WORKING MAN






 何をやってるんだ私は。
 何をやってるんだ。



『…話があるんだけど』
 何を言ってるんだ。
『ちょっと、出て来れないかな』
 馬鹿なことを言うな。
『迷惑じゃなかったら、うちに』
 絶対来るに決まってる。
 あの性格だ、躊躇ったとしても絶対に来る。それが分かっていて、どうして私はあんなこと言ってしまったんだ。
 休む暇もないような、落ち着きのない酒を流し込み続ける。
 もうすぐ午前0時。今彼が来たら、終電がなくなる。



 ***



 電話をしてきっかり1時間後、彼が階下でチャイムを鳴らした。
 呼んだのは自分だから、ドアのロックを躊躇わずに外す。
 本当は躊躇った。でも声に出さないようにした。
 彼がエレベーターを使って11階まであがってくるのに、さほど時間はかからなかった。


 ドアを開けると、予想より彼は普通の顔をしていた。
「すまない、遅くなった」
「…いや…」
 礼儀正しく靴を揃えたマイクロトフは、こんな時間に呼び出したことについて何も不思議がっていないような素振りだった。
 適当に座るよう勧めると、備え付けのソファに腰を下ろす。前にもこんな光景を見た。つい2日前のことなのに、ずっと昔のように感じる。
「時間が遅かったから何も手みやげがなかったんだ。すまないな」
「いいや、そんなものは…」
「随分ひとりで空けたみたいだな。身体によくないぞ」
 マイクロトフがテーブルを占領している空き缶の数を数えている。
 私は彼と目を合わせないように、背を向けて床に座り込んだ。
「…さっきまでお前の彼女と会ってたよ」
「……」
 マイクロトフはこちらを見たようだった。
「“元”カノジョか」
「……そうか」
 特に驚くでもなく、当たり前に返事を寄越したマイクロトフにカッとなる。
「とんだ女だ」
「……」
「オトコの基準は金と顔だ」
「……」
「お前、騙されてたんだよ」
「……、そうか。」
 思わず振り返った。
 マイクロトフは怒った様子も哀しい様子も困惑さえ見られず、何気ない会話をしているようなそんな普段の表情だった。
 顔色の変わらない彼に、自分が自然と早口になっていく。
「分かってたのか? あの女がお前とつきあう前から他の男と関係があったのを」
「……」
「その時つきあってた男よりもお前のほうが価値があると思ったから、お前が鈍感なのをいいことに二股かけてたんだよ」
「……」
「それが何かの拍子でお前にバレたと勘違いした。ひきとめてもらえると思って別れ話を持ち出したら、お前があっさり身を引いたから勝手に憤慨してたんだ」
「……」
「その後でつきあってた男の借金が分かって、ヨリ戻そうとしてお前に電話したんだ」
「電話?」
「……私が取った」
 沈黙以外の返答に、つい気まずくなってまた目を逸らした。
 彼にとって決してよい話ではないはずなのに、どうして余裕がないのは私のほうなのだろう。
 ……こんなはずではなかった。
「お前が、携帯を喫茶店に置いていった時」
「……あの時か…」
「その時はどうでもよかったけど、後でお前があんまりあの女のことを賞賛するから」
「……」
「どんな女か興味を持ったんだ」
 ……どんな女だって構わなかった。
 適当に落として遊んだことを彼が知れば、ショックを受けると思ったんだ…最初は。
 なのに、どうしてこんなふうに。こんなはずじゃなかった。
「最初は警戒してたみたいだけどね、私の勤め先を聞いたら態度が変わったよ。寧ろ向こうから会いたがってきた。お前の部屋には一度も入れたことがないんだろう?」
「……ああ」
「お前がそういう女のほが好きだと思って猫被ってたみたいだな。本当に、気づかなかった?」
 皮肉めいた視線を向けようとしているのに、どうにも表情が強張ってしまう。
 どうしてだ? 彼が少しでも落ち込んだ表情を見ることができれば、それで私は満足するはずだったじゃないか。
「……、ああ…」
 マイクロトフは表情を変えずに、いや微笑ともとれるような穏やかな顔で静かに返事をした。
 その様子に思わずほっとしている自分がいる。
 彼は傷ついていない。……何故それに安心するのか自分は。
 こんなはずじゃない。
 彼を傷つけたかった。
 こんなはずじゃない。
「あんまり煩いから会ってやることにしたんだよ。表向きはお前のことでの相談だったけどな。大人しそうな顔して、大した女だ。どうやら私は当たりだったみたいだな。電話よりもまた更に態度を変えた」
 マイクロトフを見る。……彼は変わらない。
「ちょっと誘ったら、簡単にホテルについてきた。」
 マイクロトフを見る。……彼は変わらなかった。
 その静かな姿勢はどこか潔かった。裏腹に醜かった酷い女を思い出して、冷静でいたいのにまた怒りがこみあげてきた。
 馬鹿な男だ。あんなに簡単に騙されて。あんな女を信用して。
 一度会ったばかりの男の前ですぐに服を脱ぐような女を。
「安心しなよ、彼女には触らなかったよ」
 適当に遊んだって良かったのだけれど。
 ひたすらに腹が立ったのだ。

『そうやって、いろんな男を騙してきたわけだ。……マイクロトフも』

「面倒だったからな、関わるのが。お断りして出て来たよ」
 私が抱いてやる価値なんかない女に。

『このまま私とつき合えるとでも思ったのかい。身の程知らずだね。』
『君のような女性にひっかかるほど馬鹿じゃないんだよ、私は。』
『でも君はその馬鹿な男を散々傷つけた。見た所反省もしていないようだ』
『私は君みたいな女が一番嫌いだから……遊んでもやらない』
『 演技しなくていいよ。悪いけど、女の涙も裸も見慣れてるんだ』

 腹が立つ。
「お前、騙されてたんだよ。」
 さっきと同じ台詞に、
「……そうか」
 マイクロトフは頷いた。
 我慢ができなくなって立ち上がった。
「“そうか”!? それでいいのかお前は!? お前、あの女が好きだったんだろう! 惚れた女にころっと騙されて、それで許せるのか!?」
「……そうだな」
「怒らないのかお前は! あれだけ信じてたのに、最初から最後まで騙され続けて! 初対面の私の前であっさり裸になるような女だぞ!?」
「……カミューは、俺のためにしてくれたのか」
 ひく、と出かかった言葉を呑み込んだ。
 思わず身体が固まってしまったから、きっとおかしなポーズになっているだろう。
「わざわざ、知らせてくれたのか」
「……」
「有難う」
 ……、違う……。
 違う。違う。こんなはずじゃない、こんなはずじゃなかったんだ。
 彼を傷つけたかったのに、私は彼が傷つくのを恐れている。
 そして落ち着いて私の話を聞く彼に乱されっぱなしだ。
 “彼のために”?
 こんなつもりじゃなかった……
「彼女のことで迷惑をかけた。いろいろ、すまなかったな」
「……私のことも簡単に信用するんだな。もし私が嘘をついてたらどうする気なんだ。ただお前が憎たらしくて、でたらめ言ってるだけかもしれないぞ」
 出逢った頃なら感じなかったはずなのに、……彼の返事を怖がっている自分がいる。
「カミューはそんな男じゃない」
「――……」
「お前はこんな嘘をつかない」
 そして、彼の返事に安堵する自分がいる。
 これ以上拒否できない。
「このために呼んでくれたのか。すまなかった。お前も忙しいのだろう?」
「……いいや……」
 きっと酷く変な顔をしている。予定では、こんな顔をしているのはマイクロトフだったはずなのに。
 彼は寧ろ晴れやかな顔で、夜分遅くの来訪を詫びながら立ち上がっている。
「話は分かった。長くなってしまったな、俺はもう失礼する」
「え…」
 時間を気にすることもなくさっさと玄関に向かうマイクロトフに、呆然としながらも慌てて後を追った。
 マイクロトフは揃えた靴に足を通しながら、もう一度振り向いて笑顔を見せた。
「カミュー、有難う」
「……」
「俺のために怒ってくれて」
「……!」
 最後の挨拶は耳に入らなかった。
 閉じられたドアの向こうの足音が、エレベーターに乗って消えてなくなるまで、そこから動くことが出来なかった。
 終電はもうない。
 泊まっていってくれても構わなかった。
 ……こんなはずじゃなかった……。





……変な話……。
しかしリーマンを書き始めた時に
このシーンが一番書きたかったと言うと怒られるでしょうか。
いや、一番じゃないなあ。3番目くらい…。
いつのまにかマイクロトフの仇討ちをしてしまったカミューさん。
そろそろ仲良くさせてみようかと。
マイクがやたら落ち着いてるのは理由があるのですが、それは次の話で。