エレベーターが地上に戻り、開いた扉に一歩踏み出すと、乾いた靴音が脚を止めさせた。 ひとつ所在のないため息をつき、ドアのロックを外してマンションの外に出れば、人気も少ない夜の景色が広がっている。 さて、と歩きかけて、ようやく今の時間に気付いた。――そういえばすっかり終電はなくなってしまっている。 マイクロトフは思わずたった今出て来たマンションを振り返り、11階あたりを見上げてまたため息をついた。 どっちにしろあのままいることはできなかっただろう。 仕方ない。 いつものように胸を張るのではなく、どちらかというと背を丸めてとぼとぼと歩き始める。 風はそれほど強くもなく、雨が降ってくる様子もない。 それでもこのまま歩いて自宅に戻るには、少々くたびれる距離だった。 車通りの多い所でタクシーでも拾おうと、マイクロトフは力なく歩き続けた。 乗り込んだタクシーは無口なドライバーで、行き先を告げると小さな返事を寄越してそれっきり口を開かなかった。 窓の向こうに流れて行く景色をぼんやり長めながら、何気なくマイクロトフは携帯を取り出す。 着信履歴を呼び出す。最初に表れた番号は、先ほど自分を呼び出したカミューのものではなく、しっかり頭に記憶していた番号だった。 カミューから電話があり、支度を始めた時に再び着信音が鳴った。 何気なく出るには少し勇気がいる番号だった。 彼女と話すのは別れて以来で、泣き声の混じった様子は今でも少し愛おしく感じる。 『お前、騙されてたんだよ。』 カミューの行ったことが本当なら、彼女は自分に嘘をついたことになる。 『初対面の私の前であっさり裸になるような女だぞ!?』 でも、カミューが嘘をつくとは思えない。 それで彼にメリットがあるものか。…いや、それ以前に彼は彼女が言うような男ではなかった。彼があんなくだらないことをするはずがない、彼女よりも自分のほうが彼に会った回数が多いのだ、それだけは自信がある。 人を見る目は確かにないかもしれないが… 「……」 騙されていたのか。 全く情けない、他人に言われるまで確実なことが分からないなんて。 こんなふうに落ち込むということは、やはりまだ彼女のことを好きだったのかもしれないな。 だけどそろそろ前を向かなくては。 「…窓を開けていいですか」 「…どうぞ」 手動で開けた窓の隙間から、冷たい風が流れ込んで来た。 あのままカミューの部屋にいなくてよかった。 きっともっと情けない姿を見せてしまっただろう…二度と彼に顔向けできなくなってしまいそうなほど。 見慣れた番号の着信履歴、登録画面に戻してその番号をそっと削除した。 そして二番目に表れた着信履歴、再び登録画面を開き、静かに文字を登録する。 “カミュー”と打ち終えたところで、しっかりと保存キーを選択した。 *** 「機嫌がいいな」 同僚の声に振り向く。帰り支度を始めていたマイクロトフは、すっかり帰る準備の出来上がったフリックに小首を傾げてみせた。 「そうか?」 「ああ、ここのところミスも少なかったじゃないか。何かいいことでもあったか?」 「いいこと…」 マイクロトフは微苦笑して、フリックから視線を逸らす。 「そうでもないが」 「そうなのか? まあいいさ、久しぶりにつきあわないか?」 「…うーん、すまない…今日は、ちょっと」 「なんだよ、この前ドタキャンした埋め合わせはいつしてくれるんだよ」 「あれは本当にすまなかった、この通りだ」 突然姿勢を変えて深々と頭を下げるマイクロトフに、フリックは頭を掻きながら困ったように眉を寄せた。 そんなに大袈裟にするなと言い残し、用事があるなら仕方ないからと逆にマイクロトフを宥めるハメになる。 「まあ、そのうちまた飲みに行こうぜ」 「ああ、必ず」 じゃあな、と去っていったフリックを見送った後、さてとマイクロトフは時計を見る。 この時間なら大丈夫だな。 例のケーキ屋の閉店時刻に充分間に合うだろう。 真夜中にカミューのマンションを出た日から一週間、そろそろ何かコンタクトを取ってもよい頃だろうか。 「あ、しまった、鍵…」 少し前までカミューの合鍵をしまっていた内ポケットには、金属の手ごたえはなかった。 彼との交流を諦めた時に、落とすといけないと思って自宅に大切に保管してしまったのだった。 (ついでに返そうと思っていたのだが…) もう一度時計を見て、ふっとため息で吹っ切れた。 仕方ない、鍵を返すのはまた今度だ。 ――また、会いに行けばいい。 今日はケーキ屋に寄ろう。…そうしよう。 |
カミューからの電話の後の彼女の電話の内容は本当は細かく作ってあったのですが、
マイクの独り語りですすめるとどうもまとまりがないので思いきって割愛。
彼女がカミューのことをマイクロトフに、
どれだけ極悪に語ったか皆様で想像してみて下さい…
そりゃ当然腹が立ったでしょうから、性格上彼女だって。