虫愛ずる姫君 八章

   保元二年(一一五七)四月十四日。四月の中の酉の日、賀茂祭の当日である。
「姫や、用意はできたかの」
 喜色満面の蜂飼右大臣宗輔が、足音も高く西の対へやって来た。
「もうすぐでございますよ、殿さま。まあごらんあそばせ、姫さまのお美しいこと……」
 弁の乳母は、その象のような目をよけい細めて、しきりに首をふりたてている。
 備前は、若御前の髪のかかり端を直し、大きくうなずいた。
 表はみな純白で、裏地に薄黄色と青緑の濃淡をつかった卯の花重ね。
 その上に、葵唐草の紫の小袿を重ね、若御前は女房たちの手に、身をまかせている。
 ときどき小さくため息はついても、文句も言わず、ぼんやりとされるがまま、人形のようにおとなしい。
 備前には、ここ半年ほどの若御前のこの変わりようが、なんとも解せなかった。
 積極的に化粧をし衣裳を選ぶ、というのではなかったが、すすめればすすめられるままに、女装束に腕を通す。
 髪をとくにも、眉をつくろうにも、うっとうしいだの、めんどうだだの、以前のお得意のセリフは、影をひそめた。
 それだけではない。男童を集めて騒ぐこともなくなり、なにかというと、ぼうっと庭先を見つめ、思いに沈んでいたりする。
 嗜好も、変わったといえば変わった。
 以前は見向きもしなかった歌集をひろげ、なにをそう熱心に見入っているのかと思えば、それが恋歌だったりする。

 あらざらむこの世のほかの思い出に、今ひとたびの逢うこともがな……

 『後拾遺和歌集』を貸せと言われただけで備前はおどろいていたのに、ため息まじりに和泉式部の絶唱を口ずさまれて、あやうく腰をぬかしかけたこともある。
 今様を歌うにも、舞え舞え蝸牛だの、いざれ獨楽だの、陽気なものは影をひそめた。

 思いは陸奥に、恋は駿河に通うなり、
 見初めざりせばなかなかに、空に忘れてやみなまし……

 もの思わしげに空を見上げて、そんな歌をうたわれては、いよいよ熱でもあるのではないかと、額に手をあてて考え込みたくなるではないか?
 あれほど熱心だった筝の琴の演奏にも、どこか集中力が欠けている。
 以前は大曲や難曲を好んで弾いたものだが、ひとつ覚えのように『想夫恋』をくりかえし、あげくの果てに、でたらめな不協和音をかなで立てて、放り投げるようにやめてしまったりする。
 備前が、最初におかしいと思ったのも、宗輔が右大臣に就任した直後の、内輪の演奏会でのことだった。
 蜂飼右大臣家では、天子の諒闇で大臣大饗が催せなかったかわりに、身内が集まって祝いの宴を張った。
 中御門宗能やその子息、宗子の夫など、近しい親類だけのことだったので、若御前も演奏に加わったのだが、『秋風楽』の簡単な手を、まちがえて弾いた。
 目立つまちがいではなかったが、ふだんの若御前ならば絶対にありえないことで、備前も宗輔も、そして俊通も、あっけにとられて若御前を見た。
 若御前は顔をしかめ、それからあとは無難にこなしたが、なんとなく熱のない、上の空の演奏に終始した。
「やはり姫さまは、心底、中将さまをお慕いあそばしておられるのですなあ。はなれていれば思いが増す、と申しますが、こうまで思いつめられましょうとは……。おいたわしゅうはございますが、情を解し、姫君らしくなられたはけがの功名とでも申しますか……」
 弁の乳母などは、そう独りごちてはうなずいているが、備前には、どうも納得がいかない。
 師長が土佐へ流された直後、あれほど冷静に対応した若御前が、突然、人柄が変わるほどの恋心を燃やしはじめるものだろうか?
 それに、若御前の師長へのたよりは、今だに、おおよそ恋文とはほど遠いものなのだ。
 故左大臣の没収された荘園は後院領となるらしいだとか、閑院流三条家の左大将公教が荘園記録所の長官にすわっただとか、それもこれも後白河帝引退後の院政をにらんだ信西の策謀だとか、そんなことばかりが漢文で書きつらねてある。
 たしかに、師長の赦免は政局のいかんにかかっているのだから、その分析も大事ではある。
 大事ではあるが、しかし……。
 恋歌を口ずさむくらいなら、もう少し書きようがあるではないかと、備前は頭をひねる。
 妙なことといえば、つい先月も、首をかしげたくなるようなことがあった。
 例によって、女房たちが噂話に花を咲かせ、若御前は几帳のかげで漢籍に見入っていた。
「ねえ、ねえ、わたしの従姉妹が花山院家にお仕えしているんだけどねえ、この前会ったら、とてもおもしろい話をしてくれたのよ」
 最初のうち、若御前はことりとも音を立てず、なんの関心も示さなかった。
「花山院家の家女房のひとりに、坂東は新田の河内源氏出身のものがいるのですって。それが、花山院の殿さまのお気に入りでね、今度、新田の荘園を花山院家に寄進することになったらしいわ。ま、花山院家ならば美福門院とも親戚筋だし、安心じゃない?」
「新田の源氏といえば、足利の義康の兄筋でしょう? 足利の荘園も院宮の女房のつてで鳥羽院に寄進したって聞くし、いったい、そんな話のどこがおもしろいのよ」
「まあまあ、話はこれからよ。その女房のもとに、先ごろ、姪が上京してきたのね。これが、坂東生まれの坂東育ちというのに、鄙にはまれな美女。なにかの拍子に花山院の殿さまが見初めて、つい好き心を起こされたのだそうよ。で、その女房に手引きを頼んだところ、姪は八幡詣でに上京して参りましたが、もう結婚が決まっておりますので……、といい顔をしないの。坂東に帰るとすぐに結婚、という段取りだったらしいわ。それでも花山院の殿さまはしつこくせまったんだけど、結婚相手の名を聞いて、即座におあきめあそばしたそうよ。その相手というのが、同じ河内源氏で、左馬頭(義朝)の子息の悪源太とやら。ほら、一昨年だったかしら、叔父の帯刀先生を殺したって評判になった男よ。花山院の殿さまは、おお恐や、さわらぬ神に祟りなし、とばかりに逃げ出されたのですって」
 女房たちの笑い声を圧して、突然、若御前の鋭い声がひびいた。
「左近、それはたしかな話なの?」
 おどろいたのは、左近ばかりではない。備前もほかの女房たちも、口をあんぐりあけて、几帳をふりかえった。
「あ、あの、たしかかと申されますのは……、荘園の寄進の話でございましょうか?」
 左近ならずとも、そう答えたところだ。
 若御前が興味を持つとすれば、それくらいしか考えられない。
 ところが若御前は、さらにおどろくべきことを口にした。
「いえ……、その新田の娘の結婚相手よ」
「そ、それは、たしかにわたくしはそう耳にいたしました。それでなくて、あの好き者の花山院の殿さまが、これと目をつけた娘をおあきらめあそばすはずもないと……」
 左近が目を白黒させて言ったのも、もっともである。
(いったい、姫さまはなにを言っておられるのかしら? 娘の結婚相手が悪源太でなければ、まったく、なんのおもしろ味もない話なのに……)
 備前には、若御前の質問の意図が、まったくつかめなかった。
「そう、それはよかったわね」
 若御前は、わけのわからないことを口走り、そのまま御堂へ駆けて行った。
 ただの気まぐれかとも思うのだが、そのときの若御前のとがった口調といい、蒼白な横顔といい、いったいなにがそんなに腹立たしいのやら、備前はひとしきり頭を悩ませたのだ。
 ともかく、ここのところの若御前の変化は、備前にとって理解に苦しむものである。
 もっとも、弁の乳母はじめこの家のおおかたの連中は、これが師長への思慕によるものと信じ込み、姫さまも女らしゅうなられてと、やたらに感激している。
 どうやら宗輔もそう受け取っているらしく、今年はいつになく強引に、若御前を賀茂祭の見物に誘った。
 宗輔にしてみれば、元気のない若御前をなぐさめるつもり半分、半分は、こうまで美しく、そして女らしくもなったわが娘を、衆目に見せびらかしたいといったところだろう。
 久しく使わなかった一条大路の棧敷に手を入れ、女房たちを引きつれての、派手な見物である。
 あいにくの雨模様にもかかわらず、この日、蜂飼右大臣の館では、上も下も浮き浮きと、期待に胸をはずませていた。
 若御前は、このころそれが習い性になった憂欝そうな表情で、それでも宗輔にだけはちらりと笑顔を見せたが、あとはひたすら檜扇で顔をかくしている。
 言葉少なに、ええ、だとか、ああ、だとか、それ以外は口もきかない。
 考えようによっては、これこそ深窓の姫君にふさわしい、つつましやかな態度ではあるのだが……。
 牛車に乗り込んだあとも、若御前の沈黙は続いた。
「備前どの、今年の近衛の使いは右近の中将信頼とやらで、たしか、もとは兵衛佐でございましたよねえ。それほど目立つ美男子とも聞きませんのに、主上(後白河帝)はたいそうなご寵愛ぶりだとか。まこと、いきなり中将にご任命とは、あきれた話ですわね」
 牛車の中での女房たちの話題は、あいかわらずのものである。
「さようですねえ。こちらの若さまでさえ、この間中将におなりあそばしたばかりですのに、主上も思いきったごひいきをなさいますわ。不満の向きも多いことでしょう」
 備前も、あいづちを打った。
 俊通は、この正月、十年にあまる少将務めの功で、ようやく右中将に昇進を果たした。
 名門に生まれた俊通がそうであるのに、もともと近衛府の次官になれる家柄ではない信頼が、少将をとばして中将となり、祭の近衛の使いを務めるのである。
 近衛次官を独占してきた上流貴族を中心に、反発は強かった。
「去年の近衛の使いは成親どので、これは鳥羽院のご寵愛ゆえでしたわね。あの家柄で少将にと騒ぎましたのに、今度は中将。近ごろは男君の出世も、寝所で決まるのでしょうよ」
 女房たちは声を上げて笑い、聞いているのか聞いていないのか、若御前は顔をそむけたままである。
 視線は、半蔀の物見から外に向けているが、別にこれといって、往来の情景に心を動かしているふうもない。
 にぎやかな女房と黙りこくった若御前を乗せて、牛車は一条大路にさしかかった。
棧敷まで、あと一町に近づいたとき、
「止めて。 止めなさいってば!」
 唐突に、若御前が叫んだ。
「ひ、姫さま? このようなところで、いったい……」
 うろたえる備前に答えようともせず、若御前は中腰になって、物見に顔を押しつける。
 若御前の顔半分をかくした檜扇がじゃまになり、備前の位置から、はっきりと往来は見通せなかった。身を乗り出すようにしてのぞいてみたが、取り立てて騒動が起こっているような気配もない。
 しのつく雨の中、くり出した見物人が、いつに変わらぬ祭見物のにぎわいを見せているだけである。
「もういいわ。行きなさい」
 そう命令する若御前の声は、かすかにふるえをおびていた。
 再び動きはじめた牛車の中で、備前はあらためて若御前をふりかえり、息をのんだ。
 黒目がちの、長いまつげに縁どられたその目は、夜叉か羅刹のような光をたたえ、つややかなくちびるは真一文字に引きむすばれて、歯ぎしりの音さえ聞こえてきそうだ。
 なにか気にさわるものを見たらしいのだが、それがなんなのか、どうしてこれほどの怒りを見せるのか、備前にはかいもく見当もつかなかった。
 それからあと、若御前の無気力は魔法のように消え失せた。
 棧敷に腰をすえ、はきはきと行列を批評するやら、妙にはしゃいだ笑い声をひびかせるやら、横にならんだ宗輔は、元気を取りもどした娘の姿にご満悦の態である。
 ただ備前には、その笑い声が、いやにわざとらしいものに感じられたのだが……。

 若御前の真情をさっしえる者がいたとすれば、それは、徒歩で供に加わっていた胡蝶ひとりだった。
 胡蝶は、若御前が車を止める少し前から、その男に気づいていた。見物に向かう群衆の中に、ぬきんでてがっしりと体格のいい若い男が、市目笠に虫のたれ布をたらした女房ふうの女をつれて、歩いていたのである。
 濃紺の狩衣のその男の顔を、胡蝶が見忘れるはずはなかった。
 義平もまた、胡蝶を見忘れてはいなかった。
 牛車の通過に足を止めた瞬間、つき従った女童の山吹の衵につつまれたその身体つきが、胡蝶のものであることに気づいた。
 義平の視線に引かれるように、胡蝶の足がとまる。
 義平のそばにいた虫のたれ布の女が、意外に幼い声でしゃべりはじめた。
「お兄さま、これ、蜂飼右大臣のご一行よ。女車にはだれが乗っていらっしゃるのかしら? 北の方はいらっしゃらないはずだし……。そうだわ、もしかして、あの噂の姫君よ! ほかに考えられないわ。あれ? あの女童、お兄さまをにらんでいてよ。ご存じなの? いやだわ、都へはたまにしかいらっしゃらないのに、お兄さまもすみにおけない……」
 腹ちがいの妹のからかいに、義平は無愛想な声で答える。
「知るわけがないだろう。勘ちがいじゃないのか?」
「あら、つまらない。女童とお知り合いなら姫君のこともくわしく聞いていらっしゃるかと思ったのに。ちまたの噂だけでも、そりゃあおもしろい姫君なのよ。お血筋からいけば女御に上がられてもおかしくないほどなのに、毛虫を集めるのが趣味でいらして、おまけに男装を好まれるのですって。文は漢文でしか書かれないし、まちがえて女君にお生まれあそばしたのだと、もっぱらの評判だったの。ところが去年、なにを思われたのか中納言中将さまがこの風変わりな姫君に言いよられ……。ごめんなさい。お兄さま、こんな噂話お好きじゃなかったわね。せっかくつれて来ていただいたのに、わたしったら、つい……」
 不きげんな義平の表情に気づき、異母妹は口ごもった。
「いや……、続けてくれ。その中納言中将っていうのは、何者なんだ?」
「ほら、去年の騒動で亡くなられた悪左府のご子息よ。ご身分はいいし、おまけに管弦の名手でいらしてね、評判の高かった公達だわ。そうそう、蜂飼右大臣の姫君も、筝の琴だけは並ぶ者のないお腕前なのだそうよ。で、その管弦の取り持つ縁だったのかなんなのか、あの騒動の直前に、中将さまは姫君を射止められたのね。悲恋よねえ。中将さまは流罪。それ以来姫君は、すっかり人が変わられたのですって。もともとがお美しい方だったのでしょうけど、人並みなかっこうをなさるようになられて、今では、まじめに文を差し上げる公達も多いのだとか。だけど姫君は、中将さま一筋。正式にご結婚あそばされてたみたいに、仕送りなさっているのだそうよ」
「ほう……」
 義平は目を細めて、行きすぎる華麗な女車を、見送った。
 妹の話と、去年わが腕に抱いた女の記憶とは、重なるようでいて、微妙にずれがある。
 話の前半の男装を好むというあたりは、たしかにそのとうりではあるのだが、無邪気なおてんば娘を想像させる噂のおもむきとちがって、義平の見た若御前の稚児姿は、むしろ妖艶だった。
 後半の中納言中将云々にいたっては、あれが恋人と引き裂かれた直後の、悲しみにくれる女のすることだとは、とても思えないではないか……
(いったいなのつもりで右大臣の姫君が、行きずりの男に、やすやすと身をまかせたのだろう?)
 いまだに義平は、若御前の真意をはかりかねていた。
 あとになって冷静に考えてみれば、若御前は、故意に身もとをかくしていたわけではない。
 遊び半分のひまつぶしでも、情のないからかいでもなかったのだと、それは義平にも納得がいった。
 ただ、勝手に思いちがいをして、われを忘れるほど溺れてしまった自分自信が、彼には許せなかったのだ。
 この半年余り、思い出すまいと頭の片すみに押しやってきたのだが、時折、海の底からわいてくる泡のように、ふと気づくと、若御前のことを考えている。透明な肌をほの赤く染め、瞳をうるませたその表情やら、骨細の身体の、溶けるようにやわらかな肌ざわりやら、まざまざとよみがえって来るのだ。
 いま、あの女が、手をのばせばとどくほど近くに、しかし右大臣の娘という権威に守られて、存在する。
 義平は、その権威を引き剥いで、もう一度あの肌をこの手に感じたいと、急き上げる欲求に抗しきれなかった。

 祭りの見物を終えて、妹をつれ帰ったあと、義平の足は、引きよせられるように中御門京極に向かった。
 雨は小ぶりのまましとしととふり続き、一度も太陽が顔をのぞかせないまま、はや空気は、青くたそがれの色に染まっている。
 なんの花ともわからず、花の匂いが甘くただよい、蜂飼右大臣家の庭におり立ったとき、それは一段と強くあたりに満ちた。
 獣のように足をしのばせ、御堂のすぐそばまで近づきながら、義平はふいに身を伏せて、灌木のかげにかくれた。御堂の階に、男女の影が、ほの見えたのである。
「姫さま、いらっしゃいますか?」
 先に立って声をかけているのは、胡蝶だった。
 うしろろにひかえた男は夏の直衣姿で、どうやら、かなりの身分の公達らしい。
 義平は、不快なものが胸につき上げるのを感じた。
「なんなの、胡蝶……」
 妻戸が開き、なつかしいその人の、白っぽい立ち姿があらわれるのを、義平は見た。
「これを……」
 直衣の男が、腕一杯にかかえた杜若の花束を、若御前にさし出す。
「ありがとう、兄さま」
 兄だったのか……。
 若御前の声に、義平の胸のつかえは、すっと消えた。
「わたし、さっそく活けてまいりますわ」
 胡蝶ははしゃいだ声でいい、いそいそと花束を持って御堂の中に消える。残された兄と妹は、階の上と下で顔を見合わせていた。
「そ、その……、頭痛がするって聞いたけど、大丈夫?」
「あんな男妾が、近衛の中将になってふんぞり反っているのを見れば、頭痛もしますわ。信頼が中将になるくらいなら、兄さまは大将になっても足りないんじゃありませんの?」
 若御前の口調は、いやにきんきんととがっていた。
「仕方がないよ。主上(後白河帝)のなさることなのだから……」
「ああ、主上! あの今様狂いの好きにまかせていたのでは、秩序もなにもあったものじゃない。寝技で昇進を決めるにも、限度というものがあります」
「わ、若御前、お、主上のことを、そんなふうに……」
「くやしくはございませんの? 兄さまもたったひとりのお父さまの跡継ぎなのですから、少しはしっかりなさらなくては。 兄さまの顔を見ているだけで、わたくし、頭痛がひどくなります」
 右中将俊通は、なにごとかもぐもぐと口ごもり、うなだれて去って行った。
 聞いていて義平は、おどろくとともに歯がゆくもあった。
 黙って言わせておく兄も兄だが、兄にこんな口のきき方をする妹というのが、まず信じられない。
 若御前への不信の念が再び頭をもたげ、同時に胸を焦がす渇望は、高慢ちきなこの女を踏みにじりたいという、奇妙な征服欲に変わった。
「姫さま! なにも、若さまに八つ当たりなさらなくてもよろしいじゃありませんか? せっかく、姫さまのためにお花をお持ちくださいましたものを……」
 次に聞こえてきたのは、胡蝶のかなきり声だった。
「胡蝶、頭痛がするんだって言ってあったでしょう? だのにつれて来るからよ。だいたい兄さまもだらしのない、妹ばかりかまってないで、通う女のひとりやふたり作って、そこへ花でもなんでも持っていけばいいんだわ」
「あんまりなおしゃりようですわ! わ、若さまは、ひ、姫さまを……」
 胡蝶は言いよどんでいったん口をつぐみ、きっと顔を上げた。
「わたし、知っております。姫さまは、あんな下賤な男のことで腹を立てて、若さまをないがしろになさるのですわ。恥ずかしいとは思われませんの?」
「おまえ、 い、いったい、なにを!」
 若御前の声は、悲鳴に近かった。
「見ましたもの。あの去年の男、悪源太とか申しましたっけ? 女をつれておりましたのね。姫さまは、わざわざ牛車を止めさせて、たしかめておいででしたわ」
 義平は、自分の耳が信じられなかった。
「お下がり! お下がりというのがわからないの!? さっさと行って、おまえがごひいきの兄さまの相手でもしてなさい」
 地団駄を踏む若御前の形相に、胡蝶はわっと、声を上げて泣きはじめた。
 そのまま、悄然と歩きはじめた胡蝶の背に、若御前は声の調子を落とし、ためらいがちに呼びかける。
「胡蝶……、まさか兄さまにこのこと……」
「申すはずがございませんでしょう! 恥ずかしくて申せません。若さまは、姫さまのお相手を中将さまと思ってさえ、ご不満なのですわ。それをこんなこと、どうして……」
 涙声で叫び、胡蝶は駆け出して行った。
 雨上がりの夕闇に、しばらく立たずんでいた若御前の白い影は、やがてすい込まれるように、御堂の中に消える。
 義平は、ほおを紅潮させて立ち上がった。
 素早く御堂に駆けより、妻戸を開ける。空薫きの香が悩ましくただよい、海の底のような青い薄闇の中に、文机につっ伏した若御前の、純白の薄絹の背が、ぼんやりと浮き上がる。白い花びらがふるえるように、押し殺した笛の音のようなひびきが、その背をゆるがせている。
 泣いているのだと気づいたとき、義平の胸は激しく動悸を打ち、うずくようないとおしさに満たされた。
 若御前は、肩に置かれた温かい手の重みに、おどろいてふりかえった。
 涙にぬれたはれぼったい目を、まなじりが避けんばかりに見開く。
「会いたかった……」
 耳にした言葉も、目じりにしわをよせ笑っている義平の表情も、とても現実とは思えなかった。
 ふるえる指をのばし、目の前の幻に触れる。
角ばったあごの線をなぞり、髭そりあとのざらついた感触を指の腹がとらえたとき、義平のごつい手が、狂おしくその細長い指をつかむ。
「ああ……」
 若御前はうめいて、義平の胸に顔をうめた。熱く、かたい筋肉の下の、激しい鼓動がほおに伝わる。
 いく夜となく餓えてきたそのぬくもりに、いま若御前は全身を火照らせていた。
「ひどい……」
 それは、義平に向けられた恨みの言葉というよりは、こうなってしまた自分自身への、嘆息だった。
 義平に関するかぎり、若御前は、どこか別の世界の強烈な意志にあやつられる繰り人形のように、自分で自分をどうすることもできなかったのだ。
「悪かった……」
 あとは、言葉もなかった。
 ふたりはそのままもつれあい、性急におたがいを求めた。
「いつ……、今度はいつまでいるの?」
 半年にあまる飢えを満たされ、裸身をすっぽりと義平に抱き取られたまま、若御前はやっとのことで、まともに口をきくだけの余裕を取りもどしていた。
「月末くらいまでだな」
「まあ……。今度こそ、ずっとこちらで暮らすつもりかと思ったのに……」
 若御前の声は、失望に沈んでいた。
「言ったろう? おまえが都を離れるのがいやなのと同じくらい、おれは東を離れるのがいやなんだ。だいたい、本当はこんな時期に、都へ来る予定はなかったんだ。父上が内裏の建造のなんたらを請け負わされたおかげで、いろいろ連絡やら相談があってな。坂東はここのところ不作続きで、あまりありがたい話ではないんだが……」
「ああ、内裏の建造、ねえ……」
 皮肉な、鼻で笑うような調子を、若御前は押さえきれなかった。
 大内裏の中の皇居再建もくろんだのは、少納言信西入道である。
 ここ四十年ほど、鳥羽、崇徳、近衛と、幼少で即位し、若いうちに退位、あるいは崩御という例が続いたため、だだっ広い大内裏の皇居は、使われなくなっていた。
 いま、後白河帝は、洛中の高松殿を里内裏としている。
 せまい里内裏では、儀式の折りなどなにかと不自由もあり、大内裏の皇居再建は、保守的な貴族にも受けがいい。
 宗輔なぞも、堀川院の御代を思い出す、とはしゃいでいる口だ。
 公卿のご機嫌取り、後白河帝の箔づけには、絶好の案だったのである。
 一方で信西は、記録所をもうけて、領地に関する裁判沙汰など重要な権限は一手に握ってしまっている。
 儀式好きの名門貴族に遊び道具をあたえ、成り上がりの自分の権力に煙幕を張ろうという信西のやり口に、若御前はあきれていた。
 しかし、どうやらその内裏再建のおかげで、こうして義平が自分のもとにいるのである。
「まったく、少々位階が上がって、それがなんだっていうんだ? 迷惑な物入りだよ」
 義平は、うんざりしたように、ため息をついた。
 中下級の貴族、武家の棟梁をも含んだいわゆる受領層は、こういう場合、建築の一部を請け負って、かわりに昇進を得るのを常としている。
 今回は、信西の手によって国ごとに割当が決められ、下野守である義朝は、好むと好まざるとにかかわらず、請け負わざるをえなかったのだ。
「平家なぞ、一門で相当部分を受け持ったらしいわよ。受領は金持ちなんだから、それで位階が上がれば結構なことじゃない。わが家も兄さまに受領の嫁でも見つけなければ……」
 ちゃかしたような若御前の言い方に、義平は一瞬むっとした。
「大貴族こそ、結構なことじゃないか。妹にやり込められるような情けない男でも、近衛の次官かなんか知らんが、相当な位についていられるんだからな」
 義平のあてこすりに、今度は若御前がむっとする番だった。
「あなた、それ、兄さまのこと!? 失礼にもほどが……」
 言いかけて、はっと気づく。怒りではなく羞恥に、若御前は全身を真紅に染めた。
「あ、あの……、あなた、まさか、あれを……、き、聞いていたの?」
「ああ、聞いた。よくもまあ、この可愛い口で、あれだけ毒舌が吐けるもんだ」
 義平は笑って、若御前のくちびるを指でつついた。
「ぜ、全部……、胡蝶の話も全部聞いたの?」
「いけなかったか? おまえ、若御前っていうんだな。童名にしても変わった名だ」
「それは……、子供のころからみなが勝手にそう呼んでるのよ。そ、それより、な、なんて人の悪い……」
 若御前は、義平の胸の筋肉に、ぎゅっと爪を立てた。
「い、痛い。おまえ、本気で……、本気でおれの妹に妬いたのか?」
「妹? ……じゃ、じゃあ、あれは、新田の娘ではないの?」
「新田の! おまえ、なんでそんなことを……」
 義平は、ふいを突かれてうろたえた。
 妻のことを若御前の口から聞くのは、なんとも妙な気分だった。
 新妻を抱きながら、若御前を思い浮かべたのは、ついこの間のことである。
「わたし、てっきりあなたが新田の娘をつれて来たのだと……。だから、今度こそこちらで仕官するつもりかとも思ったの」
「そんなことはしない。今日のつれは、父上が江口の遊女に産ませた異母妹だよ。素直な子だから、おまえみたいな口はきかないがな。もっとも、たいした噂好きで……。そうだ、妹の話では、おまえ、許婚の男が流罪になっているんだそうじゃないか?」
「許婚って……、師長さまのこと? まったく、噂がひろまるのは早いわね。師長さまは、まあ言ってみれば、家族の一員みたいなものよ。わたし、おそらく一生、婿は迎えないわ」
「ほう、婿を迎えないでどうするんだ?」
「尼になるのよ。お父さまが亡くなられればそうすると、ずっと前から決めていたの。だけどその前に、男女のことも知っておきたいと……、それでまあ、その……」
「なんとまあ、変わった女だな。尼になるくらいなら、坂東へ来ればいいんだ」
「ま! 青海波も蒼海波も区別のつかないような僻地で、わたしに妾になれって言うの?」 
「それじゃあ、おれを婿に迎えてくれるのか? もっとも、いくら金の儲かる受領にしてくれるといわれても、宮仕えはごめんだぜ。ついでに、下賤の下賤のと、女童に連発されるのもな。だいたいおまえ、子供でもできたら、どうするつもりなんだ?」
「子供、ねえ。さあ……」
 まったく若御前には、自分がどうするつもりなのか、いや、どうしたいのかさえ、わからなかった。
 ただ、乾いたものが水を欲するように、義平が欲しかったのである。

 その翌日、若御前は、久しぶりに訪れた夜叉王と、北面で話し込んでいた。
 自分の局に引き籠もっていた備前は、かすかにひびいてくる不思議な笛の音に、耳を奪われた。
 笙の笛に似た、しかしどこか耳慣れない、哀しげな音色である。

 君聞かずや胡笳の声の最も悲しきを、紫髭緑眼の胡人吹く……。

 備前は、漢詩の一節を思い出し、ふと好奇心に駆られて、北面をうかがった。
 若御前は、階の途中に座り込んで、夜叉王の吹く胡笳に耳をかたむけている。
 最後のひびきが空に消えたとき、若御前の深いため息が、聞こえた。
 「……ねえ、生まれた国に、帰りたくはない?」
 「それは……、それができるなら、とうの昔に帰っています。今さら帰っても、だれもわたしを知るものはないでしょうけどね。それでも……、死ぬ前にもう一度、と思います」
 抑揚の強い、独特の夜叉王の声だった。
 「遠いのでしょう? 唐よりも、天竺よりも……」
 「遠いです。ずっとずっと北で……、そう、わたしの国の人たちは、唐も天竺も知りません。本当に、遠い……」
 「どうして……、いったいどうして、生まれた国を遠く離れて、いままで異郷の地で生きてくることができたの? わたし、京の都を離れては、とても生きていけないような気がするわ」
「それは……、姫君とわたしでは身分がちがいます。むりやり引き離されて、それしか生き残る道がなければ、人間なんとかやっていくものですよ」
「それで……、自分とまったくちがう異人の女でも、愛することができるものなの?」
「女……? ああ、胡蝶の母親のことですか? そう、どこの国にいても、男は女を求め、女は男を求める。わたしは、子供の頃に国を出ましたのでね、国の女は知らない。髪の色や肌の色もちがういろいろな女と、恋をしてきました。不思議ではないでしょう?」
 「そう? そんなものなのかしら、ねえ」
 若御前は再び大きなため息をついて、口を閉ざした。
 異郷の地に在る師長のことを考えているのだろうか……?
 それにしても妙な会話だと、備前は思った。

 それから四、五日後、真夜中に突然、胡蝶が備前の部屋を訪れた。
 「あの、備前の君、遅くに申しわけないんですけど、姫さまが今すぐ、『詞花和歌集』の続きをごらんになりたいと仰せで……」
 若御前の気まぐれは今にはじまったことではなく、備前はたいして怪しみもせず、胡蝶に所望の品を渡そうとした。
 今夜、若御前が御堂に閉じ籠もっていることは承知していたし、胡蝶以外の人間が御堂に来ることを、若御前はきらっている。
「それが姫さまは、なにやら歌のことでお聞きあそばしたいことがおありだとか……」
 胡蝶は首をふり、備前自身が持っていくことを勧める。
 おかしなこともあるものだと思いつつ、備前は御堂へ急いだ。
 最近、若御前が身を入れて歌集をひも解きはじめただけに、歌のことでと言われると、つい、備前は本気にしてしまった。
 御堂からは明りがもれていたが、不気味なくらい、しんと静まり返っている。
遠 慮がちに妻戸を叩いても、なんの応答もない。凝り性の若御前のことである。おそらく、少々の音は気づかないほど熱心に、歌集に読み耽っているのだろうと、備前は、かまわず妻戸を押し開いた。
 一瞬、備前は、自分がなにを見ているのかわからなかった。
 脱ぎ散らされた、一面の衣。
 その中央で、卯の花重ねの華麗な袿を下半身にかけて、ひとりの見知らぬ男が、左手に若御前の裸身を抱き、右手に太刀をにぎって、こちらをにらんでいる。
 肘をつき、もたげられた男の、上半身のむきだしの筋肉。
 すべった袿の下、果実のようにあらわれた若御前の白い乳房。乱れかかる、黒髪。
 備前は、ものを言おうにも言うことができず、ぱくぱくと口をあえがせた。
 「おい……」
 義平は、苦笑して、若御前をゆさぶった。
 「うん……?」
 うながされて若御前は、けだるそうに目を開ける。
 焦点の定まらない目が、ようやくのことで、備前をとらえた。
 しばらくの間を置いて、若御前は叫ぶ。
 「備前! ど、どうして……」
 その声を耳にした瞬間、備前は気を取り直し、叩きつけるように妻戸を閉じた。
 心臓が、破れ鐘のように動悸を打っている。
 一刻もこの場に居たたまれず、足が乱れた。
 「待って、備前!」
 階を降りたところで、備前の背中に、若御前の声がひびいた。
 「このこと、お父さまに……、お父さまにだけは知られたくないの」
 しぼり出すように言われたその言葉には、哀願と自嘲が交錯している。
 備前はゆっくりとふりかえり、階の上にほの白く、若御前の単姿を認めた。
 匂欄につかまり、身を乗り出したその姿態に、心弱りがにじむのを、備前は信じがたい思いで見た。

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