Good morning,my darling







 ふわり。
 緑の大地が一斉に揺れた。
 通り抜けた風は草の上を滑り、額を撫でてまた彼方へ駆けて行った。
(……ああ……)
 行かなくちゃ、と思う。
 時間なのだ、もうすぐ。
 ……何の。何の時間だったっけ……。
「稽古だ」
 ぼそりと呟いた自分の声が、何だか酷く高く感じるのはどうしてだろう。
 昨日も一昨日も、その前もずっと変わりはなかった。少し寝ぼけている感じだ……いつの間にかうとうとしていたのだろうか。
 まあいい……、そう、稽古だ。早く戻らないと叱られる。先生はもう家に来ているかもしれない。
 ここは見慣れたいつもの草原。ひとりになりたい時にやって来る場所。
 家に戻れば剣の稽古、それが終われば家庭教師、味気ない夕食を終えて部屋にこもる。
 そう、いつも通りの毎日だ。何も変わりはない。なのにこの違和感はなんだろう?
「行かなくちゃ」
 もう一度呟いてみた。……さっきより声がしっくりするような気がする。
 やはり寝ぼけていたのかな。
「行こう」
 自分に言い聞かせるようにしっかりと口に出して、少年は踵を返した。返そうとした。
 そこに黒い髪の、同じような年の少年が立っていた。
「カミュー」
 彼は唐突に時分の名前を呼んだ。
 カミューは思わず後ずさりした。
 こんな子、さっきからいただろうか。
「……誰だい、君」
「これから稽古なのか?」
 彼は真直ぐにこちらを見つめて、しかしカミューの声はあまり聞いていないようだった。
 カミューは少しむっとしながら、「君には関係ないよ」と口にしてみた。
 それは酷く哀しい言葉に感じた。
 しかし少年は気にしていないようだった。
「稽古は好きだったと言っていたな。」
 彼はそう言った。
 「言っていた」とは、以前自分はこの少年にそんなことを話したというのだろうか?
 覚えがないけれど、不自然ではない気がした。
 どうしてだろう、とても懐かしい感じがする。
「……好きだよ。先生はいろんなことを教えてくれるから」
「マチルダの話も、剣の先生から聞かされたと」
「……どうして知ってるんだい……」
 綺麗な瞳の少年だった。
 カミューの呟きが耳に入らなかったように、彼はそっと歩いてきた。カミューの隣まで来ると、おもむろにそこに腰を下ろした。
 カミューは驚いたが、おかしなことではないような気がした。
 それで自分も草の上に腰を下ろしてみた。視界が低くなった分、空の面積が巨大になったようだった。
 並んでこうして座り込んで、この安堵感は一体何だろう。
 前にもこんなことがあったような。でも初めて出逢ったような。
 こんな顔の少年を知っているような、やはり初めて見たような。
「カミューの剣は不思議だった。マチルダで見たような線だとも思ったが、何処か違っていた」
「私の先生はマチルダ出身だったからね……。独学も混じって独特の剣になったんだと思う……」
「初めて手合わせした時は、先読みができなくて終わらないかと思ったぞ」
「それはこっちの台詞だよ……マイクだって直線的なのに小回りがきくし、いつまでたっても疲れないんだから」
 あまりに簡単に言葉が漏れて、ああ、と今更気づいた。
 彼はマイクロトフだ。そうだ、忘れていたなんてどうかしている……。
 ……でも違和感があるのは拭えない……彼の表情ははっきり記憶に残っているのに、こんなにパーツが小さなものだっただろうか……。
「初めはあまり子供の頃のことを話してくれなかったな。」
「え……、……うん、別にいい思い出でもなかったからね……。マイクの子供の頃の話は何度か聞いたよ。」
 マイクロトフがこちらを振り返り、にこりと笑った。
 その笑顔は見慣れたものなのに、見たことのない無邪気さが胸を締め付けた。
「俺の剣はお祖父様に教わったんだ」
 彼は自分の小さな手を見つめていた。
 小さな手。まだ子供である証。カミューだって剣を握ってマメができている小さな手。
 どうして子供の頃の話をしているのだろう。今もまだ子供なのに。
 でも何故かごく当たり前のことで、疑問に思うことがおかしいような気がした。
 きっとずっと前にマイクロトフとこんな話をした。でもその時は子供じゃなかった気がする。……考えても仕方のないことだ、とカミューは納得に身を任せた。
「お祖父様は元マチルダ騎士だったんだよね……」
「ああ、俺を育ててくれた……。騎士にするべくうんと鍛えてくれたぞ。」
「団長からもその話を聞いたよ……。マイクのお祖父様はとても勇敢な方だったと……引退後も老騎士の名で皆に慕われていたって……」
 団長……赤騎士団長。マチルダの赤い服を来た団長……
 マチルダ……話を聞くだけで、行ったことがないはずの土地。
 ここは草の大地、グラスランド。生まれ育った緑の中。
 白、赤、青の三色が旗めく……あれがマチルダ……? この景色は……一体何処で……
「カミュー」
 そっと、マイクロトフが手を伸ばした。
 小さな手が頬に触れ、暖かな感触に目を閉じた。
「お前がマチルダに来てくれて良かった……」





 ***





 ふと、マイクロトフは揺れたカミューの睫毛に手を止めた。
 まだ夢を見ているのだろうか。
 タオルでカミューの顔を拭き終わると、埃が落ちて綺麗な寝顔が現れた。
 久しぶりに見たカミューの安らかな表情に、マイクロトフは微笑みながら緩やかな風を感じていた。