空が赤く染まり、日が暮れて、カーテンをして電気をつける時間になっても、この家に他の人間が帰ってくる気配はなかった。 最初こそアキラも対局や検討に集中していたが、だんだん時計が気になってくる。少し出かけただけにしては、もう何時間も経っているのに母親の戻りが遅いのではないだろうか。 そろそろ夕飯時だ。時折つまんだマドレーヌのおかげで特に腹が減っているわけではないが、ここまで長居しても良いものだろうか。ヒカルの両親に妙に思われないだろうか。アキラは落ち着かない気持ちを持て余し始めた。 「なあ、ここでヒラくのって……、おい、聞いてんのか?」 「え? あ、ああ、何?」 ヒカルの表情があからさまに不機嫌になる。 しまった、とアキラはフォローの言葉を探すが、その態度が余計にヒカルを怒らせたらしい。 「なんだよ、さっきからそわそわして。お前、もう飽きたのか?」 「いや、そんなことは」 「じゃあなんだよ、時計ばっかり見てるじゃん。」 「それはその……、いや、実は、そろそろ帰ったほうがいいのかと……」 仕方なくアキラがそう口にすると、ヒカルは「え?」と言ったっきり固まってしまった。 またマズイことを言っただろうか。アキラはもう遅い時間だし、とまるで言い訳しているように言葉を続けるが、本当は帰りたいわけではない。 ただ、親の留守中に友人が長々と居座っているというのは、あまりヒカルの両親にとって気持ちの良いものではないと思ったのだ。 これからもヒカルとうまくやっていくために、両親に嫌われることだけは避けたい。何事も最初が肝心である。 ところが、ヒカルの眉間にみるみる皺が寄り、ふてくされたように口唇を尖らせ、すっかりへそを曲げた表情がアキラの目の前に出来上がってしまっていた。 「……じゃあ、帰れよ。帰りたいならさっさと帰ればいいだろ」 低い声にはあからさまな苛立ちが含まれる。 アキラは戸惑った。自分は帰りたくて帰ると言っているのではなく、飽くまでヒカルの両親のことを気にしていただけだ。 それを何とか説明しようとして、アキラはヒカルの仏頂面に見え隠れする寂しい眼差しに気づいてしまった。 (あれ……?) 帰ると言い出して不機嫌になってくれるのは、正直嬉しい。 しかし何故、彼はこんなに不機嫌になったのだろう? 思えば、今日は何時くらいまでいるとか、そういう話は事前に一切しなかった気がする。 そのくせ、俺の家に来ないかと誘ったのはヒカルのほうだった。 「進藤、……キミ……」 「なんだよ、帰れって言ってんだろ」 「ご両親はいつ帰ってくるんだ?」 「……」 ヒカルは黙ってしまう。 握っていた碁石を碁笥に戻して、ヒカルはそのまま碁盤に、アキラに背を向けた。 アキラは思わずこめかみを押さえた。――どうして気づかなかったんだろう。 二人を隔てる碁盤をそっとずらし、ヒカルの背中に手を伸ばす。抱き締めた背中が強張った。 「進藤……、今日、ご両親いないの……?」 「……、……法事で明日の夜まで戻ってこない……」 小さな、消え入りそうな声で呟くヒカルの首は赤く染まっていた。 アキラがその首筋にそっと口唇を当てると、ヒカルの肩がぴくっと揺れた。 なんて自分は馬鹿なんだろう――アキラは久方ぶりに触れた愛しい相手の温もりを確かめる。 家に来ないかと言ってくれた時から、恐らくヒカルはその日両親がいないことを分かっていたのだ。 その上でアキラを誘ってくれた。ということは、……決してその後の想像は妄想などではないはずだ。 「進藤」 耳元で囁くとヒカルはぎゅっと首を引っ込めて身体を更に硬くさせる。それでもアキラの腕を振り解こうとはしない。 ――間違いない。 アキラはそれらの仕草全てをゴーサインと受け取って、ぐっとヒカルの肩を掴み、強い力で振り向かせた。 緊張した面持ちが真っ赤に染まっているのを見て、どうにも辛抱できなくなったアキラは、への字に結ばれたその口唇に噛み付くように口付けた。 「んんっ……」 口唇の隙間からヒカルのくぐもった声が漏れる。アキラは構わず、そのままヒカルの身体を床に押し付けた。 上から体重をかけ、ヒカルの動きを封じてしまう。口唇には少し力が入って以前触れた時よりも固い。待て、と小さな声を出すためにヒカルが開いた口の中へ、アキラは舌をするりと落とした。ヒカルの指がアキラの肩を掴む。 アキラはもどかしくヒカルの胸に手を伸ばし、邪魔なボタンに指をかける。たどたどしい手つきでひとつ外したところでヒカルも不埒なアキラの指に気がついたのか、ぎょっとした様子でんー、んーと首を振った。 「待て、待っ……! この、バカっ……!」 なんとかアキラの口唇から逃れたヒカルは、息も絶え絶えにそれだけ言うのがやっとだった。薄ら目尻に溜まった涙が酷く扇情的で、アキラはまだ口付け足りないと尚もヒカルに手を伸ばそうとする。 「待てって! 俺、汗かいてるからっ……!」 「そんなの構わない」 「俺はヤなの! ……シャワーくらい浴びさせろよ」 アキラの下で、ヒカルは怒ったように眉を顰め、その赤い顔を逸らしてしまう。アキラはヒカルの言葉を意味を理解して一瞬動きを止め、静かに身体を起こした。 むくりと起き上がったヒカルは、相変わらずの真っ赤な顔だったが、それでもきっと強い眼差しでアキラを見て、アキラが何かアクションを起こす前に小さなキスを仕掛けてきた。 「!」 「……いってくる」 硬直したアキラの身体を擦り抜けて、逃げるようにヒカルは部屋を出ていった。 残されたアキラは、今しがた柔らかいものが押し当てられた自分の口唇にそっと触れ、思わず下がる目尻を隠すことができずにいた。 ヒカルは嫌がっていない。それどころか、……きっとヒカルもそのつもりで今日アキラを呼んだのではないか? (し、心臓が……) 早鐘とはうまく言ったものだ。胸を打つ鐘の音が脳髄にまで響き、ガンガン頭を支配する。 いよいよ、ヒカルとひとつになることができる。 アキラの全身が、心臓の動きに合わせて小刻みに震えていた。 |
ようやくヒカルの意図が伝わりました。
伝わった途端にヒカル逃げました。
若、すでにブルブルしてますけど。