虫愛ずる姫君 四章
保元元年(一一五六)五月。久寿三年は改元され、保元元年と改まっている。
備前は、そばに横たわる師長の、かたく、なめらかな筋肉を撫で、その存在を確かめるようにすり寄った。
純白の絹の単に、深く焚きしめられた独特の荷葉香が、師長そのものの体臭のように、備前の鼻孔をおおう。
(最初から、こうなることは決まっていたのだわ)
年下の男のすこやかな呼吸をほおに感じながら、備前は、そう自分に言い聞かせていた。
ここのところ、師長は蜂飼大納言のもとに通いつめ、師長が来たとなると、備前は、若御前つきの女房たちにうらやまれながら、母屋に呼び出され、筝の琴の相手を務めるようになっていた。
自然、師長と言葉をかわす回数もふえ、
「返事がいただけないなら、せめて姫君の、筝の琴だけでも聞いてみたい。頼むよ……」
顔を会わすたびに、師長は、そう言って備前をくどいた。
なにしろ、師長が母屋にいる間、若御前は決して筝の琴を弾こうとせず、その徹底ぶりは見事というほかないのである。
「なぜ、こちらの殿さまに直接お頼みになりませんの?」
備前は、不思議に思ってそう聞いてみた。
「冗談じゃないよ、備前。子供のころからたびたびここへ足を運んでいるわたしが、姫君の琴を一度たりとも耳したことがないのは、大納言どのが聞かせないようにしているからじゃないか」
師長は、大きくため息をついた。たしかに、言われてみればそのとうりである。
「正式にご求婚なされば、殿さまも、お考え直されるのではありませんの?」
ちゃかす備前に、しかし師長の答えは、真剣だった。
「できれば、とっくにそうしている。今は……、それができる時期じゃないだろう?」
苦しげな師長の表情に、一族籠居による痛みを感じ取り、備前はあらためて師長を見た。
容姿、才芸ともにすぐれ、しかも生まれたときから人の上に立ってきた者の自信。
それに若さの奢りが加わり、かつての師長には、いかにも陽のあたる場所にいるのがふさわしい、きらきらしい傲慢さがあった。
それが今、どことなく内にしずみ込むような翳りを身につけ、切れ長のその瞳には、神経のこまやかさがむき出しになっている。
ここ一年足らず、師長が生まれて初めて味わっただろう屈託がさっせられ、備前は、胸にいとおしさがわきあがるのを感じた。
しかし、次の瞬間、
「なんだって大納言どのは、もっと以前に、わたしを婿にと思いつかなかったものかなあ。身に不足はなかったと思うが……」
などと言い出すにおよんで、やはりあいかわらずの……、と備前は苦笑した。
「また、なにを仰せられますやら。殿さまは、いまだに姫さまが婿を迎えるようなお年とは、気づいていらっしゃいませんでしょう。そこらへんがなんとも、あのお方の浮き世ばなれしたところなのですわねえ。それに第一、あなたさまはとっくの昔に東宮の乳母どののもとへ婿入られたお方。あの当時、派手な婿取りと評判になったのを覚えておりますよ」
今度は、師長が苦笑する番だった。
「あれは、父上のご意向にしたがったまででね、あそこの家とは相性が悪かった。今になってみれば姑どのも、わたしの足が遠かったことを喜んでおいでだろう」
「そうらしゅうございますわねえ。それもこれもあなたさまが、日ごろから冷たいそぶりをお見せになっていらしたゆえ。実際のところ、こちらの姫さまへもどういうお気持ちなのやら……。もう、わかっておいでなのでしょう? 姫さまは、その、残念ながら、噂もまんざらでたらめではございませんのよ。あの日、ひと目見られた姫さまが忘れられないでいらっしゃるのなら、あなたさまは、幻に恋をしておいでのようなものですわ」
師長は、にやりと、くちびるをゆがめて笑った。
「ああ、徳大寺の少将にも、さんざんからかわれたばかりだよ。しかし少将も、姫君の持って生まれた美しさまでは否定してなかったな。あれでは筝の腕も美貌もだいなしだ、とは言っていたが。どっちみち、少将とわたしとではまるで趣味がちがう」
「まっ! やはり徳大寺の少将さまは、しゃべり散らしていらっしゃるのですね」
実定と隆信。
評判の色男がふたり、面白半分でしゃべり歩けば、どうやら……と、いままでただし書きがついていた若御前の悪評が、決定的な評価として世間に高まる。予想していたこととはいえ、備前は腹立たしかった。
それにしても、肝心の師長が、いっこうに幻滅したふうも見せないとは、どういうことだろう?
「あなたさまは、いったいどういう趣味をお持ちなのでしょう。男君をこそお好みなどと、申す者さえおりましてよ」
からかい半分の備前の言葉に、意外にも師長は、真顔で応じた。
「男か……。自分でもそう思い込んでいたことがあるよ。人並みに婿入りしてみたものの、妻にもたいして興味を持てない。美しいと世間で評判の女を見ても、なんの感興もわかない。そんな折り、そう、あれは三年前のことだよ。備前、鳥羽院の五十の御賀を、覚えているかい?」
「もちろん覚えておりますわ。ですけど、それがいったい……?」
「まあ、聞けよ。あの日後宴が終わってなんとなくぶらぶらしていたら、かすかに笛の音が聞こえたんだ。それがなんともすばらしくてね、流儀は蜂飼大納言どのに似ているんだが、もっと若々しい吹き方なんだ。誘われて音の方角へ歩くと、牛車だまりへ出た。なんと、横笛を吹いているのは小舎人童じゃないか。笛の技量にくらべて、その幼さにもびっくりしたが、遠目とはいえ、これが信じられないほどの美少年なんだ。思わず駆けよろうとしたところ、先を越した人物がいた。おどろいたことには、蜂飼大納言どのだったんだよ。大納言どのは、少年から笛を取り上げ、どうやら泣いておられる様子だった。なんとも、その雰囲気が異様でね、さては大納言どのご秘蔵の寵童だなと思って、その場はあきらめたんだ。それならそれで、あとでいくらでも頂戴できるからね。ところが、調べさせてみても、さっぱり正体がつかめない。少年の存在自体が、煙のようにかき消えてしまった。やむなく、いったいどこにかくしたものかと大納言どのに探りを入れてみたところ、大納言どののうろたえ様は、普通じゃなかったな。顔色を変えて、逃げてしまわれた。あきらめきれないままに三年がたって……、あの清暑堂の日だ。ほんの一瞬だったが、師長、目には自信がある。姫君は、三年前の小舎人童にそっくりだったよ」
「そ、そんなことが……」
備前は、絶句した。
弁の乳母の話を、思い起こしたのである。
鳥羽院五十の御賀の日、若御前は、小舎人童にばけて御遊を聞きにいったという。
目をむく備前に、師長は大きくうなずいてみせた。
「あれこれ考え合わせて、わかったのさ。あの小舎人童は、姫君その人だったにちがいないと。大納言どのの姫君に弟がいるとは聞かないし、そういえば、姫君は男装を好むと評判だった。大納言どのの態度も、すべてそれで納得がいく。そういういきさつだからね、少々のことで熱がさめたりはしないさ」
「そ、それで、もう一度横笛を……、だったのでございますか。で、でも、姫さまは脅迫だと……、いったい、どういうことでございましょう?」
師長は苦笑した。
「わたしは別に、脅迫のつもりはないけれどね。大納言どののあのときのご様子では、相当、姫君の男装を嘆かれていたようだから、わたしが知っていると大納言どのに伝わるのが、姫君はおいやなのだろう」
備前は、うなずいた。
世間の評判など歯牙にもかけない若御前に、もしも無視できないものがあるとすれば、それは宗輔の涙である。
「偶然とは恐ろしいもんだな。面影を忘れかねたその人が、筝の琴の名手だったとは。いや……、偶然ではないな。あのとき、あの少年に魅せられたのも、まずは笛の音だった。あの笛は……、忘れられないよ。たかだか十四、五の少女が秘曲を弾きこなすわけがないと、大納言どのの言葉を頭から信じなかったが、あの笛の吹き手ならば、わかる。女でありながら姫君は……、なんといえばいいのか、そう、わたしと同じやり方で、楽の音を愛でておられるにちがいないんだ。ちがうかい?」
本質をついた師長の言葉に、備前は脱帽した。
「姫さまが筝の琴を弾かれるのは、おおかた明け方ですわ……」
そう言って、ついに備前は、師長が自分の局に泊まるのを許したのである。
その言葉を口にしたときから備前は、自分がなにを許したのかを承知していた。
女嫌いとはいっても師長は、据膳に手を出さないような男ではなかったし、そして備前は、まさに据膳だった。
当然のように師長の手が衣にかかったとき、備前は、あまりにも長い間、自分が恐れ、恐れつつ待ち望んでいたことの実現に、おののいた。
(この種の人間に引きつけられるのが……、わたしの因果だわ)
頭の片すみに、ため息をつく自分がいた。
師長の長い指は、琵琶をかき鳴らし、筝の琴を弾くときのあの巧みさで、備前の全身を這った。幼い頃から女に慣らされた貴公子の、無意識の技巧だった。
全身に男の重みを受けとめたとき、備前は、相手の心に自分が占める意味の、羽のような軽さを知りながらも、自分の中に巣くってしまった師長の重みを、噛みしめていた。
若御前に対する嫉妬は、なかった。
それどころか、師長と若御前が結ばれる瞬間を思うとき、備前の身体は、甘やかな陶酔につらぬかれる。それは決して、身分のちがいによるあきらめではなかった。
ただ、倒錯した恋心といえば、そうだったかもしれないが……。 師長が女嫌いといわれるのは、女という性に関心が薄いからではなく、他人に……、男であれ女であれ他人の存在に、本質的に興味がないからなのだ。
その意味で師長は、若御前に似ていた。
「女でありながら姫君は……」という、師長の直感は正しい。
備前には、わかりすぎるほどわかっていた。
師長の恋は、自己愛の延長にあり、相手が若御前であることは、必然の共鳴なのだ……。
闇の中に、若い男の規則正しい寝息が聞こえる。
備前は微笑み、小さく燈台の火をともした。
おそらく師長には、ここが……、こことはむろん備前の局という意味ではなく、蜂飼大納言の館そのものなのだが……、もっとも心やすらぐ場なのだろうと備前は推察する。
ここのところ、鳥羽院の不例がささやかれ、京の町は不穏な空気につつまれていた。
いつの間にどこからわいてきたものか、なまりの強い田舎武者たちがちまたにあふれ、喧嘩、騒動が絶えない。
それだけならばまだしも、あろうことかそれは、崇徳院と左大臣が荘園の兵を呼び集めた結果なのだと、流言が飛びかっていた。
つい昨日も、徳大寺家の堂に武者たちが放火し、裏切りを根に持った左大臣の手の者のしわざだと、もっぱらの評判だ。
徳大寺家と左大臣の決裂は、もう修復の余地がない。
公卿たちは、今や露骨に、左大臣一族とかかわることを避けている。
師長が婿となっている、東宮の乳母、坊門の局の一族でさえも、例外ではない。
そんな中で、宗輔だけは、以前となんの変わりもなく、そしてなんの恩きせがましさも見せず、ごく自然に師長を迎え入れていた。
燈台の火のゆらめきに、わずかに、師長が身じろぎした。純白の単衣の綾の繁菱が、赤味をおびてつややかにうねる。
「寝すごしたかな……」
寝起きの、もの憂げな師長の声が、いつもより一段と低く、備前の耳にひびいた。
「いえ……、まだですわ。ですけれど、もうすぐ……」
ささやき終わらないうちに、備前は腕をつかまれ、師長に引きよせられた。若々しい、しなやかな手が単の下にもぐり込み、やわらかな乳房をつかむ。きゅっと乳首が引き締まるのを感じながら、備前は、そのあまりにむぞうさな師長のしぐさに、ふと胸を突かれた。
肉の交わりなど、師長にとってなんの意味ももたないと、最初からわかりきったことではあっても、自分の肉体を玩具のように感じさせられることは、備前の本意ではない。
彼女は、残り少ない自尊心のありったけをかき集めて、なにげなさを装い、身を引いた。
「禅閤殿下(忠実)は、こちらの殿さまの父君(按察使大納言宗俊)に、筝の琴の伝授を受けられたのでしょう? だのになぜ、ご存じのない秘曲がおありなのでございますか?」
筝の琴の話題を持ち出すと、あんのじょう、師長は簡単に備前の肉体を忘れた。
「按察使大納言どのは、出し惜しまれたのさ。いまだにお祖父さま(忠実)は悔しがっておられる。二曲まではお祖父さまも学び取られたのだが、最後の一曲を極めることがおできにならなかった……」
「それがあの、奥の秘曲といわれる……」
「その通り。したがってわたしも、盤渉調と水調の秘曲は、まずお祖父さまからお教えを受けたのだよ。蜂飼大納言どのも、この二曲は簡単に教えて下さったがね、奥の秘曲にいたっては、親子二代にわたる出し惜しみというわけだ。自分ひとりしか知らないというのは相当に気持ちがいいものとみえて、墓場まで抱いて行くつもりらしいな。ああ、もちろん、姫君には伝授なさったのだったね。しかしなあ、姫君も簡単には、ほかへもらすまい」
「ええ、姫さまがおっしゃっておられましたわ。殿さまのお目の黒いうちはだれにも伝えないと約束されたのだと……」
「ほう、やはりね。しかしそれならば、おまえに先を越される心配はないな」
「まっ! わたくしが先にお教えを受けてはいけませんの?」
「当然だろう? わたしのほうが腕は上なのだから……」
鼻で笑う師長に、備前は二の句が告げなかった。
師長の場合、筝の琴にかぎらず、音楽の奥義を習い歩くその熱心さは、尋常ではなかった。
催馬楽は、中御門宗能をつかまえて、ついに門外不出の秘事を吐き出させ、琵琶は、小倉院禅流と桂流を、ふたつながら極めた。
噂によれば、師長のあまりのしつこさに、普通の神経を持つ人間は辟易して、根負けせざるをえないのだという。
その師長にかかっても奥義をもらさなかったというのだから、宗輔も、こと音楽にかけては相当なものである。
(まったく、変人ぶりにかけては、殿さまと姫さまと師長さまと……、三人が三人とも、いい勝負でいらしゃるわ)
備前が、ふとそんなことを考えていたとき、
「あっ! あれか……?」
かすかにひびき始めた若御前の爪音に、師長が目の色を変えた。しばらく、絃の調子をかき合わせるような音が聞こえたが、すぐに黄鐘調の曲が始まった。
「遠すぎるな……」
師長のつぶやきに備前はうなずき、簀子縁に案内する。
闇はまだ濃く、白い下弦の月が、中天に張りついていた。
漆黒の墨の上に銀の切泊をまき散らしたように、星がきらきらと存在を主張し、木々も水も深く鈍色に沈んでいる。
どこからともなく、薔薇の花の濃密な薫りが、甘く闇を染めて流れ出ていた。
木の間がくれに明りのもれる御堂から、数曲、十三本の絃を流麗にあやつっていたその手が、ぴたりと止まった。
琴柱を立てかえているらしく、調弦の音が続く。
「とても女の手とは思えないよ。信じられん……」
師長としては最大級の賛辞であり、備前は闇にまぎれ、わが事のように得意げに笑った。
「えっ? あれはまさか……」
次の瞬間、くっきりと遣水の音を圧して鳴りわたった琴の音に、備前の笑顔は凍りついた。「しっ! そう、例の水調のやつだよ」
師長の言葉を待つまでもなかった。それが水調の秘曲であることを聞き分けるだけの耳は、備前にもあった。
偶然、なのだろうか?
よりによって、師長が耳をすますこの瞬間、めったに弾くことのない三秘曲のひとつを、若御前は、あざやかに奏でている。
備前は、懸命に耳を凝らした。
一音一音余韻をひいて消えていく爪音が、まぶたの裏に、金砂銀砂の流水を描く。その琴の音を止どめるすべがないのが、備前にはもどかしかった。
曲が終わり、強い酒に酔ったように、備前は欄干にもたれた。
荷葉香が匂いたち、かたわらの師長の白い袿がひるがえった。
その唐突な動きに、備前は、はっとわれにかえる。
「ど、どこへ行かれますの?」
闇に浮く白いうしろ影を、備前はうろたえて追いかけた。
師長は、自分の家の庭でもあるかのように、たしかな足取りで橋をわたり、妙音堂にむかっている。
中の島にある妙音堂は、宗輔の音楽室のようなものだった。
伏し目がちの、満月のようなほおをした妙音天が中央に据えられ、底光りのする唐渡りの白磁の花瓶には、季節の花がいつも馥郁と、香をただよわせている。
笛の譜や楽器がそこここに置かれ、休息の調度も整えられていた。
むろん師長は、宗輔に案内されて、いく度もここを訪れたことがあるのだ。
すべては闇にとけ込み、妙音天の微笑も定かではない中で、師長は、迷わず琵琶の包みを手にした。
闇にも金襴とわかる重たげな布を取り去ると、かなり年代ものらしい琵琶があらわれる。
筝の琴、笛だけでなく、琵琶もよくしたという宗輔の父、按察使大納言宗俊の遺品にちがいなかった。
備前は、この日まさか、筝の琴に続いて琵琶までも、秘曲を耳にすることができるものとは思ってもいなかった。
調弦を終えて師長が弾きはじめたのは、まぎれもなく琵琶の三秘曲のひとつ、『流泉』なのだ。
(これでは、屋敷中に、師長さまの存在が知れわたってしまう……)
そんな考えがちらりと頭のすみをかすめたが、備前は止めることなど思いもよらず、息をひそめて聞き入る。
(なるほど。姫さまに対して、これほど有効な求愛はほかにないわ)
今までに、若御前がまったく、師長の琵琶を聞いていないわけではない。
しかしそれは、遊び半分の爪弾きであったり、清暑堂の御遊という格式張った場での、合奏であったりした。
抑制をかなぐりすて、本質をむき出しにしての、師長の演奏。
それが、若御前の共鳴を呼ばないはずはないと、備前は確信を持った。
薄墨色の空間に、流れるようないろどりを残し、紫檀の琵琶は、鳴ることをやめた。
その日、師長はそのまま帰って行き、備前が若御前と顔を合わせたのは、午後もおそくになってのことだった。若御前はいつに変わらず、漢籍を読みふけったり、男童を相手にしたりにいそがしい。
(まさか、あの『流泉』を聞かれなかったはずはないんだけど……)
そう思いつつ、自らそれを話題にすることに気おくれを感じ、備前は焦燥を味わった。
そして、師長の琵琶の音が、やはりどんな言葉にもまさって若御前を突き動かしたと知ったのは、夜の団欒の時間だった。
「お父さま、今度の七夕に、中納言中将さまをお呼びしてはいかがでしょう」
若御前は、ごくなに気なく、その言葉を口にした。
「ほう、どうした風の吹きまわしかな、姫や。わが家の音楽会に他人を呼ぶのを、あれほどいやがっていたものをなあ……」
宗輔は、端正だがどこか空とぼけたその顔に、愛嬌いっぱいの笑顔で娘に応じる。
「それはお父さま、他人さまが来られるとなると衣裳も整えねばならず、なにかとめんどうですもの。ですけれどあの琵琶は、めんどうを我慢するだけの価値がございますわ」
若御前はニコリともせず、まじめくさってそう答えた。
「これはこれは! 漢の虞公が歌をうたえば梁の上の塵も動いたというがの、中将どのの『流泉』はわが家の姫のめんどくさがりまで動かしたのう、備前?」
あいづちを求められて、備前は赤くなった。
なにも気づいていないように見えて、その実宗輔は、すべてを知っていたのだ。
昨夜師長が備前の局に泊まったことも承知し、師長が琵琶を弾いたいきさつにも勘づいたものらしい。勘づきながら宗輔はご機嫌であり、いったいこれはどういうつもりだろうかと、さすがの備前も、宗輔の胸のうちだけは想像もつかなかった。
一方、少将俊通はひと言も口をはさまず、無口で無愛想なのはいつものことといえ、その夜はことさらに機嫌が悪いように、備前には感じられた。
この年は、九月に閏月をひかえ、いつもの年より梅雨入りがおそかった。五月の末にじとじとと降り始めた雨は、水無月といわれる六月いっぱいふり続き、そしてその雨の間に事態は、七夕の管弦どころではないまでに急変したのである。
梅雨入りと同時に鳥羽院の容態は危急を告げ、院宣により、洛中にある後白河帝の内裏高松殿と、鳥羽院、美福門院、そして東宮の座す鳥羽離宮と、その両方を源平の武者が守護した。
崇徳院、左大臣が兵を上げるのに備えて、というのがその理由だ。
それに引き続き、鳥羽院の意志なのか、あるいは側近のさしがねか、父院の見舞いに駆けつけた崇徳院が対面を拒否されるという、事件が起こった。
都を徘徊する武者たちには一触即発の空気があり、戦乱は時間の問題だと、だれもが感じ始めていた。
六月四日、鳥羽院は御戒を受け、十二日、美福門院は髪をおろした。
「姫や、いったいなにが起こっておるのかのう。わしはもう、なにも見とうない」
宗輔は力なげに首をふり、病と称して、内裏へも鳥羽離宮へも出仕をやめた。
そして、師長の訪れもと絶えた。
宇治へ引きこもらざるをえなかったのである。
いったいなにが起こっているのか……。
それはなにも、宗輔ひとりの慨嘆ではなかった。
皇室にしても摂関家にしても、跡目争いは珍しいことではない。
それどころか、代替りのたびに一悶着をくり返してきたといっても、過言ではなかった。
しかし、それが武者の騒乱に結びつくなどとは、常識では理解できない事態である。
六月も末になり、若御前のもとへ、中御門の宗子から文がとどいた。書状を開け、いつになく深刻な表情で、若御前はため息をつく。
「宗子さまはまた、なにを言ってこられたのでございまするか?」
弁の乳母の問いに、しばらくの間を置き、若御前が重い口を開いた。
「一院(鳥羽院)のご容態が……、いよいよでいらっしゃるそうよ。鳥羽の別邸へ移ったほうが安全だと、ありがたい小母さまのご忠告だわ」
「ま、まさかこの京の都が、せ、戦場になると言われるのではありますまいなあ……」
弁の乳母がうろたえるのも、無理はなかった。
平安京に都が移って三百五十余年、洛中に合戦のあったためしはなかった。
「合戦をたくらんでいるのは主上(後白河帝)の身辺だもの、充分にありうることよ。内裏守護の顔ぶれがいい証拠じゃない。義朝に義康ときたもんだわ。河内源氏と坂東武者が戦好きなのは八幡太郎の昔からだし、ましてあのふたりは、摂関家に近習する身内と対立して、一院に取り入ってきたわけでしょう。合戦こそが出世の道だとでも思っているんじゃないの?」
「姫さま! そんな京童の好むような下衆の話はどうでもようございます。武者どもが合戦をやりたいならば、いくらでもよそでやればよろしいのです。なにもこの都で……」
「だからねえ、あの連中にはあの連中の騒動が地元にあって、それが都の、それぞれの主人に結びついているんじゃないの。院宣だっていうんだから一院もご承知あそばしているんでしょうけど、あの連中を利用して事を決しようなんて……、たしかに下卑た発想ではあるわ。関白や美福門院の思いついたことでは、ないわね。父をさし置いて子が即位するのはおかしいだの、徳大寺家が黙ってはいないだろうだのと理屈をつけて、今様(流行歌)狂いの今上が担ぎ出されたときから妙だとは思ったけど、まさかあいつが、ここまでやるとはねえ。あやつられる関白もばかだけど……」
若御前は、うつむいて宗子の書状をもてあそび、最初は弁の乳母に語っていたものを、いつの間にかぶつぶつと、自分自身にたしかめるようにつぶやいていた。
その表情には、いつもの、高みの見物といわんばかりの笑みがない。
武者の話題は小舎人童や雑色の好むもので、若御前の情報源も、どうやらそこら辺にあるらしい。
下々の取り沙汰をまたおおげさに……、と軽く聞き流していた備前だが、後白河帝即位の事情に話がおよぶにいたって、はっと思いあたった。
「姫さま、あいつとは、あの、少納言入道のことでございますか?」
少納言入道信西。後白河帝の乳母、紀伊の局の夫であるが、後白河帝即位以来、出家の身にもかかわらず、わがもの顔で内裏をのし歩いている男だ。
もともと後白河帝は、常軌を逸した今様好きで、遊女だの傀儡だの下賤の者を御所に呼び集めては、日がな一日歌い暮らすという風変わりな皇子だった。
帝位についたのちも、めんどうな政治向きのことにはさっぱり興味を抱かず、幼い頃から身近にいた信西に、すべてを一任していた。
「そう、墨染めの衣でうろちょろしているあの男よ。たしか、義朝や義康とも親しいはずよ。義康とは、母方の血がつながっていたんじゃなかったかしら。前少納言風情になにができるかと思ってたけど……、成り上がり者の考えることは恐ろしいわ。なにがなんでも合戦に、してしまうつもりらしいわねえ」
なにがなんでも合戦に……。そうたくらむ者がいたとすれば、殺気立った武者たちは喜んで応ずるだろう。
(合戦がさけられないとすれば……、いったい師長さまはどうなるのかしら?)
そう考えて備前は、あらためて恐怖を覚える。
「鳥羽に……、お引きうつりあそばしますか?」
つとめて動揺を押さえて、備前は聞いた。
「いえ……、そこまでしなくてもいいでしょう。左大臣にしてみれば、大和の武者や興福寺の僧兵が頼りでしょうしね、宇治か、あるいは奈良が戦場になることも考えられるわ。そうなれば鳥羽のほうが物騒だし……、たとえ京が戦場になったにしても、なんの関係もない大納言の館まで、巻きぞえになるようなことはないでしょう」
若御前は、落ち着いてそう答えたものの、次の瞬間、白い歯でくちびるを噛みしめ、怒りとしか表現のしようのない視線を、宙にすえた。
七月二日、ついに鳥羽院の命の炎は燃えつきた。享年五十四歳。
ここ二か月近く、避けられないことと予想され、その瞬間にむけてだれもが神経を張りつめてきたことである。
いざそれが現実となると、極限まで張りつめた糸がふっ切れたように、人々は大きく息をつき、つかの間の静けさが都をおおった。
しかし翌三日には、再びありとあらゆる流言が、都を駆けめぐる。当主が閉じ籠もった蜂飼大納言の館にも、むろんさまざまに風聞は伝わってきた。
「それは、たしかな話なの?」
若御前は、縁の下に二、三人の男童を召しよせ、噂の収集に余念がなかった。
「たしかでございますとも。新院(崇徳院)は御簾の御前まで、参られていたのだそうですよ。まさにご臨終の間ぎわ、側近たちが、法皇さま(鳥羽院)のご意志だと強硬にはばんで、結局新院は、最後のご対面も果たされず、お引上げになるしかなかったそうで……」
「それじゃあまるで、わざと新院のお恨みに火をつけるようなものじゃない。 一院(鳥羽院)のご意志だかなんだか知らないけど、挑発以外のなにものでもないわ。いくら……」
若御前は、さすがに言葉を切り、男童のひとりが、声を低めて賢しらに言う。
「いくら叔父子でおわしても、でございましょう? お気の毒なことと、だれもが申しておりますよ。新院ご自身に、責のおわすことではありませんのにと……」
離れて聞いていた備前の脳裏に、妖しいまでに美しい、ある面影が浮かび上がった。
鳥羽院の最初の后であり、崇徳院と後白河帝……、今や敵味方に別れて戦おうとしている兄弟の、生みの母親である待賢門院璋子。
崇徳院が叔父子と呼ばれる原因は、十年前に逝ったこの母にあり、備前は、かつて白河院の愛妾だった叔母から、
「陽射しを受けて、金に輝く藤の花のような、お美しさであられましたよ」
と、若き日の待賢門院の容姿を伝え聞いていた。
「なんでも待賢門院さまの怨霊が、法皇さまのご病床に立たれたなんぞという噂もあるようですよ。お恨みの言葉を聞かれて、ますます法皇さまはかたくなになられたとやら……」
そんなことを言い出したのは、雨彦という小舎人童である。
それに類した噂は、院宮にいる知り合いの女房の文で、すでに備前も知っていた。
病のうわ言に、鳥羽院が待賢門院の名を呼んだのはどうやら事実らしく、そこらへんから怨霊の噂も、立ったものらしい。
(待賢門院の藤の花のようなご容姿を輝かせていたのは、おそらく……、沈もうとする夕日の、血の赤だったのだろう)
そんな思いが頭に浮かび、備前の背筋を、寒気が走った。
閑院流特有の、愛嬌づいた下がりぎみの目じり。
線の細い容姿にただよう、目の覚めるような華やぎと、壊れもののあやうさ。
たぐいまれな待賢門院の美貌を、備前は、容易に想像することができる。
その待賢門院が十七歳で妃に上がった当時、鳥羽院は、十五歳の少年帝だった。
妖麗な年上の妃に、少年帝は夢中になったが、そのときすでに、待賢門院は、鳥羽院の祖父、白河院の愛人だったのである。
入内の後もこの不倫の関係は続き、治天の君である祖父に、鳥羽帝は逆らうすべもなかった。
こうして生まれた第一皇子が、いまの崇徳院である。
若き帝王の屈辱を深めたのは、白河院の意志に屈して、とうていわが子とは認めがたい「叔父子」、それもわずか五歳の崇徳帝に、譲位せざるをえなかったことだろう。
鳥羽院は怨念を胸に秘し、自らが治天の君となる日を待った。
白河院の生前、鳥羽院には、待賢門院以外の妃はなかった。
いく人かその腹に皇子をつくり、後白河帝もそのひとりである。
しかし、白河院崩御とともに鳥羽院は待賢門院を遠ざけ、これと見込んだ美福門院の腹に、近衛帝をもうけた。
だからこそ鳥羽院は、強硬に近衛帝を即位させ、その皇子の誕生を待ち望んだのだ。それがかなわなかったときにも、わが子ではない崇徳院の血筋にだけは、帝位を伝えることを拒んだ。
(鳥羽院の御憎しみの強さは、待賢門院へのご愛情の深さの、裏返しだったのではないかしら? だとすれば、ご臨終の鳥羽院の御目には、真実、待賢門院の御幻が見えていらしたのだわ。地獄を見て、そして地獄を残して、院は崩御あらせられた。だけど……) そこまで考えて、備前は首をかしげた。
いくら複雑怪奇な、物語めいた因縁とはいっても、過去にも、皇室には近親の愛憎劇が数々存在したのだ。
それがいま、なぜ戦乱という未曾有の事態に結びつかざるをえないのか、備前にはどうしても解せない。
摂関家の内輪もめにしても、同じ事がいえる。
親子兄弟の足のひっぱり合い、後宮の争い、呪詛。
そこまではなんの不思議もない。それこそ、なん百年もくり返してきた摂関家のお家芸なのだから。
(どうしてそこへ、武者がしゃしゃり出てくるのかしら? 姫さまのおっしゃるように、少納言入道の暗躍があったは事実かもしれない。だけど、それだけじゃないわ。ひとりの人間の力で、引き起こせることじゃない……)
備前はふと、自分たちがみな、どこかでまがり角をまちがえ、見知らぬ、荒涼とした世界に踏み迷ったような、そんな気がした。