虫愛ずる姫君 五章

 七夕は暦の上の秋とはいえ、保元元年の七月七日はまだ立秋を迎えておらず、洗いだしたような庭の緑に、空の青がまぶしかった。
 白く陽光をきらめかせた池には、睡蓮が宝石細工のような花を咲かせ、蝉しぐれが耳に心地よい。
 蜂飼大納言の館にいるかぎり、外界の騒ぎは嘘のようだった。
「どうしてこんなことに、なってしまったのでございましょう……」
 備前はわれ知らず、深いため息とともにそうつぶやいていた。
 こんな時勢では管弦など思いもよらず、まして師長の訪れは望むべくもない。
 一昨日、武者の取締に検非違使が乗り出し、ついきのうには、左大臣に同心しているとの理由で、大和源氏の一行が捕らえられたばかりである。
 都は内裏方の武者に押さえられ、その都へ、宇治から左大臣の子息が乗り込んでくるなどとは、剣呑この上もなかった。
 しかし、経典に見入っていた若御前は、つと顔を上げ、
「備前、お客さまがいらっしゃろうといらっしゃるまいと、わが家の音楽会は開くわよ」
 御簾ごしの光に目を細めながら、こともなげに言い放つ。
「ひ、姫さま、一院(鳥羽院)が崩御あらせられ、初七日もまだでございますのに……」
「内輪の音楽会ですもの、気にすることはないわ」
「そ、そうは仰せられましても、こんな折りによくもまあ、そんな……」
「気をもんで、どうなるというものでもないでしょう。武者が戦をするために生れて来たのなら、われわれは本来、こういうことをするために生まれて来たのではありませんか」
 若御前の押さえた口調に、押さえきれない憤りを感じ取り、備前はあっけにとられて、つり上げられた若御前の片眉に、見入った。
(なるほど、たしかに姫さまは、筝の琴を弾くためにこそ生まれていらしたのだろうけど、それが貴族の血の証しとは……?)
 はっと、備前はさとった。
 繭の中で夢を紡いでいた若御前でさえ、その蚕室の土台が大きくゆり動かされているとなれば、外界との距離を保つことはできないのだ。
 結局これは、若御前なりに、骨の髄まで貴族の中の貴族であることを、自覚したあげくの言葉だろう。
 戦乱、つまりは人殺しという野蛮に、社会が犯されようという中にあって、今まで貴族の則(のり)を無視してきた若御前が、非常識な管弦の宴に、その誇りを守ろうとしている。
「それならば姫さま、せっかくの七夕の宴、身なりもお整えあそばして……」
 墓穴を掘った形の若御前に、化粧を強い、衣裳も着せ変えた。
 そうすることが備前には、万が一の師長の訪れを切望せずにはいられない自分への、せめてものなぐさめだった。

 その夜は、いかにも七夕にふさわしい夜だった。
 空には一片の雲もなく、まだ宵のうち、上弦の月は西にかたむき、群青の陶器のような東の空高く、織姫が白銀の光芒をはなつ。
 銀糸をまじえた一条の紗のように、天の川はほの白く南北に横たわり、やがて彦星も、燦然と姿をあらわした。
 夜がふけ、空がつややかな漆の黒に変わると、星々の輝きはこぼれ落ちそうに華やぎ、彦星織女の年に一度の逢瀬を祝ぐかに見えた。
 席は、西の対の廂の間にしつらえられ、御簾は巻き上げてあった。外に満天の星空、内に七夕の屏風の銀砂の天の川が、灯火にゆらめく。
 若御前は、あいかわらず紅をきらい、袴は濃い紫をつけている。
 薄紫の顕文紗の小袿に純白の単の花菱を透かし、洗ったばかりの髪は、まだ濡れてでもいるかのようにしっとりとつやをおびている。
 ぬけるような肌に、くちびるの紅がなまめいて光り、唯一そえられたその赤が、白と紫と漆黒の織りなす気品に、甘やかな風情をそえていた。
「今宵はまず、一院へのご供養に、お父さまの笛をお聞かせ下さいな」
 脇息にもたれ、いつになく物静かに、若御前は言う。
「ほんにのう。ひざにお抱き申して笛をお教えしたのも、つい昨日のことのように思えるがの。老いぼれたわしより先に逝かれるとはのう……」
 宗輔は、目をしょぼつかせながらもいそいそと、錦の袋から笛を取り出す。
 宗輔はかつて、幼い鳥羽院の笛の師を務めた。この動乱の種さえまかれていなかった過去の思い出に、一瞬、一座はしんとなる。
 宗輔の笛は、その手つきも息も、とても八十の老人とは思えない確かさだ。
 高く低く、流れるような『賀王恩』の調べが、星合いの空を彩った。
 次いで、すすめられた備前が筝の琴を手にし、俊通が笛を受け持つ。若御前の琴には宗輔の笛が和し、熱の入った合奏が数曲続いた。
(いくらなんでも、やはり……、師長さまが来られることを望むのは、無理なんだわ)
 思いあきらめて、備前がため息をつきかかった、ちょうどそのときである。
「殿さま、いやはや、なんとおどろいたことでございましょう! 中納言中将さまが……」
 息を切らせて、弁の乳母が駆け込んできた。
 その名を聞いたとたん、備前の心臓は早鐘を打ち、耐えきれず、彼女は瞳を閉じた。
「いらしたのか? それはよかった。早うお通し申せ」
 宗輔は満面に笑みをたたえ、いく度もうなずく。
「もちろん、ご案内させておりますとも。それにいたしましてもまあ、あきれた……」
 弁の乳母はおどろきの冷めやらぬ顔でつぶやき、それでもせっせと先頭にたって、若御前の前に几帳を立て、師長の席を作った。
「ごぶさたいたしました。ご迷惑かと思ったのですが……」
 あらわれた師長は、狩衣姿だった。少し黄味の噛んだ藍色の狩衣が、純白の下着を透かし、凝った意匠の波模様だけが、刺繍のように濃く浮き立って見える。
 その地味な色合いが、やつれの目立つ浅黒い肌を、すっきりと引き立てていた。
「なんの、どうして迷惑なことがありましょうぞ。なあ、姫や」
 宗輔が、几帳のかげの若御前にあいづちを求める。
「必ずいらっしゃることと、お待ち申し上げておりました」
 若御前の澄んだ声が、歯切れよくひびいた。
 師長のほおがあるかなきかに紅潮し、その視線は、几帳の生絹のわずかなすき間からのぞく、若御前の衣裳の薄紫から離れなかった。
「よくまあ、ご無事で! 街道筋は武者が押さえていると聞きおよびましたのに……」
 備前の声は、思いあまってふるえている。
「女車で醍醐路をまわって来たんだ。わたしは……、武者ではないからね」
 武者ではないから、まだ今のところ身に危険はおよばない……。おそらく、師長はそう言いたかったのだろうが、備前はその言葉に、もうひとつの意味をくみ取っていた。
(まったく、姫さまと師長さまは、双子の兄妹のように、考えることが似ておいでだわ)
 備前は思わず、小声でつぶやいていた。
「武者が戦うために生まれて来たのなら、中将さまは、琵琶を弾くためにこそ、お生まれあそばしたのでございますものね」
「ほう、備前、それはなかなかの名言だな。うん、その通りだよ」
 師長は瞳を踊らせて、大きくうなずく。
「わたくしではございませんわ。姫さまが、おっしゃられたのです」
 若御前の口もとに、笑みがのぼった。
「そう、わたくしどもは武者ではないのですから、本来、合戦などにはなんのかかわりもないはず。中将さまには、ご賛同いただけるものと思っておりました。今宵はすべて忘れて、おつきあい下さい」
「もちろんですとも。そのつもりでなければ師長、ご迷惑もかえりみず出向いては参りません。あなたは……、思っていたとうりの方だ」
 師長の瞳は熱っぽく輝き、若御前以外の人物がこの場にいることを失念したかのように、几帳に語りかけていた。几帳の奥で、若御前はにっこりと笑い、備前は、その大輪の花のような笑顔を、師長に見せられないことが残念でたまらなかった。
「お世辞を申されても、例の曲はでませんわよ。これから『王昭君』をと、思っていたところですの。琵琶をお合わせ願えますか?」
「喜んで! 笛は、大納言どのが合わせて下さるのでしょうね?」
「ほほう、わしの夢がかなったの。姫の琴に、中将どのの琵琶。これにまさる組み合わせは、聖代の昔にもないぞよ。笛は遠慮しようかのう……」
「お父さま、お心にもないことを。お誉め申さねば、吹いていただけませんの?」
 宗輔は声高らかに笑い、子供のようにはしゃいで、笛を手にする。
 結局のところ、なにもかも忘れて、という言葉に、一番忠実なのは宗輔だった。
 つられて笑いながら紫檀の琵琶を抱える師長にも、微笑をうつむけて金蒔絵の筝の琴にむかう若御前にも、どこかで外界を気にかけながら、強いて忘れ去ろうとする肩の張りがある。
 年の功とでもいうのだろうか、宗輔の浮き世離れは徹底していて、この後におよんでも、まったくの自然体で演奏を楽しんでいた。
 演奏が終わり、若御前は会心の笑みを浮かべる。
 申し合わせたように、几帳の外で師長も、同じ思いを表情にあらわしている。
 お互いがお互いの技量に敬服し、ひびき合わせることに覚えた快感を、ふたりは分け合っていた。
 夜もふけて、充分に合奏を堪能しつくしたのちに、宗輔が、おもむろに言い出した。
「どうじゃの、中将どの、今宵は秘曲づくしといきませんかの。ぜひともわが家の姫に、『琢木』をお聞かせ願いたいものですじゃ」
「そういうことでしたら、まず大納言どのの『獅子』をお聞かせ下さい」
 師長の言葉に、備前は目を見張った。
(大納言さまはまさか……、奥の秘曲を披露してもいいとお考えなのかしら?)
 琵琶の『琢木』、笛の『獅子』は、秘曲中の秘曲であり、めったに演奏されるものではない。
 そして、それに匹敵する筝の秘曲といえば、蜂飼大納言家門外不出の、奥の秘曲以外にないのだ。
 宗輔の『獅子』を、微笑みながら聞いていた若御前が、師長の『琢木』で、表情を引きしめた。
 その技量の絶妙なことはいうまでもなく、その一弾一弾に、師長は、これで琵琶を弾くのも最後といわんばかりの、執着を見せていた。
 明日の身が知れないその不安が、見事に昇華し、聞く者の胸をゆさぶる。
 しかもそれは、おそらく……、だれよりも若御前に聞かさんがための、演奏だったのである。
 聞き終わって若御前は、賞賛の言葉をのべる変わりに、父に問うた。
「お父さま、あれを弾いてもようございますか? 『琢木』のお礼に……」
「しかたないのう、姫や。『獅子』、『琢木』とくれば、あれしかなかろうなあ」
 あれとはむろん、筝の琴の奥の秘曲である。秘曲づくしと言い出したときから、宗輔はこのことを覚悟していたらしいが、それでも、声には未練がにじんでいた。
「中将さま、譜面はまだお教えできませんわ。なにしろ、老い先短いお父さまの唯一のお楽しみですから。ですけど……、中将さまにお教えする前には、どこのだれにも伝授しないと、わたくし、それだけはお約束いたします。いいでしょう、備前?」
 若御前はからかうような笑みを浮かべ、備前をふりかえる。備前は、喉もとまで赤く染めてうなずいた。
 と同時に、備前はふと、心臓に氷を押しつけられたような悪寒を覚えた。
(奥の秘曲を聞けるのは、それはうれしいけれど……、これではまるで、死病に取りつかれた人の、最後の望みをかなえてあげるようなもの、ではないかしら?)
 宗輔も若御前も、他人には聞かせることさえ憚ってきた秘曲を、今宵、師長ゆえに……、師長が望まず置かれた、その切羽つまった立場ゆえに、披露する決心をつけたことは明白だった。
 師長の明日を思うと、備前の胸は、重い鉛のような不安に締め上げられる。
 調弦をはじめたときから、若御前は眉間にしわをよせ、神経をはりつめていた。
 そして、まさにその爪音に、自分の存在のあかしを立てるように、若御前は弾いた。
 その場にいた者のすべてが、十三絃のつくり出す強力な磁場にとらえられ、そのときたしかに、とどめるすべもなく消えていく優雅の本質が、手に触れるほど間近にあるのを、感じた。
 最後の絃のふるえが、長い余韻を引いて消え去り、そして後に残ったのは、涙のにじむような寂寞だった。

 その夜、師長は、主寝殿の廂の間に泊まった。
 備前は、西の対の若御前のそばにそのまま残り、寝苦しい夜をすごしていた。
 身体はぐったりと休息を求めているのだが、あまりにも様々な思いが頭の中にうずまき、神経がむき出しに外気にさらされてでもいるかのように、けば立っている。
 空気は熱く、層をなして四肢を押さえつけ、遣り水の音が、いやに高く耳につく。
 師長のもとを訪れたかったが、そうすることがなぜか、これが最後という不吉な事態を招くように思われて、備前は決心がつかないまま、転々と寝返りをうっていた。
 そのときである。若御前が、これだけは人手にまかせず熱心に調合する薫衣香の、ひときわ甘やかな香りが鼻孔をくすぐり、衣ずれの音がひびいた。横たわったまま、備前は目を開けて、御簾をくぐって出ていく若御前の夜目にも白い後ろ姿を、見た。

 師長は、寝つかれぬまま、簀子縁に腰をすえて、前栽の植え込みに、ぼんやりと視線をただよわせていた。白い帳のすき間に、もどかしくゆれていた若御前の、豊かなの髪のつやめき。瞳に焼きついたその幻が、前栽の萩のやわらかな褥のかげに、重る。
 麝香の量が多いのだろうか? ほかにない、珍しいおもむきのそった薫衣香。
 あの清暑堂の日と同じ、若御前独特の薫りが、鼻先によみがえる。
 そして、なんのてらいも媚びもなく、はっきりとものを言うあの声。
 不思議と師長の耳には、自分に語りかける若御前の声よりも、「お父さま」と宗輔を呼ぶそのときの、一段とのびやかな声のひびきが、こびりついていた。
「あなた、お心にもないことを。お誉め申さねば弾いていただけませんの?」
 自分が宗輔の年になったとき、かたわらに白髪の若御前がいて、そんなふうに言ってくれたなら……。
 その想像は、妙に生々しく、それでいて手の届かない甘美な幻のように、師長を捕らえた。
(ほんの一年前、いや半年前でさえ、実現可能な夢と思うことができたのに……)
 師長は、大きくため息をついた。
 清暑堂の御神楽の日、一族籠居の最中とはいえ、まだ師長は、事態を楽観していた。
 籠居というのは、いつか解けるものである。
 かつて、師長の祖父、前関白忠実は、白河院の勅勘をこうむり、十年の長きにわたって宇治に籠居したが、白河院崩御とともに政界に復帰した。
 鳥羽院の怒りを買った父左大臣頼長も、鳥羽院崩御を待てば復帰の目もあると、師長は読んでいた。
 治天の君である鳥羽院亡きのち、関白忠通と美福門院は、一日も早く東宮守仁に実権が移ることを望むだろうし、後白河帝に娘を入れた閑院流の一族は、その腹の皇子誕生を期待して、東宮即位を引きのばしにかかるだろう。
 閑院流徳大寺家との前々からのつき合いを考慮に入れれば、そのとき、後白河帝の側は、左大臣の力を必要とするはずである。
(それが……、どうしてこんなことになっってしまったのだろう?)
 三年続きの不作にお代替りとくれば、地方武者の上京は、さして珍しいことではない。
 それを左大臣の陰謀とこじつけ、さらには、徳大寺家の堂に放火したあげく、それも左大臣の仕業と罪をかぶせて、徳大寺家との間に決定的な楔を打ち込んだ者がいるのだ。
(放火は、関白の得意とするところ。しかし、武者を前面に押し出すなぞ、もっと下賤の知恵が働いたとしか思えない。少納言入道信西か……。あの男が、ここまでやるとはなあ)
 かつては、よく父左大臣のもとに足を運んでいた信西の、濃い眉の下の陰気な眼光を思い浮かべ、師長は暗澹たる気分になった。
(下積みの鬱屈をため込んだあの男が、最初から、すべてを牛耳ろうともくろんでいたわけだ。それならたしかに、父上の復帰は邪魔だろうな)
 兄の関白とちがって、左大臣は飾りものでおさまっていられる執政ではないのだ。
 おまけに家の分限にも厳しく、家格の低い信西の出る幕はなくなってしまう。
 しかもその信西が、関白と手を結んでいたわけで、考えれば考えるほど、師長の絶望は深まった。
 重苦しい現実をふり払うように、師長は、もう一度、若御前の面影を呼びおこす。
 そして師長は、胸の疼きをかき立てるような、あの若御前の薫衣香を、まざまざと鼻孔に感じた。
 錯覚というにはあまりになまなましく、ふと顔を上げて、師長はその人を見た。
 数歩先に浮きあがる、白い立ち姿。
 黒髪は闇にとけ込み、目鼻立ちも定かでない暗がりの中で、すそを引いた単が、すんなりと優美に流れている。
 一瞬、思いつめたあまりの幻覚かと疑った師長だが、次の瞬間、すくっと立ち上がり、歩みよった。
 薫衣香が胸を満たし、思っていたよりもその人が小柄なことを、師長は知った。
 忘れもしない黒い瞳が、わずかな明かりにきらめき、ためらいもなくまっすぐに自分を見上げている。
 思わずその肩を抱き、師長は、なめらかな絹の手触りの下の、生身の肉体の手応えを、腕に感じた。
「同情ですか?」
 そうささやいた師長の声は、うわずっていた。
 若御前は、大きく目を見開き、
「同情? いいえ、ちがいますわ」
 低く、しかしはっきりと、答えた。
 若御前のたおやかな肩を、なおいっそうの力を込めて抱きしめ、その黒髪に顔を埋めて、師長は言う。
「いくら文を書いても、返事を下さらなかったあなたが……」
「漢文の文でしたらよろしかったのに。わたくし、和文は面倒で好みません」
 なんとも風変わりな若御前の言い種に、師長は、込みあげる笑いを押さえきれなかった。
 それでいて、その変人ぶりが可憐にさえ思え、なお一層のいとおしさがわいてくる。
「それでは、今日の演奏に対するご褒美ですか?」
「いいえ。わたくし……、知りたいのです。まだ知らないことがこの世にあるのは、なんとも気がかりなものです。教えてくださるでしょう?」
 ついに師長は、声に出して笑った。
 こんな奇妙な求愛は、生まれて初めて受ける。
「可愛い方だ……」
 若御前の身体を軽々と抱き上げ、御簾の奥に運んだ。
 若御前は、ものなれた女房たちのように積極的に身体を開くというのではなく、かといって深窓の姫君のように恐れて身を引くというのでもなく、泰然と横たわり、師長を凝視している。
 無垢な童女と、好奇心でいっぱいの少年が同居したような、その大きく見開かれた瞳に、ふつうの男ならばたじたじと、興をそがれたことだろう。
 しかし師長は、ふつうの男ではなかった。しっかりと若御前の視線を受けとめ、笑みさえ浮かべて、袴のひもに手をのばした。
 若御前は、安らいでいた。
 熱く燃える師長の肌を直に感じたときにも、不自然な思いは抱かなかった。
 幼い頃、父の宗輔の膝に抱かれ、頬をすりよせるようにして筝の琴を教えられた、そのときの温もりを、思い浮かべさえした。
 さすがに、男のしなやかな指が腿を割ろうとした瞬間、違和感を覚え、若御前は無意識に、身体をこわばらせた。
「心配しないで……。わたしは、そう悪い教師ではないはずですよ」
 情欲にせかされたふうは微塵もなく、年に似合わない落ち着きを持って、師長が耳もとにささやく。
 若御前は、素直に身体の力をぬいた。
 骨細の、華奢な若御前の肉体は、琵琶の絃のように鋭敏な反応を見せ、正直に悦びを表現する。名器をあつかうときのように細心の注意を払いながら、師長はしだいに我を忘れ、心のままに秘曲を演じているその最中のような、陶酔を味わった。
 ことが果てたあとの充足しきった気だるさに、若御前は瞳を閉じて、しばらく身をゆだねていた。
 目を開くと、師長の切れ長の瞳が、じっと自分をのぞき込んでいる。
「わたしたちの子供は、管弦の名手でしょうね」
 師長は生まじめにそう言い、若御前もまた、真顔で答える。
「もちろんです」
「こうしてあなたを抱いて、春秋を重ねて……、あなたのお父上の年になったとき、あなたによく似た孫娘を膝に抱いて、子供たちの合奏を聞きながら、あなたとともにこの日の思い出を語れたら……。そう、そんなふうな未来だったら、どんなにいいだろう」
 師長の口調には、くどき文句をならべるときのはずみはなく、実現不可能な夢を語る人の、焼けるような願望と、寂しさがにじんでいた。
 若御前は、夫婦として年老いた自分たちを、抵抗なく想像できた。
(きっとこの人とならば、わたしはこのままで、ぬくぬくといられるわ。だけど……)
 師長ならば、父と同じように、あるがままの自分を受け入れ、愛でてくれるだろう。
 この館に師長を迎え入れ、時をすごし……、師長は宗輔よりも恰幅のいい、そしてもっと世なれた……、それでいてどこか宗輔と共通の雰囲気を持った老人になるだろう。
 そのそばによりそう自分を思い描くのは、決していやではない。いやではないのだが、しかし……。
(だけど、そうはならない。なぜかしらないけれど……、そういう世の中なのよ)
 自分たちの世代に、宗輔と同じ人生が許されないことが、若御前にはわかっていた。
 師長もまた、それを知っている。
 若御前は、黙って、ただじっと師長を見つめていた。
 たがいの輪郭の鮮明に浮かぶことが、空の明るみを知らせる。
 耳をおおう小鳥のさえずりに、若御前は身を起こした。
 羽織ろうとした単の袖を師長が押さえ、かわりに、繁菱の自分の単を着せかける。
 若御前は、ふりかえりざまにかすかな微笑を残し、立ち去った。
 備前は、まんじりともせず、暁を迎えていた。
 待ちわびて、様子をうかがいに出向こうかと、大きくため息をついたそのとき、若御前の白い単姿が、視野に入った。
 やがて備前は、ふんわりと、若御前の身にまとわりついた師長の侍従香を、嗅いだ。

 七月八日、蜂飼大納言の館は、昼すぎまでひっそりとしていた。
 師長は早朝に宇治へ帰り、俊通は鳥羽院の初七日に、鳥羽離宮へ出向いていた。
 若御前は、午後も遅くにやっと起き出し、ひさしの間で漢籍をめくっている。
 熱心に読んでいるというのではなく、目は文字を追いながら、頭の中は、ぼとんどなにも考えてはいなかった。
 じっとしていても汗ばむような晩夏の熱気も、陽が西にかたむき、少しはやわらごうかというころ、簀子縁に高らかな足音をひびかせて、胡蝶が駆け込んできた。
「姫さま! 大変です。大変なことが……」
「騒がしいこと……。頭にひびくわよ、胡蝶」
 若御前は、眉間にしわをよせ、物憂げに身を起こす。
「で、ですが姫さま、東三条殿に武者が押し入ったと、みなが騒いで……」
 胡蝶はせき込むように言い、若御前の片眉がつり上がった。
「なんですって! 東三条殿に? すぐに雨彦を呼びなさい」
 若御前の表情は引きしまり、しゃんと背筋が伸びた。
「雨彦は若さまのお供で鳥羽に……」
「だったらだれでもいいわ。早く……」
 胡蝶は素早く命令に従い、縁の下に、数人の男童や雑色が呼び集められた。
「押し入ったのは、源氏の義朝ですよ。朝廷の命で、朱器台盤の没収ということになったとやら。そのまま坂東武者は、わがもの顔に東三条殿を占拠しておりますので……」
「いやはや、武者たちの得意げなことと申しましたら! 数十騎でございましたが……」
 雑色の言葉を、若御前はいら立たしげにさえぎる。
「そんなことはどうでもよろしい。義朝が動いたというなら、たしかにそれは朝廷の命でしょうけど……、朱器台盤を押さえたとはどういうことなの? 氏の長者の地位を、朝廷の手で取り上げようというの?」
 若御前の声は、苦々しかった。
 東三条殿は摂関家の公邸であり、そこに収められた朱器台盤は、藤原氏の氏の長者の象徴である。
 関白の位や内覧の宣旨は朝廷の手で与えられるものであるが、氏の長者は摂関家内部の問題であり、本来、朝廷の関与すべきことではない。
 数年前、前関白忠実の手で、関白から左大臣に渡されて依頼、内覧を止められようが籠居しようが、左大臣が氏の長者であることに変化はないのだ。
 関白が自らの手で取り戻そうというのならば、それはそれで理にかなったことだ。しかし、朝廷の命でそれが行われるとなると、摂関家の威信は根底からゆさぶられる。
 蜂飼大納言家は、御堂関白道長の次男、右大臣頼宗にはじまる摂関家の傍流である。
 藤原北家の一員として、摂政関白を氏の長者と仰ぎ、同時に所有の荘園のいくつかは、摂関家を本所としている。
 摂関家の浮沈は、そういう意味からも、若御前にとって人事ではないのである。
「さようでございましょうなあ。なんでも東三条殿では、悪左府(左大臣頼長)の命令で、平等院の僧が主上(後白河帝)を呪い参らせていたそうでございますよ。これで悪左府の流罪はまちがいないと……」
「ああ、先帝(近衛帝)の次は今上(後白河帝)ですか。呪詛、呪詛と、あらぬ噂で人をおとし入れるのは関白のお得意だけど、ばかもいいとこだわ! 信西に乗せられているのが、わからないのかしら」
 若御前は美貌をゆがめ、歯ぎしりせんばかりだった。
「さ、左大臣が流罪! 姫さま、師長さまはいったいどうなるのでございましょう?」
 息をつめて聞いていた備前は、思わず、悲鳴に近い声で叫んだ。 「流罪ねえ……。流罪ですめばいいけど、あの左大臣が、こんな屈辱に黙って耐えていらっしゃれるわけがないでしょう。それを見越しての挑発よ、これは……」
 若御前が口をつぐむや否や、男童たちが、口々にわめき立てた。
「もちろん合戦ですとも! ひと戦なしには終わらぬとみな申しておりますので……」
「将軍塚が夜ごとにゆれておりますそうな。老人どもの申すことには、あれがゆれましたときには、都に合戦は避けられぬと昔からの言い伝えで……」
「源氏も平家も内輪もめをかかえておりますしなあ。だれがどちらに味方するか、これは見ものでございましょうて! 派手なことになりましょうぞ……」
 男童も雑色も、心配そうな口調とは裏腹に、むしろ一世一代の見ものと合戦を待ち望む、その興奮に目の色をかえている。
 若御前は、それをひとわたり見わたして肩をすくめ、もういいというように手をふってみせた。
 そこへ、新たに雑色が数人、たて長の、大きな荷物を運び込んでくる。ざわざわと道があき、それは若御前の前へすえた。
「なんです? これは……」
 若御前は、いぶかしげに眉をひそめ、備前も身を乗り出す。
「はあ、お目にかけてくれればわかるからと、使いの者が申しますので……」
「使いの者って、どこの?」
 聞きながら、若御前は包みを解きにかかっている。
 白麻の下に縹色の金襴があらわれ、それが筝の琴であることは容易に知れた。
「どこの者とも名乗りたがらないのですが、どうやら中納言中将さまの……」
「姫さま! そ、それは……」
 青地金襴の袋から、螺鈿蒔絵の淡いきらめきがこぼれ出た。
 金銀の細い線が描く流水、虹をにじませる螺鈿の橋桁。
たそがれ時の青い光の中で、漆の地はしっとり沈み、ほどこされた精巧な細工が、ほのかな輝きを見せる。
「も、もしかいたしまして、『橋姫』ではございませんか?」
 摂関家に伝わるという、筝の琴の名器『橋姫』。それを目前に見て、備前の声はかすれていた。
 贈り主が師長であることは、まちがいない。
 若御前は黙ったまま、絃に結びつけられた薄紫の文に手をのばした。
 文をあけ、ひと目見て、大きく息をつく。
 視線を宙にすえ、静かに口を開いた。
「使いの者は待っていますか?」
「はい。お返事があればということで……」
「そう。すぐに書くわ。備前、墨を……」
 立ち上がって、廂の間に入る若御前を、備前は追った。
 墨をすり終わって、初めて備前は、文机の上に投げ出された師長の文面を見た。
 相去復幾許。今度お会いするときまで、『橋姫』をお預かりください……。
 相去ルコト復タ幾許ゾ。
 『文選』の中の七夕の古詩の一節である。
 ふたりの間はどのくらいへだてられているのだろうか……と、織姫と彦星が銀河の両岸にあって会うに会えないことを嘆く詩句だ。
 和歌もよくする師長だけに、あえて漢詩の一行に思いをたくしたことは、若御前の趣味にあわせてと察せられ、備前は、泣いていいのか笑っていいのか、わからなかった。
 不得語。 語ルヲ得ズ。
 同じ詩の最後の一言を、若御前は返事とした。
 あいかわらずの陸奥紙に、味もそっけもない楷書である。
 しかし、今度ばかりは備前も、とがめなかった。
 相去ること復た幾許ぞ、盈盈たる一水の間、脈脈として語るを得ず……。
 いま、ふたりをへだてているのは、宇治と都との距離ではなく、昨日と今日との断絶である。
 涙にかすんだ備前の目に、黒々と書かれた「不得語」の一言が、ぼっとにじんだ。

 翌九日、崇徳院はひそかに鳥羽離宮をぬけ出し、白河の御所に移った。
 十日、左大臣頼長も宇治を出て、崇徳院に合流する。
 夜半に入り、白河御所には、武者たちが集められた。
 崇徳院、左大臣方の主力は、源為義である。
 河内源氏代々の習いで、摂関家に義理立てしたものだ。
 長男の義朝とは日ごろから仲が悪く、義朝が勢力を得ていたため、相伝の郎等、坂東武者はほとんどそちらについている。
 義朝をのぞく子息を引きつれてはいたが、いかにも勢少なだった。
 後白河帝と女御忻子のいる内裏高松殿にも、兵は集まっていた。
 最初から旗色を鮮明にしていた源義朝、義康はもちろんのこと、平家の主流、安芸守清盛も、美福門院の要請を受け、大軍を率いて駆けつけた。
 二日前、あらわに怒りを見せた若御前は、あきらめたのか、見事に日ごろの冷静さを取りもどしている。
「しかけた側が優勢なのは、あたりまえのことじゃない」
 軽く肩をすくめ、人事のように感想をのべる。
 武力では優勢な内裏に、しかし公卿たちの集まりは、予想外に悪かった。
 関白忠通の一家と、女御忻子の身内である徳大寺家。
 それ以外はみな、あるいは鳥羽の東宮のもとにつどい、あるいは自宅に引きこもって、合戦にまきこまれることを避けた。
「結局、信西に乗せられて積極的に動いたばかは、関白と徳大寺家だけだったってわけよ。ほかにだれが、合戦なんか望むもんですか」
 さすがに、それを言うとき、若御前の声はとがった。
 宗輔も俊通も、むろん館に閉じこもったきりだ。
 俊通は西の対にきて、若御前の碁の相手を務めている。
 男童や雑色が、ひっきりなしに出入りして、実際に見てきたことや噂話を、告げていく。
 それを聞きながら、悠然と、
「兄さま、早くなさって。打ちまちがえたところで、これは合戦じゃないんだから、命にかかわる心配はなくてよ」
 などと、笑みさえ浮かべて言いい、あくまでも悠然と碁を打っている若御前のまねは、備前にはできなかった。
 ぱらぱらと歌集をめくり、まったく頭に入らないことを知って、ついに、内裏にいる知り合いの女房のもとへ、問い合わせの使いを出した。
 女房の返事は、渦中にいる者の恐怖に取り乱れていたが、戦いなれた坂東武者の血気にはやる様、関白や徳大寺の内大臣の茫然自失の態、しゃしゃり出て事を取り仕切る信西入道の冷静さ、など、見たかぎりのことを、かなり適確に知らせてくれた。
 しかし、なによりも備前が知りたかったのは、師長の動静である。
 内裏側は、白河御所に立て籠もった顔ぶれを正確に掌握しており、女房は、その中に師長がいないことを、断言してきていた。
(よかった! 祖父君のもとに、残られたのだわ)
 備前は胸をなでおろし、いくぶん落ち着きを取り戻した。
 左大臣は、子息を宇治の前関白忠実のもとに残し、単身で白河御所に出てきたものらしく、今のところ、師長が戦にまきこまれる可能性は少なかった。
 いつの間にか東の空が白み、庭の梢には小鳥の声が高まっている。
 徹夜の騒動に、若御前は軽くあくびをもらし、備前も重たくなったまぶたをこすりはじめたそのとき、
「姫さま、来ました! ついに来ましたよ! すごい大軍です! いやあ、美々しいこと、美々しいこと。大炊御門大路を来るのが義朝の軍勢、ありゃあ八龍の鎧だと……」
 男童のひとりがほおを紅潮させ、小躍りせんばかりに駆け込んで来た。
 内裏方の武者が、西洞院大路を北上し、三手に別れて、白河御所に押しよせているというのである。
 その馬蹄の地ひびき、どよめきは、小路大路をこえ、蜂飼大納言の館にも伝わってきた。
 中御門京極から賀茂川をへだてて、白河御所は目と鼻の先である。
 武者たちの鬨の声は館の奥深くまで届くほどで、下人たちはわれ先に賀茂の河原に駆け出し、見物におおわらわだった。
 中には、船を漕ぎだし、観戦するものさえある。
 興奮してしゃべり散らす男童の報告は詳細で、備前も若御前も、その場にいるように、状況を把握できた。
 手勢の少なさにもかかわらず、院方の武者は奮戦した。
 わけても為義の八男、鎮西八郎為朝の活躍は内裏方に苦戦を強い、京童の喝采を浴びた。
 すっかり明けきった東の空、輝きはじめた太陽を焦がさんばかりに白煙が上がる。
 数時間に渡る戦いの末、白河御所に火がかけられ、勝敗は決した。
 崇徳院、左大臣はじめ、御所に立て籠もっていた人々は行方知れずとなり、味方した武者たちは、ある者は討ち死にし、ある者は落ちのびていった。
 歓声を上げ、高みの見物を楽しんでいた京童たちも、さすがに、焼け跡の凄惨な様には息をのむ。
 くすぶり続ける木材の焦げ臭い匂いが鼻をつき、そこここに転がる死体も、はや色を変じている。
 戦い終わって、あらためて人々は茫然と、たがいの顔を見合っていた。
 今さら眠る気にもなれず、備前はぼんやりと、池の睡蓮に視線を落としていた。
 白昼の太陽が、水も緑もすべてを輝かせ、なにもかもが夢であるような、非現実感におそわれる。
 蝉しぐれの、全身をからめ取られるような洪水の中に、備前は、遠く、若御前の弾く『橋姫』の音を聞いた。

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