虫愛ずる姫君 六章

 保元元年八月二十七日。
 残暑はきびしく、つくつくぼうしの名残の歌が、耳に寂しい。
 蜂飼大納言の館は静まりかえり、備前はひとり、青鈍の直衣の仕立てに没頭していた。
 師長が土佐に流され、一月が立とうととしている。
 左大臣頼長は、戦場で矢傷を負い、近習の者に助けられ、奈良へ落ちのびた。
 奈良には、前々からの申し合わせで、父の前関白忠実、師長はじめ子息たちが、先に逃げて来ていた。
 左大臣はひと目家族に会うことを望んだが、事ここにいたり、忠実は孫たちの身を思って、承認しなかった。
 昼夜にわたる脳乱の末、左大臣は息をひき取ったのである。
 もっとも、これが都に知れわたったのは、数日後のことだった。
 ただちに朝廷から官使が派遣され、墓をあばいて死亡を確認した。
 風聞が伝えられたとき、備前は、聞き苦しさに耳をおおった。
 ほんの一年あまり前まで、堂々と政を執っていた人の、あまりに悲惨な末路である。
 朝覲行幸に際して笙の笛を吹いていた姿や、鳥羽院五十の御賀の折り、一家を引きつれ楽屋にむかっていた得意げな姿。
 近衛帝の御代の、華やかなひとこまにあったその人が、矢にほおを射ぬかれ、家族の顔を見ることも許されず、もだえ死んだというのである。
 遠く他人が聞いてさえ痛ましいのに、まして師長は、目と鼻の先で父を死なせ、しかも非業に死んだその父の、墓があばかれたことまで知らねばならなかったのだ。
(おまけに師長さまご自身は、囚人同然の監視を受けていらしゃるなんて……)
 備前は、煮えくりかえるような胸の痛みに、言葉もなかった。
 乱の処理は苛酷だった。
 仁和寺に逃げ込んでいた崇徳院は、讃岐へ御配流。
 味方していた公卿、下級貴族も、それぞれに尋問、拷問を受け、流罪が決定した。
 酸鼻を極めたのは、武者の処置である。
 平安京はじまって三百余年、絶えてなかった死刑が復活し、武者たちは身内の手で、首を打たれた。
 平清盛は叔父、甥を、源義朝は父の為義と弟たちを処分したわけだが、為義の息子たちは、乱に関係のない幼児までが惨殺をまぬがれなかった。
「はん、信西の浅知恵よ。おおっぴらに死刑を復活させたのでは問題があるから、一応、武者の家の内部の制裁という、体裁をつくろったつもりなんでしょうよ。ばかじゃないかしら。義朝は父親や弟たちの助命を嘆願してたんだし、死刑を認めないという朝廷の伝統を、信西が破ったことははっきりしてるわ。恨みを大きくするだけのことなのに」
 若御前は、つき放したように、冷たく分析してのけた。
 崇徳院御配流の沙汰が下されたときに、備前は、師長にも類がおよぶことを覚悟した。
 覚悟しながらも、師長は直接乱に関係したわけではなく、そこにわずかな望みをつながずにはいられなかった。
 しかし、それに対しても若御前は、冷静に言ってのけたものである。
「関白にとって邪魔だったのは、左大臣ご自身よりも、むしろ師長さまはじめ、立派に成人された左大臣のお子たちよ。関白がこんな大事にいたるほど権力に執着したのも、もとはといえば、自分の子に関白職を伝えんがため。いくら左大臣が謀反人の汚名のもとに亡くなられたといっても、お子たちを放っておけば、巻き返しの可能性もありうるじゃない。師長さまが無事ですむわけが、ないわ」
 若御前の言葉に反論の余地はなかったのだが、どうしてこうも平然としていられるのかと、備前には、それがもどかしかった。
 ついに師長の遠流が現実となったとき、
「おやさしそうに見えて、関白殿下はなんと腹黒いお方でございましょう!」
 涙も枯れ果ててそういきどおる備前に、若御前は笑みさえ浮かべ、
「腹黒いというより、ばかだわ。人をおとしいれる小細工はお上手だけど、政事のなんたるかもご存じない。左大臣の所領を朝廷に没収され、今さらのようにあわてふためいているそうじゃないの。摂関家の権威もなにもあったものじゃない。信西の思うつぼよ。だけど備前、だからこそ、ご赦免の目もないではないわよ」
 意外なことを言い出した。最初は、よくもこんな折りに政治談義を……と、ろくろく聞いてもいなかった備前だが、
「ご赦免、でございますか……?」
 はるかに遠く、光明を見いだした思いで、問い返した。
「そう。もともと美福門院と関白は、今上(後白河帝)を、東宮が即位するまでの橋渡しくらいにしか考えていなかったはずよ。ところが今度のことで信西は、今上に箔をつけたわ。信西にしてみれば、今上あっての自分ですものね。このままいけば、東宮派との対立はさけられないんじゃないかしら? 朝堂に東宮派は多いことだし、事態はどう転ぶか、まあ、気長に待つことよ」
「気長に……、と申されましても姫さま、土佐はあまりに遠うございます。なにやら波の荒い、粗暴な土地と聞きおよびますのに、そんなところで師長さまが、摂関家のご子息としてなに不自由なく暮らしておられました師長さまが、いったいどう……」
 備前は、涙につまり、先が続けられなくなった。
 流人の命を支えるのは、身内や乳母の仕送りである。
 師長の場合、最も頼りになるはずの祖父忠実は、左大臣に同心の罪を問われて、自身、押し込めの身である。
 今や摂関家を取り仕切るのは伯父の関白であり、その関白こそが、だれよりも師長の死を願っているのだ。
 母方の身内、乳母の親族も、おおかたは今度の乱に左大臣の味方をし、身を滅ぼしている。
 妻の実家は、乱の前から逃げ腰だ。備前には、それだけで、絶望的に思える。
 さらには、精神的な打撃もある。
 事実、それまでの身分が高ければ高いほど、短期間に流罪先で命を落とす例は多いのだ。
「師長さまは、まだお若いわ。それに、土佐にいても琵琶は弾けましょう」
「姫さま! そのようなのんきなお暮らしが、果たして……」
「物質的なことなら、わが家でお手伝いすればすむこと。偶然にも、土佐の幡多にはわが家の荘園があるのよ。食糧はそちらからふりむけるとして、衣類は別にお送りすればいいわね。土佐は南国だからそう寒くもないでしょうけど、やはり冬には綿入れが必要かしら? まかせるわ」
 若御前は淡々と言い、備前は涙にむせんだ。
 今度は嬉し涙である。
 備前は、このときほど若御前が並の姫君でなかったことを、神仏に感謝したことはなかった。
 十月の衣がえにはまだ間があるが、土佐まで届けるには時間がかかる。備前は早々と、冬の衣裳の支度にとりかかった。
 師長は父親の喪中であるから、上衣の色は濃い鈍色でなければならない。
 しかし、ぼやけた黒の陰気な色合いはよけい気分を滅入らせるような気がして、備前は、直衣に青鈍を選んだ。
「きれいに仕上げておられますなあ……」
 重々しい足音とともに入ってきたのは、弁の乳母である。
 備前はほおを赤く染め、直衣を押しやった。
 若御前承知のこととはいえ、ここのところ師長の衣裳にかかりきりで、ほかの用事は放ってある。
 弁の乳母の言葉は、皮肉とも取れた。
「いや、備前どの、気になさらずにお仕事をお続けなされ。姫さまはどちらに?」
「は、はい、御堂のほうに行かれたようでございますが……」
「はて、また御堂ですか。あいかわらずのお振舞いで……」
 そう言いながら弁の乳母は、どっしりと腰をすえる。
 遠慮がちに直衣を持ち直し、どうやら長い話になりそうだと、備前は思った。
「まこと、中将さまもおいたわしいことで。なんという世の中でござりましょうなあ。わたくしども年寄りには、末世も極まったとひたすら嘆かれますのに、若い者の楽しげに騒ぐことといえば……。今日も女房どもは、打ちそろって見物に参ったのでしょう?」
「はい、そのようでございます」
 実は先日、逃走中の鎮西八郎為朝が近江の坂田で捕らえられ、きょう、都大路を引きまわされるというのである。
 物見高い都人は、上も下も大騒ぎでくり出していた。
「祭りや御幸ならばともかく、このような物騒な見物は、どうも感心いたしませんなあ」
「わたくしも身につまされまして、どうも……。あまり交流はありませんでしたけれど、為義どのの六男、七男は血縁でございました。母親が賀茂の一族なのですが、合戦の場で命を落としましたのならばともかく、あのように兄の手で殺されましては、母たる身はさぞ、と思われます。先立っていて、幸いでした」
「そうでしたか……。昔から賀茂社と河内源氏は、縁がございましたものなあ。死罪の復活は信西の指図ともっぱらの評判ですがな、あの男も出家の身で罰あたりなことを……。いずれ必ずや報いを受けましょうぞ。……それはそうと備前どの、姫さまはいったい、どうゆうおつもりでいらっしゃるのでしょう? いえなあ、わたくしはなにも、中将さまをお助けすることに依存があるわけではないのですよ。左大臣のご供養のためにも、なんとかしてさし上げるのが人の道。それはわかっております。ですがなあ、このことが世間にひろまりましては、姫さまが中将さまとご結婚あそばしているように受けとられるのではございますまいか? 姫さまのご将来を考えますると、それはちょっと……」
 弁の乳母は、大きくため息をつき、言葉を切った。備前はやはりそのことだったかと、気が滅入る。
「そ、その、姫さまのお言葉では、ご赦免もありえると……」
「それは、そうなるにこしたことはないでしょう。中将さまほど姫さまにふさわしい殿方は、ほかにございません。こんなことになりさえしなければ……と、つくづく思います。ですがなあ、備前どの、本当にご赦免がかなうのでしょうか?」
「わたくしは……、姫さまのお言葉を信じます。いえ、信じたいのです」
 備前は、師長に対する自身の思慕を、かくそうとはしなかった。
「そうですなあ……。考えてみましたら、あのお方があらわれるまで、乳母のこのわたくしでさえ、婿取りなぞ思いもおよばなかった姫さまのご気性でございますものなあ。ほかの殿方で収まりのつくものでもございますまい。しかし姫さまは、なん年待っても中将さまと添いとげようと、そこまで思いつめておられるのでしょうかの? あのさばさばとなさったお顔を拝見しておりますると、いったいどういうおつもりやら、年寄りにはさっぱり……」
 そう言われてみれば、備前にも、若御前の真意はいまひとつつかみかねる。
「は、はあ。姫さまは姫さまなりに、われても末に……、の思いがおあなのりだと、わたくしはそう推察いたしております」
 備前は、希望的観測を口にした。
 師長のために、そうあって欲しかったのだ。
「われても末にあわんとぞ思う……。さようですかなあ。中将さまもお気の毒ですが、かつては万乗の天子でいらした新院(崇徳院)でさえも、鄙の地で余生を送られるこの末世。それもこれも宿世でございましょうぞ。無事をお祈りいたすしか……、ありますまい」

 瀬をはやみ岩にせかかる滝川の、われても末にあわんとぞ思う

 崇徳院の御製であるその和歌を胸にくりかえし、備前は涙ぐんだ。

 一方、御堂にいるはずの若御前は、とんでもない恰好で、とんでもない場所にいた。
 西洞院大路と二条大路の交差するあたり、いく台もの牛車が立ちつらなり、老若男女、身分の上下を問わず、徒歩の見物人が押しあいへしあいの、そのただ中である。
「すごい人出だわねえ……」
 あたりを見まわし、かたわらの胡蝶にささやく若御前の姿は、どう見ても稚児である。
 香染めの狩衣に、濃紫の狩袴。
 薄紫の布を裏頭頭巾のように顔に巻きつけ、目ばかりを光らせている。
 もっとも、萩の模様の織り出された狩衣の品のよさや、髪や下重ねに染みついた薫衣香の贅沢な薫りから、よほど高位の僧の寵愛を受ける稚児か、あるいは成人前の貴公子のお忍び姿とも、見受けられた。
 そのそばにぴったりとよりそっている胡蝶は、蘇芳(赤紫)の衵を頭に引き被き、一応は普通の女童の装いだ。
 しかし、すその短い、子供らしい恰好のわりに、背丈は若御前の上をいき、身体の発育が良すぎるのが、なんともちぐはぐに見える。
 陽の光を受けて、ことさらに髪は赤く燃え立ち、大ぶりな顔のつくりが、人目を引いた。
 このおかしなふたりづれが、雨彦とケラ男の男童だけを供に、都大路に突っ立っているのである。
 見世物が始まる前の退屈まぎれに、人々はしげしげと、ふり返って見た。
「しっかしなあ、なんだってあの鎮西八郎が、捕まっちまったものかなあ。なんでも湯に入っていたところを襲われたというが、寄手は相当の人数だったんだろなあ」
「相当もなにも、たったひとりに数百人だったというぜ。しかも為朝は、病み上がりで本調子じゃなかったのさ。それでなくてなんで、あの為朝がおめおめと……」
 雨彦とケラ男は、人々の注視などものともせず、はしゃいでしゃべっている。
「また大袈裟なことを……。病み上がりに無防備ときたら、数百人も押しかけなくたって捕まるでしょう? だいたい近江あたりの豪族に、手勢が数百人もいるわけがない」
 ふたりのやり取りに口をはさむ若御前も、自分の男装が注目をあびていることなぞ、気にしてもいない。
「ひ……、だ、旦那さまは、為朝をごらんになったことがないから、そうおっしゃるんですよ。ぜひとも、お見せしたかったなあ。あの弓勢の強いこと、強いこと、平家の郎等ひとりの胴を刺し貫いて、隣の武者の袖を射止めるんですからね。それで清盛はおびえてしまって近よらず、次に義朝ひきいる坂東武者が……」
 ケラ男は、さすがに他人の耳を気にして、姫君と呼びかけることをはばかっていた。
「どんな強弓か知らないけど、入浴中では、弓も手近になかったことでしょうよ」
 若御前は頭巾の下で皮肉に笑い、ケラ男の演説をさえぎる。
「いいえ、旦那さま、強いのは弓だけであるものですか。褐(濃紺)の直垂に大荒目の鎧を軽々と着て、身の丈七尺にあまり……」
「雨彦、おまえも大袈裟ね。七尺では夜叉王の上をいくじゃない。そんな大男がこの世にいるものですか」
「本当ですとも! みなが、毘沙門天の生まれ変わりか、さすがは八幡太郎の末と……」
 それまで黙って聞いていた胡蝶が、笑いながら口をはさんだ。
「まこと旦那さま、七尺はあるかどうかわかりませんが、鬼神のような殿御でした」
 雨彦に同調する胡蝶を、若御前は不思議そうに見る。
「おや胡蝶、おまえ、あの合戦を見に行ったの?」
「ええ、参りましたわ。だってあんなめったにないこと、見逃したら一生の損ですもの」
 胡蝶は、舌を出して肩をすくめ、照れかくしのように歌い出す。
「鷲の住むみ山には、なべての鳥は住むものか……」
 胡蝶の小声の今様に、若御前はくすりと笑いをもらし、続きを歌った。
「同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや……」
 大声を張りあげたわけではないのだが、若御前の声は、澄みきって通りがよかった。
 そばにいた壺装束の女の一群が、歓声を上げて拍手をする。
「兄さん、いい声だねえ。知ってるかい? 鎮西八郎為朝どのは、わたしらの仲間がお産みしたんだよ。八幡太郎の御名を辱めないのも、そりゃあもっともじゃないか」
 派手に袿を重ねた女のひとりが、若御前に流し目をくれて、得意げに言う。
 どうやら遊女らしく、若御前は返す言葉につまった。
 かわってケラ男が、目を丸くして叫ぶ。
「ほんじゃあ姐さんたちは、神崎から来たんかい?」
「いやだねえ、江口だよ、江口。知らないのかい! 八郎どのの母御前は江口の者さ」
 神崎も江口も遊女の里である。そばで聞いていた老人が、にやにやと口を出した。
「知ってるとも。河内源氏は代々、遊君の腹に子をこさえるがな、いやたしかに鎮西八郎は傑作じゃて。先に夜討ちをしかけねば勝機はないと、悪左府に進言したそうじゃないか。それを悪左府がはねつけ……、逆に内裏の勢に押しよせられてあの有様。為朝の言うとうりにしていたらの、いくら多勢に無勢でも合戦は時の運。はて、どうなっておったか……」
 その老人の連れらしい壮年の男が、あご鬚をなでなであいづちを打つ。
「その点、内裏方は信西入道がえらかったそうじゃの。合戦のことは武者にまかせるべきだと、下野守(義朝)のはからいをそのまま採用したというからの。さてさて、たいしたものじゃよ。主上(後白河帝)もここのところすっかり今様遊びをひかえられ、りっぱな帝王ぶりであられるというしなあ」
 聞き耳をたてていた若御前は、小さく鼻で笑い、つぶやいた。
「そのごりっぱな帝王が、今日は御自らご見物というじゃない。あの今様狂いの物好きなご気性が、そうそう簡単に直ってたまるものですか……」
 耳ざとく遊女がそれを聞きつけ、
 「そうそう、今様といえばねえ、兄さん。最新流行のやつを知ってるかい?」
 若御前に話しかける。若御前は、無言で、首を横にふった。
「こういうんだよ。……侍、藤五君、召しし弓矯はなどとはぬ、弓矯も篦矯も持ちながら、讃岐の松山へ入りにしは……」
 女の声は少しすがれて、しかし節まわしはなかなか巧みだった。
 讃岐の松山は崇徳院の御配流先であり、今度の乱を諷した歌であることはまちがいない。
 それにしても、弓や矢の歪みは直そうと思えば直せたはずなのに、直せないでこんな結果になってしまった……とは、どういう意味だろう?
(単に、戦略の失敗を言うのかしら? 深読みをすれば、崇徳院、左大臣のがわに正義はあったのに、とも取れるけど……)
 若御前は小首をかしげ、女に問う。
「侍はわかるけど、藤五君って、いったいだれのこと?」
「さてねえ、新院や悪左府にお味方した公卿、殿上人じゃないのかい? ほれ、左京大夫や近江の中将たち、数えてみたら主だったところは、藤原の五人だろう? ひょっとすると、悪左府ご自身と四人のご子息とも、考えられるけどね」
「ご子息っていえば、中納言中将さまは、ほんとにおいたわしかったねえ。土佐の船路は恐ろしやって、今様にもあるじゃない。鈍色のご装束で少し面やつれして見えたけど、あいかわらずうっとりするような公達ぶりで、このお方がこれから土佐へ……と思うと、涙がとまらなかったよ。ごぶじでいらっしゃるかねえ」
 遊女のひとりの突然の言葉に、若御前は目を見張った。
 胡蝶もまた、おどろいて聞く。
「姐さんたち、お見送りしてさし上げたのですか?」
「ほほ。そりゃあ江口は舟の通り道だもの。それに中将さまは、以前、わたしらのとこへお遊びに見えたこともあったしね。琵琶や琴はわれわれがとやかく言うまでもないけどね、なかなかどうして、今様もお上手だし、朗詠のあのお声のすばらしさときたら!」
「それよりも、ほれ、あの話! お仕えしていた郎等が大物の浦まで慕って来て、その志に感激なさった中将さま、『青海波』って琵琶の秘曲をお授けあそばしたって、ねえ。なんてあの方らしい、おやさしい話じゃないか……」
「知ってるよ。またそのときのお歌がいいねえ。教え置くかたみを深くしのばなむ、身は青海の波に流れて……、って言うんだろう? 泣けてくるねえ」
 気取った口調で遊女が師長の和歌を披露するのに、若御前は苦笑を禁じえなかった。
 むろんその話は、つい先日、その郎等本人が、涙ながらに宗輔のもとに告げに来て、若御前もよく知っている。
 師長が教えたのは、琵琶ではなく、盤渉調の筝の秘曲で、『蒼海波』という。
 だれでも知っている『青海波』であろうはずはないのだが、筝の秘曲の名は、秘されるあまり貴族でさえも知る者は少ない。
遊女がまちがえるのも、無理はなかった。
(教え置くかたみを深くしのばなむ、身は蒼海の波に流れて……、か。まったく、派手に秘曲の名を宣伝してくれたもんだわね。だけど……)
 若御前は、頭巾にかくれて、強くくちびるを噛んだ。
 青海波と蒼海波のちがいも、都の貴族社会にいてこそのもので、鄙の地では、なんの意味もない。
 他人に聞かせるためでなく、自分自身のための管弦ではあっても、それにふさわしい環境は、必要なのだ。
 貴族の中の貴族として生い立ち、その血の証しとして、たぐいまれな楽才を持った者が、自らは望みも好みもしなかった合戦の結果で、なぜ都を追われねばならないのだろう?
(理不尽、としか言いようがないわ)
 若御前は、都の人込みにもまれながら、師長の断腸の思いを、痛感していた。
「やっ! やってくるぞう……」
「おい、見えないじゃないか! 頭がじゃまだ!」
 どよめきが波のように伝わってきて、人々は浮き足だった。
 最前列にいた若御前の一行は、押されて、遊女たちのかたわらにしゃがみ込む。
 やがて、検非違使の柿色の衣の先払いの姿が見え、次いで為朝が、左右を鎧武者に固められ、姿を現した。
 赤の単衣の上に白の浄衣を着せられ、縄目を受けてはいるが、その傲岸な面構えは、見物人の期待を裏切らないものだった。
 身の丈七尺は大袈裟にしても、六尺は優にこえている。
 病んでいたためだろうか、削いだような肉の落ち方が、ほお骨の高さを強調し、おくしたふうもなく前方をにらんでいる大きな瞳の、眼光のするどさを際立たせている。
 たしかにそれは、毘沙門天か不動明王の憤怒の形相を彷彿とさせ、日ごろは鬼のように見える放免の、派手な摺模様の衣を着た髭面も、この囚人の前では、借りてきた猫のようにおとなしく見えた。
 人々は一瞬気をのまれ、うなりのようなため息が広がっていく。
 為朝が行き過ぎ、馬上にふんぞりかえった検非違使の尉も遠ざかって、ようやく人々は舌の自由を取り戻した。
「見たか? あのほおの傷! あれは鎌田の次郎のつけたものぞ……」
「たいしたもんじゃないか! あの首をはねてしまうのはなんとしても惜しいぞよ」
「はねられてたまるもんかい! わたしら八幡さまにお願いしてきたんだからね」
 口々に叫ぶ人々の声が、意味のない騒音となって耳をおおう。
 珍獣でも見るように為朝を見ていた若御前は、しかし通り過ぎた後になって、自分の見たものに胸を悪くしていた。
 敗者であるはずのひとりの武者の肉体が、巨大な存在となって都を占領したように、若御前には思える。
 今度の乱の主役は、後白河帝でも崇徳院でもなく、まして左大臣や関白、美福門院であるはずがない。信西入道でさえもなく、結局は、突けば血の出る武者たちの、生の肉体の論理だったのではないか?
 いまそれは、斬った張ったとは無縁であったはずの貴族の領域までも、犯そうとしている……。
 漠然と感じていたことが、明確な形をとって、若御前の胸にせまった。
 若御前は身震いを覚え、唐突に立ち上がった。
 立ちぐらみを覚えたが、そのままやみくもに、人込みをぬけようとした。
 無理な姿勢で、足がしびれてもいた。
 ふりかえりざま、屈強な男の肉体が行く手をさえぎり、若御前はよろめく。
 一歩身を引いた瞬間、小石につまずいて足をくじき、小さく悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
「おっと、失礼。……だいじょうぶか?」
 少し東国なまりのある、若々しい声だった。
 足首の激痛に、若御前はそれを遠いものに聞く。
 目の前にとび散る火花をふりはらい、ようやくのことで目をあけると、近々と若者の顔がのぞきこんでいた。
 荒けずりの骨格に、大きな二重の瞳。
 その瞳の強い光に、さっき為朝に見たと同質のものを感じ、若御前は足の痛みも忘れて、まじまじと目を見ひらいた。
「な、なにをするのです!」
 助け起こそうと若者が腕をのばしたのと、勢いよく胡蝶がその腕をはたいたのと、ほとんど同時だった。
 若者の手は、若御前の肩をそれ、まともに胸にあたった。
 若者は、自分の手の甲に触れた信じられない感触に、あっけにとられて腕をひく。
 若御前は、あやうく悲鳴を押し殺し、伏し目がちに若者の様子をうかがう。
 視線がからみあった瞬間、若者はからかうように笑い、若御前は、目のまわりにわずかにのぞいた肌を、薄紅に染めた。
「旦那さまのお世話は、わたしがします。かまわないで下さいな!」
 ふたりの微妙なやり取りには気づきもせず、胡蝶は身体を割り込ませ、若御前を助け起こそうする。
「お痛みになりますか? だいじょうぶですから、もっとわたしにおぶさって下さい」
 若御前はくじいた右足にほとんど体重をかけることができず、いくら大柄な胡蝶とはいえ、少々荷が勝ちすぎた。
 よろよろと立ち上がったまではよかったが、その体勢はいかにも危なっかしい。
 あごに手をあて、にやにやと見守っていた若者が、だしぬけに胡蝶を押しのけた。
 あっと思う間もなく、若御前の身体は若者の腕にすくい取られる。
 若御前の鼻孔を、日向くさい、馬具の革の匂いのまじった、若者の体臭がおおった。
 目の前には、黒に近い狩衣の濃紺と、下重ねの薄山吹がちらつき、ほおに、粗い布地の下の若者の体温が感じ取れる。めまいを感じながら顔を上げると、今度はあまりにもま近に、青々としたあご髭のそりあとがある。
 その髭の、濃く黒い根までを見分けて、若御前の惑乱は頂点に達した。
「な、なんてことを! 無礼でしょう! 旦那さまをはなして!」
 わめきたてたのは、胡蝶である。しかし若者は、胡蝶を相手にしようとはせず、自分の腕の中で口も聞けないでいる若御前を、のぞき込んだ。
「心配するな。歩けないのだろう? 送っていってやるよ」
 若御前は、大きく息をあえがせる。
 あまりにも思いがけない事態に、なんと答えればいいのか、判断することもできなかった。
「送っていってやるですって? あんたが人さらいでないと、だれが保障してくれるのよ?はなしなさい、はなしなさいってば!」
 胡蝶は、若者の袖に取りつき、声もかぎりに叫び続ける。
 その騒動に、見物を終え、なおも立ち去りかねていた人々が、物見高くより集まってきた。
「あれまあ……、源太どの! 源太どのではないかえ? いったい、いつ都に?」
 大きく呼びかけたのは、江口の遊君のひとりだった。
 源太と呼ばれた若者は、若御前を抱いたままふりかえり、
「東より昨日来れば妻も持たず……、といったところさ。そのうち遊びに行くよ」
 苦笑しつつ、がらにもなくたくみな今様で、遊女に答えた。
「この着たる紺の狩襖に女換えたべ……、かい。いやだねえ、そんなくたびれた紺の狩衣と引きかえじゃあ、ろくなお相手はできないよ」
 今様の続きを歌っての遊女のからかいに、若者は目じりにしわをよせて笑い、見物の人垣からも、どっと笑いがまきおこった。
 笑えないでいるのは、若御前と胡蝶のふたりだけである。それに気づいた遊女のひとりが、ついと前へ進み出て、
「兄さん、安心して送ってもらうといいよ。源太どのはこう見えても、下野守……じゃなかった、左馬頭(源義朝)さまのご嫡子でいらっしゃるのさ。ただの田舎武者とはちがうからね、無法なことはしやしないよ、ねえ?」
 若者の腕の中にいる若御前の耳に、のび上がるようにしてささやいた。最後の言葉は、流し目とともに、若者に向けられたものだ。
 若御前は、あるかなきかに小さくうなずき、考えをまとめようと、眉間にしわをよせた。
(義朝の嫡子ですって? それだったら、為朝と似ていても不思議はないわ。叔父、甥の間柄なんだから……。叔父、甥……。東から……?)
 若御前の頭の中に、なにか引っかかるものがあった。
(源太どの? 源太! そうだわ、たしか、悪源太義平とかいう……)
 若御前は、一年前の風聞を思い起こしていた。
 ちょうど、近衛帝崩御の直後である。武蔵の国に住む源為義の二男、義賢を、甥の義平が攻め殺すという事件が起こった。
 遠い坂東の合戦であるにもかかわらず、これが京童の口の端にのぼったのは、ひとつには、次の帝位をめぐってゆれていた都の情勢と、決して無縁の戦ではなかったためだ。
 義賢の後ろには父の為義があり、義平の後ろには同じく父の義朝があった。
 そして、為賢、為義の後楯は左大臣頼長であり、義朝は鳥羽院の後援を得ていたのである。
 つまりは、近衛帝呪詛の噂で鳥羽院が左大臣をうとみ始めたことが、為義、義朝親子の勢力争いに反映し、東国での代理戦争につながったといえる。
 もうひとつ、義賢は、かつて近衛帝の帯刀先生という地位にあり、都に住んでいた。男色を好んだ左大臣の相手を務めたこともあり、こういうことには、京童の口はうるさい。
 本人は隠したつもりでも、小舎人童や雑色の口から自然世間にひろまり、左大臣と武者という組み合わせのおもしろさから、義賢の名は都人の記憶にとどまっていた。
 その義賢を、わずか十五歳の甥が殺したというのである。
 八幡太郎の末の猛々しさに都人はおぞけをふるい、悪源太義平と京童は呼びはやした。
(なんてこと! それじゃあこの腕は……、自分の叔父を切り殺した腕なわけ?)
 自分を抱く強い腕の筋力に、若御前はあらためて戦慄を覚える。
 と同時に、持ち前の好奇心が首をもたげ、いくぶん冷静さを取りもどしもした。
「胡蝶、歩けそうもないのよ。左馬頭どののご子息が、まさか人さらいはなさらないでしょう。送っていただくわ」
 若御前はかすれた声で、胡蝶に呼びかけた。
「で、でも、ひ……、旦那さま、そ、そんなこと……」
 胡蝶は言いかけてやめ、不服そうに義平を睨みながらも、矛をおさめた。往来のまん中で、若御前の身分をあかすわけにはいかないことに、気づいたのである。
「やれやれ、千歳。おまえのおかげで人さらいはできなくなってしまったようだな。高く売れそうだと思ったんだがな。今度つぐなってくれよ」
 義平は、遊女に向かってそれだけ言うと、若御前をかかええ直し、すたすたと歩き始めた。
 胡蝶が、そして雨彦とケラ男が、あわててその後を追う。
「たしかに、美少年みたいだけどねえ、源太どのにその趣味がおありとは知らなかったよ」
 一行の後ろ姿を見送りながら、遊女のひとりがつぶやいた。
「あんた、ばかだねえ……。あれは稚児じゃない、女だよ」
 義平に千歳と呼ばれた女が、ふくみ笑いとともに言う。
「お、女? あれが女だって? だ、だって……、あれ? あの香は……」
「そう、かなり高価な材料を合わせてたね。態度もすれてないし、相当な身分の姫君だろうよ。それでなくて、なんであんなに女童が騒ぐものかい」
「そんな上つ方の姫君が、なんだって稚児に化けてこんなところにいるんだい?」
「知るものか。流行りじゃないのかい? 今様にもあるだろう? この頃京に流行るもの、柳眉、髪々、えせ鬘。しほゆき、近江女、女冠者。長刀持たぬ尼ぞなき……ってね」
 「そうそう、そういえば先ごろ、中納言中将さまが変わった姫君に言いよってなさるって、評判だったねえ。なんでも蜂飼大納言の姫君っていうけど、これが男装がお好みなのだとやら。上つ方にも、変わり種はあるもんだよ」
「わたしらも白拍子のむこうを張って、武者にでも化けるかい?」
 朽葉、薄縹、浅緑と、とりどりの袿をまとった遊女たちの集団は、秋の野辺の花々が風にそよぐように、ひときわ大きく笑いさざめいた。

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