虫愛ずる姫君 三章

 久寿三年(一一五六)三月。蜂飼大納言の館に、爛漫の春がめぐって来ていた。
 備前は、透渡廊の途中で足をとめ、胸いっぱいに芳しい空気を吸い込む。まぶしいばかりの陽光が、花びらの乱舞を白くきらめかせ、身体の芯までわけ入ってくる。
 透渡廊は、小高くなった庭の西すみを横切っており、備前はいつもとちがった角度で、庭のほぼ全域を見渡すことができた。
 池の水はやわらかにぬるみ、満開の桜の薄紅と、柳の糸の浅緑が、薄絹の袖の重なりのようにそのふちを取り巻いている。
 中の島には、枝ぶりのいい松に山桜が数本、妙音堂のまわりにまぜ植えられている。
 その対岸、ちょうど朱塗匂欄の橋が架け渡されたあたりには、樹齢を重ねたしだれ桜の、黒々と節だち、まがりくねった幹が、ほのかににじむ紅の衣裳を風になびかせ、音もなく、池の面に花びらを散らしている。
 備前は酔ったように目を細め、次に大きく首をふって、足を早めた。
 花に見とれている場合ではないのだ……。
 西の対からのびた透渡廊は、地形にそって高低がつけられ、池の一部をわたり、山を一つまわりこむようにして、御堂にいたる。
  若御前は、寝殿からはるかにへだたったこの御堂を隠れ家のようにしており、女房たちの立ち入りを拒んでいた。
 備前が足をふみ入れるのも、ここ半年で二度か三度、めったにないことである。
 階段を登りきったところで、備前は、御堂のまわり縁に、若御前の姿を認めた。なにやら熱心に、目の前にすえつけた籠箱をのぞき込んでいる。
 そばには、桜重ねをまとった胡蝶の赤っぽい頭と、そして、山吹の狩衣を着込んだ少将俊通が寄りそっている。
「……それでね、ケラ男が言うことには……」
 若御前の声が一方的にひびき、俊通はただ黙って、異母妹を見つめるばかりだ。その、いつもながらの熱っぽい視線に、備前はふと胸をつかれた。
 これが兄妹愛、といえるのだろうか? 兄妹とはいえ、異母なのだ。ひと昔前ならば、結婚さえあたりまえだった間柄ではないか?
 思わずそんなことを考えてしまうほど、俊通の若御前を見つめる目の色には、切迫した雰囲気がある。
 もっとも、肝心の若御前はと見れば、こちらはまた、あやうく同性の兄弟と見あやまるような態度で俊通に接しており、備前は目をしばたいて、妄想を払いのけた。
 最初に備前の姿に気づいたのは、胡蝶だった。
 胡蝶の視線を追って若御前も顔を上げ、
「おや、備前。なにか用?」
 いかにも、邪魔をされるのは気に染まないといった、無愛想な声を出す。
 これくらいのことでめげていては、若御前の相手は務まらない。
 負けずに備前も、はっきりと口をきくようになっていた。
「ええ、用がなければ、こんなところまで押しかけてまいりませんわ。大納言の局がいらして、取り急ぎ姫さまにお話がと……。
「中御門の小母さまが? いやあねえ。どうせまた、ろくでもないお説教を思いついたのでしょうけど、今は手がはなせないわ」
「手がはなせないって、姫さま、いったいなにを……」
 若御前の肩ごしに籠箱を見やり、備前はあっと息をのんだ。
 籠箱に植え込まれた橘の枝。そのつややかな常緑の葉の陰で、今にも蝶が羽化しようと、しわくちゃの羽を蛹の殻からひっぱり出していたのである。
「姫さま、いいかげんになさいませ。こんな気味の悪いものを……」
「気味の悪い、とはなによ。中御門の小母さまにくらべれば可愛いものじゃない」
 未練げに蝶を見やりつつ、それでも若御前は、ため息をついて腰を上げた。
 俊通は、大納言の局と聞いたとたんに、黙って姿を消している。
 どうやらこの館に、宗子の来訪を歓迎する者はひとりもいない様子だった。
「姫さま、せめて衣裳をお取りかえあそばして……」
 さっさと歩き始めた若御前の背に、備前は、そう声をかけずにはいられなかった。
 あの清暑堂の御神楽の日、きれいにぬき去った若御前の眉毛も、今はまた元どうり、ふさふさと生えそろっている。
 あれ以来、どうご機嫌をとろうと若御前は化粧をせず、女装束を身につけようともしなかった。
 今日も、あいかわらずの白袴に薄く卵色がかった袿、それに気に入りの香染めを重ね着している。
 香染めとは、赤味の噛んだ薄黄色で、肌色に近い目立たない色である。染料の丁子の香りが後々まで残り、男性の狩衣などにはしゃれた色とされているが、それも、下に重ねる袿に二藍などの反対色を持ってきた場合の話だ。
 若御前のように、全身これあるかなきかの色で統一したのでは、しゃれっ気もへったくれもあったものではない。
 備前は御堂の中に駆け込み、衣桁にかけたばかりの若御前の夏の衣裳をひきずり下ろした。
 四月一日の衣がえをひかえて、赤はいやという若御前のために、備前が選んだ藤重ねである。
薄紫の濃淡に、純白と青緑の濃淡。地味ではあるが品のある薄絹の取り合わせだ。
「さあ姫さま、ちょっとお手を通してくださればすむことですわ」
 若御前のいく手に立ちふさがり、備前は断固としてそう言った。
「おおげさねえ。相手は中御門の小母さまよ。なんだってそんなもの……」
 肩をすくめる若御前に、なおも食い下がる。
「大納言の局がお相手だからこそ、ですわ。今さら化粧は間に合いませんでも、衣裳がちがえば印象もちがいます。お説教も短くてすもうというものではありませんか?」
 しばらく備前をにらみつけた後、しぶしぶながらも若御前は、着がえることに同意した。
 藤重ねの衣裳は優雅に白袴を隠し、髪を束ねたこよりをほどくと、豊かな黒髪が藤色の背にうねる。むろん清暑堂の御神楽の日とはくらべものにならないが、なんとかこれで、女君らしい雰囲気はつくろえる。
 備前は、脱ぎ散らされた衣裳の片づけを胡蝶にまかせ、若御前の後を追った。

 西の対では、裏山吹の上衣の背をしゃんと立てた宗子に、困惑の面持ちで、弁の乳母が向かい合っていた。
「これはまた小母さま、おいそがしいところをわざわざ……」
 皮肉まじりの猫なで声でこれだけ言うと、若御前はすそをさばいて、宗子の真正面に座をしめる。薄紫の衣裳は予想どうりの効果を上げ、宗子は、一瞬気圧されたように、声もなく若御前を見上げた。
「……まあ、なかなか趣味のいい衣裳の見立てではありませんか。備前どのをご紹介したかいがありましたわね。どう? 歌と書のお勉強のほうも進みまして?」
 若御前と備前を等分に見くらべながら、宗子は愛想よく笑う。
 若御前は軽く片眉をつり上げ、宗子の問いを無視した。
「乙姫宮には、つい先日、東宮とのご婚儀をすまされたばかり。小母さまもわたくしのことどころではございませんでしょうに、今日はまたどういった風の吹きまわしでございますの?」
 言外に、早く用事をすまして帰れ、と言わんばかりの応対である。
 宗子の表情から、さっと笑いが引き、眉間にしわが刻まれた。
「そう、その乙姫宮のご婚儀ですけれどね、まあ東宮もお年若のこととて、わたくしが四六時中あちらの乳母と鼻をつき合わせていたとは、あなたも想像がおつきでしょう」
「東宮の乳母? そんなものが、わたくしになんの関係がありまして?」
 若御前は、けげんな面持ちである。
 一方備前は、瞬間に話の行き先をさとり、柳重ねの袖の下で、白くなるまで指を握りしめた。
 東宮の筆頭乳母、坊門の局。
 美福門院腹心の女房だが、数年前、彼女は娘婿に師長を迎えているのだ。
「それが……、むこうさまは関係ありと思っていらしゃるご様子でね、蜂飼大納言どのは中納言中将さまを婿に迎えるおつもりかと、まあそのようなことを、ほのめかすのですわ。これが皮肉でなくてなんでしょう? わたくし、返答に困りました」
「中納言中将をお父さまが婿に、ねえ。……もしかして、わたくしの婿に、ですか?」
 若御前はぱちくり、あきれ顔で長いまつげをしばたく。
「ほかにだれがおります? とぼけないでくださいな。中納言中将どのがあなたに言いよっていることは、そこらじゅうの噂になっているのですよ。否定なさるのですか?」
 宗子は憮然として、語気を強めた。
「なにやら文(ふみ)は参っているようですけど、あれが言いよっているということですの?」
 若御前は不思議そうに言い、備前は身をちぢめた。
 師長から手紙の取りつぎを頼まれたとき、備前は、それが世間にどう受け取られるかなどと、ほとんど考えもせず、よろこんで引き受けたのだ。
 どぎまぎしながら手渡した最初の手紙を見て、若御前は、不機嫌につぶやいた。
「なんなの、これ!? 脅迫じゃない……」
 師長の手紙は、どう読んでみても熱烈な恋文で、備前にはさっぱり、わけがわからなかった。妙なところがあるとすれば、ただひとつ、
「どうしてももう一度、あなたの横笛が聞きたい」という手紙の文句である。
筝の琴ならわかるが、なぜ笛なのだろう?
 それに「もう一度」とは、以前に聞いたことがあることを前提とした言葉だ。
「姫さまが横笛を吹かれるとは、わたくし、存じませんでしたわ」
 首をかしげる備前に、若御前は、眉をしかめて言った。
「吹こうと思えば、吹けるわよ。だけど、吹かないの。お父さまが泣くから」
 横笛は男の楽器で、女が吹くのは不吉とされている。
 宗輔が泣くというのはわからないでもないが、それで疑問が解けるわけでもない。
「でも、中納言中将さまは……」
 問いかけた備前の言葉を、若御前は、ぴしゃりとさえぎった。
「備前、お人ちがいでしょうと、中納言中将に伝えなさい」
 それを聞いた師長は、楽しそうに声を上げて笑った。
「これは、長期戦だな。備前、よろしく頼むよ」
 なんの説明もしてもらえないことで、備前はむくれたが、いやともいえず、それ以降もいく度か、手紙の橋渡しをした。
 受け取った若御前は、一応目は通すものの、返事を書くでなし、黙殺を通している。
「文? まさか備前どの、あなたが取りつぎをしているわけでは、ないでしょうねえ」
 さすがに宗子は、それを簡単に見ぬいた。
 赤くなって恐縮している備前にかわって、若御前が、明快に言いはなつ。
「なにも、小母さまがお困りになることはありませんでしょう?」
「困りますよ。ええ、困りますとも。だいたいあなたのお父上は、このことをご存じなのですか? ご存じの上、中納言中将の出入りを許していらっしゃるのなら……」
 黙ってやり取りを聞いていた弁の乳母が、突然、横あいから口をはさむ。
「宗子さま、中納言中将さまのいったいどこがお悪いのでしょう? そりゃあ先によそさまに婿入りなさってはおられますが、あちらさまとはあまりうまくいっていらっしゃらないと耳にいたしておりますよ。お血筋も摂関家ならば、文句のつけようが……」
 乳母の熱弁をさえぎったのは、若御前だった。
「なにを言ってるのよ、ばあや。わたし、中納言中将に求婚された覚えなんか、ないわよ」
 いかにも心外、といった口調の若御前に、宗子はため息まじりで言う。
「ああ、もう、らちもない。男が女に文をよこすのは、求愛にきまっていましょう。少なくとも、世間はそう見ますわ。なにもわたくし、あなたの身の回りに色めいた話があること自体、とがめ立てするつもりはありませんのよ。それどころか、人並みに恋文がくるなぞ、めでたいことと思っております。ただ、お相手が問題です。乳母どの、あなたも左大臣が蟄居なさっていることくらい、知っているのでしょう? ただでさえ小父さまは、左大臣の味方と見なされるお立場なのですよ。それをまた、こんな時期に左大臣の息子を婿取るなどと、噂だけでも……」
「まあ小母さま、なにを心配していらっしゃるかと思えば、ばかばかしい」
 若御前ははじけるように笑いだし、宗子は気色ばんだ。
「ばかばかしい? どこがばかばかしいのです?」
「お父さまはなにも、政治的な思惑から、左大臣とお親しいわけではありませんわ」
「こちらにそのおつもりがなくとも、世間さまではそうは見ませんよ。現に一昨年……」
「ああ、右大臣の件ですわね。だけどあれは、年長の者が先にと、まあ左大臣は、正論を述べられただけのことですわ。お父さまはあの通りの方ですから、左大臣も、お味方のひとりに数えるようなことはなさらないでしょうよ」
「あなた、さっきからやたらに左大臣の肩を持ちますけど、まさか本気で、中納言中将を婿にむかえる気ではないでしょうねえ?」
 宗子はあらためてキッと若御前を見すえ、若御前はうんざりしたようにそれに応じる。
「小母さま、いい加減にしてください。だいたいその噂、東宮の乳母あたりがふりまいたのではありませんの? 利にさとい一族ですからね、自分の娘と中納言中将の縁は切りたい、だけど落ち目の婿を見すてる薄情者とは思われたくない、婿どののほうに新しい相手が現れたのですよ、と虫のいいことをもくろんで……」
 若御前の推察に、備前は声もなくうなずいた。
 東宮の乳母、坊門の局ならばそれくらいやりかねないし、第一、そうでも考えなければ、こうまで大げさに噂がひろまるいわれは、ないはずである。
 宗子も、それは納得がいくらしく、攻め方を変えてきた。
「そこまでわかっておいでなら、なにも好きこのんで左大臣一族とかかわることはないでしょう? 中納言中将のこの館への出入りは、差し止めるべきです」
「それはできません。中納言中将はお父さまを訪ねてみえられるので、わたくしの客ではありません。第一、落ち目だからといって、ごく普通のおつき合いも避けるようなさもしいまね、お父さまがなさるわけがございませんでしょう」
「あなたのお父上が、ばかばかしいほどお人がいいのは存じてます。だからわたくし、この話をあなたにしているのではありませんか。今度のことで、左大臣に勝ち目がないことくらい、あなたにはおわかりでしょう? それに……、このままではすまないということもね」
 宗子は、最後のひと言を、声をひそめてつけ加える。
 そのとたん、妙に落ち着きの悪い、得体の知れない不安が、部屋の空気にしのび入った。
 三年続きの不作に、この冬、都大路にも、行き倒れの餓死者が見受けられた。
 諸国から飢餓の知らせが届き、米貸しの蔵がおそわれただとか、九州では合戦が起こっているだとか、物騒な話が絶えない。
 そこへもってきて、今の政情は、すこぶる不安定なものである。
 わが子の皇位継承をあきらめない崇徳院、蟄居しながら氏の長者である左大臣。
 どちらも、体制派には、目ざわりで仕方のない存在だ。
 鳥羽院が、治天の君としてにらみをきかせている間はいい。
 しかし、鳥羽院にもしものことがあれば、いったいなにが起こるのか、だれも予想がつかない。
 しかし、なによりも不気味なのは、起こるものならばなんでもいいと、騒動を待ち受ける空気が、漠然とちまたに流れていることだ。
 若御前は、しばらくじっと宗子を見すえていたが、やがてきっぱりと言い切った。
「ええ、わかっております。ですけれど、さもしいまねは、わたくしも好みません」
「まあ、あなたは、わたくしのよかれと思っての忠告を、さもしいと言うの?」
「ご忠告がありがたくないとは、申しません。ですが、さもしいのは事実でしょう?」 
 若御前と宗子の言い争いは、いつ果てるともなく続くかと見えた。
 備前は、ただただ圧倒されて、ふたりの顔を等分にながめている。そのとき、
「あの……、姫さま、ちょっとよろしゅうございますでしょうか?」
 御簾の外から、遠慮がちに、胡蝶の声がひびく。
 若御前は、ついと宗子から視線をはずし、一方的に議論を打ち切った。
「いいわよ。胡蝶、お入りなさいな」
「その……、お取り込み中、いかがかと思ったのですけど、どうしても……」
 胡蝶は、おずおずと姿を現し、濃紺のうろこ模様の懸袋を、若御前に差し出した。
 宗子は、露骨にいやな顔を向け、胡蝶をすくみ上らせる。「なんなの、これは?」
 若御前は、新しい出来事に興味をうばわれ、さっぱりと宗子を無視した。
「それが……、なにやらこざっぱりとした若者が、ぜひこれを姫さまに、と申しますの。主人が返事をお待ちしているなどと、やたらにせかすものですから……」
「主人って、いったいだれ? その使いの男は見た顔なの?」
「いいえ、初めて見る男ですわ。どこの家の者やら見当も……」
「まあまあ胡蝶、あなたはそんな怪しげなものを姫さまに取りつぎなぞして、ほれ、宗子さまがあきれておいででしょうに……」
 言わずばなるまい、といった重い口調で、弁の乳母が口を開く。
「いいじゃないの、ばあや。ほら、ちゃんと手紙がついてるわ」
 若御前は、懸袋に結びつけられた薄縹の文を、素早く開いた。
「なにこれ? 見たことのない筆跡ねえ」
 文面を見つめ、首をかしげていたが、あきらめたように、備前にそれをほうる。
 はふはふも君があたりにしたがはむ、長きこころのかぎりなき身は……。
(這いつくばってあなたをお慕いしましょう。長く限りない心をもって……)
 若々しい、勢いのある筆で、それだけ書きつけてあるのみだ。
 一応求愛の体裁をとってはいるが、からかいの歌であり、はふはふだの、長きだの、いまひとつ、意図がはっきりとしない。
「どういうことでございましょう。わたくしにも、だれの文字やらさっぱり……」
 思案にくれる備前の言葉を聞きつけ、それまでそっぽを向いていた宗子が、我然、身を乗り出してくる。
 備前の手から文をひったくると、
「おや、これは……、もしかして、若狭守(隆信)の手ではありませんか?」
 即座に、そう言ってのけた。
「若狭守と申されますと、たしか、美福門院加賀どのの、先のお子でしたわね」
 若狭の国は美福門院の知行国であり、備前が隆信に思いいたるのに、時間はかからなかった。
 隆信の父親は早くに出家しており、若狭守という隆信の官職も、美福門院つき女房である母親の加賀の助力によったものだ。
 しかも加賀の再婚相手、つまり隆信の義理の父親というのが、坊門の局の弟ときている。
 宗子は大きくうなずき、
「そう。まだ十五かそこらと思うけど、ませくれた子でね、先ごろ若狭から帰ってきて以来、浮き名を流して歩いているらしいわ。血筋かしら、そこそこに歌も詠むし……。それにしてもまあ、この手合いがあなたに歌をよこすなんて、よっぽど中納言中将のやり口が評判になっているのでしょうよ。いったい、なにを思って中納言中将は、突然あなたに言いよりなぞするのでしょうねえ? わけのわからないことだこと……」
 清暑堂の御神楽の日の出会いを知らない宗子にしてみれば、もっともな疑問である。しかし若御前は、そ知らぬ顔で、懸袋の口をほどきにかかった。
「ひいっ!」
 若御前の手もとをのぞきこんでいただれかれが、いっせいに悲鳴を上げた。
「へ、蛇……」
 若御前自身が懸袋をほうり投げ、声をわななかせている。
 懸袋の中からにょっきりとかま首をもたげたのは、赤い舌をちらつかせた蛇の頭だった。
「わ、若さま! 若さまはいらっしゃいませんか! 蛇! 蛇が姫さまに! 若さま!」
 最初に行動を起こしたのは、胡蝶だった。縁先に走り出て、俊通を呼び立てる。
 間もなく、飾り太刀をひっさげた俊通が息を切らして駆けつけてきた。女たちが遠巻きにしている懸袋にすたすたと歩みより、刀の切っ先で蛇をすくい上げる。
 どちらかといえば鈍重な俊通の動作だったが、このときばかりは頼りがいのあるものと、だれもが感じた。
「なんだ、これは……。作りものですよ。だれがこんないたずらを!」
 俊通は、すっぱりと、蛇をふたつに切り裂いてみせる。なるほど、よく見てみればそれは、うまく細工した紐きれにすぎなかった。
「まあ兄さま、作りものなの? どうにもわたくし、そ、その、長くて、うろこのある姿だけは苦手なのよ。それにしても……、よく作ったものねえ」
 まだ恐怖がさめやらぬといった風情の若御前は、いつになく可憐だった。
「姫さまにも、怖いものがおありだったのですね」
 備前は、思わずほほえみ、そう言わずにはいられなかった。

「まったく、蛇と毛虫と、どこがどうちがうのか知りませんけれどね、怖いものがあって幸いでしたよ。少しは女らしく見えましょう」
 自分も取り乱してしまったのが決まり悪いらしく、宗子の口調は、必要以上に苦々しい。
「若狭守とやらは、とんでもないやつですな。いらぬ悪さを、よりによって姫さまに……」 肩で息をしながら憤慨しているのは、弁の乳母である。
「そ、そういえば姫さま、どういたしましょう? 使いの者はお返事をなどと……」
 はっと思い出したように、胡蝶が若御前の顔色をうかがう。
「返事? こんなものに返事などいらぬことです。だいたい胡蝶、おまえが……」
 血相を変えて言いつのる乳母を、若御前がなだめた。

「まあまあ、ばあや。本物の蛇だったわけじゃあないんだから。それに……、してやったりと相手に思わせとくのも、しゃくだわ」
 若御前が自らすすんで返歌を書こうとは、備前には意外だった。
 いったいどんな返事を書くものか、興味しんしんで見守っていたところ、若御前が取り出したのは、白い、ごわごわとした陸奥紙である。

契アラバ、ヨキ極楽ニユキアハム、マツワレニクシ虫ノスガタハ。……天国ニテ。
(生まれ変わって、天国でお会いしましょう。なにしろ虫を好むようなこの身ですから)

 漢字とカタカナで、黒々と、それだけ書きつけた。
 歌の内容はさて置くとしても、陸奥紙に漢字・カタカナときては、変な姫君という世間の評価を肯定するようなものである。
「ひ、姫さま、およしなさいませ。せめて、そ、その、ひらがなでお書きあそばして……」
 備前はあわてて止めに入り、宗子も眉をひそめる。
「備前どのの言う通りですよ。これでは、またぞろどんな噂がたつことやら!」
「言いたいものには、勝手に言わせとけばいいじゃありませんか。胡蝶、その使いの者にこれを渡してやりなさい。さあ、早く……」
 若御前は取りあわず、平然と、その異様な文を胡蝶に託した。
 蛇騒動に毒気をぬかれ、この日宗子はそれ以上議論をむし返さず、そそくさと帰っていった。
 しかし、宗子の談じ込んできたことといい、若狭守隆信のいたずらといい、備前は、若御前が世間の注目の的になっていることを、痛感した。
 しかも騒動は、これだけでは終わらなかったのである。

 それから十数日が立ち、月は夏、四月にかわっていた。
 桜は散り果て、新緑の匂いやかな緑に、薄紫の藤の花房、山つつじのあでやかな紅、こぼれ散った山吹の黄、そして妖麗な牡丹の花もほころびを見せ、夏のいろどりが、きらきらしく庭をおおっている。
「ねえ、ご存じ? 今度の祭りの使いの越後の少将(成親)って、とんだ色男よ」
「知ってるわよ。だいたいが、近衛の次官なぞ務める家柄でもないのにねえ。鳥羽院が、なにがなんでも成親にって推されたそうじゃない。あきれたもんだわ。そんな美男子なのかしら? 年は中納言中将さまと同じって聞いたけど……」
「あなた、それがねえ、鳥羽院の前には、左大臣とも関係があったらしいのよ」
「あら、それは不思議じゃないわよ。左大臣はそちらの道では有名ですもの。ほら、中納言中将さまが女に冷たいのは、その血をひいて、男君のほうがお好きなのかも、なあんて言ってたこともあったくらいじゃない。それがまあ、うちの姫さまに血道を上げられるとはねえ。単に変わったお好みでいらしただけなのかもしれないわ」
「でも、不思議といえば不思議よねえ。突然、なんですもの。姫さまが筝の琴の名手だなんてことは前からわかっていたんだし……」
 賀茂の祭りも近いこととて、女房たちは、祭りの花形である近衛の使いの噂話に興じている。それがとんだところで師長と若御前にうつり、備前は、苦笑を禁じえなかった。
「あの、備前の君、よろしいでしょうか?」
 呼ばれて外を見ると、胡蝶である。縁先にかしこまって、もじもじと身をくねらせている。
 胡蝶はめったに、目上の女房たちのいる場所には近づかず、よほど思案にくれることがあったらしい。
「よろしいですよ。なにかありましたか?」
 備前の問いかけに、女房たちもおしゃべりをやめて、耳をすませる。
「それがその……、妙な恰好の男がふたり立蔀のところにいて、どうやら、その……、姫さまをのぞき見しているのではないかと思われますの」
「妙な恰好の、男?」
「はい。女の衣裳を頭から被いているんですけど、それが……、なんとなく身分の高そうな方たちで、騒ぎ立てるのもどうかと……」
「見かけたことのない男たちなの?」
「ございません。ご親類の公達でもないし、中納言中将さまでもございませんわ。だけど、どちらも見目がよくていらして、好き者みたいな……」
「見てみましょう。……どこなの?」
 備前は立ち上がり、胡蝶のあとを追った。
 はっとふりかえると、女房たちがぞろぞろと後ろについてくる。見目のいい男、という言葉に、誘われたものらしかった。

 なるほど、東の縁側に立ってみると、遠目ながら様子のいい若者がふたり、立蔀に身をひそめている。
ひとりは、女衣の下に二藍の直衣を着込んでいるらしく、相当な家の公達と見える。
 もうひとりは狩衣姿で、その弟分といった風情だ。
 一目で備前は、直衣の青年の正体を見定めた。
 先帝の内裏女房を務めた者で、徳大寺の左少将実定を知らない者は、まずいないだろう。
「どこかでお見かけしたような殿方だけど……、どなたなのですか? ねえ、備前どの」
 女房たちの先頭にいた兵衛が、急き込んで聞く。
「おひとりは徳大寺の左少将さまですけれど、もうおひとりのほうはちょっと……」
「徳大寺の左少将さまですって! まっ、ま、まあ、こんなところにまあ……」
「どれ? どちらの方なの? 見えないわよ、ちょっと!」
 徳大寺の左少将実定と言えば、若手の公達の中では、左大臣の子息に次ぐ出世頭であり、人あたりのよさと愛嬌で、手あたりしだいに浮き名を流している口だ。
 年が近いため、よく師長と比較されるし、またつき合いもある。
 師長が夢中だという噂の姫君を、ちょっとのぞいてみようと、いかにもそんないたずら心を起こしそうな人物だ。
 それよりも、もうひとりの男である。
(もしかして……、あれが、若狭守隆信ではないかしら?)
 と、備前はにらんだ。
 実定の母親は、坊門の局の妹、つまり隆信の義理の父親の姉である。ふたりがつるんで歩いていても、おかしくはないのだ。
 とんだことになったと、あわてて備前は、北面の様子をうかがう。
 若御前の姿は死角に入って見えないものの、
「そこ、そこのやつよ、ケラ男。もう少し右のほう……」
 なにごとか大声で男童に命令し、あげくのはてに、
「蝸牛の角の上に何事をか争ふ、石火の光の中にこの身を寄せたり……」
 朗々と白楽天を詠じるその澄んだ声が、聞こえてくるのである。
「胡蝶、姫さまはいったい、なにをなさっておいでなのです?」
「あの、ケラ男や雨彦たちに毛虫を集めさせていらっしゃいますけど……」
「いつものように縁の外に出て、ですか?」
「はい」
「それでは、あそこからまる見えではありませんか?」
 胡蝶のうなずくのを見て、備前は覚悟をかためた。
 足速に縁をまわると、匂欄にもたれた若御前の後ろ姿が見えてくる。
 香染めの、きりぎりすの模様の浮いた小袿を頭からひき被き、手にした白い扇には毛虫が数匹。
 とても他人さまには、わけても身だしなみにうるさい風流男なぞには、見せられない姿だ。
「姫さま! どうかお入りあそばして。のぞき見するものがおりますのよ」
 備前の声に、若御前はおっとりとふりかえる。
 その拍子に毛虫が一匹、扇からころげ落ち、ころころと足もとに来て、備前は思わずのけぞった。
「のぞき見? のぞくって、なにを? ばかなこと言うわね、備前ったら」
「姫さまに決まっているではありませんか! 徳大寺の左少将さまと、あとひとり、どうやら、若狭守ではないかと思うんですけけれど……、ほら、そこの立蔀のところに」
「徳大寺の……? 嘘でしょう? これ、雨彦、ちょっと行って見てきなさい」
 若御前は小首をかしげ、男童のひとりに言いつける。
「まあ、情けない。姫さま、わたくしの申すことをお信じになりませんの?」
「だってねえ、そりゃあ、あのはふはふの、もの好きそうな若狭守はわかるわよ。だけどなんだって、徳大寺の浮かれ男がこんなところに? ばかばかしいじゃない」
「ああ姫さま、そうはおおせられても、あれは真実、徳大寺の若さまですわ」
 なんとか若御前を御簾の中に入れようと備前が気を揉むうちに、
「姫君、本当です。まちがいなく徳大寺の若殿と、もうひとり、若い男がおりました」
 雨彦が走り帰って、そう告げた。
 さすがに若御前も顔色を変えて、ものも言わずに縁を走る。
 東の縁に集まった女房たちのただ中をつっきり、そのまま自室に帰った。
 しばらく、ぼんやりと後を見送っていた備前は、男童の声にふりむかされた。
「あの、これを姫君に差し上げてくれって、若い方の男が……」
 見れば、畳紙に草の汁で書いた、文である。

かわ虫の毛深き様を見つるより、取りもちてのみ守るべきかな

 まぎれもなく、先日の、はふはふの歌と同じ筆跡だ。

 毛深き様……。あきらかに若狭守隆信は、そしておそらく実定も、その自然のままの黒々とした眉毛まで、はっきりと、若御前の顔を見たのだ。
(せめてあの人たち、少し、口をつつしんでくれればいいんだけど……)
 備前は、たいして望みのないことを考え、嘆息した。

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