Come across you






「……?」
 マイクロトフは禅を組んだまま、閉じていた瞳を開いた。
 空の一点を見つめていた目が薄ら曇り、眉が僅かに歪む。
「……カミュー……?」






 ***




「間に合ってよかった」
 頭上から聞こえる声に、カミューははっと意識を取り戻す。
 見える景色の違和感に、自分がどうしてどんなところにいるのか、把握するまで時間がかかった。
 いつの間にか倒れていたのか、ひっくり返った状態で天井を見上げている。ここは、……あの店だ。一昨日、昨日に引き続き、三度目の店の中にいた。昼間だから当然だが、誰もいない。
 しかしカミューの傍らには人影があった。身体を起こしたカミューの目の前に、真っ赤なワンピース。あの幽霊の彼女がいた。
「……君は……」
「もうこの店に来ないでって言ったのに」
 彼女の顔は怒ったような悲しんでいるような、複雑に乱れた表情だった。
「君は……、どうして? 私はいつの間にここに」
「危なかったから、ここまで引き摺ったの。あのままだったら、……」
 彼女の顔が曇る。視線は店の外、恐らくあのビルを見ているのだろう。
「どういうことだ? あのビルには何がいる? 君は全部分かってるんだろう?」
 カミューは早口にまくしたてながら立ち上がり、自分の手のひらをみつめた。まだ震えが止まっていない。
 海で幽霊に連れて行かれそうになったときでさえ、ここまでの恐怖はなかった。姿も見えないのに、意識をぶつけられたのだ。
 届いたのは、声にならない恨みの心。悪意と殺意が入り混じった念の力。
 彼女は俯いたまま口を開こうとしない。
「……君は火事で死んだ。それも放火で」
「……」
「君か、もう一人の被害者かは分からないが、縁の人が必死で情報提供を呼びかけていたよ」
「……」
「火事で殺されたことを恨みに、今もこの世に留まっているのか?」
「……私は……あのまま消えてしまってもよかったんだわ……」
 彼女は透き通るように青い指で自らの顔を覆う。
 カミューは半ばやけくそになった。
「話して。できるだけ力になるから。どうして人の生気が必要なんだ? あのビルの6階、何かいるのも関係あるんだろう?」
「……”あれ”はあの人」
「あの人?」
 彼女は、カミューが手に握り締めていた紙を指差した。
 カミューがくしゃくしゃに潰れたビラを広げると、彼女は改めて掲載されている写真を指差した。
 彼女の隣で微笑む男性。
「あの人は、力を欲しがった。あまりに力を求めすぎて、どんどんあの人じゃなくなっていった。だから私は、あまり力をつけすぎないように、必要なだけの生気を少しもらって、あの人に分けていた」
「生気を分けて……?」
「思い出を抱えて死んでいくのならそれでもよかったのに、あの人は復讐のために力を欲しがって……ずっとチャンスを待ってたの。力が大きくなる時期を待ってたの。」
「ちょっと待って、話が見えない。復讐って、ひょっとして放火した犯人?」
 彼女が一瞬押し黙る。何も答えないことが、肯定の証なのだろう。
「犯人を……知ってるの?」
「彼が、あんなことするなんて、彼が」
「待って、少し落ち着いて……」
 カミューが思わず握った彼女の両手首から、水が流れ込んでくるように、記憶という名の思いがどっとカミューの中へと溢れてきた。
 カミューは頭の中に直接広がる風景を見た。
 幸せそうな恋人同士。彼女に横恋慕する男は、彼の親友でもあった。
 同じ会社の同僚だった彼らは、ある夜の残業中にふとしたことから口論になった。風の強い夜だった。
 ほんの少しの誤解が、些細な憎悪を膨らませた。男は彼を殴りつけ、倒れた彼は強く頭を打って気を失った。
 男は怯える彼女を陵辱し、気絶している男と一緒に縛り上げた。
 物盗りの犯行に見せかけるため、社内の金を全てポケットにねじ込み、良く行く飲み屋のマッチを片っ端から擦って書類の山の上に落とした。
 風は乾いていた。最初はくすぶっていた火が一度燃え上がってしまえば、後は早かった。
 炎の中で二人は目を覚ました。全てのものが赤く染まっていた。
 彼は呪いの言葉を吐きながら火に呑まれた。肉体が燃え落ちても魂が浄化できずにいた。
 男はすぐに見つかった。しかし人一人をどうにかできるほどの力は彼にはなかった。彼は呪った。憎悪が怨念の力を育てていった。念は明らかな力となり、彼はそれを実感した。
 彼女の声も聞かずに、彼は力を求め始めた。ただ闇雲に強い力を。人の人生を飲み込むほどの。自分が誰だったのか分からなくなるほどの。
 彼女は変わり果てた彼に嘆いた。その頃、人に触れた時に暖かいエネルギーを感じることに気がついた。
 人の生気は、生きていた頃の暖かな記憶を守ってくれた。せめてもの抵抗に、彼女は人から生気をほんの少しずつ奪い始めた。すでに自分のことも彼女のことも分からなくなりつつあった彼に、僅かだけでも人の心が取り戻せたら――
「……」
 視界に無機質な店内の色が戻ってきた。長い夢を見ていたようだったが、カミューははっきりと確信した。
「……”あれ”が彼か」
「彼の力は溜まりすぎてる。もう私にはどうすることもできないの」
「犯人を殺すつもりだね?」
「ええ。でもそれだけじゃ済まないかもしれない。だってあの人は、自分が何故人を呪うようになったかさえも覚えていないんだもの」
 彼女は再び顔を覆う。カミューはマイクロトフに以前言われたことを思い出した。
『相手も長く霊として存在していると、最初は薄かった念の力がどんどん濃くなっていく。半端な力で立ち向かえば、やられる可能性が高い』
 マイクロトフの言う通り、もし彼が悪霊としての力を極めてしまったのなら、到底カミューやマイクロトフの手に負える相手ではないだろう。
 前回無事に霊を成仏させられたのは、運が良かったからだ。あの霊にこちらの声が届く隙間がほんの少しだけあって、ぶち切れたカミューの開き直りがよい方向に向かった。
 しかし今度の相手に同じ手が通用するはずがない。最愛の彼女のことすら分からなくなっている怨念の塊に、どんな説得をしろというのだろう? マイクロトフには除霊の能力はまだない。カミューは霊が見える以外は普通の人間と変わらない。
 だが、このままにしておくのが危険だということは分かっていた。先程カミューに向けられた強烈な殺気は、タイミングが悪ければ完全にカミューを飲み込んでいただろう。彼女に助けられなかったら、今頃この世にいなかったかもしれないのだ。
 力が高まりすぎて、無差別に人を呪う悪霊と化してしまった。
「どうしたら彼は鎮まる?」
「どうしようもない。それが分かるなら私がとっくにしているわ」
「例の犯人の行方は? 君は知ってるんだろ?」
「……あの人が呼び寄せたわ。見えない凄まじい力で。何故ここに来たのか、彼には分かっていないはず」
 カミューは店の窓に駆け寄った。人気のなかった向かいのビルに、近づく人影が見える。ふらふら覚束ない足取りでビルに向かう一人の男が見えた。
 カミューは彼女を振り返った。彼女は黙って俯いた。
「彼に呼ばれたのよ」
「彼を殺すため?」
 答えない彼女に、理不尽とは分かりつつも苛立ちが募った。
「それじゃ意味がないだろう! 彼は自分のしたことを公の場で罰してもらうべきだ。ただ殺してしまうなんて、反省も後悔も一緒に闇の中だぞ! まだ時効まで間があるんだろう、自首させないと。でないと、君も彼も……」
 浮かばれない。本人を目の前にして随分勝手な言い草だ。カミューは口唇を噛み、何かいい方法はないのかと頭を抱えた。
 方法なんてあるはずがない。カミューには何の力もなく、彼はすでに手がつけられない物体になっている。
 このまま人が一人目の前で殺されるのを、黙って見ているしかないのだろうか?
 自我を失って殺人を犯し、逃げ回っていた男を、自我を失ったことによって得た力で呪い殺して、果たして男は罰せられるだろうか。それとも、こう考えること自体が生きている人間のエゴというのか。
 その時、背中で何かが噴き出たような轟音が響いた。
 窓を振り返ったカミューの目に、眩しいほどの赤が飛び込んでくる。
「……!」
 カミューと彼女は窓にしがみつくように外を見た。向かいのビルから大きな火柱が立っている。燃え盛る赤い炎は、みるみるうちにビル全体を包み、天をも黒く焦がそうとしていた。
 カミューは思わず店を飛び出そうとしたが、彼女が腕を捕まえて離さない。
「いっちゃだめ! あなたも飲み込まれるわ」
「でも、このままじゃあの男が……!」
 殺られる、と続ける前に、一面炎が広がる景色の中にもう一人の人影が視界を掠めた。
 カミューは窓にかじりついた。
 通りの向こうからこちらに走ってくる男は、紛れもなく……
「マイクロトフ!」






考え無しに書くとここまで無茶な展開になりますが
今に始まったことじゃないので押し切ってみる。
カミューの順応性がどんどん高くなってる……