WORKING MAN






 店に着いた頃には、もうすぐ午後8時になろうかという頃。



 シンプルな構えの店の前で、あの男に会った時のために顔を作ってみた。
 どうもこの前はいけなかった。落ち着いた表情がなかなかできなかった。
 こちらが優位に立つためには、常に冷静でいなくては。
 心の鏡で自分の顔を確認して、自然な振る舞いを心掛けながら扉に手をかける。
 さあ、そして店内を軽く見渡し、いかにも偶然だというように…
 偶然……
(あれ?)
 ……いない、な。
 そうか……、別にいるとは限らなかったのか……。
(……)
 思わずたった今くぐったドアへ回れ右してしまいそうになったが、あまりに格好悪いのでやめた。
 そう、約束をしていたわけではないのだから、いなくても当たり前なのだ…。
 それをここに来たら会えるのだと期待をして…
(期待?)
 これでは語弊があるぞ。……そう、きっぱり切り離す為に会って話をつけるのが一番だと思ったから、だから……、
 ……ん?
 頭の中でぶつぶつと1人討論を白熱させかけた解き、カウンターに見覚えのある男が腰掛けているのに気がついた。
 このまま1人でちびちび飲むのもカッコ悪いからな――何となくほっとして、にこやかにその男に近付いた。
「やあ、グレンシール」
「……?」
 グレンシールは怪訝そうにこちらを振り向き、露骨に嫌な顔をして見せた。
「なんだい、そんな顔することないだろ。」
「…珍しいな、1人か」
「君もな、グレンシール。隣空いて…」
「空いてない」
 椅子を引きかけた手が思わずとまる。
 この男はもうちょっと他の言い方ができないのだろうか。
「誰か来る予定でも?」
「そんなものはない。とにかく邪魔だ、離れろ」
「……どういう意味だい…」
「寄るな」
 酷い言われようだ。そういえばこの前から随分機嫌がよかったみたいだし、女と待ち合わせでもしてるんだろうか。
 呆然と突っ立ったままの自分に気を使うように、バーテンの青年が注文していたであろうグレンシールのグラスをカウンターに置く。
「そちらのお客さまは…」
「こいつの酒なら一番端の席で作ってやれ」
 グレンシールが素早く答え、流石にむっとして言い返そうとした時、
 胸元の携帯が振動を伝えた。
 誰だ、こんな時に。
 イライラしながら携帯を取り出すと、何処かで見たような着信番号。
 これは……、……これは?
「!」
 相手が誰か気づくが早いか、何も考えずに受話器を耳に当てた。
「も、しもし?」
『……、もしもし……』
「……、マイクロトフ……?」








 困った。困ったぞ。
 何も考えずにのこのこやってきてしまった。ここに来れば当然カミューがいるものだと思っていた。
 何度チャイムを押しても応答はなく、オートロックのマンションの扉は固く閉ざされていた。
 よく見ると駐車場にあの派手な赤い車の姿はなく、間違いなくカミューは出かけた後らしい。
 約束なんかしていないのだから、いなくたっておかしくはない。しかしいなかったらなんて考えもしていなかった。
 前回の教訓を活かして、洋梨のブランデーケーキと紅茶の葉を揃えて買って来たというのに。
 車で出かけたということは、今晩戻ってこない可能性も大いにあり得る。
 帰りがはっきりしないのだから、ここで待っていても時間の無駄かもしれないのだ。
「……どうするか。」
 夏場だし、ケーキはまずいな。一晩置いておく訳にはいかないし、持って帰るのが無難か……。
 しかし折角カミューが好きだと言っていたケーキだ。どうやら人気の品だったらしく、店に行くのがもうちょっと遅れていたら最後の一個を逃すところだった。
 今度いつ買いにいけるか分からないし。
 どうしよう、とケーキの箱とにらめっこを繰り返していた時、ふと時間を確認しようとして携帯を取り出し、そういえば…と気づく。
 ……電話してみようか。
 怒るだろうか。いきなり電話なんかしたら。
 ひょっとすると女性と会っている真っ最中かもしれない。そうしたらまた余計なことをと機嫌を悪くさせてしまうだろう。
 大体こうして会って話す理由なんて、自分にあっても彼にはないだろう。
 ただ、感謝を伝えたいだけなのだ。そして、できれば友人の片隅にでも置いてもらえないだろうか、と。
 彼が自分のことをよく思っていないのは重々承知だが、その事実にいつまでも落ち込んでいないで、自分から打ち解けて行こうと決心したのだ。
 そのために訪れたと言うのに。
 ……電話をしても怒らないだろうか。
 せめて、ケーキを持ってきたことだけ伝えてみようか。折角の好物らしいから。
 でも、もし今夜帰ってこないのだとしたら、伝えたところで意味がないだろう。
 留守電になっていたら? 何か伝言を……何と?
「……いかんな。」
 発想が悪い方向に向かっている。落ち込み癖が残っているのだろうか。
 こんな様子だからますます彼に煙たがられるのだ。
 よし、ここまで来たんだ、様子を探るためにも一度電話してみよう。
 それで反応が思わしくなかったら、……今日は諦めて、また出直せばいい……。
 完全に拒絶さえされなければ……


 コールは5回ほどだっただろうか。
 少し慌てた声は、確かにカミューのものだった。
『も、しもし?』
「……、もしもし……」
 ちょっと自分の声も緊張しているな。
 落ち着いて名乗ろうと思った時、
『……、マイクロトフ……?』
 それより早く彼が自分の名を呼んだ。





グレンシール再び。
「邪魔するな」と言わんばかりに。