虫愛ずる姫君 七章

 義平の足は早かった。見失うまいと、胡蝶は懸命にあとを追う。
 模様のない平絹の狩衣のすそを短くたくし入れ、四幅の狩袴をすねのあたりまでくくり上げた義平は、香染めの、芳しい花束ででもあるかのように、楽々と若御前を抱いている。
 むきだしの足がたくましく大地をけり、濃紺の大きな背中は、人込みをかき分けていく。
 左馬頭の子息かなにか知らなかったが、どう見ても田舎武者風の、見知らぬ男の手に、若御前の身がゆだねられているというそのこと自体、胡蝶には冷や汗ものである。
 まして相手は若御の身もとを知らず、知らないままに女であることがばれたとすれば……。
(や、やっぱり姫さまは……、世間知らずでいらっしゃる。なにをされるかわかったものじゃないのに!)
 想像が想像を呼び、胡蝶は泣き出したい気分だった。
 それにくらべ、雨彦とケラ男は、のんきなものだった。
「おい、源太ってあれ、噂に聞く鎌倉の悪源太じゃあないのか?」
「うん、左馬頭の嫡子って言ってたもんなあ。いやあ、おれたち、ついてるぞ。鎮西八郎を見にきて、悪源太に会えるとは! ……しかし、たしか今度の合戦に悪源太の名は聞かなかったよな。合戦に間にあわなかったものかな?」
「いや、坂東の固めに、わざとあちらに残ったんじゃないのか? 惜しいことだよな。鎮西八郎と悪源太の一騎討ちなんて、たいした見物だったろうになあ……」
「まったくさ。どうだい、身の丈は鎮西八郎にちとばかり劣るが、あの肩幅! あれで十六かそこらなんだろう? なんと姫君のお小さく見えることか……」
「姫君は、ちゃんとあの悪源太だって、ご存じでいらっしゃるのかな?」
「そりゃあそうだろうよ。女にしてはもののわかった方でおいでだもの、姫君は……」
 男童ふたりには、若御前が姫君らしくあるべきだという認識が、さっぱりとぬけ落ちている。
 小走りに息を切らせながらも、嬉々として、そんなことをしゃべりかわしていた。
 冷泉小路と町尻小路のかどに、せまい荒れ地があった。
 腰近くまで生い茂った雑草の中に、かまわず義平はわけ入って行く。あえぎながらついて来た胡蝶は、思わずうめいた。
「いったい、なんのつもりなの! こ、こんなところへ旦那さまをつれ込むなんて……」
 聞こえたのか聞こえないのか、義平の後姿はなんの反応も見せない。
 雑草の背が低くなり、前方の視界が開けた。かつての庭園のなごりか、窪地に庭石が散らばり、柳の木が風にそよいでいる。
 そしてその柳の木に、見事な鹿毛がつながれていた。
 若御前は、生まれてこのかた、こんな大きな馬を見たことがなかった。その前足でのしかかれば、人のひとりやふたり、簡単に圧殺してしまうだろう巨体である。
 しかも実際、鹿毛は鼻息も荒く蹄をもたげ、柳の木を折らんばかりに暴れている。
 そばに藍摺の衣を着た男がひとり、なんとかなだめようと声をかけているが、馬というより猛獣のような鹿毛の勢いの前に、男の腰も引けていた。
「てこずっているな、景住」
 藍摺の男はどうやら郎等らしく、義平の声に笑顔でふりむいた。
「お、御曹司、なんです? その稚児は……」
 ふりむいたとたんに、景住は笑顔を引きつらせ、ぽかんと口をあける。
「いやなに、ちょっとした拾いものさ。おい、頼むぜ」
 今度こそ若御前は、悲鳴を押さえきれなかった。義平はいとも気軽に、若御前の身体を景住に手渡したのである。
 手渡された景住の方も、突然押しつけられたやわらかなものに、目を白黒させた。
 手にひやりと触れる上質の絹の感触と、鼻先をただよう甘い薫衣香。いったいこれをどう扱えばいいのか、景住はとまどうばかりだった。
「お、お、お、御曹司……」
 景住は、暴れ馬を相手にしていたときよりも、よほど情けない声を出している。
 それに頓着せず、義平は鹿毛の手綱を解きにかかる。
 不思議なことに、義平が近づくと鹿毛は静まり、甘えるように鼻面をすりよせた。義平は素早く鞍にまたがり、右手で手綱を持ち、左手を若御前にさしのべる。意をさっした景住は、安堵の吐息とともに、若御前を馬上にさし上げた。
 若御前は、身ぶるいをとめることができなかった。
 地面は遠く、はるかに下のほうにはなれて見える。
 武者ぶるいのような悍馬のうごめきが、じかに身体に伝わってくる。
 義平にささえられているとはいえ、この獣がひと跳ねすればまっ逆さまでではないか?
「馬に乗ったことがないのか?」
 若御前のおびえをてのひらに感じ、義平は笑いながら聞いた。
「な、なくはないけど……」
 若御前の声には、正直におびえがにじんでいる。
 上流貴族の姫君が馬に乗ることは、まずありえない。
 しかし若御前は、ついこの間まで、宗輔の留守を見はからい、乳母の目を盗んでは、俊通の乗馬を引き出させ、小舎人童に馬の口を取らせて邸内をまわるのを、この上ない楽しみにしていた。
 とはいうものの、近衛の次官である俊通の馬は、均整のとれたほどいい大きさで、おとなしく、よく慣らされた馬である。
 こんな気違い馬とは、勝手がちがった。
「怖がらなくともいい。飛影は気が荒いが、おれにはなついている」
 義平は笑いながら請け負ったが、それで若御前の気が落ち着くわけもない。
 なにもつかむもののない両手で、不安げに自らの衣裳を握りしめていた。
「それで、いったいどこの寺まで送ればいいんだ?」
 はやる飛影を片手で押さえながら、義平はおもしろそうに聞く。
「な、中御門京極」
 飛影の動きに気を取られ、若御前はたいして考えもせずに、住所を告げた。
「中御門京極? なんだつまらない、えらく近いな。さてと、どこを行ったものか……」
 思案げな義平に、笑って答えたのは景住だった。
「御曹司、ここらはお屋敷町ですからね、どこを行っても同じこと。どだい、京の都で牛車をさけて通ろうというのが、無理な話なんですよ」
「まったく、なんで公卿どもは、あんなものに乗りたがるんだか。のたりくたりと迷惑もいいとこじゃないか。妙なのにでくわしていちいち下馬するのも、願い下げだしな」
 主従のやり取りを耳にとめ、若御前は笑いを噛み殺した。
 田舎武者が公卿の行列に突っ込み、とがめを受けるのはよくあることだが、まさかそれを、田舎武者の立場から考えてみようとは夢にも思わなかった。
 言われてみればたしかに、牛車は悠長な乗り物である。
 だからこそ若御前は自身牛車で外出することを好まなかったが、意識はあくまでも牛車に乗るがわにある。
 邪魔だとか、下馬が面倒だとか、今の今まで思いつきもしなかったことだ。
「春日小路がましじゃないかしら……」
 いくぶん緊張がほぐれ、若御前は小声で言った。
「春日小路か。よし景住、行くぞ」
 飛影は、勢いよくとび出し、若御前の身体は大きくかしぐ。
 義平はそれを片手で受けとめ、片手で手綱を引いて、だく足を保った。
「行くぞって、まったく、御曹司もなんの気まぐれで稚児の相手なぞ……」
 ぼやきながら、景住は素早くあとを追う。
「待って! そんな気ちがい馬に乗せて、うちの旦那さまをどうするつもりなの!」
 呆然と、なりゆきを見守っていた胡蝶も、はっと我にかえって追いすがる。
「すっごい馬だなあ。あれじゃあ、馬泥棒のほうが逃げてゆくぜ」
「あんなのに乗るんだから、坂東武者が強いわけさ。おい、早く行かんと見失うぞ」
 雨彦とケラ男も、あわてて走り出す。
 運よく公卿の行列に出会うこともなく、飛影はまたたく間に十町ほどの距離を駆ぬけた。
「ここ、ここでいいのよ。とめて!」
 春日小路から京極大路に出る手前で、若御前は叫んだ。
「ここだって? しかし……」
 義平がとまどうのも無理はない。あたりには門の影もなく、公卿の住居らしい方一町の築地塀が、長々とのびているのみである。
 あまり羽振りがいい公卿とは見えず、所どころ瓦のこぼれたあとに、ぺんぺん草が生えていたりするぼろ塀ではあるが、崩れは上部にとどまり、塀としての役目はちゃんと果たしているのだ。
「まさか……、これを乗りこえて入るのか?」
「こんな恰好で、門から出入りできるわけがないでしょう」
 若御前は、開き直っていた。
 女だということがばれている以上、そしてここまでつれてきてしまった以上、今さら義平の前で取りつくろってみたところでしかたがないではないか?
 またぞろ、ろくでもない噂がひろまるだろうが、義平の身分を考えれば、宗輔の耳にまでそれが届く可能性は少ない。
 宗輔の情けなさそうな顔さえ見なくてすめば、あとはだれがなんと噂しようが、彼女の知ったことではなかった。
(それにしても……、この足で、どうやったら塀を越すことができるかしら?)
 眉間にしわをよせて、若御前は自分の足首に視線を落とす。
 年老いた父親の涙だけは、若御前も胸にこたえた。
 二度とそれを見たくないがため、鳥羽院五十の御賀の折り以来、男装での外歩きはひかえていたのだ。それが、三年ぶりの出来心でこの始末である。
 玄関から入っては、館中が大騒ぎになるのは目に見えている。
 築地と若御前をおもしろそうに見くらべていた義平が、景住をふりかえる。
「景住、たしかこの近くに社(やしろ)があったな?」
「ああ、ありましたよ。富小路をまがったところに、小さいのが……」
「そこの境内で待っていてくれ」
 そう言うなり、義平は若御前を抱いたまま馬から飛び下り、手綱を景住に投げかけた。
 とたんに飛影は暴れだし、景住は手綱にぶら下がるようにして、それを押さえる。
「お、御曹司……。まあいいや、どうぞごゆっくり」
 景住はしかたがないといったように肩をすくめ、意味ありげな含み笑いを残して去った。
 そこへ、やっとのことで胡蝶が追いついてくる。蘇芳の衵がずり落ち、ふり乱した髪が赤っぽく、汗ばんだ額に張りついている。
「だ、旦那さま、ま、まあよく、ご、ごぶじで……」
 息が切れて、ろくろくものも言えない有様である。
「おい、胡蝶とやら、しばらく旦那さまをささえていろ」
 義平の乱暴なもの言いに、一瞬むっとむくれた胡蝶だったが、文句をつけるひまはなかった。
 義平の手をはなれ、地面に足をつけた若御前の体重が、どっと肩にかかってくる。その目の前に義平は、広い背中を差し出す。初めてその意図をさとり、若御前はためらった。
「早くしろ。あれをこえるんだろ?」
 催促の声に、若御前は覚悟を決めて、自ら義平におぶさる。
(毒を食らわば皿まで、だわ。どっちみち、そうでもしなけりゃ塀はこせないんだもの)
「ひ……、だ、旦那さま!」
「しいっ! 静かにして、胡蝶。家のものに見つかると、やっかいじゃないの。それより、先に行って御堂まで案内して。ああ、それと……、雨彦、ケラ男、悪源太どのに出会ったなんて、自慢たらしくしゃべり散らすんじゃあないわよ。今日のことがばれたら、あんたたちだって大目玉をくらうんですからね」
 胡蝶のあとから駆けて来て、口を出すでなく手を出すでなく、ぽかんと見守っている男童ふたりに、若御前は釘を刺した。
 おどろいたのは義平である。
「おれのことを知っているのか?」
 首をねじまげ、自分の背にいる若御前の表情を、たしかめようとする。
「ええ、まあ。有名ですもの」
 若御前は、すまして答えた。
「あ、あ、あ、悪源太? 左馬頭の子息って、そ、それじゃあ……」
 義平に劣らず、胡蝶もおどろいていた。
 武者は武者でも、まさか叔父殺しで勇名をはせた男とは、今の今まで気づかないでいたのである。
 それを若御前が知り、知った上で身をまかせているとは、毒気もぬかれた思いだった。
 胡蝶は人がかわったようにおとなしく、築地塀を乗りこえて義平を案内する。
 義平は、若御前を背負ったまま、軽々と塀をこえ、蜂飼大納言の館の庭に降り立った。
 そこは、南庭の端に築かれた築山の、ちょうど裏手だった。塀を一枚へだてただけのことで、どこか山奥にでも迷い込んだかのように、木々が鬱蒼と陽の光をさえぎり、足もとは深々と苔に沈む。
 木々の間を縫い、すべりやすい斜面を登ると、まったく天然自然のそれと遜色のない、滝がしつらえてあった。
 岩肌は苔と羊歯におおわれ、岩間からは楓が枝をのばしている。
 緑の枝に、きらきらと水しぶきが打ちかかり、涼しげな音を立てて、銀の清水は流れ落ちてゆく。
 その滝を横手に見て、まわり降りたところに、瓦屋根の、こじんまりとした御堂があった。
 胡蝶が先に立って階を上がり、御堂の妻戸を押し開ける。一歩足をふみ入れたとたん、薫衣香とはまたちがった、しかしこれも若御前の手になる独特の調合の、ほのかな合わせ香の薫りが全身にまとわりつく。
 胡蝶の手で次々に半蔀が開けられ、義平はもの珍しく、光線に浮かび上がる室内を、見わたした。
 正面にかざられているのは、絹地に彩色された、三幅の仏画である。
 まん中には、柔和な半眼の阿彌陀如来。
 背景に灰色がかった薄緑、衣に茶がかった薄紫が使われ、後光は淡く、銀砂のかがやきをおびて、背景にとけ込んでいる。暮れなずむ微妙な光線の中で、静かに夢を見ているような座像だ。
 右手の普賢菩薩は、花の天蓋の下、伏し目がちにななめ前方を見つめて、白象に鎮座している。
 つややかな深緑、黒味がかった茜色、あざやかな金。
 目もあやな色彩をまとい、肩から胸へかけての白い胡粉の肌が、生身の女人のそれのように、あたたかく息づいている。
 黒く細い柳眉、一点朱をさした小さなくちびる。
 気品高く、それでいて妖しいまでの美しさだ。
 普賢菩薩のぬけるような純白の肌に対し、左手の不動明王は、目の覚めるような群青に塗られている。
 背後に生々しく燃えさかる、朱の火炎。
 鉄剣を握りしめた腕の、筋肉の盛り上がり。
 渾身の怒りを込めて見開かれた、目の玉の白。
 黒い岩山に座し、荒々しい若武者の狂気のような怒りと、その肉体の力感を体現していた。
 そして、華麗を極めた三幅の画像の前には、螺鈿唐草にふち取られた黒漆の机の上に、白瑠璃、紺瑠璃の対の壺が、それぞれに紅、白の萩の花を微風にそよがせていた。
 そばに置かれた香炉と燭台は、繊細な、白銀の透かし彫りである。
 色彩の洪水に目をうばわれ、義平はつっ立っていた。
 どうやらこの御堂の主が、独自の美意識を持った上流貴族であろうことだけは、義平にも見てとれる。
「降ろしてちょうだい」
 自分の巣に帰りついたことで、若御前の声は、安堵にゆるんでいた。
「あ、ああ……」
 そう答えつつ、
(いったい、どこへ降ろせというんだ? 調度は贅沢なくせに、この散らかりよう!)
 と、義平はあきれた。
 中央の床には、秋の夕焼けのような梨地に金蒔絵の雁の群をきらめかせて、筝の琴が横たわり、それを中心にして、あたり一面、楽譜の類や書籍、巻物が、ところせましと出し散らかされているのだ。
 目を転じると、部屋の片すみは淡い紫裾濃の几帳で仕切られ、その横の衣桁に、ふんわりと、薄紫の紗の小袿がかかっている。
 優美な青地金襴におおわれ、そばの柱に立てかけられているのは、もう一棹の筝の琴だ。
(これじゃあさっぱり、男の部屋だか女の部屋だかわからんじゃないか……)
 義平は、うなった。
 小袿や、二棹もの筝の琴の存在に、女の部屋だろうと見当をつけてはみたものの、二階厨子にならんでいるのは漢籍らしく、しかも、これだけ身のまわりのものをそろえながら、鏡や化粧道具のたぐいが見当たらないのも、おかしな話である。
 公卿というものは男でも筝の琴を弾くと、それくらいは義平も承知している。
 部屋の主が男だとすれば、小袿は恋人の残したものとも考えられ、結局、わけがわからないまま、なんとか場所を見つけて、義平は若御前を降ろした。
「姫さま、おみ足はいかがでございますか」
 言い終わって、胡蝶はあっと口をおおう。
 ほっとしたあまりに、旦那さまと呼ぶ用心を忘れていたのだ。
 義平はにやりと笑い、
「心配せずとも、女だということはとうの昔に知っている」
 そう言い置いて、立ち上がる。
 若御前は、胸に受けた義平の手の衝撃を思い出し、とたんに、熱く、ほおが燃え上がるのを感じた。
 足首の手当てを胡蝶にまかせ、視線は、われ知らず義平を追う。
 日ごろ見なれた自室の中で、いかにも場ちがいな義平の肉体が、胸に抱かれ、あるいは背におぶさっていたそのときよりも、なおいっそう生々しく存在するのを、若御前は感じた。
 義平は、開かれた半蔀の前に立ち、庭をのぞき見ている。
 目を細め、陽の光をあびている義平の精悍なあごの線から、若御前は、視線をそらすことができなかった。
 強靱な腕の筋肉、厚い胸板。自分の属する世界とは相いれない、その異質の感触が、まざまざと若御前の肌によみがえる。
「胡蝶、のどがかわいたわ。あ、あちらにも……」
 目線で義平をしめし、珍しく、若御前は口ごもった。
 義平はふりかえって笑い、まともに若御前の視線をとらえる。
 これもめったにないことなのだが、若御前は耐えきれず、ほおを上気させ、視線を伏せた。
「いったい、いつまで顔をかくしているんだ?」
 義平の言葉に、若御前はほとんど目の中まで、まっ赤に染める。
 密室で、近々と男に素顔をさらすことは、若御前の感覚では、肌を交えるのと同じことだ。
「お、鬼と女とは人に見えぬぞよき、と申すでしょう?」
 押さえようもなく動悸が激しくなり、若御前の声はふるえていた。
 愛用の白瑠璃の腕に、なみなみと注がれた黄金の液体。
 それを前にして、若御前は、困惑した。
 被りものを取らないことには、飲めないのだ。
 笑いながらそれを見た義平の手が、頭巾にのびた。
 胡蝶の血相が変わる。
「な、なんてことを……!」
 言いかけて、若御前にさえぎられた。
「胡蝶、もう下がっていいわ」
「さ、下がってって……、ひ、姫さま!?」
「お下がりなさい」
 若御前は、なぜそんなことを言い出したものか、自分で自分がわからなかった。
 まして胡蝶は、呆然と目を見開き、女主人の真意をはかりかねている。
 しかし、自ら頭巾を解きはじめた若御前の、いつになく薄紅に皮膚を染め上げたなまめかしい風情を見ては、さすがの胡蝶も気づかざるをえない。
 若御前は義平を、男として見ているのだ。
 胡蝶は、自分が当事者になったように首筋まで赤く染めて、御堂を出た。
 義平は、薄紫の絹の下からあらわれた若御前の素顔を、息をつめて見まもっている。
 まったく化粧はしていないのだが、その肌は胡粉のつやをおびて白く、恥じらいからか、薄い皮膚の下に、ほんのりと桜貝のような紅を透かしている。
 天然の眉の下の、半眼に伏せられた瞳。
 細く、ほどよく通った鼻筋。
 ちょうど、壁にかかった普賢菩薩そのままの美貌である。
 ただ、ほおからあごにかけての線は、菩薩のふくよかさとはおもむきをちがえて、少年のように鋭利にしまっていた。
 義平には、この男装の美少女の正体が、さっぱりとつかめない。
 男装で身軽に街にくりだすようなふるまいは、あきらかに上流貴族のものではない。
 しかしただの女房にしては、いやに女主人然としている。
(この館の身内に近い、上堯女房なのかな? それにしても、変な女だ……)
 ふるまわれた紺瑠璃腕の飲み物をいっきに飲み干して、義平は首をかしげた。
 舶来の瑠璃腕に満たされていたのは、甘酸っぱい、今まで味わったこともない芳醇な液体である。
「いったいなんなんだ? これは……」
 義平のさし上げた空の瑠璃腕が、陽光に青く、光を放つ。
「蜜のお酒よ。蜂蜜を日向に出しとくと、こうなるわ」
 若御前は顔をそむけたまま、ぶつぶつと小声で答えた。
「おまえ……、この家の主人の寵愛でも受けているのか?」
「あ、主人の寵愛!?」
 驚愕のあまり、若御前は恥じらいを忘れ、目をまるくして義平を見る。
(な、なにを言ってるのかしら、この人。娘が父親の寵愛を受けるなんて、そんな奇怪なこと、あるはずないじゃない!)
 若御前にしてみれば、蜂飼大納言家の姫君であることは、ろくに意識もしないほど身に染みついたことで、まさか自分が女房にまちがわれていようなどとは、思いもよらない。
「そんなことはありえないわ」
 そう断言して、しかしさすがに、はっと気づいた。
(まさかこの人……、わたしがだれだか、わかってないのかしら?)
 半信半疑で、若御前は聞いた。
「あなた、蜂飼大納言を知らないの?」
「蜂飼大納言? それがこの家の主人か? あまり聞かないな……」
 考えてみれば、敬語ぬきの義平のしゃべり方は、対等の身分を前提としたものである。
 混乱した若御前は、なにを言えばいいのかわからないまま、
「あ、あの……」
 やみくもにしゃべり出そうとした。
 それを無視して、義平の手が若御前のあごにかかる。義平の手のざらついた感触が、熱く彼女の皮膚を焼く。
 あごからのどもと、そして全身へ、しびれるような感覚がつらぬいていく。
 強引に顔を上むけられて、しかし若御前は、義平の目をまともに見ることができず、視線を伏せた。
 義平のくちびるが若御前のそれをとらえ、彼女はうめいた。
 なよなよと、身体から力がぬけてゆき、蜜のように甘く、妙に切なく、胸に塊が突き上げてくる。
 生まれて初めて味わう激情に、若御前はかたく目を閉じ、身をまかせた。
 義平の目に、彼女のあまりにも無防備な対応は、誘いとうつる。ためらうことなく彼の手は、若御前のしなやかな絹の衣裳を、剥いだ。
 夢現のうちに、若御前は、素肌に外気を感じた。
 恥じらいにもだえつつ、しかし同時に彼女は、華奢な裸身を燃え上がらせて義平によりそう。
しなやかな蛇のように、若御前の腕が、義平の胸もとにもぐりこんだ。
 義平は衣裳を脱ぎすて、むさぼるように身体を重ねた。
 花束に顔を埋めたときのように、甘く、芳しい香が、彼の脳髄にしのびいる。
 むさぼってもむさぼっても味わいつくせない幻にとりつかれたように、深く、もどかしく、義平の欲望はゆり動かされた。
 義平の動きに、技巧めいたものはない。
 直截な、そして怒濤のような欲望に押されて、若御前はあえぎ、爪を立てる。
 盛り上がる巌のような筋肉に、白い、象牙細工を思わせる指の先がくい込み、はね返される。
 しなやかな絹糸と固い鉄のように、ふたつの異質な肉体はもつれ、求め合った。
 汗にまみれ、熱せられた皮膚を重ね、義平の心臓の動きをわがもののように感じながら、若御前は熱にうるんだ瞳を、ぼんやりと天上に向けた。
 蛹からぬけ出した直後の蝶のように、生まれたばかりの弱い素肌をさらしているような、そんな気がする。
 三幅の仏画も、瑠璃の花瓶も、様々な書籍も、筝の琴も……、見なれたはずの自分の小宇宙が、遠くなじみのないものに見えてくる。
 違和感にとらわれながら、若御前の視線はぐるりと室内をめぐり、『橋姫』の青地金襴に、ぴたりととまった。
 わたしたちの子供は、管弦の名手でしょうね……。師長の声が、耳もとによみがえる。
「笛は……、得意?」
 若御前は、唐突に聞いた。
「笛?」
 義平はけげんな面持ちで、若御前を見る。
「そう、笙の笛。新羅三郎義光は、笙の笛の名手だったというわ」
 新羅三郎義光は八幡太郎義家の弟であり、義平は、八幡太郎四代の直系である。
 荒々しさばかりが取りざたされる河内源氏だが、過去には、風流武人もなくはないのだ。
「笛、なあ。だいたい新羅三郎は、わが家に直接関係がないしな。いや、佐竹の連中は新羅三郎の末だが、笛なぞ吹かん。なんでそんなことを聞くんだ?」
「いえ、それならいいの」
 若御前は、苦笑していた。
 たしかに、聞くまでもなかったのだ。悪源太義平に、笙の笛は似合わない。
(いったい、わたしたちの間に子どもが生まれてくるとすれば、どんな子なのかしら?)
 若御前にはさっぱり、想像もつかなかった。

 それからのひと月、義平との逢瀬を御堂で重ねながら、若御前は、自分で自分に首をかしげることの連続だった。
 別れた瞬間から、義平の匂いと感触が、泣きたいほど切なく、恋しく、身にせまってくる。はなれていることに耐えられず、もの狂おしさに、髪をかきむしって身もだえる。
(どうして……、このわたしが、田舎武者なんかに!?)
 いくら自分に問いかけてみても、答えは出ない。
 身も心も、まるで別の人格に占領されてしまったように、激しく義平に執着するのだ。
 宗輔の右大臣就任でさえ、いまの若御前には、なにか別世界のできごとのように遠いものに感じられる。
 左大臣の席が空き、順送り人事で、蜂飼大納言は右大臣に昇進した。
 家柄からいえばあまりにもおそすぎた大臣就任であるが、一方、今や謀反人である故左大臣との関係を考えると、ひとえに宗輔の人柄が幸いしたといえるだろう。
 政治音痴で、人畜無害。
 だからこそ、最後まで左大臣一家に同情を示し、肝心な時期にろくろく出仕もしなかった宗輔の行動も、問題にはならなかったのだ。
 ふだんの若御前なら、必ずひと言あってしかるべきなのだが、
「こちらの主人は、右大臣になったそうだな」
 寝物語に、義平がそう言い出したときにも、まるで上の空だった。
「えっ? ええ、まあ。おかげでもの入りで……」
「おまえ、ここの暮らしに満足しているのか?」
「ここの、暮らし? そりゃあ、そうだけど……?」
 満足しているかと問われても、若御前には、今の暮らし以外の暮らしは、まるで考えもおよばない。
 義平がなにを言おうとしているのか見当もつかず、闇の中で目をまるくした。
「東へ、帰らなければならないんだ」
 義平の言葉は、青天の霹靂だった。
「か、帰るって……、あなた、こちらで仕官するのではなかったの?」
「ごめんだな。たかだか衛門の尉や兵衛の尉あたりで、窮屈な宮仕えなぞしていたぶんには、騒動を起こすのが関の山さ。東暮らしが性にあっている」
 義平は、左馬頭義朝の長男とはいえ、坂東三浦の豪族の娘の腹で、東生まれの東育ちである。
 そのことは若御前も承知していたのだが、源氏の嫡男ともなれば、そのうち都に本拠をうつし、仕官するのが常道というものだ。
 今度の騒動で、義朝は左馬頭にまで出世し、これを機会に義平も宮仕えを志したものと、若御前はかってに決め込んでいた。
「そ、そんな! それではもう、逢えないってこと?」
 若御前の受けた衝撃は、大きかった。
 思わず、義平の胸にほおをすりよせ、きつくその腕を握る。
 義平は半身を起こし、闇を透かして、若御前を見つめた。
「だから……、いっしょに来ないか?」
 近々と光る義平の大きな瞳を、若御前はしばらく、言葉もなく見返していた。
「いっしょにって、わたしが東へ!?」
 やっとのことで義平の言葉を理解して、若御前は叫ぶ。
(正気かしら、この人! このわたしが、流罪でもないのに都をはなれるなんて、どういう頭の構造をしいてれば、考えつけるのかしら?)
 若御前にしてみれば、天地がひっくり返るような申し出だったのである。
「そ、そんな……、それは無理よ。できるわけが、ないわ」
 若御前の断定に、義平は不思議そうな顔をした。
「なぜだ? 東も住んでみれば、そう悪いところでもないさ。鎌倉の館は海に近いしな。おれは三浦で生まれたせいか海が遠いとどうも落ち着かん。だいたい、このせまっ苦しい都のどこがそんなにいいんだ? 鎌倉に来れば、堂々と狩衣を着て門から出てもいいぜ」
 からかいながらも、義平の口調は真剣だった。
 相手の大まじめに若御前は気圧され、自分の認識を、いったいどう説明していいものかわからなくなる。
「そ、その……、第一お父さまが……、そう、老いの果てにそんなことが起これば、お父さまがどんなに悲しまれるか、とてもわたし……」
「父上はおいくつになられるんだ?」
「八十」
「八十? それはまた長生きを……。それでいったい、なにをしておられる?」
 若御前は、呆然とした。
 なにをしておられるもへったくれも、ひと月も経って、まさか義平が自分の正体に気づいてないとは、思いもよらないことだった。
「な、なにをって、あなた、わたしの身もとを知らないとでも……」
「知るわけがないだろう。だから今、聞いているんじゃないか。向こうへ行くなら、お互い家族にも知らせて、ちゃんとした話にしたほうがいいだろう?」
 ようやく若御前は、これほど気軽に自分が東下りに誘われる、真の理由に思いあたった。
(信じられないけど……、いまだにわたしのこと、女房かなんかと勘ちがいしてるんだわ。いったい、どう説明すれば……?)
 漠然とした不安を感じ、若御前は、伏し目がちに小声でつぶやく。
「蜂飼大納言の……、いえ、蜂飼右大臣の娘が変わり者だって、聞いたことなくって?」
「この家の娘がどうかしたのか? それがおまえの主人か?」
 義平は、なんで今そんなことをと言わんばかりに、じれったそうに若御前を見る。
 もの言いたげに、しかし言葉が見つからないように口をあえがせる若御前の、困惑しきった面持ちを見守るうち、さすがに義平の頭にも、ひらめくものがあった。
「まさか……、おまえ! 右大臣の娘だなぞと……」
 とても義平には、信じられなかった。
 雲の上の右大臣の娘が、稚児のかっこうで往来をふらつき、自ら女童を下げて男を誘うなぞと、そんなことがあっていいのだろうか?
 しかし若御前は、こっくりとうなずく。
 その端然とした美貌をまじまじと見て、義平のほおは紅潮した。
 右大臣の娘だと知ったとたん、自分の腕の中の、すみからすみまで知りつくしたはずの若御前の肉体が、急に見知らぬものに思えてくる。
 手の届かない幻を、ひと月の間だけ見せびらかされ、理不尽にも取り上げられてしまったような、そんな気がして、義平は、猛烈な怒りに駆られた。
「なんで……、なんで誘ったんだ?」
 若御前の身体を邪険に押しやり、うなるように言う。
 義平の激しい感情の動きについていけず、若御前は目を見張る。
「誘った?」
 その口ぶりがとぼけたものに聞こえ、よけい義平の癇にさわった。
「誘ったじゃないか! 遊女みたいに……。いや、遊女よりも始末が悪い。ろくろく情もないくせに、いやにしんねり色気をふりまいて……」
 これは、あんまりだった。
 自尊心が傷つけられたあまりの暴言だとは、若御前の理解のおよぶところではない。
 義平に負けないほどに、若御前の頭にも血がのぼった。
「よ、よくもそんな!」
「からかうのが楽しかったのか? ひまつぶしのお遊びにしても、あくどすぎる……」
「お黙りなさい!」
 義平は、最後まで言いきることができなかった。
 白い、小さな若御前の手が闇にひらめき、したたかに義平のほおを打つ。
 若御前の表情は憤怒に凍り、逆に義平の腹立ちは、つきものが落ちたように引いた。
「最初から、そうしてくださればよかったんですよ、姫君」
 皮肉まじりにそれだけ言うと、義平は、音もなく御堂を出た。
 若御前は、しびれの残る右手をきつく左手で握りしめ、義平の出て行った妻戸に瞳を凝らす。
 噛みしめた歯の間から嗚咽がもれ、やがて耐えきれず、若御前は声を上げて泣き伏した。

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