Come across you






 台所から不思議な匂いが届く。匂いの正体が全く分からない多国籍風味の食べ物は、どんな姿をしているかカミューには想像するのも難しかった。
「つまり、生気を吸い取っているということか?」
 換気扇の回る音に混じって、台所に立つマイクロトフの声が聞こえる。
「ほんの少しだそうだけど。第一ただの幽霊にそんなことできるのかい?」
 テレビを見ながら、カミューは首だけ台所に向けて聞き返した。
「霊が長く地上を彷徨うと、地上にある様々な気を吸収し、本来なかった力を身につけることがある。草木の持つ木霊の力だったり、人のもつ生命力だったり、果ては悪意を吸収し続けて悪霊に変わる霊もいる。意図的に行う霊は少ないだろうが、ありえない話じゃないな」
 マイクロトフの言葉の半分ほどを聞き流したカミューは、適当に相槌を打ってみせた。マイクロトフの説明はいちいち長いため、聞いていてもよく分からなくなってしまう。
「問題は、その吸収した力を何に使うかということだ。意図的に行うということは目的があるんだろう。彼女がどれだけ長くこの世に留まっているか知らんが、それだけはっきりした意思があるのなら、恐らくその生気が鍵になるに違いない。」
 換気扇の音が止まる。不思議な料理が完成したようだ。
「どういう意味だい?」
「以前言っただろう。霊は長く存在していると自分のことを忘れてしまうものがいると。対照的に念の力も強くなる。自我を手放す代わりに力を手に入れると考えてくれていい。理性を保ちながら、強大な力を得ることは難しいんだ」
 マイクロトフが、少し黄色味がかったシチューのようなものを持ってやってきた。カミューの家にはお盆なんてものはないため、一皿ずつ手に持って。
「じゃあ、彼女が生気を吸い取ってるっていうことは……」
「意図的に力を欲してるんだろうな。生前に何かやり残したことでもあるのかもしれん。しかし……危険だな」
 マイクロトフは奇妙なシチューをカミューの前に置くと、今度はスプーンを取りに行ったようだ。
「どんな霊にでもできることじゃない。全ての霊がこんなことをすれば、死んで尚不必要な力を持つ霊ばかりになってしまうからな。何か相当な意思が働いているのではないだろうか」
「……何となく言いたいことは分かるけどさ。どっちかというと、今はこの状況のほうが危険な気がするよ……」
 カミューは渡されたスプーンを手に、何ともいえない香りを発するシチューもどきと、しばらくにらめっこしなくてはならなかった。



 ***



 翌朝早くマイクロトフは帰っていったが、昨日大量に作った不思議なシチューもどきをしっかり残していった。
 寝起きのカミューの鼻に、この匂いは強烈だった。
「あいつ、除霊の前に料理の修業もしてくれないかなあ」
 美味しいともまずいとも言えない奇妙な味は、何となくクセになりそうでそれもまた怖かった。
 しかし捨てるのも申し訳ないと、結局カミューは残さず食べて、軽く消化不良を起こしながら朝の支度を始める。
「そういえば」
 カミューは髭を剃りながら、ふと思い出す。
「マイクロトフに聞きそびれたな」
 昨夜言われた『お前は何か特別なのかもしれない』の言葉。
 酔っているのかと気にしないようにしたが、その後に幽霊の彼女が残した言葉がとどめだった。
『あなたも普通の人間と少し違うわ』
(危ない橋ってどういう意味だよ)
 左顎のラインがうまく剃れない。カミューは電動カミソリ片手にイライラしながら奮闘した。
 これまでにも自覚があったのならともかく、急に現れた霊感で特別扱いされたくない。幽霊と聞けば果敢に首を突っ込むマイクロトフと違って、足は竦むし冷や汗も出る。
 要するに、あまりこういった世界に長く関わりたくなかったのだ。それが、マイクロトフが無邪気に世話をしてくれるものだから、ついついカミューも不思議な世界に片足を突っ込んだままになっている。
 幽霊抜きで友達でいられるなら一番良いのだが、あそこまで酒に弱いマイクロトフでは一緒に飲みにも行けない。この年になると、酒抜きでの遊びなんてものはいまいち思いつかない。
(……それで結局寺で座禅してたんだよな)
 昨日の彼女の一件が済んだら、座禅抜きで付き合う方法を考えてみようかな――カミューは綺麗になった顎をぼんやり撫で、大きく背伸びをする。
 結局暇な日曜、ドライブでもするか。カミューはポケットに愛車のキーが入ったままになっているジャケットを掴み、マンションを出た。



 さすがに日曜となると人も車も混んでいた。
 カミューは特に行くあてを決めていなかったが、なるべく人気の少ない場所へ向かうつもりで、裏道を探しながら大きな通りを走っていた。
 大きな道は信号が多く、何度も赤い色に止められる。少々短気なカミューがだんだんイライラしてきた頃、二人の初老の男女が車道すぐ傍で何かを配っているのが見えてきた。
 信号待ちの車に近寄っては、開けてもらった窓から紙切れを渡している。ビラでも配っているのだろう程度に考えながら、カミューが彼らが待つ辺りで車を止めると、早速男性が窓の傍に寄ってきた。
 助手席の窓を開け、「何か?」と声をかけた。
「すいません。ご協力お願いします。何かご存知でしたら是非」
 彼が差し出したA4サイズの紙を受け取ると、物騒な見出しにぎょっとする。
 ”放火殺人犯 時効まであと一週間”
「どんな些細なことでも構いませんので、情報がありましたら……」
 ところがカミューにはもっと衝撃的なものがその紙に示されていた。
 放火によって命を落とした被害者の写真が載せられている。旅行先で撮影したのだろうか、仲が良さそうに寄り添って笑顔を見せる若い男女が写っていた。
 女性の顔には見覚えがあった。
(……彼女だ)
 間違いなかった。赤いワンピースの女の幽霊。人の生気を吸い取る例の彼女は、放火によって殺されていたのだ。
「あの……何かご存知で?」
 ビラを凝視するカミューに、男性は声をかけた。カミューが答えようとしたとき、後ろの車から激しくクラクションを鳴らされる。
 舌打ちをし、戸惑う男性に一礼して、カミューは渋々車を発進させた。男性は話したそうにしていたが、何を話せと言うのだろう。
(この女性の幽霊に会いました、なんて頭がおかしいと思われる)
 あらぬ疑いをかけられないとも限らない。
 カミューはしばらく車を走らせ、脇道に逸れて停車した。
 エンジンをかけたまま、もう一度先ほどの紙を手に取る。
「放火殺人……目撃情報求む……有力情報提供者には賞金……」
 文字を目で追い、単語を口に出してみても、実感が沸かない。
 やはり彼女はすでにこの世にいない人なのだ。それをこんな形で思い知らされるとは。
「時効まであと一週間……か」
 犯人に関する手立てはあまりないようだった。
 事件があったのは10年以上前。ギリギリまで粘りたい遺族の思いが、この紙に託されている。
「……」
 カミューには、いけないと思いながらもある考えが浮かぶことに諍えなかった。
 霊となった彼女は、当時の手がかりを何か知らないだろうか?
 マイクロトフが言うには、霊は長く存在しているといろいろなことを忘れていくらしい。彼女に当時の記憶が残っているかどうかは分からない。しかし自分の命を落とすことになった重大な事件の、断片でも情報は持っていないのだろうか。
 ふとカミューは、その紙に記されている放火現場となった住所に目を留めた。
「ここって……」
 ――あの店の近くだ……
「……」
 カミューは一瞬、マイクロトフに知らせるべきか迷った。
 少し見に行くだけだから、いいよな。
 半ば興味本位の理由に言い訳をつけて、カミューの方向転換を図った。




 例の店は、カミューの車では少々入りにくい路地にあったため、カミューは近くで車を降りなければならなかった。
 歩きながら、ビラの住所と景色を照らし合わせる。
「ここか」
 呟いたカミューの見上げた先は、6階建てのビルになっていた。
 ビルにはスナックやキャバクラらしき名前の店が多く入っているようで、昼間の今はひっそりとしている。当時は何かの事務所だったようだが、今では面影もない。
 振り返ると、あの店がある。ちょうど真向かいだ。
(ひょっとして、地縛霊ってやつだったのかな)
 やはり成仏できずに今も彷徨っているということなのだろうか? それならば何故人の生気が必要なのか? カミューにはまた、嫌な予感もしていた。あまり首を突っ込まないほうがいいと、心のどこかで警鐘が鳴る。
 霊と念とは深い関わりがある。時に念の力は想像を絶するものになる。カミューもそれは、たった一度の経験とは言え充分理解した。
 放火だなんて、紛れもない悪意によって亡くなった人間が霊になったのだとしたら?
『何か相当な意思が働いているのではないだろうか』
 マイクロトフの言葉に身震いする。
(帰ろう)
 やはりマイクロトフに相談しよう。カミューが引き返しかけたその時、
「!」
 ざくりと、刃物が背中に刺さった。……ような感触だった。
 思わず手を回した背中には何もない。直感で分かった。何かの気配が背中に触れた、それがまるで刃物のような鋭さを持っていたのだ。
 カミューは振り向き、ビルを見上げる。6階建てのビル、6階部分には何のテナントも入っていないようだった。
 しかしその6階の窓から、強烈な視線を感じた。姿は見えない。それなのに恐ろしい存在感がカミューを見下ろしている。
 背筋が凍るとはこういうことを言うのだろうか。首筋に冷たいものが走って、初めてカミューは全身汗だくになっていることに気がついた。指先の感覚がない。身体を動かすと何かに見つかりそうで、動くことができなかった。
(まずい)
 これは手に負えない。
 自分でどうにかするつもりも毛頭なかったが、そうでなくてもどうすることもできない強大な力が、”そこ”にはあった。
(動かないと)
 このままではいけない。
(マイクロトフ)
 これは次元が違う。
(マイクロトフ)
 声がうまく出ない。
 いけない。呑み込まれる。

 ――マイクロトフ!






いつの間にかカミューも普通の霊感青年に。
マイクロトフのことを散々おせっかい扱いしておいて、
この人の首の突っ込み方も人のこと言えない感じ。