部屋に戻ったカミューはインターホンも鳴らさずに、持ち歩いていた鍵でドアを開けた。 グレンシールは相変わらず寝ているだろうから、起こして不機嫌にさせるのも面倒だったからだ。 ところが中に入ると、自分の分だけさっさと布団を敷いて寝転がっていたグレンシールの姿はなく、抜け殻のような布団だけが残されていた。 「何処に行ったんだ?」 思わず声を出して呟く。鍵も持たずに、自分が戻ってこなかったら部屋に入れないというのに。 下手をすると宴会の間中も寝ていそうな雰囲気だったのだが……カミューはそれ程秘録はない部屋を義務的にぐるりと見渡すと、まあいいかというように床に腰を下ろした。 グレンシールがいないのならこの場で電話をかけても構わないか――帰って来たら今度は自分が出て行けばいいのだ。 カミューは再び二つ折りの携帯を開いた。 ふらつくフリックに手を貸しながら、マイクロトフはおみやげコーナーでふと足をとめる。 「……? どうしたんだよマイクロトフ……」 「いや……」 反射的に出た声は音のみの返事だった。 マイクロトフはおみやげコーナーの中で熱心に土産物を見ているらしい男性の姿を凝視する。 (あれは……) 金髪で背の高い、ちょっと冷たい感じのする綺麗な顔の男……以前、マイクロトフの姉が経営するカクテルバーのバイトの青年におかしなちょっかいを出していた男だ。 あの時は突然指輪なんぞを取り出して度胆を抜かれたものだが、その後に彼が呟いた言葉をマイクロトフはまだ覚えていた。 『くそ、カミューめ……』 それが自分の知っている――恋人であるカミューだという保証はどこにもないのだが、妙に胸が騒いだあの日を思い出す。 あれはカミューとこんな関係になるもっと前野ことだったが、あの頃から自分はカミューを気にしていたのかもな――マイクロトフは何も気づいていなかった昔を懐かしく感じた。 「マイクロトフ、土産が欲しいのか? 明日にしろよ」 的外れなフリックの言葉にはっとして、マイクロトフは立ち止まったことを詫びた。 離れているから余計に逢いたいのだろうか…… カミューはどうしているだろう。電話をすれば少しは喜んでもらえるかもしれない……ほんの少しでもいいから。 「あ」 「今度は何だよ、マイクロトフ」 「携帯を部屋に置きっぱなしだった」 「誰かに電話でもすんのか?」 ストレートに聞かれると言葉が詰まる。やましいことではないのだが。 「い、いや、近くにないと不安だろう」 「しょっちゅういろんなとこに置き忘れるくせに……」 「す、好きで忘れている訳ではない!」 「まあいいや、じゃ取ってこいよ。俺、先に会場行ってるぞ」 「出ない……」 カミューはぽつりと呟くと、虚しく携帯を閉じる。 (もう6時になるのに……) いつもならつながる時間だ。まだ終わらないのだろうか。それとも、ひょっとしてまた何処かに携帯を置いて来たのか……。 (でも自宅にかけても出ないし) 壁に背を凭れさせて両脚を投げ出して、カミューはぼんやり空を見上げる。 ほんの少し電話が通じなかっただけでこんなに辛いなんて。 こうなるとますます声が聞きたくなる。もっとちゃんと土日の予定を聞いておくんだった――カミューはいたずらに過ぎる時計の針を恨めしそうに見つめた。 (まてよ、土日……?) 土曜だけならまだしも日曜も……? そんな大事な仕事があるなんて聞いていないのだが。 (本当に仕事なのか……?) そういえば土日の予定を聞いた時、マイクロトフの返事は曖昧だった。 たとえまだ会社だとしても、携帯の着信履歴に気づいていないのだろうか……空き時間にかけ直してくれてもいいんじゃないのか。こんなに何度も鳴らしているのに。 (もし仕事じゃなかったら……) ――マイクロトフが嘘を? いや、そんなはずはない。マイクロトフに限ってそんなことは、大体嘘をつける程器用な人間じゃないのはよく知っている。 やっぱり仕事で頑張っているはずだ。たまたま気づいていないだけかもしれない。また時間を見つけて電話しよう……。 その時、インターホンが鳴った。誰だろうと考えることなく、のろのろと立ち上がったカミューはドアを開けた――その向こうに土産袋を手に下げたグレンシールがいた。 その不自然な格好に、カミューは露骨におかしな顔をする。 「……何してたんだ?」 「見て分からないのか」 見て分かるから聞いてるんだ、とカミューは続けたかったがやめた。 グレンシールはずかずかと中に入り、少ない荷物を詰めていた鞄の中へとその土産物を詰め込み始める。 箱の形とここの場所柄を考えて温泉饅頭か何かだろうが、ひとつではなく5箱はあるようだ。 「そんなにお土産買ったのかい……?」 「悪いか?」 「いや……」 意外に交友範囲が広いのだろうか。それにしても饅頭の似合わない男だ。 「まあいいや……グレンシール、そろそろ大広間に行こう。ビクトール先輩は遅れると煩い」 「……」 グレンシールは口の中でぶつぶつ文句を言っているが、とりあえず宴会には顔を出すようだ。 カミューも切り上げ時のみき訳が大事だな、と馬鹿騒ぎにうんざりしながら携帯をポケットに入れる。 早く電話の続きをかけたい。 「な……!?」 携帯を開いて思わず声が出た。 マイクロトフは画面に表示された“着信15回”の文字を凝視する。慌てて着信内容を開くと全てカミュー。風呂場へ向かった辺りからずっと一定の間を置いて電話をかけてきている。 (まさか何かあったのか……!?) こんなに必死でかけているのに一度も出ることができなかったなんて。 (緊要に電話した時は元気だったのに……) 急に具合でも悪くなっただろうか。カミューは病院が嫌いだしな……マイクロトフが急いで書け直そうとした瞬間、マナーモードになっていた携帯が手の中でぶるっと震えた。 「もしもし!?」 相手の確認もせずに耳に当て―― 『マイクロトフか? 何やってんだお前? 早く下りてこいよ』 フリックの声と分かってがっくり肩を落とす。 「あ……、ああ、ちょっと……」 『お前がいないと女どもの機嫌が悪いんだよ。早くしろって』 「う……あの、少し遅れても……」 言いかけると電話の向こうの相手の声ががらっと変わった。 『もしもーし? マイクロトフー? 早く来なさいよー! 来ないと吐くわよー!』 この声はアニタだ。あれからずっと飲んでいたのだろうか、すでに出来上がってしまっている。 マイクロトフはかん高い声に思わず受話器から耳を離した。 「分かりました、行きますから!」 やや乱暴に電源を切り、渋々立ち上がる。 今度は肌身離さず持っていよう――いつカミューから電話が来てもいいように。 マイクロトフは携帯を握りしめながら、早々に宴会が落ち着くことを切に願った。 早くカミューにかけ直したい。 *** 「かんぱーい!」 宴会部長ビクトールの音頭で、馬鹿騒ぎの幕が落とされた。社内で1、2を争う酒豪のビクトールとオウランの直接対決に、場のテンションも異様なスピードで上がって行く。 そんな喧噪を少し離れた位地から、ビールをちびちび舐めつつカミューはやれやれと眺めていた。 はなからこれで全員もつのだろうか。酔っ払いの余計な後始末をさせられる前に何とか退散しなければ。 「カミューさあん、飲んでますかあ!」 ふいに無防備だったカミューの背中に誰かがしなだれかかってきた。見ると今年入社したばかりの女性社員ニナである。所構わずカミューにアプローチをかけてはエミリアに睨まれている怖いもの知らずだ。 「ニナちゃん、飲み過ぎだよ」 「だいじょーぶでっす!」 すっかり酔っ払いだ。普段でさえ相手をするのが疲れるのに、こうなると手に負えない。 「部屋に戻ったほうがいいよ」 「カミューさんがお姫さまだっこしてくれたら戻る〜」 駄目だこれは。カミューは最後の手段を使うべくエミリアに視線を送った。素早くそれをキャッチしたエミリアは、彼女を知的に見せている眼鏡を光らせてつかつかとやって来る。 「ニナさん、折角の交流の場なんだからあなたに話したいことがたっくさんあるわ。まずは報告書の書き方からじっくり話し合いましょうか」 独特の迫力にはカミューも怯んでしまう。不服そうにカミューにしがみついたニナの襟首を掴み、ずるずると引きずって離れて行った。 「始末書の書き方もね」 「あ〜んカミューさあ〜ん」 苦笑いしつつ2人を見送って、カミューはやれやれと周りを見渡す。今なら少し抜けられそうだ……また余計なのがやってくる前に、とカミューが立ち上がろうとした時、カラオケのステージを一人占めしていたビクトールがマイクで声を張り上げた。 「カミュー! お前、歌え!」 「ええっ!?」 浮かしかけていた腰がびくりと止まる。どうして目敏く見つかるのか。 「先輩命令だ、歌えー!」 ビクトールの提案に、先ほどからお世辞にも上手とは言えない熊歌を聴かされていた一同がわっと手を叩く。こ、これはうまくやり過ごすことが難しい――カミューは観念した。 渋々と差し出された本の中から歌えるものを選び、ビクトールやオウランにどつかれながら簡易ステージに上げられる……自分のいた場所に置いて来た携帯を気にしつつ。 しかしその一曲だけでは済まされず、次々とオウラン、エミリアとのデュエットを強制させられることになるのだった…… (出ない……) マイクロトフはとうとう諦めて電源を切った。時刻はまもなく8時、宴会も大分盛り上がってきている。 その騒ぎの目を盗んで廊下で電話をかけているのだが、一向にカミューは出る気配がない。 まさか本当に何かあったのでは。先ほどまであれだけ電話をかけてきていたのに、いざかけ直すと出ないなんて。 ひょっとして怒らせてしまっただろうか。マイクロトフは項垂れる。 これ以上会場から抜け出しているとまた煩く言われそうだ……観念したマイクロトフは広間に戻ろうとした、その途中通り過ぎたもうひとつの大広間から物凄い音量の音楽が聴こえて来る。 どうやらカラオケが行われているらしい。ここも何処かの会社の慰安旅行だろうか……。 間奏部分のみをBGMに、歌声は聴くことなくマイクロトフは広間のドアを開けた。相変わらずの騒がしい雰囲気に今日はいささか疲れてしまっている。 「あっ、何処にいってたのよ!」 戻って早々にアニタとバレリアに両腕を掴まれた。何事かとフリックを目で探すと、彼は遠くから御愁傷様と両手を合わせている。 「去年の忘年会では逃げられたからね。今日こそ飲み比べといこうじゃないか」 「ええッ!? お、俺は強くないです!」 「酔わせる楽しみがあるやつのほうが面白い」 バレリアがさらりととんでもないことを言い、マイクロトフは無理矢理2人の間に座らされた。握っていた携帯を何故か取り上げられ、完全に戦闘体勢だ。 「あ、あの、本当に俺は……」 「よーし始めるよ!」 わあっと女性達が集まって喜ぶ。こういう時、男達は役に立たない――広間の隅っこで申し訳無さそうに小さくなっているフリード係長を見て、マイクロトフは気の毒になってきた。 そうしているうちの自分の前にもビールがつがれたコップが置かれる。仕方ない、とコップを握る。昼間から飲んでいる2人だ、少し相手をすれば潰れてくれるだろう…… マイクロトフが大きく目算を誤ったことに気づくのはまだ先のことである。 カミューは連続5曲の熱唱(?)を終え、へとへとになって元の席へと辿り着いた。まだだと追い縋ったビクトールにさりげなく演歌をリクエストすると、彼はすっかりその気になって再び独占ステージが始まったのだった。女性陣の非難は激しいが、今のカミューには救世主である。 しかし戻って来たカミューは頭をがんと殴られた錯覚を覚えた。 (着信!) あろうことか自分が歌わされている間に、5回もマイクロトフから着信があったのだ。 (不覚……!) しかし着信があったということは、マイクロトフの仕事が終わったということだろう。ひょっとしたら何も知らずに自分のマンションに向かったりしているかもしれない――カミューは慌てて広間を抜け出そうとした。 すると引き戸のところに若い男の顔が覗いている。誰だ、とカミューは目を凝らすが見覚えは全くない。どうも部外者のようだ。 どうやら彼はドアの付近にいる女の子に声をかけているらしい。わざわざ出張ナンパか、御苦労なことだ……とその横を擦り抜けた。彼が一瞬こちらを見て眉を寄せたが、特に気にせずカミューはようやく廊下へ出る。 傍の広間でも歓声と笑い声が聞こえて来る。昼間見かけた女性達を含めた連中だろうか。どこも馬鹿騒ぎは一緒だな、とカミューは静かなホールまで脚を運んだ。 幸いホールに人気はない。早速カミューはマイクロトフに電話をかけた…… 「……」 出ない。出ない。……出ない。 何度ならしても出ない。着信履歴はついさっきのことだったというのに、今かけ直して出ないとはどういうことか。 もしやと思ってマイクロトフのアパート、自分のマンションにもそれぞれ電話をかけてみるが反応は同じである。 「くそっ!」 とうとうカミューは携帯をホールのソファに叩き付けた。 |