Come across you






 ――なんだってこんなところにやってきたんだ?
 気がついたとき、足が動いていた。何かに呼ばれたような気もしたが、それもほんの一瞬のこと。目が覚めたらここにいたような感覚だ。
 正気に返って青ざめた。この場所は忌々しい過去の罪が埋もれている場所。忘れもしない、忘れたい過去。罪から逃げ回る日々の中、常に頭を支配した呪いの場所。
 自ら火をつけたビルは発見が遅く全焼し、周囲数十メートルを巻き込んで焼け野原となった。後に残った骨組みを見に訪れたのは、容疑から逃れるためだ。幸い昨夜自分が会社に残っていたことを知っている者は、被害に遭った二人の他にいなかった。亡くなった女に横恋慕していたことも。
 事件が落ち着くのをじっと待ち、この土地を離れた。奪った金はほんの数万程度なのですぐに使ってしまった。どうしようもない虚しさはこみ上げてきたが、後悔は不思議となかった。感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
 あと一週間で時効だった。指折り数えた。毎晩魘され、見つかるのではという恐怖からようやく開放されるまで、あとほんの少しだったのだ。
 それがどうして、ここに来てしまったのか。
 ――歩いて来れる距離じゃない。この国を出て何年にもなるんだ。気がつかないうちに飛行機まで乗ったっていうのか? 馬鹿な!
”俺が呼んだんだよ”
 風に乗って、ひどく遠くから囁きが流れてきたような気がした。男は振り返るが、何もない。人もいない。昼間の路地はひっそりと静まりかえっている。
 とにかくこの場を離れねば。男が踵を返そうとした時、ようやく自分の足が動かないことに気がついた。
 ――まさか
 非現実的なことは信じない。ましてや自分だって、あの事件で人生を狂わされた被害者なのだ――
 耳鳴りがする。噴き出た汗が重力の力で身体の上を滑り落ちていく。開きっぱなしの口唇と目が乾いていく。荒い自分の息遣い。耳の中に、頭の中に、激しい呼吸の音が充満していく。

 全ての音が、消えた。

 一瞬の間だった。
 目の前に立ちはだかる大きな火柱が、唸り声を上げて空を焼き尽くした。
 男は動かなかった。動けなかった。魅入られたようにビルの前で立ち竦み、今まさに自分を襲わんとしている炎の渦をじっと見つめていた。
「危ない!」
 誰かに突き飛ばされ、男の身体が転がった。そのまま男は動かなかった。恐らく気絶したのだろう、下半身には失禁の跡が滲んでいた。
 男を突き飛ばしたマイクロトフは、立ち上がって炎と対峙した。
「これは……」
 マイクロトフの背筋がざわざわ騒いでいる。
 赤黒い炎がうねり、風に煽られてこの付近一帯を取り囲んでいる。肌を刺す熱の強さは、この炎が幻覚なのか本物なのか判断しかねるほどだった。
 揺らめき踊る炎の奥に、すでに人の形を失った強力な念の塊……
 醜くも禍々しい、全てを焼き尽くさんとする歪みの心。
「よくもここまで……」
 マイクロトフは熱で乾いた口唇を舐めた。あまりの熱さに汗が滴り落ちる。
 カミューの声が聞こえたような気がして、集中させた精神を頼りにここまでやってきた。直感のようなものだった。
 近づくにつれ、怨念の意識を強く感じた。
 これは悪霊だ。それもかつてない強さの。
 自分の力など及ぶはずもない。しかし行かなければならないことはよく分かっていた。
 カミューが自分を呼んだのだ。
 マイクロトフはり両の手のひらを合わせ、指を組み合わせた。その手を目の高さまで掲げ、自分の持つ気の力を集中させる。
 修行を今まで疎かにしたことはなかった。潜在能力の高さは、父からお墨付きをもらっている。それなのに力が形になることはなかった。精神の甘さが原因かと、修行を重ねたが、一向に上達しなかった。霊が見え、声を聞くことができるのに、浄化しきれずに彷徨うかわいそうな霊たちを救ってやることができなかった。
 ――力はある。ならば足りないのは努力。
 マイクロトフは除霊を決意した。目の前にある力はあまりに強大で危険すぎる。濁流が堰を切ったように、溜め込んだ力を出し尽くすまで止まりはしない。
「俺の声などもう届かないだろう。ならば強制的に昇華させる!」
 力を込め、意識を集中させる。集めた気の力を練りこみ、拡大させ、強い念に対抗できるようなエネルギーを生み出す。
 何度も試みた昇華の技術だが、マイクロトフは未だに完成させたことがなかった。
 せっかく集めた気が、練りこむ前に拡散して消えていってしまう。自分の中に溜めておけず、散らばる気をまとめることができない。
 できなくても、やるしかない。マイクロトフはやはり逃げつつある気を何とか掻き集め、自分の周りに留めようとした。
 瞼の裏に真紅が迫る。
 遅い来る炎の渦を、ギリギリ足を掠る程度で避けた。一瞬で漕げた靴の裏から、ゴムの溶けた鼻をつく臭いが漂う。
 避けた拍子にマイクロトフは膝をつき、見上げた頭上で待ち構える炎の塊を睨んだ。再び気を練ろうと手を組むが、集めた気はやはり逃げていく。何が足りないのか。集めることはできるのに、何故留まらない。自問は集中力を欠いていく。
 熱い。熱だけで火傷してしまいそうだった。炎に囲まれる。目を開けていられない。熱い。
 ――呑まれる……
 諦めはほんの数秒だった。
 突然空気がやわらかくなった。熱が薄れ、極度の緊張で硬くなっていた身体の強張りがとれてゆく。
 マイクロトフは目を開いた。振り向くと、想像通りの人物が飛び込んでくるところだった。
「マイクロトフ!」
 安堵で力が抜けていった。
 カミュー。口の中で呟いて、マイクロトフは不思議な気の力が身体の中で充実していくのを実感していた。





この回だけ変な男&マイクロトフ視点で。
この回を人に見せたら「○の蜃気楼?」と言われましたが(えらい懐かしいな)、
どっちかと言うとこの話を書き始めたきっかけは、
コピ本作成前に「雨と夢の間に」のドラマを見ていたからっぽいです。