21st Cherry Boy






「え!? ……明日……?」
 受話器を持ったまま、そう言ったっきりアキラは絶句した。
 電話口の向こうから聞こえてくる母の声は軽やかだ。
 二ヶ月前に中国に出かけてからしばらく音沙汰のなかった両親が、明日帰国するというニュースは、今のアキラには朗報となりえなかった。
『二週間ほどしたらまた韓国に行くつもりなんだけど。でも、今回長い間アキラさんにお留守番させちゃったから、お母さん美味しいものいっぱい作るわね』
 ありがとう。表面上は嬉しそうに答えたつもりだが、果たして母親に落胆は伝わっていないだろうか。
 電話を切り、アキラははあと深くため息をついた。
 明日、両親が戻ってくる。それも二週間。
 週末に予定されていたイベントが中止になり、ヒカルを家に来るよう誘ったのは明後日だ。
 ヒカルはどう受け取ったか知らないが、アキラとしては下心ありありだった。初めてヒカルに好きだと言われた幸せな日から早一ヶ月、あの夜の続きどころかキスひとつできていない。
 久しぶりの、本当に二人だけの時間となるはずだった。今度こそ、ヒカルと身も心もひとつになる気満々だったのだ。
(そうだ、もう一ヶ月も経ったんだ)
 年明けからアキラを避け始めたヒカルの不調は北斗杯で頂点を極めた。彼が何かに迷い苦しんでいたことは分かったが、アキラには結局待つことしかできなかった。
 そうしたら、ヒカルのほうからアキラの元に飛び込んできてくれたのだ。
 アキラの部屋で、一局打ち終わった後のヒカルの顔を今でもアキラははっきりと覚えている。あの時の自分の気持ちをなんと表現したらよいのか分からない。
 二人で造り上げた美しい棋譜の前で、アキラは何もかも許してしまいたくなったのだ。ヒカルが迷いを振り切って自分と一局打ってくれたこと、いや、自分と打つことこそがヒカルの迷いを振り切る方法だと分かり、彼を力の限り抱き締めたいと思った。
 必要としてくれた。それだけで充分だった。ヒカルが戻ってきてくれた、それがあれほどアキラを満たしてくれる。
 そうして逃すまいと強く抱いた腕の中、ヒカルはアキラに「好きだ」と告げたのだった。
 今でも、思い出すだけで瞼が震える。
 目を開けたままのキス。涙でぐしゃぐしゃになりながら、最後は静かに瞼を閉じて、緩く口唇を押し当ててきたヒカルの身体の熱さ。
 ――社さえ来なければ。
 無意識に舌打ちをしていたアキラは、いや、待て待てと一人首を横に振る。社がいなければ、彼がヒカルにアキラの存在を気づかせなければ、ヒカルは今でも闇の中にいたかもしれない。自分もまた、何もできずにヒカルを待ち続けていたかもしれないのだ。その点では、アキラは社に深く感謝している。
 社が帰った後に訪れたチャンスも、ヒカルが眠ってしまったことで活かせずに終わってしまった。無防備に身体をアキラに預け、何もかも信じきった顔で眠るヒカルにどうこうしようとは、さすがのアキラにも思えなかった。
 それからは互いに忙しい日々が続き、たまに碁会所で会って打つくらいはできたものの、誰もいない場所で二人きりで会うことはできず仕舞いだった。人目を憚らざるを得ない自分たちの関係では、手を繋ぐことすら許されない。
 触れたかった。抱き締めて、キスして、ヒカルを包む服なんて全て剥ぎ取ってしまいたかった。
 要するに、アキラは欲求不満だったわけである。
 健康な十六歳の身体は、一番好きな人に過敏に反応する。それまで囲碁だらけの生活を送っていたアキラは、そういった世界には非常に疎かった。
 保健体育で習うような、セックスとは生殖活動の一環である、という知識でしか捕らえていなかった行為が、愛する人との肌の触れ合いであると考えを改めるようになったのは、まさしくヒカルに恋をしてからだった。
 愛しているから触れたくなる、それ以上説明できないメカニズムを初めてアキラは知った。身体の一番弱い部分を重ねて、ひとつに繋がりたい。膨らんだ欲を吐き出してしまいたい。
 口付けだけでどうにかなってしまいそうな自分に、そんなことができるのかは分からない。しかも正直なところ、正式なやり方についてもアキラは自信がなかった。
 そもそもヒカルはどう思っているのか。これは確かに問題だった。だが、これまでの経緯からして、ヒカルはそれほど嫌がっていないように感じるのだ。
 アキラとそういう関係になるのは構わないと思ってくれているかもしれない。しかし、自分が彼を組み敷いても同じように思ってくれるだろうか。
 やや痩せ気味とはいえ、程よい筋肉の締まったヒカルの身体に女性めいたところはない。顔立ちもアキラよりは幼くみえるとはいえ、どう見ても青年のそれである。性格は快活で、言葉遣いも良いとは言えない。
 そんな正真正銘男のヒカルを、抱きたいと思ってしまうのは罪だろうか。
 たとえ罪でも、一度理性の箍が外れてしまえば、暴走する自分を抑えられそうにない。
 ヒカルとしたい。 ヒカルを、自分のものに……したい。



 そうして、少し気持ちが落ち着いてからヒカルと交わした電話で、アキラは酷く落胆した口調のまま両親が帰ってくることを告げてしまった。
 普通に考えれば、両親がいて何の問題があるかと思うはずだ。アキラは「うちに来ないか」と誘っただけで、是非夜にいたしましょう、と誘った訳ではない。告げた直後にそう気づいて、アキラは下心がヒカルにバレたかと一気に汗を背負った。
 ところが、ヒカルが意外な提案を寄越したのだ。
『なあ、……俺ん家にしない?』
 ヒカルの家。アキラは少し考えて、そしてその申し出がいかに素敵なものであるかを噛み締める。
 思えば、ヒカルの自宅には行ったことがない。アキラの知らないヒカルが育った場所。行きたくないはずがない。
 アキラはヒカルの提案をにこやかに受け入れた。
 どうせ両親がいる時点で、自分の家では滅多なことができるはずもない。それならば、ヒカルの家にお呼ばれされて、仲良く碁を打つほうがいいだろう。
 手土産は何にしようか。アキラは電話を切った後も、すっかり健全志向に切り替えた頭で明後日のシミュレーションを繰り返していた。






アキラの回想で一話ほぼ使ってしまった。
なんかもうすでにヘタレのニオイが。