HARD LUCK





(……問題はカミューだ)
 昨日の今日だ、ただでは許すまい。
 今度はそう簡単に納得しないだろう。何たって“約束”したばかりなのだから……
 なんて謝ろうか。
(ひとまず簡単に事情を説明して、帰ってから謝り倒すしかあるまい)
 気が重いが、仕方がない。
 上司に急かされる前に電話してしまわなければ。
 取り出した携帯の一番先頭に呼び出されるかけ慣れた名前……通話ボタンを押してコールが2回鳴るか鳴らないかのうちに、
『もしもし!?』
 少し焦りを含んだカミューの声。
 急いで出てくれることが今回は後ろめたかった。
「もしもし……」
『どうかしたの? もう仕事終わった?』
 電話越しに聞こえる音から判断してまだ会社なのだろう。私用で長々話すとまずいかもしれない。
「それが……急な用事が入って」
『……急って何? それで?』
 早口になるのは機嫌が悪くなった証拠だ。
「それで……今日は寄れそうにないと……」
『……さっき約束って言ったじゃないか』
「……すまん」
『終わったらすぐ来るって』
「仕方ないだろう、仕事が……」
『仕方ないって何だ!? 私より仕事を優先するってことだろう!?』
 思わず携帯を耳から話した。
 会社で喋ってるんじゃないのか。何てデカイ声を出すのだ。
「子供みたいなことを言うな。お前だって分かってるだろう。もし時間があるようなら後からでもそっちに行くから……」
『もし!? 時間があるようなら!? 人をついでみたいに言わないでくれ! 今日はもう来なくていい!』
 一方的に回線の切れる音がして、後はツー、ツーと虚しく余韻を残す携帯の電源をそっと切る。
 やはり怒らせてしまった。それも相当こじれた。
 これは明日一日くらいで機嫌を直してもらうのは難しそうだ。
(でも謝るしかない)
 元はと言えば約束を破った自分が悪いのだから。
 しかし、それにしてもあんな聞き分けのない子供みたいなことを言って……
「マイクロトフ」
 背後からトーンの低い声をかけられてびくっと全身が竦んだ。
「支度はいいか。そろそろ出るぞ」
「は、はい……」
 いちいち反応してしまうのはやはりカミューと声の質が似ているからだ。
 もう5年も経てばきっとカミューもこんな声になる……
(……なんて言ったらまた怒り出すのだろうな、あいつは……)
「呆っとしていないで行くぞ」
「はい」
 彼が上司の顔になる。
 仕事中は流石に上に立つ者の表情を崩さない。
 それがゆうべ、ふいに一人の男の顔になった。
 自分をからかう対称にしているというのは認めるが、常に真剣な態度を取らなくてもよい頃だと判断したのかもしれない。
 確かに昨夜の事はかなり驚いたが、向こうは外国帰りだしな……俺の反応をおもしろがっているのだろう。カミューもそういうところがあるからな。
 あんなスキを見せなければ大丈夫だ……ましてや昨日はカミューの兄だと聞いたばかりで俺も動揺していたのだから。
 まずは明日にでもカミューに頭を下げて、安心させてやらないと。
 そんなことをずっと考えていたため、取り引き相手の話が思うように耳に入ってこなかった。
 集中しなければ、と思ってもカミューの怒った顔が浮かんでしまって……
「マイクロトフ」
 はっとして気づくと、冷たい風が身体を通り抜けて行った。
 いつの間に外に出ていたのだったか。
 横に立つ上司は少々呆れていたようだった。
「その様子だと、たった今見送りに店を出たことも分かっていないみたいだね?」
「あ……そ、その……」
「随分散漫だったな」
「……」
「何の為に君を連れて来たのか分かってはいるだろうね?」
 穏やかながらじっとりと絡み付くような目で睨み付けられて、すっかり小さくなってしまう。怒られるのは当たり前だ。
 はっきり言って話も何もほとんど覚えていないのだから。
 ひとつのことしか考えられないのは悪い癖だ。
 何の為にカミューを怒らせてまで彼に同伴したのか。
「すいません……」
 謝って済むことではないと分かっていても、それしか方法が分からなくてひたすら頭を下げた。
 情けない顔の自分を見下ろした彼は、表情を変えずに言葉を続けた。
「対人関係でトラブルを起こし易いのが君の弱点だ。真正面からぶつかっていくのは友人同士ではいいかもしれないが仕事が絡むと面倒なことになる場合もある。それを教えるために呼んだんだけどね」
「本当に……すいませんでした……」
 やれやれと軽くため息をつかれ、思わず見上げた彼の顔は、出逢った頃の無機質なカミューによく似ていた。
 一瞬背中をむず痒い感覚が通り抜けた。
「まだ仲直りしていないのかい?」
「え……」
「それでぼーっとしていたんだろう」
「……」
 やはりこれは喧嘩というのだろうか。
 でも夕べはともかく、今日の原因は自分だと分かっているのだから、喧嘩とはちょっと違う気がする。
「あれは機嫌を損ねると時間がかかるからね」
「はあ……」
「あの年になっても子供っぽくて困るよ」
 彼の口からそう言われると本当にカミューが子供っぽく見えてくる。
 この兄弟は確かに似ているが、並ぶと何かが……余裕というものの器が根本的に違うような気がするのだ。
 カミューだって同年代の男と比べたらかなり落ち着いたほうだと思うのだが(……と言っても飽くまで外面の話、自分の前ではあの通りだ)、それでも彼が自分たちと同じ頃を想像すると更に上を行っていた気がする。
「カミューは余程君を気に入っているみたいだね」
「え」
「昔から一生懸命になることが少ない子だったからね。カミューとのつきあいはどのくらい?」
「……そんなに長くは……」
 まだ出逢って一年経つか経たないかだ。
「……あの子は大切なものを守ろうとするとついつい意固地になる癖がある。取り上げられる悔しさを知っているようだから……淋しい子なんだよ、カミューは」
「……」
 大切なもの……
 それは今、自分のことなのだろうか。
 あんなにムキになって俺を守ろうとしてくれている。それがよく分かる。
(馬鹿だな……)
 不安がることなんかないのだ。淋しい思いなんかさせやしないのに。
 それにこんなふうにカミューのことを俺に話してくれるなんて、きっとカミューも彼の事を誤解しているのだ。
 彼も兄としてカミューのことを案じているに違いない。でなれば俺にこんなことを言わないだろう。
 カミューを安心させなくては。
「……今日はもう失礼します。」
 カミューに逢いたい。
 今から行っても部屋に入れてくれるかどうかは分からないが……。
「気をつけて」
 珍しくあっさり帰してくれるらしい上司にもう一度頭を下げて、歩くのももどかしくその場を駆け出した。
「あれの悔し涙を見るのはね……」
 だから、その時はすでに背を向けて走り出していたので、彼の言葉がまだ続いていたことは知らないままだった。
「たまらなく可愛くてやめられないんだよ」
 その親指を口唇にそっと押し当てて。





兄の登場はここまで。
兄の描写を削ったのは、
あんまり兄について長々書くと
マイクがふらふらついてっちゃうので(爆)