最寄の駅まで迎えに出てきてくれたヒカルと並んで、アキラは心なしか浮かれた足取りでヒカルの家へと向かった。 手には母親お勧めの焼き菓子。ヒカルの家に行くと伝えると、母は酷く喜んで送り出してくれた。研究会などではなく、純粋に友人の家に遊びに行くという息子の姿が珍しかったのかもしれない。 そういう意味では、アキラは無自覚に親に心配をかけていると言えなくもなかった。これまで自宅に友人を連れてきたことはおろか、誰かと遊びに出かけるなんてことも滅多にない。話と言えば囲碁ばかり、その上あっさりプロになって学生生活を終えてしまった。 そんな中、ヒカルは唯一同じ年の友人だ。実はもう友人ではなくなってしまったが、親としては人並みに友達の家に遊びに行く息子に安心したに違いない。 ゆっくりしてらっしゃい、母の笑顔を思い出してアキラは苦笑した。 「ここだよ。俺ん家。狭いけど」 ヒカルに案内されたその家を眺めてアキラは嬉しそうに息をついた。その表情を見ていたヒカルが、少し照れ臭そうに上目遣いになる。 「な、なに笑ってんだよ」 「ん? 嬉しくて。キミの家、初めてだから」 「べ、別に何もない家だぜ」 どことなく落ち着かない様子で、ヒカルは玄関の鍵を開けた。 迎え出てくるかと思われた母親の姿にアキラは内心緊張していたのだが、予想に反して留守だったようだ。ヒカルはただいまとも言わず、靴を脱いでどんどん中に入っていく。 アキラがお邪魔します、と言うタイミングを逃して玄関でぽかんとしていると、階段を昇りかけたヒカルが「早く来いよ」と振り返る。アキラは慌てて靴を脱いで揃え、ヒカルが脱ぎ散らかしたスニーカーもついでにきっちり揃えてやった。 ヒカルの母は専業主婦だと聞いていたが、どこか買い物にでも出かけているのだろうか。是非挨拶したかったのだが、とアキラは力の入っていた肩を僅かに落とす。 そうして、きょろきょろと室内を見渡しながらアキラもヒカルの後に続いた。自宅と違う階段の段差に気をつけながら、知らない空気を吸い込んで思わずにやける。 ヒカルが開いたドアの先、初めて見るヒカルの部屋にアキラはある種の感動を覚えた。 小ぢんまりとした四角い室内、ベッドや本棚が壁を塞ぎ、何故か冷蔵庫まで置いてある。日当たりのいい、小さいながらも明るい部屋だった。 仄かに漂うヒカルの匂いに、アキラの頬が自然と緩んでしまう。 「今、なんか飲みもん持ってくるから。適当に座ってて」 ヒカルもどこか気恥ずかしいのだろうか、あまりアキラと顔を合わせずにばたばたと階段を下りていく。 アキラは床から天井からまじまじと眺め、部屋の脇に大事そうに置かれた碁盤を見つけてそっと微笑んだ。 「塔矢ぁー、お前コーラ飲めたっけ〜?」 階下からヒカルの声が聞こえて、アキラは部屋の外に顔を出した。廊下で階段を覗き込むヒカルに、「大丈夫、何でもいいよ」と返事をする。 正直、飲めなくはないが好んでは飲まない飲み物だ。しかし今アキラにとって重要なのは、ヒカルが自分のために飲み物を用意してくれるという事実だけで、中身は何だって構わなかった。 やがて、先ほどの軽快な足取りとはうってかわって、お盆にグラスをふたつ乗せたヒカルが慎重に階段を上がってきた。その危なっかしい手つきにアキラはハラハラしつつも、一生懸命な様子に口元を緩めてしまい、再びヒカルに「何笑ってんだよ」とすねられてしまう。 ヒカルはコーラを机に置くと、ベッドに登って窓に手を伸ばす。アキラは思わず、ヒカルが毎晩寝ているだろうベッドの存在に気をとられた。 カラカラと音がして、開いた窓から微かに風が流れ込む。 「今日も暑いな」 まだ六月だというのに、湿気を多く含んだ風は連日酷く蒸し暑い。後に控える夏本番が今から思いやられる。 なあ、とアキラに同意を求めて振り返ったヒカルは、アキラが心ここにあらずといった抜けた顔をしているのを見て、不思議そうに首を傾げた。 「え? あ、う、うん、暑いね」 「う、うん……」 中途半端に会話が終わり、流れた空気は微妙な沈黙だった。 慌てたアキラは、そういえば手土産を持ったままだったことに気づき、天の助けとばかりにヒカルに差し出す。 「これ、おみやげ」 「まじ? 気ぃ使うなよ〜」 と言いながらもヒカルは嬉しそうに箱を受け取った。 「開けていい?」 「いいよ」 包装紙をびりびり破る様がどうにも子供っぽいが、そんなヒカルをアキラは微笑ましく見ている。現れた箱の中からきれいに並んだマドレーヌを見て、ヒカルの顔がぱっと輝いた。 「俺、これ好き」 「ホント? よかった」 「ちょっと食べていい?」 「勿論」 ヒカルはひとつひとつ包装されたマドレーヌを二つ取り出し、これは俺の分、と机に置く。更に二つ取り出して、これはお前の分、とアキラに寄せてまた机に置いた。 残ったマドレーヌの箱にフタをして、ヒカルがにっこり笑う。アキラも釣られて笑顔を見せて、ようやく訪れた和やかな雰囲気にほっとした。 「打つ?」 「ああ」 高級なものではないが、使い込まれたヒカルの碁盤。 ヒカルはよいしょと碁盤を運び、アキラとの間に静かに据える。 どこか懐かしげにヒカルは碁盤の表面を撫でた。 「……この碁盤、ほとんど俺しか打ってねえから。お前に打ってもらったら喜ぶかも」 「本当? だとしたら光栄だ」 「へへ」 頭を軽く掻いて笑ったヒカルはの照れ臭い表情が、とても嬉しそうに見えた。 何か、特別な思い出でもあるのだろうか。ふとアキラはそんなことを考えたが、ヒカルが碁盤の前に胡坐をかいたのを見て思考をストップさせる。 アキラも碁盤を挟んで座ろうとして、ヒカルに両親について尋ねるのを忘れていたことに気がついた。 口を開きかけて、しかしアキラはやめた。もし両親の帰る時間を聞いてしまったら、自らタイムリミットを作ってしまったような気分になるかもしれない。 今は時間を忘れて、目の前の対局を楽しもう。 二人はお願いします、と頭を下げた。 |
ヒカルの部屋の碁盤について、後から調べたら
少なくてもあかりと伊角さんが打ってたんですね。
「ほとんど俺しか」は成り立つかなあ……と
ちょっと考えたけどそのままGOで。