に右大臣をゆずってもよいと申されておるのじゃがのう……」
 宗輔の言葉に、若御前は、眉間にしわをよせた。
「それは……、おゆずりになることは簡単でしょうけれど、ねえ」
 前関白忠通の長男、基実は、現在、関白に右大臣を兼ねている。と同時に基実は、信頼の妹婿であり、大臣の位を請われれば、断りかねる立場ではあった。
 しかし、信西亡きあとの体制に、これは重大な発言である。
 二条帝側近は、成り上がりの横行を腹にすえかねて、信西の排斥をもくろんだのであり、いまここで信頼の好き勝手を許せば、信西を殺害した意味がなくなってしまう。
 関白の好意は、そのまま信頼に組みする態度と見なされても、しかたがなかった。
「関白も、あぶないことを仰せですわ。主上がお認めになるはずありませんのに……」
「大臣大将にも困ったものじゃが、その上に信頼と義朝は、平家追討の宣旨を、なぞと申してのう。今日はあらたに、坂東から兵が到着した模様じゃった。内裏がむさくるしい鎧武者に占領されておるのは、たまらんのう」
「なんでございますって! 坂東から兵が……?」
 この事件がはじまって以来、初めて若御前は声を荒げた。
 長いまつげにふち取られた瞳は、極限まで大きく見開かれ、心なしか白い肌はいっそう白く、血の気が失せたように見受けられる。
「坂東から兵をひきいてきたのは、左馬頭(義朝)の長男らしいね。信頼と面会して、平家追討をせっついていたと言うよ」
 それまで黙っていた俊通が、ぼそっと、口をはさんだ。
 若御前は、瞬間、鋭く兄を見つめ、そしてすぐに視線を伏せる。
 それからあとの若御前は、片眉をつり上げ、いら立たしげに爪をいじり……、魂をぬき取られた者のように、上の空の受け答えを続けた。
あ げくの果てに、琴の練習をするのなんのとわざとらしい言いわけを残し、気もそぞろに席を立つ。
 おおかた、御堂で義平の訪れを待つつもりだろうとさっしながら、備前はあきらめの境地で、そそくさと消えていく若御前の後ろ姿を見送った。

 梨地蒔絵の『雁音』を前に、若御前は落ち着きなく、琴柱をいじっている。
 ひとつ、ふたつ、絃をはじいたかと思うと突然、手前から向こうへ、十三本の絃をいっきにかき鳴らした。
 神経をさかなでするような音が、御堂の白壁にはねかえる。
 火桶の炭火をかき立てていた胡蝶は、苦笑を浮かべて、若御前を盗み見た。
「姫さま、今宵はもう、琴はおやめあそばしたほうがよろしいんじゃございませんの?」
 若御前は、左手で額髪をはらいのけ、胡蝶をにらんだ。
「きいたふうなことを言うじゃないの、胡蝶。おまえこそ、さっさと東の対へ行って兄さまの相手でもすればどうなの?」
 胡蝶は、口も鼻も目も、すべてが大ぶりなその顔に、一瞬、傷つけられた獣のようなかげりを走らせた。
 若御前は、表情をやわらげて、
「ばかねえ、おまえ。兄さまもいい年なんだから、通う女がいるのはしかたないじゃないの。おまえはおまえでやればいいのよ」
 いたわるように、あたたかな声をひびかせた。
「ですけれど姫さま……、その女というのが、もっさりとした、おもしろ味のない女なのですわ。どこがよろしくて、若さまはお子までおつくりあそばしましたのやら……」
「いやだ、胡蝶、おまえ……、兄さまの相手を見てきたの?」
 若御前はあきれて胡蝶を見つめ、胡蝶は平然とうなずく。
「まったく、姫さまには似ても似つかない不細工な女で、わたし……、若さまの気が知れません」
 すねたように胡蝶は横を向き、若御前はほがらかに笑った。
「なんで兄さまの相手が、わたしに似ていなければならないの? 妙なことを言うわね、胡蝶は……」
「ともかく、若さまのことはもうよろしいんですの。もともと、身分ちがいにろくなことはございませんし……」
「身分ちがい……、ねえ」
 若御前の顔から笑いが引き、ため息とともに、そう言ったときである。
 さっと妻戸が開き、あたためられた室内に、寒風が流れた。
 ふり向けられた若御前の顔が、甘く、笑みくずれる。
「なんて恰好なの!」
 非難がましい言葉とはうらはらに、若御前の声には、素直に喜色がにじんでいた。
 濃紺の鎧直垂に、腹巻き(略式の鎧)姿の義平は、まっすぐに若御前のもとに歩みよる。
 琴爪をつけた若御前の長い指を、義平の、冷たい、大きな手がとらえた。
 若御前は、革の匂いと冷気のしみ通った男の胸にほおをよせ、深く息をすう。
「今夜はもう……、来てくれないのかと思ったわ」
 歯切れのいい、ふだんの若御前の声を聞きなれている耳には、これが同じ人の声かと耳を疑いたくなるような、情感にうるんだ、やわらかな声である。
「早耳だな。昼に着いたのを、知っていたのか?」
 義平は、白絹につつまれた若御前の肩をそっと抱き、笑った。
「物騒なかっこう……」
 若御前は、からかうように、義平の鎧の胸板を手で引く。
「いやか?」
 義平は苦笑して、鎧を脱ぎにかかった。
 胡蝶がさっと近より、かいがいしくそれを手伝う。
 脱ぎ終えられた鎧をきっちりと重ね、胡蝶は会釈をして出ていった。
「まったく……、うまくあの子を手なずけたことね」
「景住のおかげさ。女に手の早い郎等というのも、たまには役に立つな」
 うっすらと髭におおわれている義平の口もとを見つめ、若御前は、しばらく口がきけなかった。
 ようやく言葉の意味をさとり、目をまるくして言う。
「……か、景住!?」
「おまえ、知らなかったのか?」
 今度は、義平がおどろく番だった。
「え、ええ。男ができたことはわかってたけど、それが、まさか景住だなんて……」
「前からくどいていたらしいけどな、今年の夏になって、やっとものにしたらしいぜ」
 景住は、都において左馬頭義朝一家に仕えている郎等だ。
 ただ、個人的に義平と性が合い、義平が上京している間は、案内役を兼ねてその供にかかりきりになる。
 いく度となくこの館に足を運ぶうち、自然胡蝶を見初め、義平が坂東に帰ったのちにも、通うようなことになったものらしいい。
「どうりでまあ……、そういうことだったのね」
 若御前は、三年前、義平と初めて出会った日の胡蝶と景住を思い出し、思わず吹き出してしまった。
「そういうことだ」
 義平もまた笑いながら、若御前を抱き上げ、几帳のかげに運ぶ。
 白綾のしとねの上で、真綿の大袿にくるまれ、ふたりは四肢をからめた。
「ああ……」
 若御前は、衣の下の義平の肉体の実在に、熱い吐息をもらす。
 やわらかな指の腹に、かたい男の筋肉の動きをたしかめ、そして自分の肌に、男の手の強い弾力を感じる。
 自分を埋めつくす男の存在に、頭の中は空白となり、なにも考えず、なにも聞こえず、若御前は閉じたまぶたの裏に、きらめき流れる閃光を見ていた。
 そしてしばらくの後、義平の健やかな寝息が、御堂の闇を縫った。
 義平の右腕は、しっかりと若御前の裸身を抱き、その左腕は、無意識に胸をまさぐる。
 漆黒の闇に目を凝らし、義平の熟睡をたしかめて、若御前はほほえんだ。
 男の、高い体温にすっぽりとくるまれ、身体は気だるく充足しながら、なぜか頭の芯は冴えて、若御前は寝つけなかった。
 枕もとに黒々と重ねられた鎧のかげに、ふと若御前は、不安につき落とされる。
「信頼と面会して、平家追討をせっついていたというよ……」
 いまさらのように、兄の言葉を思い出した。
(合戦を? 平家と? なんのために……?)
 院政派と二条派が入り乱れた今度の騒動が、容易に決着を見ないだろうことは、若御前にもわかっていた。
 ただ、それは彼女にとって、いまのいままで、影絵芝居を見ているような他人ごとにすぎなかったのだ。
 五日前、三条殿を、そして信西の館を焼きつくした紅蓮の炎が、あらためてまがまがしく身にせまり、火の粉さえ散りかかってくるような、そんな幻想に、若御前は瞳をしばたいた。

 いつの間にか、浅い眠りを、眠っていたらしい。
 妻戸の開く音に、若御前は薄目をあける。白々とした光に、人影が浮かび上がった。
「胡蝶……?」
 ささやくように、低い声だった。
「姫さま、夜が明けましたわ。そろそろ……」
 うなずいて、若御前は義平をゆする。
「起きて。もう、明るくなったわ」
「かまわん」
 義平はうなるように言うと、若御前を抱く手に力をこめた。
「かまわん、って……」
 若御前は困惑した。
「きょうは一日ここにいる。迷惑か?」
 目も開けずに、義平は眠たそうな声で言う。
「迷惑じゃないけど……、内裏へ行かなくていいの?」
「かまわん……」
 そうつぶやいたきり、義平は再び眠りに落ちていった。
(いったい……、どういうことかしら?)
 若御前には、義平の態度がどうにも不可解だった。
 父親の挙兵の報を受け、夜昼なしに駆けどうしで上京してきたあげく、こんなところでのんびりと寝込もうとは、どういう神経なのだろう?
 首をかしげたものの、考えてわかるような問題でもなく、若御前は肩をすくめて、寝床からぬけ出した。
 目覚めたとき、義平は、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
 ほおにやわらかな絹が触れ、琴の音が大きく耳をおおう。
 首をめぐらすと、若御前の純白の衣裳が目にとびこんできた。琴を爪弾く彼女の動作につれて、雲立涌の地模様が、つやつやと燈台の火を反射する。
 黒い額髪にふち取られた横顔は、恍惚と、夢見る人のように、梨地蒔絵の筝の琴をあやつる自分の指先に、向けられていた。
 義平は、横たわったままほおづえをついて、しげしげと若御前を見つめる。
 やがて爪音が止まり、若御前は両手の指先を赤いくちびるに近づけ、はあっと息を吹きかけた。冷気に、息が白く霧のように見える。
 カタッと妻戸が音を立て、輝かしい真昼の光線が御堂に満ちた。
「姫さま、いいかげんになさいませんと……」
 胡蝶の声にふりむき、同時に若御前は、上半身を起こした義平に気づいた。
「起きていらしたの?」
「うむ」
「まあ、よろしゅうございました。では、さっそく……」
 胡蝶は、にっこりとつぶやき、またたく間に湯をたたえた角盥を義平に用意し、次いでたっぷりと料理を調達してきた。
「では姫さま、わたくしはこれで……。早くまいりませんと、見そこないますわ」
 そう言い残して、そわそわと立ち上がった胡蝶を、義平は不思議そうに見送る。
「なにをあんなに、あわてているんだ?」
 盛大に料理をぱくつきながら、義平は若御前に聞いた。
 若御前は、義平の真正面に端然とすわり、箸の上げ下ろしをまじまじと見つめながら、口を開いた。
「信西の首を見にいくのよ。昼には大路をわたして獄門にかけられるって話だけど、ご存じなかった?」
「知っている」
 義平は軽く肩をすくめて、脇目もふらず、腕に盛った姫飯をかき込む。
「それにしても、まあ、よく食べることね」
 若御前は、目をまるくして、感嘆の声を上げた。
「食べないのか?」
 義平は、若御前の腕に半分以上残された粥を見とがめて、聞いた。
「食べたくないもの」
  若御前は、即座に答えた。
義平はにやりと笑うと、粥腕に手をのばす。
「琴ばかり弾いていたんじゃな、腹もすかんかもしれん。首でも見にいくか?」
「首って、信西の首を?」
 自分の粥まで食べる男を、若御前はあきれて見つめている。
「うむ。その首のおかげで、きょうは内裏に出向いても仕方がないのさ」
 義平の言葉に、若御前は小首をかしげて、かすかに片眉をつり上げた。
「どういうことかしら?」
「父上も信頼も、首見物にいそがしくてな、すべては明日以降だそうだ」
「ばかじゃないの!」
 若御前は思わず、そう叫んでいた。
「そう思うか?」
 義平は箸を置いて、まじめに聞いた。
「あたりまえでしょう。信頼にしても、あなたのお父上にしても、正念場はこれからよ。信西の首なんかに浮かれている場合じゃないわ。まず第一、大臣大将などというばかげた要求を信頼に撤回させることよ。それができないなら、さっさと信頼を見すてて、主上に直接こねをつけるべきだわね」
「主上に直接頼めば、平家追討の宣旨が出るとでもいうのか?」
「ばかばかしい。主上は別に、平家にうらみなどお持ちじゃないわ。なぜ追討しなければいけないの? それどころか……、清盛の妻は、主上の乳母のひとりなのよ。清盛はたしかに信西と懇意にしていたし、いままでは院政派といってもよかったけど、信西が死んだとなれば話はちがってくるでしょうよ。そこら辺もにらんだ上で、主上は信西の首が欲しかったのね。失礼だけど、信頼やあなたのお父上は、主上の一派に利用されたのではなくって? 今度主上が欲しがるのは、信頼の首だわよ」
 若御前は、いっきにまくしたてて、きゅっとくちびるを引きむすぶ。
「父上がどういうつもりかは知らんがな、おれの立場から言えば、平家をたたかなければ挙兵の意味はない」
 義平は、口もとに苦笑を浮かべて言う。
「なぜ? ただでさえ、義朝の……、あなたのお父上の軍勢はやりすぎたのよ。これ以上血を流す必要がどこにあるの?」
「現在、ある程度まとまった軍勢を指揮できるのは、平家とわれわれだけだ。摂津源氏なぞ、数が知れていよう。利用されたと言うがな、平家とわれわれと勢力がふたつあるから、いいように使われてしまう。武力を握っているのがわれわれだけになれば、主導権はこちらが取ることになるんじゃないか?」
 熱っぽく語る義平を、若御前は茫然と見上げた。
「しゅ、主導権って……」
 聞くまでもなく、若御前にはわかった。
 義平の言う主導権とは、武者同士の主導権ではない。
 朝廷の武者に対する主導権をひっくり返そうというその意図に、足もとがくずれていくような衝撃を、若御前は感じる。
 今度の騒動の経過が、まったくちがった様相を持って見えきた。
 二条派の陰謀に、信頼と義朝が踊らされたのは事実だろう。
 しかし、源氏の軍勢が傍若無人に内裏を占拠しようとは、おそらく二条帝とその一派も、予想していなかった出来事ではなかっただろうか?
 現実にいま、朝廷はその源氏の武力をおそれて、信頼の無謀な要求を拒みきれないでいる……。
(踊らされているのは、もしかして……、わたしたちの方?)
 若御前はくちびるをわななかせて義平を見つめ、無意識のうちに両手を握りしめていた。

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