逢いたい






「……押しかけちゃう……」
 無意識の呟きにはっとして、ヒカルは口を押さえた。
(ダメだって、アイツ今忙しいから)
 ヒカルはぶるぶると首を振った。
 ――でも、仕事が終わってからならちょっとくらい逢えるんじゃ?
 悪魔とも天使ともつかない囁きがヒカルの耳を掠めたような気がした。
(それって札幌まで押しかけるってこと?)
 そんなことできるわけ……ないことはない。
 明日か明後日の飛行機でちらっと飛んでくればいいのだ。そうだ、同じ日本なのだから移動できないことはないはずだ。
 何故かドキドキと高鳴る心臓に必要以上に緊張しながら、ヒカルは航空会社のホームページを調べ始めた。
(別に……まだ行くって決めたわけじゃない)
 見るだけなら罪はない。ほんの少し、知りたいことを調べるだけだ。
 ヒカルはよく名前を聞く航空会社のホームページを開き、二十三日と二十四日の羽田発の便を調べてみた。
 新千歳空港行きの飛行機、離陸時間は様々だが、ことごとく空席状況に×マークが並ぶ画面を見て、ヒカルは力の入っていた肩を落とした。
 ……さすがに全て満席である。
「……やっぱりなあ」
 ヒカルは椅子の背凭れにどっかり背中を預けてため息をついた。
 連休で、おまけにクリスマス。
 こんな時期に、飛行機の需要がないはずがないのだ。
 これできっぱり諦められる、と思ったのに、ヒカルの心はざわざわ騒いだまま落ち着かなかった。
「……北海道って、一時間半くらいで行けるんだ……」
 たったそれだけの距離が遠い。
 落ち着かなく彷徨っていた右手が、ふいに意志を持って動き出す。
 マウスを握りなおしたヒカルは、今度は別の航空会社のホームページを探し始めた。
 先ほど調べた会社と並ぶ大手の航空会社もまた、二十三、二十四日共に満席だった。
 しかし今度はため息をつく間もとらず、もう一つだけ知っていた小さな航空会社のホームページを探し当てた。
 二十三日。――満席。
 二十四日。――残席、1。
「あ……」
 心臓がどくんと音を立てた。
 何故か背中が一気に汗ばむ。マウスを握っている手がカタカタ震えて、ヒカルは慌てて手首をぶんぶん振った。
(残席1ってことは、ひとつだけ席が余っているってこと?)
 どうしよう。ドキドキと皮膚を揺らす胸の動きがうるさい。
 たったひとつ残った二十四日の午後二時の便。
 今、こうして迷っている間にもなくなってしまうかもしれないラスト一席。
 戸惑う理由は様々にある。ネット上での買い物は花火を買った一度だけ。飛行機は数える程度しか乗ったことがなく、一人で乗るのは初めてになる。そして目的地は一度も行ったことのない土地。
 ヒカルはごくりと唾を飲み込んだ。
 ――もし、突然海を越えて尋ねていったら、アキラは何て言うだろうか。
 驚かすなと怒るだろうか。呆れるだろうか。少しは喜んでくれるだろうか。
 アキラにとって、別に特別でもなんでもないクリスマスの日に現れたヒカルを、アキラは迎えてくれるだろうか。
(俺は、どうしたい?)
 聖なる夜に、そんなに彼に逢いたいのだろうか?
「――逢いたい」
 誰でも夢見がちになる時期だから。
 ヒカルは、微かに震える指で、残席として表示された「1」の文字にマウスを合わせてそっとクリックした。




 ***




 ヒカルはようやく安定した機内の様子にふうっと息をついた。
 思った以上に身体に力が入っていたようだ。狭いシートの上で、最大限に手足を伸ばしてみる。
 見渡す限り、やはり飛行機内は満席だった。ヒカルは中央の、五つ並んだシートの更にど真ん中で、景色も見えずに居心地悪そうに視線を巡らせる。
 一人で空港に来たのは初めてだった。予約していたチケットを買おうにも、ずらりと並んだカウンターに気圧されてまごまごしてしまい、ようやく購入に踏み切った頃には中央の席しか空いていなかった。
 ヒカルは手足を投げ出したまま、昨夜の両親とのやりとりをぼんやり思い出していた。
 突然明日札幌に行くと言い出した息子に、両親は酷く驚いていたが、どことなく「またか」というような表情だった気がする。
 実はアキラと前々から約束をしていた――なんて嘘をついたせいだろうか。頭ごなしに叱られるのを覚悟でギリギリに切り出したのだが、案外そうでもなく、ヒカルは拍子抜けしたと共に不思議な不安を感じていた。
 あっさり許可が出たのは、アキラと一緒だからだろうか? 両親が仲の良い友人と信じ切っている、塔矢アキラが相手だから? それとも、もう自分は何処に行くにも親の干渉が必要ない年になったのだろうか。――ヒカルの心は少しだけ揺れている。
 あっさりとは言え、それでも一通りのお説教は食らったのだが、こまめに連絡することを約束させられ、気をつけなさい、と念を押されて無事に家を送り出された。
 なんだか、プロになってから両親が丸くなったような気がする――ヒカルは毎日のように怒鳴られ、拳骨で殴られていた小さな頃を思い出して視線を落とした。
 ――あんたの稼いだお金なんだから、どう使ったって構わないけどね……
 プロとして金を稼ぐようになって早くも三年目。社会に出たと言っても、ほとんどは碁を打っているのみで、あまり仕事としての自覚はなく、中身はまだまだ子供のままである。
 なんでも自分の責任でやりなさい、と言われて、嬉しいような淋しいような気持ちに揺れるのは贅沢なことなんだろうか……
(塔矢に話したら、何て言うかな)
 とっくに親から自立しているような彼なら、こんな複雑な気持ちの時期はもう過ぎてしまったかもしれない。
 いつの間にか、一人でこんな大きな飛行機に乗って、海を越えるようになってしまった。
 大好きな人に逢うために。
 ヒカルはふるふると首を振り、手持ち無沙汰な時間を紛らわすためにいつもの携帯マグネット碁盤を取り出した。
 どうも、地に足着いていない感覚が落ち着かない。小さな碁石に神経を集中させようと、碁盤に石を並べ始めたヒカルを見て、両脇に座る大人たちが驚いた顔をしていた。



 到着した新千歳空港で、ヒカルは今まで知らなかった事実に愕然とした。
「空港って、札幌にあるんじゃなかったのか……!」
 ネットからチケットを買う時も、表示されている言葉が「羽田→札幌」だったので疑ってもいなかった。
 空港にさえ着いてしまえばすぐに札幌だと思い込んでいたので、それからどうやって札幌まで移動すべきか途方に暮れる。
 ヒカルが分かっているのは、アキラが札幌にいるということと、札幌駅傍のホテルに泊まっているということ。今の時間ならまだ対局中だろう。電話をするわけにもいかない。
 ヒカルは見知らぬ空港の中で、きょろきょろと辺りを見渡した。リュックサックひとつ、モスグリーンのファーつきダウンジャケットを着込んだヒカルは、観光客というにはどうにも中途半端な格好をしている。
「とりあえず、誰かに聞くっきゃないかなあ」
 ヒカルは目に付いたサービスカウンターに足を向け、札幌までの道程を丁寧に教えてもらった。
 空港に隣接されているJRでの移動が一番分かりやすいと聞き、指示された通りにエスカレーターを降りてJR新千歳空港駅へと向かう。
 見知らぬ土地で、たった一人で行動するのはこれが初めてだった。
「あ、そうだ、連絡しないと」
 ヒカルは駅までの地下通路で携帯を取り出し、実家にダイヤルした。数コールの後に聞き慣れた母親の声が届く。
「あ、もしもしお母さん? 俺。……うん、空港着いた。こっち? まだ建物の中だから寒くないよ。今から札幌に向かうから」
 ヒカルと同じく駅を目指す人々は、家族連れや恋人同士、そしてヒカルと同じく一人きりで小旅行用のカートを引いている人など様々だった。
 帰ってきたのだろうか。それとも遊びに来たのだろうか。
 ……逢いに来たのだろうか。
 巡る想いを抱えながら、歩くヒカルの眼前に切符売り場らしいものが見えてきた。
「うん、JR乗る。札幌着いたらまた電話するよ。……分かってるって、気をつける。うん、じゃあね」
 電話を切ったヒカルは、料金表を見上げて「札幌」の文字を追った。先ほど駅を教えてくれたサービスセンターの女性は、始発であるこの駅からは乗り換え無しで札幌に着くと案内してくれた。それは楽でいいと、ヒカルは内心ほっとしていたのだが。
「なんだ……結構離れてるんだ」
 思った以上に高額の運賃を発見して、ヒカルは顔を顰めた。
 そういえば、あまり移動に使う交通費のことを考えていなかった。すでに飛行機でそれなりの金額を払ってしまっているため、今後を思うと僅かに不安がよぎる。
 ――札幌に着いたらどうしようか。
 何も考えてこなかった。食事も宿も、何一つ。
 アキラに会うことばかり頭にあって、その他の重要なことを一切後回しにしてしまっていた。
 それどころか、行くことだけで盛り上がってしまって……帰りのことを考えていなかった。要するに、帰りの便の予約はしてこなかったのだ。
(……俺、帰れんのかなあ……)
 ふいに一人きりの心細さが襲ってくる。
 我ながら計画性のなさに呆れてしまう。誰より逢いたい相手には、つい驚かせたいという悪戯心が働いて何も告げていない。
 もし、逢えなかったら?
 札幌だって狭くはない。すれ違って、ヒカルの思いが空回りして終わってしまわないとも限らない。
 不安が心に浸透する。気にし始めたらキリがない。
 たった一人で知らない土地で、夢だけを頼りに歩き出そうとしている。
 ――だって、逢いたかったから。
 ヒカルは小さくため息をつき、不安を吹き飛ばすように胸を張って背筋を伸ばした。
(――大丈夫。何とかなる)
 言葉が通じない異国に来たわけではない。携帯電話でいつでも連絡が取れる時代だ。
 どうにかなる。不安がっても仕方ない。ここまで来てしまったのだから。
 同じ土地のどこかに、アキラがいる。
 不安になったら、アキラへの強い想いで覆ってしまえばいい。
 ヒカルはようやく表情を晴らして切符を購入した。






無計画ヒカル、海を越えました。
あまり地元色出しても読みにくいと思うので、
適度にさらっと流したいところです。