WORKING MAN





「おや、今日は1人かい? マイクロトフ」
 カウンターの定位置にやって来た自分を見て、この店の経営者である姉レオナが煙草を吹かしながら近付いて来た。
 相変わらず煙草のやめられない姉を諌めるように見つめると、はいはいと苦笑された。口ばかりで実際禁煙したところを見たことがない。
「あんたも父さんそっくりで煩くなったわねぇ。眉間に皺が寄ってるよ」
「煩く言われる前にやめる努力をしてもいいんじゃないか?」
「はいはい、で、何か飲むかい?」
 うまく話をはぐらかそうとする。
 まあこの場であまり言うことではないので渋々黙認するか…。
「何でもいい。今日はそんなに長居しないから」
「そうかい。…アレン、さっきまで練習してたの作ってごらん。」
 姉の声に黒い髪の青年が緊張の面持ちを見せた。
 最近入った子なのよ、と姉が教えてくれる。…どうやら自分は練習台になるようだ。
 この店は、落ち着いた雰囲気が気に入ってたまに飲みに来る。まあ、姉の店だから馴染みやすいというのが本当なのだろうが、騒がしい場所があまり好きではないので自分には丁度いいのだ。
 やってくる客の年齢層も割と広く、自分も同僚のフリックを連れて何度かやって来たことがある。
 姉が今日は1人か、と聞いたのはそういうことだ。
 店内の音楽は煩くもなく、人の話声に合わせて心地よく流れて行く。
 その音楽にぽっかりと空間が空いたような、そんな感じで飛び込んで来た女性の声。
「カミュー?」
 その名前が誰の者であったか、と考える前に、弾かれた首がたった今店に入ってきたばかりの彼に向けられた。
 彼が驚いた顔でこちらを見ている。…カミュー。
 おかしな顔をしてしまいそうだったので慌てて軽く会釈した。
 彼も頷くように挨拶を返してくれる。
「知り合い?」
 姉がカウンターからちらっとカミューを一瞥した。
「ああ…」
「随分といいオトコだねえ。…マイクロトフ、何嬉しそうな顔してるんだい」
「…別に…」
 そう答えながら、つい苦笑いが零れてしまうのを押さえられなかった。
 これで一体何度目の偶然だ。示し合わせた訳でもないというのに。
 何度目かは忘れてしまったけれど、初めて彼が自分を見ても露骨に嫌な顔をしなかった。
 それだけで喜べるなんて、やはり自分は相当単純にできているのだな。



 ***



「おかえり」
 再び席に着いた自分に、姉がそ知らぬふりで声をかけた。
 どうも男二人で神妙に話し合っていた様子をすっかり見られてしまったようだ。…別にやましいことはないのだから平気だが、こっそりと探りを入れられるのは少し苦手だ。
「知人なんだ」
「それはさっきも聞いたよ。…もう帰るみたいだね」
 姉の言葉に振り向くと、確かにカミューは女性を連れて店を出ようとしているところだった。
 自分のせいかもしれない。また先程のような苦笑いが漏れた。
「…女をとっかえひっかえしてそうな感じだねぇ」
 姉の言葉に軽く吹き出した。
「でも悪い奴ではないんだ」
「そうなの? あんたの友人にしちゃ珍しいタイプに見えるけど」
「…友人じゃない。俺は彼に嫌われているんだ」
 するりと、事も無げに口を着いた言葉に、姉は不思議そうな顔をして自分と言えばまた苦笑いをした。
 あれだけ自覚するのが嫌だったというのに。
 彼のおかげでどんどん自分を変えなければならなくなってしまった。だからこそ、感謝なんて言葉を選んだのだけれど。
 もう自分に無理をするのはやめよう。
 彼は自分を迷惑がっている。
 それなのに、彼こそ無理をして話を合わせてくれた…それに気づかないほど鈍くもないし御目出度くない。 もうそれで充分ではないか? これ以上迷惑をかける必要もないだろう…。
「もう少ししたら帰るよ」
「ああ、また同僚でも連れといで。」
 普通に笑おうと思ったのに、何故か今日は苦笑いをすることしかできなかった。
 きっと残念なのだ。彼との偶然をよいものにできなかったことが。
 そして淋しいのだ。…もう、無闇に尋ねたりするのはやめよう。
 鍵をすぐに返すことができないのは心苦しいが、あの小さな鍵ひとつなくなったところで彼は不自由していないようだ。悪用されなければ大丈夫だろう…しばらく持っていることにしよう。
 そして、また何度目かの偶然が起こったら…その時こそ必然と思って、鍵を返すことにしよう。
 いずれこうして会ったことも忘れてしまうのだろうな。
 残念だな。



 外に出ると軽く小雨が降っていた。傘をさすまでもないが、じっとしていたら風邪をひいてしまうだろう。
 本降りになる前に早めに帰るとするか…。
 小走りに帰路を急いだ。
 彼はもう帰宅しただろうか。…女性と一緒だったから、まだ帰っていないかもしれない。もしくは彼女が部屋に来ているのだろう。
 彼女は新しい恋人かな。別れた彼女はどうしているかな。
 こんなふうに気にかけるのも最初だけで、自分だって少し経てば彼らのことを忘れてしまうかもしれないのに。
 まだ少し淋しいと思っている自分がいる。



 ***



 一晩ぐっすり眠って、いつものように朝早く目を覚ました。
 会社に向かう支度をしながら朝食を口に運ぶ。
 普段と全く変わりない様子で会社に着くと、フリックが声をかけてくる。
 当たり前の一日を忙しく過ごして、また帰宅して。
 こうしていろんなことを忘れて行くのだな、と思った矢先だった。
 ようやく手元に落ち着いてまだ日数の経っていない携帯が、スーツを着替えている時に音をたてた。
 シャツのボタンを中途半端に外したまま携帯を取りに行き、表示された着信の電話番号に首を傾げる。
 見たことがない。
 不審に思いながらも通話ボタンを押した。
「もしもし」
『……』
「…もしもし?」
 イタズラか、と切ろうとした瞬間、
『……もしもし…』
 低い声。電話越しの変質したこの声は聞き覚えがある。
 声は、躊躇いがちに私だけど、と続けた。
 驚きでどう返事をしたら良いのか分からなかった。
 …カミュー。





こ、ここでとめるのはどうかな…。
カミューさんはマイクの番号をこっそり控えていたのです。
一応予定では次が一番目のヤマ。
ヤマは全部でみっつかよっつ。(そんなにあんのか)